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良い思い出は、捨てなさい。それがあなたを不幸にするのだから
by:
鈴木方山
2005/10/13(Thu)06:35:11
●人間の精神構造には、こういう鉄則があります。
「心地よい成功経験」の思い出は、
一生、その者の頭に「こびりつく」
それが故に、
その者の生活には、常に、
「ろくでもない不幸」が、「まとわりつく」
_____________________________
●成功経験にも、有害なものと無害なものがあります。
何かがうまくいったということが、生活の半分以上、大半を
占めているのであれば、それは、蓄積されるノウハウと呼びます。
しかし、一番危険な成功経験というのは、
過去に一度だけ、うまくいったとか、そういう類のものです。
たとえば、恋愛でもセックスでも、瞑想でも、楽しい遊びでもそうです。
数少ない「心地よかった経験」というものが、
それが、いつまでの脳裏に住み続けるほどのものであると、
その者は、それを経験したときの
「再現」にばかり、その後、囚われつづけることになります。
つまり、自分がたった一度、うまくいったその
「自分流の幸福の方程式」が、「あれは正しかったんだ」と、
自己証明をするためだけに、その後は、ムキになってまで、
たくさんの不幸を、「自分でも知らずに」、好き好んで、
背負い込んでゆくというパターンです。
●一番分かりやすいのは、たった一度の勝ちのあとで、
ずっと、負け続けては、「いつか、また一発逆転できるんだ」と
吠え続ける、ギャンブラー(たんなるギャンブル中毒)です。
これと全く同じことを、恋愛のはしごや、結婚、離婚、
あるいは、育児、仕事の転職で、一体、いつまで気づかないんだと
思うほど、ずっと、同じパターンを人生で繰り返していて、
そのまま死ぬまで繰り返す人を、私は、沢山みてきました。
●成功経験というものには、積み重ねていいものと、
捨てるべきものがあります。
積み重ねてもいい成功経験というものの特徴は、
その最大の特徴は、自覚的にやったこと、自覚的に計画したり、
計算してやったことです。それは、失敗をしても、常に、その後進化し、
変化しつづけ、進展し、その人に分相応の心地よさを与え続けます。
何をやってもますます物事が、うまく加速しますから、すぐに分かります。
しかし、忘れて、捨てるべき成功経験というものは、
「本人の意図しない形で、棚から牡丹餅」みたいにやってきた
幸福・ラッキーです。
過去にそういうことがあった人は、その思い出から、
多くの場合にぬけられません。
抜けられない最大の理由のひとつが、
それは、自分の計画外で、「訪れた幸福」であることが多いからです。
「計画したとおりの幸せ」というのは、手にしたときに、
「物事が、自分の思い通りになった」という程度の、本当に、
ちっぽけな満足感しかありません。
その程度のことで、喜んでいる愚か者もたくさんいるようですが、
彼らは、一生、満足なんてしませんよ。
人間にとって良質の幸福とは、
「自分の思い通りではないほど大きな幸福感」を感じる瞬間です。
自分の計画、予定、予測した以上の幸福感を手にしたとき
それは、あまりにも、満足感において完璧なものなので、
その弊害としては、それを人は、ずっと忘れられなくなります。
そして、さらには、「それを再現したい」「もう一度」
「あんな恋愛をもう一度」「あんな神秘体験をもう一度」と
思うハメになります。
そこで、人は、全く無意識的に取る方法というのがあります。
それは、自分に不幸な状況を知らずのうちに、好んで呼び寄せ続け、
その幸福がやってくるのを待っているという状態です。
しかし、それは、絶対に、永久にきません。
なぜならば、その者は、
幸福というものを、不幸と相対的なものとして思い込んでいるからです。
自覚のあるなしにかかわらず、
多くの人間は、「不幸あるから幸福が感じられる」その逆も真なり
という、この実に単細胞な公式から抜けられないからです。
実は、本当の幸福と、不幸は、同次元のものではないのです。
好きと嫌いのように、何かがひっくり返ると、化けるものではないのです。
いつわりの幸福というのは、
たとえば、おなかがすいたときに、食べてほっとするようなものです。
あるいは、排便したいのを我慢したあとで排便する。
これは、苦痛という反動を利用した、ただの幸福不幸の往復ゲームです。
一方で、たとえば、あなたは、グルメというのは、
本当においしい料理を食べにゆくときには、おなかを完全に
すかさないで、少しだけ食べてから行くというのを知っているはず。
あまりにもすきすぎたおなかでは、
味を本当に味わうことが出来ないからです。
幸福というのも、そのように、本当の幸福グルメというのは、
不満や空腹を反動にして、満腹感を得るものではなくて、
もっと繊細な、味を味わうようなものです。
そのためには、
幸福を感じるための前提として不幸が必要である、
という、この無意識的な、愚かな思い込みを破棄して、
ある「バランス」を意識の中に、作り出す必要があるのですが、
それが出来る人は、非常に、希です。
それが出来ないために、多くの人は、報われない仕事や
むくわれない恋愛や、報われない雑用に追われるのです。
それを、「努力したものは、報われているんだ」と本人が、
自己暗示でもかけて自分で安心するのは勝手ですが、
そういう人たちって、いつも、不満そうな、
眉間にしわを寄せたような、ふてくされた顔をしています。
たとえ、笑っても、その笑顔の一部が、ひきつっているのです。
______________________________
さて、「意図せぬ幸福」というものを、
誰にでも、分かりやすく喩えると、
たとえば、ある写真家が、ふとした夕日の風景に出会い、
ふと、何気なくシャッターを切ったとします。
別に作品にしようとかではなく、何気なくです。
のちに、その写真が、傑作と言われる評価をされたとします。
その後、その写真家は、世界中の夕日を求めて
あれと同じか、それ以上の夕日を撮りたいと、それを探しに出ます。
しかし、それは、たいていの場合に、一生、やってこないのですよ。
なぜならば、その最初の、夕日とは
「出会ったもの」「遭遇したもの」「訪れたもの」であって、
カメラマンか、探したものではないからです。
自分で意図しない瞬間、意図しないからこそ、
その人の中に、入ってこられたもの、訪れることの出来たもの、
そうしたものは、人間の世界では、傑作と呼ばれるものになります。
そして、そうした社会的評価など論外としても、
それは、本人に、それ以上がない、満足を与えるのです。
なぜならば、それは、その人自体の予測水準を、超えているからです。
ところが、求める旅に出たときから、その人は、
「求めるが故に」、一生、もうそれほどの夕日には出会えません。
_______________________________
これと同じことが、不幸感続きの人に、頻繁におきています。
一番、悪い例は、負け続けるギャンブル中毒者。
人間が、絶対に、蓄積してはいけない最大の成功経験とは、
「もっとも幸福だったときの思い出」なのですよ。
ちっちゃ日頃の幸福なら、新陳代謝されるので蓄積してもけっこう。
しかし、大きな幸福というものは、
「逆トラウマ」となって、「あれをもう一度」という執着となり、
「あれが人生で一番だった」という比較から、
それ以外の人生をすべて2番以下に自分でランクづけし、
いつも、いつも、つまらなそうな顔をする人になります。
私は、いつも言うんですよ。
今がどれだけの地獄でも、今、そこ以外に、一体どこに、
いるべきところがあるのか?
記憶の中には、現存する、
あなたの「実存的な意識」の住むところなんてないのですよ。
●自分が一番幸福だった経験、
それこそを一番に捨て去らなければ、
人生からみえる風景は、ずっと、死ぬまで、死んだあとすらも、
汚れた、曇りガラスの世界のままになりますよ。
これで、もはや、完全に
意識が雲って、救いようのない、求道者もどき、
僧侶、宗教家や、瞑想者なるものを、そしてアーティストたちを、
私は、沢山見てきましたから。
たった一度の幸福の幻影にすがって、
一生を、ただの時間の無駄にした人たちです。
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