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無風日記 11/1
by:
崩残
2005/11/01(Tue)08:49:33
●人間には、理解できないことがふたつある。
ひとつ、それは複雑すぎる物事。
たとえば、複雑な公式とか、複雑な論理とか、
複雑な事件背景とか、複雑なオカルト学など。
そして、人間が理解できない、もうひとつのこと。それは、
あまりにも「単純なこと」。です。
人が日頃、理解したとか理解できると言っているものというのは、
中途半端に、複雑で、適度に単純なもの、
つまりは、「どっちつかずのも」のばかりなのである。
●今では、現存する仏教組織にしても、瞑想体系にしても、禅にしても、
どこひとつとして、純粋に「悟り」を語れるところなどありません。
ちょうどニューエイジのときに、
「ありのまま教」が歪曲されまくってたまま蔓延したように、
禅の背かでも、「このまま教」「手付かず教」があぐらを
かいており、
その事を「悟りなき悟り」では、悟りの段階定義として、
よくて、せいぜい、どこにも到達しない「レベル2」と書いたのです。
そもそも、悟りの問題を語ったり説明するときに、
仏教経典だの、禅の逸話だの、
ややこしい、オカルト学だの
そんなものを盾にしたり、論理武装したり、
借り物の仏教用語をもって説明しなければならないとか、
そういうものを引き合いに出すこと自体が、
完全に「狂ってます」よ。
その理由は簡単なことです。
もしもこの世界に次元というものがあるとして、
悟りというものが、「上層の次元の問題である」とするならば、
上層次元の最大の特徴とは、
「単純である」ということに尽きます。
構造とかその説明が複雑化するのは、下降次元でのみです。
または下降次元と上昇次元の航行のバランス操作法においてなどです。
しかし、悟りそのものは、「単純すぎる」ものです。
それを説明するのに、何の昔話も、経典も全く必要などありません。
そんなことをいつまでもしている、瞑想団体や寺や僧侶や師がいたら、
全員、ただの偽者ですよ。ただの商売、ただの権威主義、
ただのコスプレ坊主、そして、ただのカルト教団ですよ。
そして、瞑想や座禅で悟りのときに、どういう気分になるか?
どういう感情がわくかとか、考え方がどうなるこうなる、
などという低次元の問題は、そもそも存在しないという事からも、
正しい瞑想の結果というのものは、気分などという低層次元で
計測や判断をできるものではありません。
気分などというものは、「分裂した認識対象の一種」であることに加えて、
単に機械的に移ろう「生理的なもの」ですし、
このことは、新刊の中でも、指摘しています。
●だから、最初に言ったのですよ。
人には、理解できないことが、ふたつあり、
ひとつは、複雑な論理や事象であるが、
もうひとつは、「単純すぎる場合」にも理解が出来ないということ。
理解というのは、おおよそ、個々の持つ知識や妄想が
「適度に問題なく組み合わさること」でのみ生まれるのですから。
しかし、悟りというのは、記憶したことを思考で組み合わせて
理解するものでもなく、さらには霊感も必要ないし、気分も関係もなし。
EO師が、そのことを
「それは、あまりにも、度がすぎるほどに、単純であるが故に、
人の理解を超えている。
それは、そもそも、理解が発生する以前の状態の事である」
と言ったのを読者の人は覚えていることだろう。
●人は、中途半端に複雑で、中途半端に単純な、
それこそ、「ほどほどのもの」だけを、理解したと思い込んでいる。
ちょうど、人の日々の「現実感覚」がそうであるように。
つまり、「自分は何かの理解を持っている」、などと言っても、
経験則がよほどの数をもって、
しかも整理されて組み合わさっていないかぎりは、
その理解と称する多くのものは、
かなり「いいかげんで中途半端なもの」なのである。
しかし、極端に、単純すぎるものというのも理解されないものの
ひとつであり、そもそも、それは理解などされるものではなく、
理解なしに「体験のみ」されるものであるのだから。
そもそも、それを捉えて理解しようとする行為自体が、
それを逃す理由なのですから。
●そういう意味でも、無明庵で扱う悟りというのは、
その「単純さ」のみです。
高次元というものは、大原則として、単純化なのですから。
ただし、それが人に理解とか経験をされない最大の理由は、
人の常識や、観念を「ありにも超えた、単純さ」がそこにある
というだけのことです。
つまり、人は、単純なことなら理解できるかというと、そうではなくて、
自分を超えてしまうほどの単純さは、それもまた、
人を超えた複雑さと同様に、
理解は、できないということなのです。
●余談ですが、「厳密」に言うならば、
単純化しているのは、上の次元ということではなく、
上下の「極は単純」である、ということです。
上が単純であるように、低次元の極というものもまた
単純なものです。
たとえば、たとえとしては、中途半端ですが、
鉱物の次元では、人の感情とか思考は、関わり方が変わってきます。
そこでは人の考えは、人や動物を相手にするときほどには通用しません。
まったく通用しないのではなく、関係はありますが、
複雑に物事が絡み合うような法則が成立出来るのは、
上下の次元のコントラストの「真ん中あたり」です。
だから、おそらくは、もしも人類が、今よりもさらに
低次元的な物質の層を探索していったら、
そこにあるのは、高次元にあるのと対をなす、
同じ、「極度な単純さ」です。
そして、それもまた、悟りと同質に、人の理解を
超えてしまうほどの、単純さの極であろうということです。
全く同じではないが、似ているということ。
「表裏の関係」にあるということです。
もしも分割しようという意識をもってその極に接すれば、
お望みどおりに、それは2つに分割されるが、
もしもその分割意識を持ち込まなければ、
次元の上下それ自体の認識が、
なくなってしまうということです。
これを称して、無明庵では、悟りの次元といっています。
つまり、それは、「高次元の話なのではなくて」、
「極次元」の問題、
または、人が、
「極の近くに行くとどうなるか」という問題なのです。
________________________________
●オフの日の朝になったら、
皆さんも、朝、目が覚めたら、
自分の一日、あるいは自分の思いこんでいる現実が、
どうやって、朝の数分で、「作られてゆくか」を
見ることです。
それは、あきらかに、人工的に作られてゆくものなのですよ。
いつもと似た景色を見て、いつもと同じ考えが頭の中に浮かんで
その一日、あるいは現実というものが始る前に、
あなたには、全く無自覚に、毎日、毎日、やっていることがあるのですよ。
あなたの人生作っているのは、今のところは、
99%が、ただの観念です。
ただの思い込み。
それが、社会的に正当性があろうがなかろうが、
実用性があろうがなかろうが、そんな事には関係なく、
それらは、その実体は、不安定きわまりないもので、
あなたは、毎日、毎日、現実という妄想を、
急いで、頭の中に構築してから遊びに出たり、
仕事に行っているということです。
そのことがわかりたければ、
朝、起きた直後から、自分の頭の中で、
まっさきに、何を考え始めているか、そこから、
何を自分に寄せ集めてこようとしているのか?を、
じっと、目を閉じて、自己観察すればいいんですよ。
何も面倒な瞑想ではありません。
朝、意識が戻って、目が覚めたら、
自分の意識や思考は、そこから、その直後から、
「まっさきに、何をしているのか?」、
それをいいかげんに、見てみることです。
そうしないと、いずれは、
「もう手遅れだ」、になりますよ。
〜「世直し、無明庵」より〜
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