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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3510]
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小休止・「お茶一服の時間」
by:
崩 残
2006/04/14(Fri)15:46:37
>4/15−7−50更新
未だ正解は、2名のみ。
>今回の禅問答は、土曜日の今夜あたりか、または明日の朝、
>どこか、適当なところで、回答は、「締め切り」とします。
ところで、
普遍的な禅問答というのをご存知だろうか?
つまり、世界のどこの土地へ持ってゆこうが、
どの宗門にぶつけようが、
誰が使おうが、一貫して、普遍的な効力を持つもので、
実は、細かい禅問答の問いのすべては、ほぼ同じそれに
繋がってゆく、そういう「問い」。
それは、次のような問いです。
「悟りとは何か?」
文化圏の違いによっては、
「神(の)意識とは何か?」でもかまわない。
バーナデットロバーツは、「観察しているこの主体とは何か?」
ということが彼女の問いのすべてとなった。
どんな細かい問いも、突き詰めれば、
「私とは何か?」
「私と言っている者は誰か?」
「私がなくなったと言っている者は誰か?」
「落ちて、落として、それでも、まだ残っている、これは何か?」
これすなわち、「悟りとは何か」という普遍的な問いと
同質のものです。
●みなさんは、禅問答というと、トンチだと思い込む。
最初の一歩から、目先に突きつけられた問いに、
「勝つことに」囚われてしまう。
今回の回答の全員が、それです。
正解者も含めて、その点では、全員失格なのです。
禅問答だからと甘く見て、クイズ感覚でやっているあなたに
問いますが、
これから死ぬまでの時間を、どう生きるつもりなのか?
何のために生きているのか?
明日も死なないでいる理由は何か?
悟りを認識したら悟りでないのに、なぜ悟りは在るのか?
何千もの転生などして、どうして悟らねばならないのか?
それ自体がナンセンスではないか?
なぜならば、いずれ宇宙が滅ぶ日が来るのだから、
何も心配せず、苦しめばいいのであるから。
しかし、君は、決してそうはできない。(ここだけ、ダイジ口調)
必ず苦しみから逃げたいと思うハメになる。
●さて、こうした問いと同質のものは、
今回の「竹を斬る」という問いにも含まれます。
言い方を変えて、
こう問われたら、あなたはどうしますか?
「体は殺さず、あなた自身を殺してみなさい」
自殺するな。しかし、中身は自殺しろ。
抜き身でない不可視の刀で斬れと問われているのと、等質の問いです。
禅問答に現実味がない、実用性がないと思い込んでいる人は、
「現実の死活問題で、ぐちゃぐちゃにされる」ことがいいのでしょう。
禅問答のひとつすらも、処分できないのであれば、
普遍的な精神や世界に対する「問い」の問い方すらも、分からないのですよ。
●そして、禅問答には、いくつかの目的別の種類があることは、
「 悟りなき悟り 」の著書の中でも書きましたが、
禅問答には、それに取り組むことで、取り組んだ者に
ジャンプするための「踏み台」を用意しているものもあります。
一方で、その者の意識のレベルを計るための「試金石」もあります。
しかし、どちらの場合にも、
実は、「簡単な難問」ほど、その人間の奥深くをえぐるものはありません。
皆さんは、なんとかして老師をぎゃふんと言わせたい。
その「醜い欲望」こそが、どう皆さんの回答に表れているかを
実によく見ることが出来ました。
回答の中に現れるものは、ふたつにひとつしかありません。
迷いか悟りか、そのどちらかだけです。
何千文字を書き連ねて、自己弁護したり、宗教や道徳を語ろうが、
自分の事をどう言おうが、
これほどに、白黒はっきりするもの はありません。
なぜ、こんな簡単な問いに向き合うことと、こんな短い回答が、
その人の、ほとんどすべての内面性を暴露していまうのか?
その話は、気が向いたら、いつかするかもしれません。
_______________________________
同じことを違う意識が言うと、
異なる刺激となることがあります。
言っていることは同じでも、
攻め方というものの{個性の差}があります。
たとえば、こういわれたら、どうでしょうか
> 恐怖を恐怖すれば、
> 恐怖という恵みをだいなしにしてしまう。
これは雨宮ダイジ氏の言葉。
言い換えれば、迷いから逃げようとすれば、
「迷いという恵み」を、
台無しにしてしまうということです。
禅問答で生ずる、思考の混乱を嫌がれば、
「その混乱自体の中に、突破口があること」を失ってしまう。
●そして、皆さんが、今回の問いを解けない原因も、
彼、ダイジ氏の言葉の中に、実に明確に示されている。
> 地獄とは、
> 理想を実現しようとする、
> 精神的な欲望以外にはない。
迷いとは、問いを解こうとする、欲望そのものである。ということ。
●そして、禅問答を解く、最大のマスターキーを彼は
きちんと、明確に示唆している。
> 死は克服すべきものでもない。
> 死は、死ぬべきものだ。
●最後に、馬鹿禅寺の坊主どもと、サニヤシンが心すべき、
彼、ダイジ氏のこの上もなく貴重な2行詩。
> 今・ここにいることは、
> 君に出来ることではない。
こんなことは、当たり前のことである。
和尚はこう言っていたのだ
> 今、ここに在る ということは、
> することではなく「起きること」だ。
そして、和尚は言う。
>「死が先だ。生きるのは、その後だ」
ここで、休止
_______________________________
>4/13記
とにかく、多くの回答は、ひどいものです。
あの死体安置所すらも、汚れそうで、「首の間」にすら、入れられません。
特にひどいのが、女性の人たちです。
そもそも、質問の意味すら理解していないものばかりです。
ただし、これはもともと、客観的思考を酷使して、思考を超える
という属性が、女性には合わなく、
従って、差別という意味でなく、女性には禅問答は
方法論として向かないのだろうということが、歴史的に見ても、うかがえます。
女性で悟ったりした逸話というのは、白隠のところの、おばあさんと
他の尼僧などに数名のみで、
いわば、女性を放棄したような尼僧や、または老婆であると
その可能性があるようです。
EO師が言ったように、第6の中枢である思考を使いつくし、
それを超えなければ「第七の中枢」へはジャンプできないという意味において、
「公案の手法」というのは、
もともとが、「思考に囚われやすい男性」に効力があるといえます。
●だから、もしも、「女性に効果のある禅問答」があるとしたら、
それは、禅問答ではなく、
大好きな彼氏に、
「もう別れる!」とでも言われて、
3日3晩、泣いた方がいいでしょう。
男性は{頭}に束縛されていますが、
女性は{胸}にどっぷりと束縛されていますから。
その個人が、束縛されている部分に有効にショックを与えるよう、
「それぞれに使い分ける必要」があります。
●ちなみに、女性では、1人だけ、今現在、私とメールで少しずつ、
「紐を解いてゆこうとしている人」がいます。
かといって、男性のも、そのほとんどが、でたらめばかりです。
なんとかかんとか、現在2名が、
それぞれに、90点と、75点ですが、
同じ、その人の書いた別の解答は、
「目も当てられないほどびどいもの」です。
数打ったおかげで、なんとか、まぐれで当たった、
という感じでしょうか。
________________________________
■ここで、さきほど、ふと、他人から出題された「問い」で思いついた
禅問答の、ひとつのサンプルを「創作」しておきました。
問いは、こうでした
「足を使わずに、歩いてみなさい」
これを「題材」に、皆さんに、ひとつのサンプル問答とその答えを
書いておきますので、「答えを見たくない」、という人は、
問いのあとに、*****印を入れて、
行間をいっぱいあけて、
画面をスクロールしないと答えが見えないようにしておきますので、
見ないようにして、自分だけの力で考えてください。
●
_______________________________
和尚と小僧が共に散歩をしていました。
すると、小僧が、和尚を試してやろうと思いつき、
こう問いました。
小僧
「和尚さま。足を使わないで、歩いてみてください」
すると、和尚は、
**********************************
********************************
すると、和尚は、
足を止めることなく歩き続け、
こう言った・・・
「わしの足は、とっくに棒になっておる」
________________________________
【解説】
足を使わずにといえば、幽霊のように、足などないと嘘ぶいてみたり、
黙って歩き続けて、足で歩いているんじゃないとか
屁理屈をこくのが、多くの読者の人たちの回答と同じ性質のものです。
この回答は、いわば、半分は、ただの「落語」です。
「足が棒になる」という日本語にかけているにすぎません。
しかし、そこには、この一行に、和尚の苦労の道のりが
滲み出ています。仏道に迷い、迷って迷って歩き続けたことで
自分の足は棒のようになったと。
そうした、心情的風景が、盛り込まれているのが「味」のひとつ。
●そして、本質部分では、
普通であれば、
足を、なんとか消そう、足をなんとか使うまい、とするところを、
和尚は、逆に、肉の足よりも、唯物的で、物体的な、
足よりも、もっと重いものをそこに重ねて、小僧の問いを「撥ねた」。
歩き疲れて棒になってしまった足。
わしは足ではなく、その棒で、やっと歩いているんだよ。と。
そして、この物語は続きます。
●
和尚は、歩きながら、続けて言いました。
「そんなことを言うならば、
知恵という足も使わずに、
仏道を歩いている つもり になっている、
そんなお前さんが、現に、そこにいるではないか?
お前さんは、わしに、
してやったりのナンセンスな問いを突きつけたつもりじゃろうが、
お前さんの問いなど、かわいいものだ。
小僧さんや。
世の中をよく、見てみなさい。
人々は、目があっても目でものを見ず、
耳があっても、耳でものを聞かず、
手で触れることもなしに、
何かを知った気にだけなっておる。
世の中は、どこも、かしこも、ナンセンスだらけじゃよ。
■
________________________________
「足を使わずに、歩いてみなさい」
この答えも、本質を心得ていれば、自在に答えられるものです。
他にも、正答はいくつもあります。
この問いをやってみたい人「自分ひとり」でやることです。
誰も、あなたに、正しいとも、間違っているとも言ってはくれません。
どうしても知りたければ、「あなたの答え」を持って、
どこかの禅寺にでも駆け込んで、
「この問いには、この私の答えでいいのでしょうか?」と尋ねることです。
この今回の問いの答えは、私は、「一切受け付けていません」。
この問いを持ったまま、
皆さんが、自分で、「問いの中を、歩いてゆくこと」です。
ただし、
「ならば、小僧さんは、
目を使わずに、私が歩くところを見ていなさい」
こんな、本からの猿真似は「論外」です。
_______________________________
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