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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3532]
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雑 記
by:
崩残
2006/05/26(Fri)04:34:39
◆無明庵が、精神世界の中でも、とりわけ、忌み嫌われたり、
敵視されたり、話題になる点というのは、
はっきり言えば、物事の実態についての嘘を言わないからです。
そして、それは多くの場合に、カルト教団やその他の宗教、
既製品の宗教に対して、営業妨害とも誤解をされて、
受け取られる発言となります。
なぜならば、実際問題として、すべての人が同じ頂点を求めているわけではない
というのが、真実なのですが、
金集めの商売や自分たちの宗教の支配力の拡大や布教を目的とする
(私に言わせれば、これこそが邪教)は、
日々の生活の中にある、諸問題のすべてを、
瞑想すれば解決する、ワークすれば解決する、座禅すれば解決する、
といった方向へと商売に利用するからです。
中には、表向きはただのカルチャースクールのように装っては、
結局のところ、カルトといった団体があるのは、
皆さんも報道などでご存知の通りです。
それ以外の、世間でよく知られた、選挙シーズンになると徘徊する
新興宗教団体にしても、あるいは世の中のほとんどの組織が、
くそみそ、なんでも、自分たちの方法が解決できると思いこんでいますね。
全く愚かしいとしかいいようがありません。
かといって、無明庵は、選別されたごく一部の人たちが
優れていると言っているのではありませんし、
選民思想でもないのは、ご存知の通りです。
事実として、それぞれの人が、この惑星に、しかも人間という
生物として、生まれてきてするべき目的は、
生前に決めてあった目的によって、
いろいろな層があり、いろいろな出身地があり、
根本的にそれは、何種類かに「分類」されているのが事実です。
すべての人が、同じことを、ここで学んでゆくようには
全く出来ていません。
ここには共通の学習テーマなどないのですよ。
個人的テーマがあるだけです。
その中でも、最も重症で厄介なのが、悟りの問題に
着手する人たちであって、
他のほとんどの人たちは、別の方向こそが、
その人には「その現時点では、絶対的に正しい道になる」ということを
明確に「正しく言っている」までの事です。
たとえば、和尚が「あなたたちは、既にブッダである」と、
そんな、「悟りの側からの言い分として、100%真実であること」を
人々にどれだけ言ったところで、
そんなものは、ただの「病人を生産する結果となるだけ」です。
正しくは、「それが必要な人にはそれが道となり」、
それが必要でない人には、
「それは人生で無駄な遠回りをしたり、毒にしかならない」ということ。
物事の正否は、その言葉が単独で真実であり得るのではなくて、
常に、「その個人の特性、その個人の背景」と「照合したとき」に、
正しく機能したり、間違って機能するだけである。
いつも言っていることですが、
悟りという問題に、本当に取り掛からねばならない境遇の人を
無明庵では、優れているなどとは言っていません。
むろし、宇宙という場でみれば、その人たちは、
「宇宙という社会適応が出来ずに」愚かだったに過ぎません。
だから、その少数の人たちに必要なことを無明庵は、
他の宗教のような、耳当たりのいい「嘘」を一切交えずに、語ってきたのであり、
その結論として、現段階では、多くの人は、
瞑想だの悟りだのに手を出すべきではなく、
もっと、本当に一度、時間をかけて、
「ド正直」になって自分の実像を見て、
自分個人の「自我」をも、大切にしなければならないということです。
自我や思考というのは、大切なものなのですよ。
それがその個としての役目を充分に発揮して、
使い尽くされたときにだけ、
それは、そこからは、不用なものになるのであって、
決して、それ以前ではありません。
「結晶化しない自我など、落とせやしない」、
このことは、あの和尚がきちんと言っていたはずです。
ダイジも、「人として欲望をまず率直に生きること」しか道はつながらない
と言ったはずです。
_____________________________
以前の投稿で、私が生まれて初めて実際に目にした、
小悟の段階にいる人、その人の場合には、
よくよく身の上話を聞いてみれば、そこに至る前段階というのは、
善良な市民でもなければ、愛情深い者でもなく、
その人が悟った最大の原因というのは、
その人が、物凄く「エゴの塊であった」という事なのです。
ただし、それは身勝手なエゴという意味ではなく、
「徹底して、他人の力など頼らない」「他人の助けなどいらない」
「自分のことは自分でやる」という意味での、
徹底した「孤独性」のことです。
誰かとか、組織とつるんだりすることなく、自分の問題は全部自分で
引き受けて、最後の最後には、どうにも手足が出なくなるまで、
「自分の自我に呪縛された」、という
そのこと自体が、悟りの種を割るきっかけとなっているのです。
自我がその「発達の極に行く」というのは、犯罪者になることでもなく、
単に強欲で、欲望だらけの人間に居直る事でもなく、
その本当の本質的な意味とは、
「孤立した状態の自分が、すべての問題を1人で抱え込む」
その問題を誰とも、共有もしない自分の問題として背負って抱えること。
それがどれだけの苦痛と、
何百回もやってくる死にたい衝動と、
逃げ場のなさを生み出そうが、
自分の頭をフルにして、絞り込んでいった末の
「たったひとつの大問題」を、どうにかするまでは、
一切、何にも妥協しないこと、
くだらない安っぽい癒しや、知識など求めない、
というその姿勢のことを
「エゴの成熟」というのです。
エゴの成熟というのは、逃げ場がない、
逃避する道がない、他のことに「すりかえることが出来ない」
事実と苦痛そのものに、
きちんと直面した人だけに起きることなのです。
____________________________________________________________
◆人が自分の精神の問題、および、それが反映された日常の諸問題、
これらに困りごとや、迷いが生じたときに、解決手段としては、
区分されなければならないものが4つあります。
1精神科
2心理学
3精神世界
4悟り
ご存知の方も多いと思いますが、精神科と心理学は、
対立構造を持っています。
現在では、精神科は、ただ薬を処方するだけ。
この道は、皆さんは、絶対に手を出してはいけません。
どういう効能や治療効果をうたったところで、
それは麻薬中毒患者を量産するだけです。
何でもかんでも、脳内物質のアンバランスで片付けてしまうという
極めて唯物的なもので、外傷系の脳異常や、
身体の部位から脳に影響しているといった、
純医学的な異常以外の、心理的症状には、何の役にも立ちません。
◆次に心理学。これは本来は心理学者というのは、
「人間の精神=記憶や思考構造のことは、まだまだわからない未知に
包まれている」という謙虚な姿勢で、学者本人が、
現場で今もなお、独自にそれぞれに研究を進めていなければならない
発展途上の分野です。
にもかかわらず、欧米のカウンセリング手法を真似ただけ、
何も研究もしようとせずに、表向きの形だけは社会復帰に誤魔化せる
というだけの「形」「手順」を試みているだけで、
一向に、本当の意味では、成果が上がらないために、
結局は、薬を処方するという同じ過ちに陥ったままです。
もしも心理学が、もっと真面目に、現代において多様化する
心の歪みを研究していれば、この20年でもう少しは、
新しい試みや、カウンセリング方法が見つかっていたはずです。
◆次に俗に言う精神世界、
これは私が「悟りなき悟り」の本の中で定義した、
世の中にある「救いを求める」教えのこと全般のことですし、
あるいは、それは、
「生活技術に関する知識、ただそれが、アカデミックでないというだけで、
同じ、生き延びるための知識」のことです。
◆そして、悟りの問題、これは純粋に「探求者」として
この世界での生を覚悟して生まれてきて、着実にその方向へ
人生のすべてが運ばれている人とその分野を言うのであって、
はっきり言えば、これは「専門分野」です。
>教えや導師に、救いを求めるのは、宗教にすぎません。
>救いを捨てて、自分ひとりで探求する、それが探求者の定義です。
______________________________
◆問題であるのは、人間に生ずるほとんどの問題は、
実は、2番目の心理学または、カウンセリング、または、
絶え間ない自己分析によって、まずは解決されないと、
次の精神世界に「問題を摩り替えた」ところで、何も進展しない
ということです。
土台の足場である部分に、
精神世界やら、悟りやらを安易に持ち込んで、
「問題の現状認識」を、ゆがめない事です。
生活上の問題や、精神面が、
コンプレックスや、親から連鎖したり、親の都合のいい子供に
創られてきたことの歪みや、
いろいろな社会的なものによるという、
その、ありのまま現状認識をしたくないための、
逃げ場と言い訳、に「精神世界や、悟りの問題」が、
「利用される姿」を、あまりにも多く私は見てきました。
精神世界も悟りの問題も、心理学的解決の「代用品」ではないのです。
心理学的な解決法ですべてのことをやった、
そのあとで、充分な余裕をもって、精神世界に踏み込んだ一部の
人たちが、きちんとその分野に研究結果を残せたのです。
ところが、現状のほとんどは、
病人が自分の病気を誤魔化して悪化させているだけの人がほとんどです。
本当に自分の心理的な問題を、きちんと心理的な問題として
自己分析を終えた人であれば、
たとえば、前世といった問題に個人の問題の根を探しても、
そこから、得るものはあるでしょうが、
それをやっていない人が、ただの逃避に精神世界的なものに
自分をこじつけたところで、解決にならないどころか有害です。
そして、その次には、
やれ、前世だの、願望の実現だのという精神世界からも
自立して、本質的な問題に取り掛かることが出来ますが、
その準備には、誰であっても「膨大な時間と経験」が必要になります。
こうしたことが、雑然と整理されずに、乱立している「業界」
または「スーパーマーケット」が、精神世界であったり、
時には、心理学的カウンセリングであったり、オカルト系の
あやしいカウンセリングであったり、さらには、ここになんと、
全くそれらとは関係のない、悟りまでが
「商品」として並べられてしまっています。
本来、それは、全く次元の異なる分野です。
しかも、それは、どれが高度かという優劣ではなく、
人が、小学校から大学へと順番を経るように、
ごくごく一部の天才児を例外すれば、
着実に、ステップというものが必要です。
まずは、心の問題は、心すなわち思考や感情の法則の中で
解明したり、観察すべきもので、
そこに霊的な解釈など不要であり、有害です。
そこの基礎工事からして、まず出来ていないということが、
私が、何年も観てきた現状です。
心理学を別にすれば、本来は、精神世界も、悟りの分野も、
人の「不満を穴埋めする代用品」ではないのです。
どちらも、本来は、「研究分野」です。
もっとも、精神世界の場合にも、
純粋に意識や思考と物質との関係の構造問題を研究している人は、
ほんの、ごくごくわずかで、
そのほとんどは、単なる「易者」「ご利益宗教」
「ヒーリングごっこ」「金をとって、占う商売」にすぎません。
________________________________
まず、最初に片付けるべき問題を、
それ以降の段階でやるべき分野へと「摩り替えない」ことです。
そんなものを摩り替えたところで、それによって得られるのは、
「自分は、そんな低い問題は解決しているんだ」というエゴや、
「自分は、そんなものには興味ない」というポーズだけである。
結局のところは、どこの次元の問題を扱う際にも、
もっとも重要なのは、「現状認識能力」だけです。
これにかけている人に、起きるのは、常に
「自分の問題を、等身大に観られない」
「かっこつける」
「本気になれない」
「駄目な自分をわかっているフリをする事で最低の馬鹿には
思われないように、自分を偽装する」
つまりは、ようするに
「私は、そんなことぐらい、わかっている」ということが
言いたいだけなのです。
わかっているなら、とっくに、ほとんとの諸問題は、
解決されているはずなんですよ。
極端に、卑下することも、自慢することも、
道を行くには、何の役にも立ちません。
ド正直に自分を見ることが出来るかどうか、
または、「観る気がそもそもあるのか」、
それとも、嫌なものは観たくないので、
そこで、沢山の言い訳や理屈や、精神世界的に見えるような嘘をならべて、
「逃げたいのが本心」なのか、
それだけが、その本人のその後の道を分ける唯一といってもいい要素です。
________________________________
●たとえば、私は、面識もない読者の人ではなく、
現実の世界で私が縁のある、ごくごく親しい人たちの
ほんの数人だけに、カウンセリングまがいのことをすることがありますが、
ある人には、40歳近くにもなって親のお金で暮らしている
といった傾向にあるので、まずは、精神世界のことなど
どうでもいいから、親から独立して自活するように強く言っています。
その人の場合には、それこそが、ネックになっているからです。
ただし、それを変化させたり、精神的に本当に自立するという
決断や意志そのものが、煮詰まったものになっておらず、
切羽つまった問題でもないので、
そういう作業は、その人の場合には、うまく行かないのです。
皆さんにも関係ある問題もあると思うので、そのカウンセリングの
断片の一部を、記しておきます。
__________________________________________________
お金というものには、土地、血縁、因縁、その人の目的、
いろいろなものが実は明確にからんでいる。
というのも、お金というのは、動物の世界で言えば、
単純化すれば、それは日々の餌のことであるから、
その人の寿命とか生命に直接に関係しているわけである。
__________________________________________________
何かを分析したり、自分を変えようとするときに、
一番問題になるのは、自分の願望をどこまで
リアルなものに感じられるかということ。
精神的にも自立できていない部分が多いのをなんとかしよう、
という意志が、単に、「誰かに言われたからやる」という、
表層的な意志だと、
その表層のとってつけたようなポーズの意志よりも、
無意識では、「自立したら、生きられないかもしれない」
という恐怖の方が圧倒的に強く作用していて、
結局は、最初から親に「依存することを既に選択していて」
人生の変更ができないという場合も多い。
こういうことのひとつひとつで、「本気度」というのが試される。
だから、自分の人生の中で、「何を一番優先に思っているのか」
ということによって、実際に、動けたり動けないは決まってくる。
どこかで、親との関係が続いたままでも、今は安住できる環境が楽だ
というのが「本心」なら、それが限界点だから、無理に自立は出来ないし、
やっても、結局は、他人にあおられてやったことを後悔するだけになる。
●行動以前に、自分の問題を掘り下げること自体にしても、
どれだけ本気でそれに切羽詰っているかによる。
たとえば、自分が本当に、口ではいろいろ言うものの、
実際には、他者や自分に対して、全く何も出来ないという無力感と、
さらに自己嫌悪とか、そうしたモチベーションがあって、
しかも、「それで手を打つのは絶対に嫌だ」という、決意のようなものが
明確にその人の中にない人が多い。
そうすると、何を考えたり、言ったり、行動しても、
それは常に安全圏の中での、オタク的な遊びになってしまう。
それはちょうど、ネットの掲示板で、匿名で、自分の発言に責任も持たず、
書き捨てをしたまま逃げる者とよく似た精神的病理を持っている。
そういう人は、精神世界などに足を突っ込まず、
逆に、それこそ、ごく普通の現実の中での、
他者とか、恋愛とかの中で、
どうしようもない自分の感情の弱さなどが表面化した方が
リアリティーは大きくなってよいのである。
そのリアリティーに直面するのを、そうとうに怖がっている人たちを
私は何人も見てきた。
それにずっと蓋をして、カルト的な教義とか、
精神世界のただの知識、あるいは各種の依存症によって、
「思考が酒づけになっている麻痺状態」で、
自分の痛みそのものに「鈍感すぎる状態」になっている、
そういう、手のほどこしようがない人も多い。
本当に精神世界といった問題に、生涯の大半や多くの部分を
注ぎ込むことを決めてここへ生まれてきた場合には、
やはりその生涯は、大きく普通とは違います。
そのあたり、おそらく、多くの人は、そうしたものとは違う何かを
経験目的にしてきて生まれてきているはずなので、
まずは、自分が「精神的な何かを探求しているんだ」、または経験している
という前提の「思い込み」から、とっぱらうといいですよ。
「現状認識の正確さ」しか、
本当のその人が行くべき道を示すものはないから。
その点では、答えのある場所は禅問答と同じ、
つまり「現状の中」にです。
___________________________________
>「最も足元の、見たくもない問題が、その人の頭まで奪っている」こと、
それは、私が、この10数年、いろいろな人たちを見て、
一番実感したことです。
正しく、「低い踏み台」に足をかけられない人は、
高くは、ジャンプできない。
ずるさ、手抜きは、探求の道では一切通用しない。
____________________________________
自分で、自主的にどうしたいのかが明確でないと、
知らないうちに、他人(特に親、次に伴侶)の願望実現の
道具にされることもよくある。
自分が恐れるものと、望むものの、その全部の領域を自分で
意識化できていないと、
他人(特にゾンビ的連中)の望みが、つけこむ隙が出来ます。
彼らは自分で自分の目的を実現できないので、他者によく寄生する。
それも、彼らには自覚がないのに、そのやりかたは、
詐欺師なみに、かなり「巧妙に」。
___________________________________
実際には思考や感情で受け止めなければならない問題を
いちいち、自分の身体の違和感や症状にすり変えることで、
それらかあたかも「自分でどうにか出来る土俵に出来た」
というトリックを長く乱用している人たちも多い。
この人たちの症状は、実際には、簡単に言えば「仮病」である。
精神的な問題を精神で受けとめなければならないのに、
それを、身体の異常という形にすり変えることで、それに直面せずに、
クッションをいれるのである。
たとえば、無明庵がそういう事に悪用される例のひとつが、
「自分は闇を経験した」とか、「虚無を感じる」だのどうのこうのとか、
「自分には自殺願望があるとか」どうのこうのとか、
いわゆる、無明庵が深い考察と、「それぞれの個人的性質」を配慮して、
「道の一部」として位置づけた体系や見解に、
これ幸いと、とびついて、食いついては、
それらの理論や体系を、
自分が「何かをしないことの言い訳」にする人たちです。
その前に、まず直面したり直視したりしなければならない問題から
目を避ける手段に、宗教や理論を悪用してしまう人である。
これと同じことは、無明庵の書籍やページにかかれている事に限らず、
他の教えや、過去の導師の言葉を目にしたところで
同じように起きるものなのです。
つまり、「私は精神など、病んでいない」
「私の問題はごく生理的で身体的な問題だ」
「私の問題は自分で簡単に消せる」
「私の問題は霊的なものだ」
「私の問題は、本質的なものだ」
などと、「思いたがっていて」それによって得られるものは、
自分に関する現実逃避なのである。
つまりは、「私は、馬鹿じゃない」という声のノイズの方があまりにも
大きすぎて、そのために、本当に問題になっている部分が盲点として、
すべて、生き延びたままになってしまっている人も多い。
こうしたことの原因に、兄弟とか、他者との比較や
親との関係が関係している例が、とにかくこの数十年は多い。
たとえば、
セックスにおいては、その問題は、
屁理屈や、精神論や、瞑想ごっこに摩り替えるのではなく、
ずばり「肉体の声に耳を傾けないとならない」ように、
逆に、心とか意識の問題は、
それを身体の声になど「摩り替えてはならない」。
なぜならば、心の声を、
身体の声に摩り替えないほど、
その痛みは、実は、大きな痛みになるという事実があるのである。
逆に言うと、問題の本質を違うものに摩り替えると、
痛みを回避できるので、多くの人が自分でも知らずに
それをしてしまう。
__________________________________
精神世界的な探求をしていると称する人たちの多くは、
その根本の動機に、すでに、親の影響なり
正しくいうと、コンプレックスや嫌悪感が、からんでいることが多い。
彼らの問いや、問題意識は、哲学的な問いというものに私には見えず、
単に、親とか、その他の者を「見返してやりたいという動機」から、
「自分は、普通の事では勝てなかったから、
精神的な探究の分野で、彼らに勝ちたい」といった
「邪心」を彼らの本心の中に感じる事が私には多いのである。
そうした思考そのものは、邪心でもまったくないのであるが、
それを、自分の自発的な動機だとして勘違いしてしまい、
自分の親の影響とは関係ないものだと思い込んでしまう点こそが、
邪心なのです。
この部分を、自分で観るのが嫌でも、はっきりと観て、
決着をつけておかないと、人は自分から自発的に出てきたものではない
他人の影響による欲望に、踊らされ続けている状態になります。
_____________________________
世の中には、親との関係を別に斬る必要もない人も多いが、
現代では、大半は、本人の願望や精神的な目的自体の中に、
親の毒が入り込んでいる。
(社会からの毒というのは、実はかなり少ない)
_____________________________
むろん、人それぞれに、親とは関係ない、
もっと古い前世からあるその人の生の目的などもあるが、
それを都合のいい妄想としてではなく、
正しく有用な形でそれを引き出すには、
まずは、この生の時間の中に存在するすべての問題を
しつこいほど、掘り返して、心が正常に痛む必要があるのである。
現実的な問題点がすべて、限界にまで達したときに、
はじめて、遠い過去の時間からここへ持ってきた目的が本線の軸になり、
そこからの変化は、わりと短時間で起きるものである。
だから、本当に自分の主要な部分に行き着くまでの
整理作業の方が、本線よりも、膨大な時間が必要であり、
余計なものがなくなれば、本線そのものは、
ほんの数ヶ月で、すいすいと動き出すものである。
だから、多くの人は、本質的な探究を歩く「準備が出来る段階」にまでに
行き着くための努力だけに、持てる力の9割を要する。
_________________________________
道には、3種類の人間がいる。
1/本当に根っからの探求者である人は、希である。
私は、ほとんど会ったことはない。
たぶん、バーナデットロバーツや和尚などのよう、
本当の探求者であったら、今生で自力で、30代ぐらいまでには悟りますよ。
2/次に、本当はそれを探求しに来ている面があるが、
それが表面化するかどうかは、一種の「賭け」である場合。
こういう人すら、私は希にしか見たことがない。
何もしなければ、だぶん、一生、明確には表面化しない人が多い。
3/最後に、意識の問題をどうこうするためではなく
他の事をするために、ここへ生まれてきた人たち。
この人たちに対しては、私は、先天的に全く関心がありません。
_________________________________
ちなみに、
あまりにも馬鹿げた、嘘だらけの作文に、
私は目を通す気はないので、そういうメールには何もコメントしません。
前回のように、非常に馬鹿馬鹿しい質問だと思っても、
一点でも、そこに、竹の間の他の人たちへの題材として、
語られるべきものがあると感じたものは、
投稿のきっかけに使うこともありますが、
「それ以前」のレベルの、幼稚な「創作メール」や、
ダラダラとした嘘メールをよこす者もいるようです。
特に、なぜか、女性やネカマに多いんですがね。
そういうものは、読むのすら、時間の無駄なので、
管理人の方で、判断して削除してもらっています。
_________________________________
★
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