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自殺
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[3535]
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闇のタオイズムに記載されていた「自殺」についてのEO師の見解
by:
崩残
2006/06/02(Fri)17:39:04
■当ホームページの「虚無宇宙からの伝言」のコンテンツの
「闇のタオイズム」では、出版された書籍には記載されていたものの、
現在まで、掲載をしていなかった箇所があります。
「闇のタオイズム」の書籍をかつて購入した方には必要ないが、
書籍を購入できなかった人のために、ここに、
ぬけていた、そのほぼ全文を掲載しておきます。
この内容は、自殺について考える空間にも現在まで掲載が
されていませんでした。
________________________________
インドの和尚は、かつて1970年代にその講話の中でこう言っていた
> 『あなたの探求心、そしてあなたの弟子入り(サニヤス)は、
> それが自殺の代わりに選んだものでなければ、何の意味もない。
> 絶対の境地のみを求める情熱・・・
> それ以下の者は、私のところではお断りだ。』
無明庵でもまた、絶え間無い行法実習や哲学的思索によって、
自己喪失を極めたいという強固な意志がなければ、
最初から、ここへかかわる必要はない。
また、もともとあなたの探求が、和尚が言うように、
『自殺の代わりとして選んだ道』であるほどに、
正真正銘『純化』されているものであれば、
あなたはもしも探求に失敗して、絶望した時には、
間違いなく自殺をする事になるだろう。
そして、それを止める権利は誰にもない。
また、真実の探求に失敗して、
しかも自殺の決意すらも出来ないのであれば、
その探求心は、それほどのものでしかなかったという事である。
悟りへの道とは、世間にも適応出来ず、精神世界の修行も極められず、
結局は、自殺すらも出来なかったという、
そんな半端者の「最後の逃げ場所(希望の道)」ではないという事だけは
記憶して戴きたい。
自殺か悟りか、道は二つに一つ、
それが、もともとこの道の原則なのである。
「カジュアルな修行」などは存在しないのだ。
______________________________
> 〜ただし自殺と悟りは全く関係ない〜
・・・自殺という事に関して、
EO師が1993年に、EO師の元を訪れた、
あるサニヤシンの言った言葉に対して、
別の弟子に向けて語った文章を、ここに掲載しておきます・・・(方斬)
________________________________
ある時一人の男が私にこんな事を言った。
「私の親しかった女性が自殺をしたのですが、
彼女が、もしもあなたに出会っていたら悟れたかもしれない」・・・と。
いやはや、実に馬鹿げた話だ。
そんな者が私に会ったからと言って悟れるわけもないだろう。
私だけではなく、そんな人間はどの導師を訪ねたところで
悟る可能性などない。
どうやらその男は何か勘違いをしているようだ。
自殺というのは、何も哲学的な思索や、
探求心が行き詰まってするものではない。
そんな動機で自殺する者などほとんど存在しない。
自殺の動機の大半は世俗的な物質的な苦や心理的な苦から
「逃げたかったから」あるいは「発作的」なものか、
さもなくば単なる「怠惰やうつ病」によるものだ。
だから、別に誰かが自殺をしたところで、
その人間が人生や探求に「真剣」だったり、
特別に勇気があったという根拠も一切ない。
実際、日本で最大の死因である病気に次ぐ死亡原因は自殺だ。
第3位である災害死(交通事故などを含む)より、
なんと自殺者のほうが多いのだ。
そして年間2万人以上が自殺をするという事実からも
「自殺には特別な勇気など必要ない事」は明白である。
私は若いころに自殺未遂をしたという人物や
自殺場所を求めてさまよったと言う人間にも会ったが、
だからと言って彼らに何かの特別な資質を感じることは全くできなかった。
むしろ自殺未遂をした人間というのは、
もともと、どこか精神的に不具か、生命に鈍感であるとすら思える。
言葉の上の理屈ばかりが先行して、鋭い感性が伴っていない者が、
比較的自殺未遂をやらかすようだ。
私は自殺とは個人の自由であると考えているから、
その是非については論じるつもりは全くない。
ただし自殺に追い詰められ、そこでそれを決行してしまうよりも、
決行せずに心理的な苦痛にそのまま向かい合っているほうが
勇気が必要だということだ。
自殺とは、ある種の安易な「逃げ道」だ。
なぜならばそれは『無意識』の領域に逃げることが出来るからだ。
それに比べると心理的な苦痛のあまり『狂う寸前に至る』というのは
全く次元が違う。
確かに私も大悟の前に自殺は考えたものだった。
しかし、自殺が全くなんの救いにもならないという地獄、
すなわち出口のない宇宙という事実こそが、
いっそう私の苦を強めたのであり、
それがあってこそ私の自我は崩れたと言える。
以前に言ったように、私にとっては生きることも死ぬこともできない
『幽閉状態』こそが悟りの引き金を引いたのである。
(編集者 小さなブッダの大きなお世話 を参照)
だから自殺という「無意識に落ちてしまう逃げ道」が
断たれているという状況でこそ、
探求者の苦悩はいっそう増すことになる。
自殺にはピリオドがある。
また自殺するには、なんらの勇気も必要ない。
しかし本当に気力と勇気が必要なのは、
生きたままで、狂うかもしれないような生き地獄や保証のない未知に
向かうことだ。
狂うほどの思索や悩みや探求の挫折の連続を味わい、
なおかつ、死ぬ道すら救いにならなかったら、
どうしたって、エゴの「耐久性」にも、
いいかげんに「限度」というものがあるものだ。
そしてその限界に至って、エゴの回路が壊れたときに変容は起き得る。
この問題は『 反逆の宇宙 』で何度も何度も述べたように、
苦が発病していなければ、悟りには絶対に至れないのである。
悟りとは全部の人類がそうあるべき姿なのではなく、
自ら進んで好んで、やっかいな病気になった者が、
どうにもならなくなって引き起こす『自浄作用』であるとすら言える。
だからここは普通の事で満足できる人間が踏み込む領域ではないし、
また普通のことに多少の不満がありながらも、
なんとかそれに鈍感になって耐えられるのであれば、
悟りなどは、あなたの人生にしゃしゃり出る必要もない。
もう死にたいと本気で考えて、
なおかつ死ぬに死ねないからこそ、苦が増すのである。
その苦の圧力だけが、エゴの殻を割る唯一の引き金になる。
確かに私は「ある特定の自殺志願者」に限っては
自殺にまで至るような情熱的な探求心があるならば、
それは悟りへの資質の有無につながると言った事もある。
ただし、このことを、安易に自殺者のすべてが
「探求者として価値がある」などと誤解してもらっては困るし、
自殺未遂をしたからといって、何も自慢できる事もなく、
何も美化される事もそこになく、
誰かから哀れまれる正当な理由もないのだ。
しかし、だからと言って「自殺する者は弱い」とあなたに言う権利はない。
なぜならば、あなたは
「自殺を本気で意志する事すらも出来ないほどに思慮に乏しい」のだから。
多くの者は、自殺を決意するほどの思索もしておらず、
なんとなくダラダラと『習慣で』生きているだけであろう。
だからこそ、それぐらいであれば、
何かに突進して大きな挫折でもした方がエゴは容易に落ちる瞬間に
出会えるという観点から、
『駄目なら自殺する決意でやれ』と言うのである。
社会的ないろいろな現象、あるいは哲学的な課題を
本当に深く思索してゆけば、
自殺というもの、あるいは死というもの、消滅というもの、
無というもの、これらはどうしても必然的に浮上してくることになる。
しかし、そこで自殺や死や消滅や無を目指す方向に
あなたが目的を切り替えたところで、何ひとつも変わりはしない。
なぜならば、あなたは、
生から死へ、有から無へと、単に方向を変えただけだからだ。
では方向を変えた「張本人」はと言うと、
依然としてあなたの中で生きており、
それこそが最大の不満をあなたに生み出しているものである。
すなわちそれは、物事を自分で選択したり、確認をしたり、
コントロールしようとするあなたの自我だ。
その同じ自我が
「生の主義」から「死の主義」に衣替えをしたところで、
何一つも変わりはしない。
ちょうど世俗的な欲望から、宗教的な欲望に走ったところで、
本人は何も変わらないのと同じように、
生命を尊重する主義から、
宇宙的な死を目指す主義に方向を変えたところで、
そういう事をやらかす「あなた本人」は何ひとつも変化はしない。
これと全く同じ事が原因で、
あなたが何をどう探求しようが、
その探求心に正比例して悟りに至ることは絶対にあり得ない。
何かの訓練ならば努力に正比例するのが常識だ。
だがTAOの常識は全く逆だ。
悟りや光明は、訓練や努力に「反比例」するのだ。
求めれば求めるほどその距離は遠ざかる。
どんな瞑想も役には立たない。
何かの手段を講じれば、また何かの教義を信じれば、
それによって瞑想や信仰を「している張本人」である
あなたの「自我」は必ず強くなる。
瞑想や信仰を「している自分」がそこにおり、
瞑想を「見守る自分」がそこにおり、
瞑想の「結果を期待」したり、
「悲観する自分」がそこにいる。
これらこそが自我であり、それこそが悟りの最大の障害だからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただし悟りには『苦』だけは絶対に必要となる。
だから「瞑想には方法などない」と、
クリシュナムルティーの言うことを勝手に都合よく解釈して
怠惰な生活をしていても何も起きない。
また只管打坐だとばかりに、
ただ坐るという事を「また一つの捕らわれ」として
大切に抱きかかえたところで、
余計に意識と思考力がボケるだけの事だ。
そして無心だと意気込んで、何かに没頭したところで、
そんな事は何の役にも立たない。
そして『何をしても無駄』という意味では、
死人禅の行法もまた例外ではない。
死人禅の行法すら障害になりやすい。
だからこの行法には『適合性』が最も重視される。
これは、実際に私が実習者を見ていて出した結論なのだが・・・
資質のない者は何年やっても何も起きないし、
資質のある者は数週間でも何か起き得る。
一言に言えば、心理的な「苦が本当に極まっている者」には効果がある。
しかし、そうでないならば、どれだけ持続して、
大量に実習しようが何も起きない。
それが起きないのは、行法のせいではなく、あなた自身のせいだ。
実は死人禅は「好奇心」などという程度のレベルでは
作動しないように出来ている。
死人禅の実習マニュアルにあるように
「毎日一回だけ実習していればそれで何か起きるだろう・・」
などというのはとんだ間違いである。
今までの実習者でも、何か小さな一瞥が起きた者というのは
日に3回も行法をやったり、ぶっ通しで5時間も6時間も座った
という者だけだからだ。
だからといって「私もそうしてみよう」などと、
あなたがそれを真似したところで、それはただの数日も続くまい。
必ずそれは一週間も続かない。
なぜならば、
何が根本的に違うかと言えば、
そうした努力をさせる「原動力」の情熱が違うからだ。
情熱のある者や、せっぱ詰まった状況にある者の勢いには誰も勝てない。
また彼らは「誰が言わなくとも自分で」そうした努力をする。
他人や導師から、いちいち何かを指示されたり言われなければ
瞑想や座禅をしないとか実習がどうしても長く続かない、
などという者には、とうていこの道は歩けない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、また別の観点から、私が実習者を見て来て、
はっきりとしたことが一つある。
それは彼らが、ここへ生まれて来た時点で、
すでにその資質は決まっているという事だ。
地球へ生まれた時点で、すでにその一生を、瞑想であれ哲学であれ、
そうした探求に、「一生を犠牲にしてでも取り組むこと」を
最初から目的に転生してきた魂でないかぎり、
この道は歩くべきではないという事だ。
しかし、多くの導師たちは、
そうした『魂そのものが、もともと探求をする為に生まれて来た者』
ではなく、まだ道の入り口にも至っていない者たちに向けて語ってしまった。
和尚もしかり、クリシュナムルティーもしかり、
むろん私EOもそうであるし、
ブッダもそうだった。そして、それこそが最大の間違いかもしれない。
もともと、ブッダが一番最初に法を説いたのは、
同じ『修行仲間』に対してだった。
だから、その時点では何も問題は発生しない。
だが、それが一般人に語られる時点では、
その方向が大きく歪曲してしまう。
そこでは需要者と供給者の間に根本的な、
「認識のずれ」が起きるからだ。
そしてその両者の間の最大の誤解は次の点だ。
悟りや光明というものは、もともと
あなたのエゴが欲しがっているようなものではないのであるのに、
あなたは「自我の物欲の延長として」
そうした精神的な報酬を得ようとするのだ。
御利益だの良いカルマだのという言葉もそこから生まれてくるものだ。
だが仏法とはあなたのエゴに善行と引き換えにほうびをあげる
「取引=商売」ではない。
悟りや光明は、あなたのエゴが欲しがらないものであるどころか、
むしろあなたのエゴにとっては、
「それだけは絶対に手にしたくないもの」なのである。
なぜならば、光明とは「エゴの死」だからだ。
エゴがエゴの死を望むはずはあるまい。
だからこそ、エゴから始まった探求は、どこへも至らない。
それは同じエゴの輪の中を、ただ対象と名称を変えて、
いつまでも、ぐるぐると巡るだけだ。
しかし『自分のエゴに心底疲れたところ』から開始される探求は
行き着く先が全く違う。
エゴを「捨てたい」だの、
「捨てなければ」などと口で言うのは誰でも出来ることだ。
しかし、エゴを捨てるというのは、
結局は、探求心も捨てることであり、
そもそも「捨てる」と言っている「あなた本人を喪失」することであり、
そうなれば、
そこには捨てる対象も何もなく、
それを捨てる主体も存在しない。
これが悟りと言われるものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、いずれにせよ、怠惰な者はどこへも至らない。
情熱のない者はどこへも至らない。
努力をしない者はどこへも至らない。
努力だけをしている者もどこへも至らない。
只管打坐やら丹田だのと言いながら、
ただ無心にやればいいんだと座り続ける者も、どこへも至らない。
他人のもの真似ばかりする者もどこへも至らない。
教えというものを新しい自己主張の材料にしたり、
エゴを楽しませるために教えを引用するような者は、どこへも至らない。
では、一体誰がそこへ至るのか???。
それは、
自分のわがままも、貪欲さも、殺意も、怒り泣きの感情も、
「何一つ制圧せずに生きた者」であり、
それらを十全に生きた果てに、エゴが巨大な力に発展し、
たった独りで、
その力のすべてを唯一の標的に向けた者だけだ。
その探求は、必ず「たった独り」で向き合う必要がある。
その標的とは、自我が極度に発達した者しか相手にしない。
集団的な価値観や、誰かから言われた教えを
その相手のところへ持ってゆくことは許されない。
あなたの力や知識は、あなたの独自のものでなければならない。
その相手は、あなたとサシでなければ、
決して向き合わないように出来ている。
完璧に孤立した、独自の魂しか、
「それ」は相手にしないという性質がある。
だから、徒党を組んで何かや導師を崇拝したりするような者は
そこへ到達できない。
また、あちこちからつまみ食いした知識を組み合わせた
自分勝手な理屈しかないような者も、その標的に出会うことはない。
その標的の名称・・・それは、なんでもよかろう。
神、絶対者、あるいは絶対真理、宇宙・・・。呼び名はなんでもよい。
ただ、最後には、あなたは
『絶対個人のあなた』対『絶対個のそれ』という対決にならねばならない。
それは、誰からも認められない、
たったひとりっきりの『狂気の探求』だ。
そして、その果てに、
すべての心、すべてのエゴ、個としての力、
そのすべてが、その効力と価値を失う瞬間がある。
むろん、その時には同時に、
すべての無心、すべての無エゴもその価値を失う。
そこには、探求者もなく、
いかなる疑問もない。
正しさも間違いもない。
ただ存在と無が共存する、
未知なる美だけがある。
EO
______________________________
1997年 発行 「闇のタオイズム」初版本より
______________________________
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