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●なぜ、セックスの未成熟が、瞑想者の足をひっぱるのか?
by:
崩残
2006/06/22(Thu)07:17:41
セックスの問題とはいえ、これは、隣の「梅の間掲示板」の話題というよりは、
竹の間のテーマに大きくダブってくるために、ここで書きます。
●「なぜ、セックスの未成熟が、瞑想者の足をひっぱるのか?」
この答えは、「悟りというものに至る、精神構造の過程」を、
正しく理解出来るならば明確に把握できるだろう。
セックスは、低級な低俗な問題なのでもなければ、
非瞑想的な問題なのでもない。
皆さんは、そもそも「性の衝動」とは何であるかを考えればよい。
つまりセックスもまた、大悟に不可欠とされる、
「非個人的な領域」の人類共通の課題なのである。
つまり、セックスとは、「個人的な衝動」ではないのである。
それは人が「個人的」な夢として、
「何何に私はなりたい」といった種類の欲望とは、違うものである。
それは生物に普遍的に共通する「性別を持つ生物に特有の構造」である。
だから、それは大悟者の多くが、テーマにした、
「普遍的な課題を扱うこと」と等質である一面を持っている。
となれば、
「満足されない形で残されたセックスへの衝動」というものは、
確実に全ての瞑想者の足を引っ張ることになる。
「より深く精密な瞑想」に踏み込むほどに、
そこで課題となって人間の前に立ちはだかる諸問題は、
「人類や、あるいは生物に、より共通性を持つ根源的な、
恐怖や欲望となる」
ということが瞑想の本質的な道筋なのである。
故に、そうした「根源的な領域」の一つであるセックスの問題に対しては、
瞑想者や座禅者は自分の性衝動の「世話」をして、
自分が納得できる範囲においては、その満足を得ておかねばならない。
それは瞑想や座禅の前に、絶対的に、片付けておかねばならない
「重要な問題」なのである。
そういう意味では、戒律による禁欲生活など「もってのほか」であり、
禁欲などをすれば、抑圧した願望が常に瞑想者の脳内や身体を支配することになる。
しかも、より瞑想が先に進むほどに、その欲求は増すことは間違いない。
瞑想をすれば性欲が弱くなるだの、
性欲を超えられるなどという主張は、完全な間違いであり、
完全なる誤認なのである。
EO師が本でも言っていたように、
釈迦は、そもそも宮殿の中で性の欲望は充分に満たし終えていたのである。
出家を決意したのは、世俗的欲望を満足し終えた「あとの事」なのである。
●ところで、
瞑想的生活に入るよりも以前に「片付けておくべき」このセックスの問題には、
「男女で、差があること」には、よく注意すべきである。
男性の自我の中に根源的に存在する性衝動は、ごく単純であり、
それは、種馬としての自分が「セックスをしたい女性を、やみくもに探し、目移りしては、
あちこちに目をつけて、子孫を残すための射精欲が沸く」ということである。
平たく言えば「やりたい相手としたい」だけである。
だから男性がセックスの問題で、
自分の瞑想の足をひっぱるような悔恨を残しやすいのは、
ごく単純に「したいタイプの女性とのセックスが出来たかどうか」
というその事だけが、衝動の大半を占めることになる。
●それに対して、女性の自我に根源的に存在する性衝動は、
子供を育てる、という本質的な衝動に動かされるために、
女性が「悔恨を残しやすい願望」というものは
「暖かい家庭」「子育て」「プラトニックな意味で素敵な男性」といったものになる。
男性の性衝動が、単純な挿入欲に根ざすものであるのに対して、
女性の性衝動の中には「家庭の構築」がプログラムされている。
だからこそ、女性がセックスをきっかけにして動かされる「心の衝動」の
多くは、
自分がずっと安心できるような素敵な男性と「家庭を築くこと」であるか、
擬似的な結婚生活である「同居」という形を望むことよって、
「いつまでも一緒にいたい」という思いが、強くなるのである。
こうした一見すると「心の衝動」に見えるものも、
その実体は「子育ての環境」を「整備しようする動物的な本能」の
中から発生しているのである。
一方で、男性は「巣」を守るよりは、巣の外で自由に活動したいのである。
現代のこの人間社会の中においては、家庭に入ることを嫌う女性もいるし、
また女性も男性のように、
一晩限りの「あと腐れない、割り切ったSEX」を志向している「かのように」見えるが、
実は根源的な部分はセックスによる「純粋快楽とは異なるもの」を
男性に求めている面が大きいのである。
●たとえば、女性がセックスで男性のスキンシップに対して持つ感覚は、
実のところ、
「乳幼児に対して持つ感情」のリハーサルという側面がある。
つまり女性はセックスのスキンシップの中で、子育ての時に行う、
乳幼児との「スキンシップの予行練習」をしている面があるのである。
やさしく抱かれ、膣の奥を突かれている時は、自分が大好きな男性の欲望の
望むままに支配される事に女性は歓びを感じる。
だがその男性が射精をして果てて「雄としての役目を終えたあと」になると、
女性はあたかもその男性のことを、乳幼児を抱くかのように、
いとおしく可愛く感じるという経験に多くの女性は覚えがあるはずである。
また逆に、男性が女性の身体に甘えて愛撫やペッティングをする場合にも、
それはある意味で男性が乳幼児となって、
女性の「授乳行為」の「リハーサル」を手伝っている効果が大きいのである。
だから、女性のセックスにおける「本能的なレベルでの満足」のためには、
男性との「スキンシップ」が非常に重要な要素なのである。
●こうして観察すると分かるように、
セックスという行為の原動力は、複数の側面を持ち、
そのひとつは純粋に「子孫を残そうとする本能」に根ざすもの、
つまり「動物としての根源的な」衝動である。
だからこそ、その欲望を、自分の満足のいく状態にしておき、
セックスの不満や、抑圧された欲望が「瞑想の邪魔をしない状態」にまで、
よくよく「世話」をしておいてやらねばならない。
男性の場合には、単純にしたいセックスをするという事であるが、
女性の場合には、これまでに指摘したような理由から、
単にセックスを繰り返すのではなく、
恋愛をしたらその異性と長く一緒にいるという形での「同居」を経験し、
そこで家庭や育児というものを「疑似体験」することによって、
実際には、結婚や出産を経験しなくとも、
瞑想的生活に移行できるような理想的な状態になり得るのである。
したがって男女共に最低限でも、
「一般的な意味で言うセックスの満足」に到達している事は、
瞑想に入る前に絶対に不可欠な条件だと言ってもよい。
一般的な満足とは、女性が複数回オーガズムを感じたあとに、
二人で同時に果てるということが最低限は、出来るようになるである。
●それ以上のレベルのセックス、
たとえば「神秘学の技法」「融合の技法」といったものは、
原初の地球において、男女というふたつの性に「意識の構造が分割されたもの」を、
一時的に元に戻す方法でもあるので、
むろんこれも「根源的な衝動」を満たすための技法ではある。
肉体だけでのセックスではない、もっと本質的な深部の次元での、
男女の「性の完全な一体感」を経験できるために「融合」を経験をしておく事は、
より不満のない状態で瞑想的生活への準備が出来るのである。
ただし、瞑想的な生活に入る以前に、
絶対にその「融合」は経験をしておくべきものだ、というものではない。
瞑想的な生活をしたいのであれば、
「女性が複数回オーガズムに至った後で一緒に果てる」という、
一般的な理想的セックスと「擬似的な家族的な経験」をしておくだけで
充分である。
●その一般的な意味での肉体の欲している「快楽の満足」を得る為ならば
それは「【性のレシピ】」の本を参考にして、忠実に性生活の中で実践すれば、
充分に事足りることだろう。
また「【性恋愛教本】」に記した「連続オーガズム」によれば、男女共に、
「充分すぎるほどの満足感」が得られるだろう。それにより瞑想中に、
性妄想や性衝動に邪魔をされる事はなくなる。
また、さらにもっと根本的な次元での、
男女の「性の分裂感を元に戻したい」のであれば
「【虹のオーガズム】」に記された技法を正しく使えばよいだろう。
私が、これらの「性の異端書・3部作」を、この世に残した「本当の理由」は、
「セックスの満足そのものの為」ではありません。
セックスというものは、完璧に自分の可能な範囲で、
自分の満足を基準として「成熟」をさせて、
その欲望と衝動の「果実」を地に落としておかねば、
人間は悟りへと至るその瞑想の過程で、遭遇しなくてもいいような、
余計な壁に突き当たってしまい、大きな「遠回り」をする事になるからである。
性の問題とその周辺問題としての「恋愛」や「家庭生活」「スキンシップ」
そうしたものへの「悔恨」と「やり残し」の感覚に正面から向き合う事は、
「集合意識の中にある、普遍的な課題である自我や恐怖」を落とすのと同じほどに、
「根源的」かつ「普遍的」で「非個人的」な課題なのである。
●これ故に、無明庵では、老若男女関係なく、
「セックスに不満を残していないかどうか」を、
その者に瞑想をする準備があるかどうかを判断する、
重要なチェック項目なのである。
そして、それを可能する為の「完全な方法論」を、
「性の異端書」として残したのである。
●余談ながら、時間帯や体調や環境の違いによって、瞑想というものが、
深くなりやすかったり、深くなりにくい状態というものがある。
本当の事を言えば、瞑想や座禅が「最も深くなり得る状態」の「一つ」は、
セックスの満足後、「10分以内」に、座って「瞑想を開始する事」なので
ある。
なぜならば、このとき、「意識の上昇力を邪魔をする不満要素」は、
皆無か、または、極端に少なくなっている状態だからである。
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