▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[3594]
■
「死刑」「戦争」「あだ討ち」いずれも私は否定しない。
by:
崩残
2006/09/27(Wed)07:03:17
◆死刑というのは、そもそも、「刑罰の延長」に立ち現れる
極刑なのであるが、この刑罰というのは、犯した行為と「等価」のものを
受刑者に与えられないという、不満が被害者にある。
これが問題の第一点である。
最近、よく「極刑以上の処罰を望む」という声が被害者の遺族から出るが
全くごもっともなことである。死刑以上ということは、すなわち「拷問刑」ですね。
まったく道理にかなっていると私は思う。
現在の社会では、犯罪をしたり、殺人をした者は、
刑務所を、あだ討ちをされない「安全な宿」のかわりに使う者もいるだろうし、
あげくの果てには、自殺の代行(死刑)をしてくれるところと、
とんだ勘違いしてやがる者もいる。(宅間とか小林)
◆そもそも、人を殺したなら、殺されて当然というのが、私の論理である。
傷害となると、等価の痛みを犯人に与えることは、
現実問題として、かなり難しい課題なので、
ここでは、「殺人犯だけ」に論点を絞っておきます。
また、ここでは、「冤罪」の可能性もどけておきます。
単純明快に、本人も証拠も認めた明らかな殺人犯に対しては、
死刑が当然であるということ。
◆これに異を唱える者がいるようだが、その根拠をなしているものは、
何千年経っても、
「一向に守れた試しもしない宗教の教義(たとえば十戒)」であったり、
あるいは、「更正の可能性から」、または生存したままの「賠償義務」、
という論理であるわけだが、
少なくとも、「更正の可能性」は現代社会では、通用しない。
なぜならば、少年法でもそうだが、
更正という事を前提にして作られた制度というのは、
実際にその更正プログラムが効果を発揮していたのは、数十年前の話である。
今では、社会的な変化とともに、犯罪者の精神構造そのものが
変わっているために、昔の更正プログラムなどほとんど効果なし。
「時計じかけのオレンジ」みたいに、悪さをしようとするとゲロを吐くとかいう、
効果の高い更正プログラムがあるのであればともかく、
更正させる見込みもない殺人犯をかかえたままであるならば、
更正を前提にした、死刑反対は、この時点で、無効である。
さて、次に宗教的理念。そんなものは、政教分離の国家では関係ない。
今の法務大臣は、個人的な宗教理念から死刑執行に判を押さないようだが、
そもそも、行政というのは、政教分離が原則のはず。
では、宗教ではなく、「人道的見地だ」と逃げるならば、
人道的見地とは、そもそも「立派な宗教の一種」であることを
認識しなければならない。
なぜならば、「人道教」そのものが、「人間様たち」の作った宗教である。
それは、自然環境や動物たちが作った法ではない。
◆死刑に反対する側の言い分というのは、私から見れば、
更正の可能性、宗教と人道、どれひとつとっても、全く整合性がない。
裁判で争われてしまう論点は、それが意図しない「過失」であったか、
それとも、「殺意」があったかであるが、この点においても、
たとえ不注意からの事故であれ、殺してしまったものは、あきらめろ。
問答無用で死刑。その方が遥かに、「精神衛生上」健全である。
さて、こういう「普通の話」だけ言っていても、
「竹の間掲示板」にはなりませんので、
ここで、登場するのが、前回の投稿で書いた「集合無意識」というやつです。
◆死刑判決を受けた者、あるいは死刑に相当する「殺人」を犯した者、
こいつらが、まんまとムショに逃げ込んだり、弁護士の力によって
減刑されたり、あるいは、あげくの果てに、無期懲役で「出所」してくる。
さらには、てめぇーで死ねずに、死刑という形で「自殺の代行」を刑務所に
頼む始末だ。
全くこれでは、被害者の霊も、被害者の遺族も、浮かばれたものではない。
そして、その浮かばれない憎しみというのが、ここ何十年が、
増大していると私は見ています。
この増大というのは、直接的に被害を受けた被害者や、その遺族ばかりでなく、
その理不尽さに対する、国民感情の累積としての、集合意識だと言ってもよい。
では、なぜ、それが直接に、殺人をした犯罪者に向かって突入して、
その犯人の命を奪う力となり得ないのかと言えば、
国民が呪っているのは、「国が下した理不尽な処置」に対してだからである。
●少し前に、「情報を隠蔽すると、感情的な不満が累積する」という話をしましたが、
死刑になって当然の人間が、減刑されたり、社会復帰したり、
あげくには、「本人のお望みどおり」、死刑になる。
そういうことがまかり通り過ぎたからこそ、それをもう許せない被害者に
とうとう、「割けてはいけない、口が割けて」、
「死刑以上の刑を望む」、
とまで、「言わせてしまう結果」となったのである。
◆逆に、死刑というのが、ある程度、納得のいく形で、執行されてゆけば、
無意識下に蓄積される不満は軽減されるのである。
その軽減とともに、実際には、異常犯罪の減少という現象も
起きる可能性は大であるといえる。
それは、単に、死刑が殺人という凶悪犯罪の「抑止力になるという効果」とは
全く別の問題で、
これは、集合的な不満が「死刑という、ごく当たり前の結末」に
よって、「中和される」という効果のことである。
◆そういう点では、書面さえ得られれば、仇討ちが認められていた
時代というのは、本当に、ある意味で、理想的な方法だったと私は思っている。
人を殺したならば、死ぬまでは、追われる身になって恐怖すればいいのである。
仇討ちというのも、また、江戸時代が生み出した実に整合性のある
「文化的な制度」だったと私は思っている。
◆今の、現行法とか、処罰法では、
一体処罰してんだか、「犯人を保護」してんだかわかりゃしない。
その一方で、その法の下で「泣く被害者」は、一体、どうなるのだ??
という事件が、世の中には山ほどある。
◆殺人事件ではないが、昨日だったか、知り合いが立てた欠陥住宅に
対して裁判を行い、勝訴して、何百万だかの賠償金を請求しているのに
被害者に、それが全く支払われないという理不尽な事件があった。
その理由というのが、加害者の所有する物件が既に担保に取られている
ということ。ようするに、判決も出ている犯人に支払い能力がないということである。
だったらば、民事でも、払えないならば、それなりの処罰というものが
あってもしかるべきである。
これでは、支払能力がないとか、支払い能力をなくしてしまえば、
他者に莫大な損害を与えるような犯罪行為をしても、
犯人の方が、のうのうと「開き直れて」、被害者だけが泣きを見る、
という構造になってしまっているではないですか。
もっとも、この欠陥住宅の案件なら、これは民事でなくて、
「詐欺事件」として刑事事件で立件すれば、
犯人を、ムショにぶち込めそうですがね。
_______________________________________________________________
◆そういうわけで、私は、人間の言う、偽善的な宗教も、人道主義も、
更正への希望も、それが、「確かな効力」を不特定多数の殺人犯に対して
統計的に優位な確率で「結果を出せない現状の現実」がある以上は、
殺人に対しては、死刑という、分かりやすい結果、
被害者に、それ以上の憎しみを生まないで、
ちゃんと、憎しみが「新陳代謝する」制度にするべきであると思っている。
人を殺したのなら、潔く死刑になって、
もしも償いたいなら、
ウーブみたいに、生まれ変わってきて、償えばいいだけのことである。
(転生なるものを、信じるのであれば、の話だが)
◆そして、「加害者の育ち」だの、加害者の「トラウマだの」、
加害者の事情だの、
「そんなことは、被害者の知ったことではない」。
全く同じ劣悪な環境に生まれたからといって、
全員がそうなるのではない事は言うまでもないことだ。
その環境に育っても、殺人という行為に至るか、至らないかには、
明確に、「個体差」があるのだから。
____________________________________________________________
◆私は、読者も、ご存知のように、
人間の「憎しみ」というものを全く否定しません。
偽善者や、宗教者や、人道主義者が言う、全く中身のない善だのよりも、
私は、「率直な恨み」「率直な憎悪」というものを大切にしている。
ただし、それは、「率直であるべきもの」で、決して屈折してはいけない。
何かへの恨みが、別の誰かへの恨み、別の物事に八つ当たりするもので
あってはならないということ。
◆これは、竹の間でも、親子問題、機能不全家族の原因でも言ったように、
精神的な被害を受けた者は、
その最初の被爆地、最初の相手に対して、その感情を向けなければならず、
それをもしも最初の加害者に対して向けなかったり、
または直接に相手に対して向けられないような状況におかれた場合には、
その感情というものは、かならず、
「別のものに化ける」のであるから。
◆余談だが、いまだに、オウムが、仮想のテロ集団の脅威を演じ、
公安調査庁のお仕事のためだけに、代表者も信者も解散もせずに、
のさばっていること自体が、
それは、私達国民の無意識下の感情にとっては、全く許せない事なのです。
そんなに修業したいなら、解散して、「個人で」、
インドなりタイなり、どっかの離島でも行けばいいだけのことだ。
コミューンを作りたいなら、どっかの山奥か島で勝手にやっていりゃ
いいのであって、もう、集団として、あんたらが否定して、挙句に、
テロで滅ぼそうとなどした、あんたらの嫌いだった「この社会」になど、
関わらないでくれたまえ、ということである。
◆たとえば、河野さんは、自らの世界観、信念にしたがって、
加害者を恨まないのであって、そういう事を持ち出して、
「被害者は、加害者を恨んでも何も解決しない」などと、
吼えてんてじゃねぇーよ。「死刑反対サイト」よ。
河野さんは、「加害者を恨む人の自由」を決して侵害などしませんよ。
それを勝手に、本心からでもないのに、単なるイデオロギーに
洗脳されたくせに、偽善者ぶって、他者に「人を恨むのは良くない」
などと、人道教や、虚構の理想論を振り回して、偉ぶってんじゃねぇーよ。
これは、
頭の表面もツルツルなら、頭の中身もツルツルの「坊主ども」とか、
脳ミソの、倒壊した「尼」に言ってるんですけどね。
_______________________________________________________________
◆さて、
そうした「不条理な国の姿勢」を見てきた、国民の「当たり前の不満」というものが、
ときには、それは他の者への暴力、ときには、偽善活動に化け、宗教に
化け、劣等感が、優越感欲しさの活動に化け、
そうやって、屈折を何度も繰り返して、
修復不可能な「エラー」を人間は自分の脳内に作り出してしまうのである。
◆こういう現象を、日本語では、「こんがらがる」というわけであるが、
感情エネルギーというものは、もともと、ストレートに表現されれば、
こんがらがる事なく、短期的にそれなりの場所に終息するものなのである。
そういう点からも、殺人なら、犯人が死刑になることがもっとも
健全な形で、感情が調停される方法であり、それ以外の方法は、
どれだけの人道的な理屈と、エセ理想主義社会を吼えたところで、
犯罪の性質と、犯罪者の性質を、ますます面倒なものにしてしまい、
かつ、そうした犯罪者が野放しになることへの国民の不満が、
集合無意識の中で、増幅される。
結果として、それに反応してしまった新たなる犯罪者が、
その国民の不満を、殺人という形で、連鎖させてしまうわけである。
誰でもが気づくように、殺人事件というのは、
妙に、連動するのをご存知だろう。
凶悪な幼女殺害事件も、今は少し減ったが、ある時期に、異常に
続いた時期があったのを覚えているはずである。
最近の、飲酒運転による死亡事故もそうである。
単にたまたま報道される数が増えただけでは
片付けられないほど、異常に続くのである。しかも、そのほとんどが
被害者が死んでしまうという事件が。
こういうことは、単なる統計では説明がつきません。
似たような事件が、なぜか目だって続くというのは、
言うまでもなく、「100匹目の芋洗い猿」の原理と同じように、
全く接点のない土地で、無意識下に連鎖し、感染するということである。
それはニュース報道による、集団的催眠的効果、集団的連鎖反応という
説明では片付けられない、奇妙な性質を持っていますから。
◆こうした無意識下の歪みというものが、
特定種類の犯罪の傾向とか、その発生時期を決定しているわけですが、
その、原因のひとつ(原因の全てではない)が、
簡単明瞭で、被害者や国民が、「納得できる形での処罰がなされない」
そのことの、無意識的な不満の力なのである。
経済的な不正や横領事件についても、同様のことが言えます。
◆ついでに言うと、私は、「保釈金制度」にもまっこうから反対です。
どうして、金で保釈されるのか、その論理が矛盾している。
一方で、金を払えない状況の犯罪者も、
投獄されない状況だと、「居直れる」というこの矛盾。
さらには、「時効制」というのも、
全く時代遅れだと言わざるを得ない。
たとえ、捜査体制が、維持不可能になったとしても、
「テレビの力」や霊能者が、犯人を自供に追い詰めることだって、
あり得るのだから。
___________________________________________________________
◆さて、お次は、戦争。
これも、私は、否定していない。殺したいなら、殺せばいい。
ただし、それは、戦争をして、人を殺したい者同士が、
民間人の全くいないエリアで、バトルをすればいいということ。
国家間戦争にしても、民間人は一切巻き込まず、志願した者同士、
殺したい者同士が、「特設リング」の広大な土地でやればいいのである。
たとえば、K1の選手が、素人相手に、蹴りを入れたら立派な犯罪ですよね。
しかし、プロとしてリングに上がってやるならば、
それは生活のかかったゲームです。
戦争というものも、同じように、志願兵同士が、民間施設のないところで
好きなだけ、決着がつくまで、やればいいのである。
そういう意味でも、野っ原で、両陣営が、逃げも隠れもせずに、
合戦をしていた、戦国時代というのも、これまた、全くもってして、
健全な戦争に私には思えるのである。
相手の殿様の首とったら、ゲームセットですからね。
実に、分かりやすいルールです。
(もっとも、実際には、いろいろな画策や暗殺劇があったわけですが)
だから、現代でそれをやるならば、
民間人と民間施設は巻き込まないこと、
両方とも、「ゲリラだの、民間人に混じる」などの卑怯なことはせず、
どうどうと、タイマン勝負する、殺し合い。
「この条件つき」であるならば、
私は、戦争という殺し合いにも、全く反対する気はない。
ようは、私の中には、世間の言うモラルなどないということです。
私が言っている要点は、人間の心理も、社会も、集合無意識も、
より、屈折をしない、「ストレートな表現」を取るほどに、
その状況は「悪化」しないという、
「基本法則」のことを言っているのである。
どれだけ、ネガティブな感情や現象であっても、
ストレートであることにより、
それは、より、すばやく代謝されて、
短期で放出されて、自然にバランスが取れるものであると言っているのです。
◆そもそも、なぜ人間が、憎悪から殺人に至るのか、
まったくもってして、何もご存知ないようだ。
そんなに殺人を減らしたいなら、
もっと、もっと、初期段階で、感情をきちんと、表現することである。
結局のところ、殺人事件のほとんどが、
加害者と被害者に、関係があったにしても、なかったにしても、
すべて、「何かの感情の鬱積」であることは明白だからである。
それを、その初期段階に表現しないで、表現できないで、
我慢する、
延期する、
溜め込む、
そして、妄想が膨らむ、
そして、憎しみが増す、
こんなことを、いつまでもやっているから、
暴力や殺人がなくならないだけのことなのである。
◆アンデスの村では、一年に一度だけ、村人全員が、
殴りあう儀式の一日があるのを知っている人も多いだろう。
その日だけは、ケンカ解禁。
そして、彼らは残る364日を、平和に暮らしている。
そうした人の当たり前の感情を、
「偽善、嘘、本心でもないこと」によって、
「純粋なネガ」を「無理なポジ絵の具」で、塗り固めてゆくほどに、
そうやって蓋をされたエネルギーは、その出口を求めて、
より始末の悪い、「理解困難な表現方法を取る」ということです。
◆かつて、インドの和尚は、あなたたちに教えはずだ。
「怒りも悲しみも、何ひとつ、制圧するな。
ただし、意識的に、
きちんとそれに道を与えて、吐き出せ」と。
_________________________________________________________
私が、政治問題について、ここのところ語っていることに
一環しているのは、このことです。
地球の文明を見てきた、
天使と悪魔、その両方が「共に一致した見解」を、
もしも、私が、ここで代弁するならば、
おまえら、人間どもは、
あまりにも「屈折しすぎだ」
ということです。
___________________________________________________________
安倍さんは、くだらない「教育基本法」などに、うつつを抜かしている
暇があったら、
小学校のホームルームに、「つげ口、ケンカの時間」でも
義務教育に取り込めばいいんですよ。
教師は、どっちの意見も中立に聞く。「判決は下さない」ことだ。
ここでの教師の唯一の役目とは、
気弱な生徒、言われたままで、くじけそうになる生徒がいたら、
「お前も、ちゃんと言え、今言わないと、一生後悔するぞ」と
その生徒を、自分の考えや弁解を言えるように、
うまく誘導してやることのみである。
そうして、生徒同士が、とことん、自分の言い分で、相手と戦う。
負けたら負けを認めておしまい。
また、教師は、決して安易な「仲直り」も促さないこと。
集団で、1人をつるし上げてもいいだろう。
ただし、つるし上げられた方の生徒も、不服があれば徹底的に反論する。
小さいときから、まともに親や、子供同士で、「口げんか」も
ロクにできんようなやつが、まともに育つわけがない。
馬鹿揃いの政治家ども、アホウな有識者とやらには、
暴力なき、「ケンカ道」というものを、教えてやりたいですわ。
だから、
健全な「ケンカ道」を授業に組み込むことですね。
おまえらが、本当に、
宅間や小林や宮崎みたいのを、二度と出したくないのなら。
なんだか、最後は、
ごくせん、のような口調になってしまった、本日の話でした。
◆
◆
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(3594 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -