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[3635]
■
武道と武術の違いにこだわるタイプの人々について
by:
崩残
2006/12/02(Sat)05:16:07
●これは武術の世界の話ですが、一部、竹の間話題に関係するので、
ここに、書いておきました。
言葉すらもきちんと扱えない人は、
言葉を超えたものについてなど、語る資格はないということです。
また、言葉や文の本質というのは、
「文が、上手とか下手の問題ではない」ということ。
これは、ずっと以前から、私が、ここで繰り返し述べていることです。
______________________________________________________
こういう武道愛好家の質問がありました。
↓
>自分にとっては、武道は精神的な意味あいを持つので、
>今後、たとえば外国の人に、私の宗教をたずねられた時は、
>「私の宗教は武道です」と言うのが、いいのでしょうかね?
いや、これはまずいのではないでしょうか。(あくまでも私見ですが)
宗教と殺生の世界は、同居し得ません。
ですから、あなたに、何かいわゆる宗教への関心や傾倒があれば、
それを宗教とし、武道は「趣味」とかまたは「メンタルトレーニング」
という事にておいた方がよろしいと思います。
世の中には戦う宗教もありますし、
後世の「変形仏教」には、摩利支天とかが存在したり、
神道にも「香取神宮」の「武芸や剣の神様」と、
「こじつけられたもの」はありますが、
しょせん、それらは、宗教とは、ほど遠いものです。
仮に武芸によって悟りに至りたいと志したとしても、
それならば、その時間は、
武芸ではなく、別の道に時間を使うべきものとなります。
剣の代わりに、鍬を持って田畑を耕せば、立派な作務になりますから。
ですから、武道と宗教は、
きっちりと「区分け」をしておくのがいいと私個人は思います。
____________________________________________________
世の中には、武術や武道と「宗教規律」の「ごったまぜ」のような体系も、
有名無名をふくめて、多くありますが、
私個人は、そういうものは、大嫌いです。
武術や殺生や暴力の正当化の理由として宗教を利用しているだけの
姑息さしか感じません。
いかに、少林拳が達磨からはじまったと「言われている」としても、
これにも、どうにも胡散臭さがあります。
仏法の「片手間に、何か別の目的で教えたもの」が、
後世になって、さも、達磨が伝えたもののように歪曲されたと私は
見ています。
ここは、よく武道家が、言い訳に使う論説なので、いちおう、
釘を刺しておきます。
●そしてついでに言いますと、「武が、道となる」などというものは、
看板に「武道」などと掲げて成り立つようなものではなくて、
武術をしていたら、「自然にそうなる人は、そうなり」、
そうならない人は、「ますます、道から外れる」というのが、
私が見てきた武術家の面白いところです。
結局のところ、「道」など、そんなものは、ほっておいてもいいわけで、
それは、他者から礼儀とか決まった形として教えられるようなものではなくて、
その人の武術を離れたところでの「日頃の生き方そのもの」が反映されて、
その結果として「道」は「向こう側」から現れるものです。
武術とか武道の中に道を探すよりも、
大小便をしている自分や、セックスをしている自分や、
生きて息をしている自分や、
死にたくなる自分を誤魔化さずに見詰めたほうが「道」は、そこにあります。
道は「自然に備わる人には備わり、いくら武道を叫んでも、目標にしても
備わらない人には、一生、備わりません」。
むしろ、武道を口にして、性格が悪化の一路を辿る人の方が
武術業界には、多くいるようです。
なぜ、そうなるかというと、しょせん「力」というのは、
どこかで「他勝」への念を生み出すからです。
>武芸は、武芸そのものを進化させるのが「武芸家」の役目であって、
たとえ戦ってどちらかまたは両方が死ぬにしても、
その戦いそのものを、「戦いの神に奉納するという意識」でなければならないと
私個人は思っています。
>それは個人が自己顕示欲や名声や、天下取りのために戦うものではなく、
>「戦いの武芸それ自体の進化」のための戦いです。
私が「武士」と認めるのは、そういう人だけです。
それは、「雇われ侍」のことではありませんし、
仇討ちをする人のことでもなく、ただの刺客や剣客のことでもありません。
そういう意味では、戦国の過去生での私は、まぎれもなく、
武士ではなく、ただの人殺しでした。
_______________________________________________________
●力の行使についていえば、人類それ自体、かなり暴力的な存在です。
というより、極論すれば、生命それ自体が、多少狂ったものであるというのが
私のスタンスですが、その問題はここではやめておくとしまして、・・・
武術を特別視しているかという疑問については、
「傾向」という点で、区分けはしていますので、
鍬を持つ手と刀を持つ手は、ある視点からは「別のもの」と私は見ます。
普遍的な事実ではなく、
「傾向」と、あえて言ったのは、ちょうど、それは、
「お金というものに対して、人間が誘惑されやすい」というのに似ています。
農作業や工芸作業になど誘惑されない人間は多けれど、
金、異性、権力、破壊力、こうしたものが、
鍬よりも人を狂わせるということは、
人間という生物の「歴史」を見れば明らかです。
では、双方では「何が違うのか」といえば、
後者では、人間のエゴが「表出しやすい」ということです。
むろん、傲慢で非道な「士農工商」がそれぞれに存在しますが、
とりわけ「支配力」や「生き残り」ということが主眼となりやすい分野では
その人のそれらに対する無意識的な歪みが出やすいものです。
●たとえば、武術を習う人の最初の動機にもいろいろとありますが、
これは、
「宗教に入る人の動機」にいろいろとあり、
それが「最後まで、その人間の道を決定する」のに大変よく似ています。
武術の道場に入門する際には、
どの動機がいいとか悪いとかはないと、「一般には」言いますが、
私は、「弱かったから強くなりたくて」という動機は、
たとえそれが何かの「克服という演歌ドラマ」に見えても、
あまり賛同できません。というより私なら入門させません。
たとえば、体が弱かったから武術をしたい、
これも「違う」のではないかと思うわけです。
むろん「効能」はあるでしょうが、効能だけから言えば、
他に健康のための専門のものはあります。決して武術医療ではなくて。
●これと同様に、宗教に系統する場合にも、
コンプレックスの裏返しのような動機があまりにも多く、
宗教と家族問題は関係ないのに、それをごったまぜ、
ご利益と宗教は関係ないのに、ごったまぜ。
つまり、
動機が最初から外れていれば、
「その道は、最後まで外れるだろう」というのが、私の見てきた実例です。
●武道の場合には、おそらくは、たとえば、
家業として継ぐ運命にあったとか、
何よりもいいのは、人ではなくて、何かの「技に憧れて」というもの、
あるいは「とにかく、それが、根っから好きであること」、
こうした動機から武術に関わっている人には、
私は、付き合っても、さほど違和感は、感じませんでした。
しかし、自らの記憶の中に封じ込めてしまった最初の動機の中に、
何か、「自分の別の弱さを補うためとか、何か別のものの表現手段」として、
武術にかかわった人、この人たちは、私には完全にアウトなのです。
そして、奇妙なことに、「武術と宗教」に「共通する点」は、
人間の劣等感とか、克服劇のターゲット、形を変えたエゴの表現手段、
そういう手段に「なりやすい傾向」があるということです。
●多額の財産を得たときに、
お金を「スマートに使うことの出来る人」もいれば、
そうでない人もいますが、
多くの場合には、お金は人の妄想と慢心を狂わせる傾向があります。
そして、似た妄想の傾向を持つのが、
「権力者や、宗教家や、ときには武道家」です。
園芸とか料理などの平和的なサークルに比べると、
宗教と武術、占いなどは、どうも変な人が沢山集まりやすい、のですが、
その最大の理由は、どちらも、代表者が、
「出来の悪い教祖もどき」になってしまったりすることです。
精神世界のスーパーマンやヒーローに憧れるのが「宗教の世界の悪癖」だとすると、
武芸のスーパーマンになろとしたり、
そうした「他者を信奉する癖」があるのが武術の世界かもしれません。
そういう意味で、他の趣味の分野とは異なる「傾向」「欠点」が、
宗教や武術の世界にはあると私は経験的に思います。
そういう点では、坊主も医者も教師も同じです。
社会的な権威とか力を社会から、
「たいした根拠もなく与えられているような者」は、
その者が、まだ自分に力がないうちは、謙虚に振舞っても、
いったん力を得ると、全員が豹変して陥る罠があります。
それが「自分には力がある」という妄想の罠です。
そして、宗教、お金、武力、には、
特にその傾向が多く現れるというのが私見です。
むろん、人が陥りやすい「分野」を、
いちいち全部あげたらキリがありませんがね。
________________________________________________________
●物事がある個人の中で、たまたま、「統合」されたり、
ひとつのものになった、ということは、
「武道とはこうあるべきだ」といった言葉で一般化できるものではなくて、
あくまでも「その人の中では、ひとつのものになった」という
「個人的な事例」にすぎないのです。
そういう点では、「殺すために技を進化させる武術」と、
宗教または精神性といった正反対のものは、
それを「たまたま統合出来た人と、出来ない人」というものがあり、
それは、最初から「統合されているべきもの」でもなく、
「統合しなければならないもの」なのでもありません。
たとえば、一休が小舟の上で、鳥の声をきっかけとして、はたと悟った
だからといって、100人の人が同じことをして、悟るわけではありません。
そのように、武術と禅の間に何かしらの、「個人的な事情で」
「個人的な通路」を作ることの「必要性に迫られた人間個人がいた」、
ということにすぎません。
極論すれば、武術をただの徹底した殺人術として訓練することに
私は何の躊躇もありませんし、否定する根拠もありません。
いっぽうで、全くそうしたものとは関係ないところで、
精神性は、独立して精神性として育ちます。
このふたつは、「統合すべきもの」または、「統合されているはず」
というものではなくて、唯一、個人的な事情と背景で、結果として
「その個人の中で」たまたま統合されたということにすぎません。
こういう誤解や、思慮のないことは、
恋愛やセックスで繰り返され続けてきました。
だから、私のセックス指南書の中では、
友愛、恋愛、性愛の3つは、完全に「分けて扱え」というのです。
セックスと愛情は全くの別問題です。
そして、武術と精神性にも、同じような冷静な「分離作業」が必要です。
________________________________________________________
●これに関連して、専門的な話になりますが、
手裏剣の話をしますと、私はずっと以前から、
「うさん臭い」と思っていたひとつの言葉があります。
それは「手裏剣は投げると言わずに打つというのだ」という言葉です。
いかにも、納得しそうで、いかにも、なにやら、秘密めかして、
いかにも、誰もが看板にしたがる、一種の「流行り文句」であるわけです。
しかし、その違いを明確に説明しているものの中で、
私は、納得できる説明など「一度も目にしたことはありません」。
まるで、全員とも「空念仏」です。
誰かとか古人の言葉を、ただ「格好がいいから」とか、
いかにも、「古武術のように聴こえるから」といって
安易に「他人の言葉を拝借したにすぎない」そんな記述ばかり、
私は既存の「手裏剣術」に関する本に見てきました。
私見では、投げと打つ、これには違いなど厳密にはありません。
仮に、私の今のスタイルの投剣フォームを、もしも完全に、
古武術のそれに矯正して修正したとしても、
それでも、それはあくまでも「投げる行為」です。
剣術などの身体動作の原理の「たとえ」として「打つ」という表現を
誰が最初に言い出した「お経」なのか私は知りません。
成瀬氏なのか、それ以前の剣術師なのか、誰が言い出したんでしょうね?
ここにおいても、「個人的事情」が配慮されるべきだと私は思います。
それを最初に言った者は、「その者の中において」は、それは
投げるという感覚よりも打つに「近かった」ということにすぎません。
また剣術をされている方には、そう感じるのかもしれませんが、
逆に言うと、剣術の身体動作では、投擲することが不可能な距離や
不可能な剣や道具、不可能な打法というものがあります。
投剣術は、あくまでも、「投剣術に独特の理論と原理」があり、
剣術とは根本は異なるものです。
それをたまたま、両者に共通性を見出したある個人が
「投げるのではなくて、打つのだ」とでも言ったことが、
あたかも、今日には、手裏剣の基本であるかのように流布されているだけのことです。
私に言わせれば、いかに、きちっとした古流の型で手裏剣を放っていても、
「打つ」などというのは、
「もったいつけた言葉の言い方の問題」にすぎなくて、
あくまでも「投げ」です。
どれだけ剣術と同一であろうが、投げです。
それを「昔からの本に書いてあったから」という受身な姿勢と、
そういう消極的な理由だけで、
「打つ」と言い、また、「では打つと投げるは何が違うのか」と問えば、
回答者から出てくる答えは、
やれ気迫だとか、剣術のようにだとか、まるで「ただの言葉遊び」です。
■第一ですね、気迫など込めて、大上段になど手裏剣を構えて、
格好をつけてなどいたら、
それが「実際の戦場」だったら、上段に構えた瞬間に、
その人は、矢で射抜かれてしまいますよ。
●さて、
ピッチングフォームやナイフスローが「投げ」で、古武術が「打ち」?
そんなものは、形をいかに、古流にしたところで単なる言葉遊びです。
中身も明確でないものを、あたかも「違うと言いたげな言葉遊び」です。
私は普及している一般用語なので、いたしかたなく「打剣」という言葉を
使うことは多いですが、けっこう、うんざりなので、
飛剣術とか、投剣術、または「投げ打つ」ということを増やすようにしています。
中身もないお題目の「打つ」などという言葉を振り回したくないからです。
「打つと投げるの違いが分からないのか」と言いたげな武術家は、
有名無名をふくめて、世の中に、ごまんといるようですが、
残念ながら、私は、誰1人からも、
投げと打つの違いを明確に見てとれる者など見たことはありません。
当たり前です。もともと「分類するほうがおかしい」のですから。
それを言葉の上で分けたのは、あくまでも、過去に存在した特定の
誰かが、たまたま彼の中の感覚では「打つ」に近かったということに
すぎません。
●こういうことから、私は、
「言葉が先にあって、それに振り回されたり、追従したり、
疑いもせずに、他人の言葉を自分の言葉のように語る人達」。
そういう人たちは愚かすぎるので、全く関わりあいになりません。
だから、武術か武道の定義、
または、それと、他の分野とのコラボレーションは、
あくまでも、「個人の中の個人的な問題」であって、
俗世間での一般的な武術教義のようなものに、「仕立て上げる」
ということはよろしくないと思っています。
現代の兵士は、まぎれもなく兵士、
つまり「現代の武士」である「戦士」です。
しかし、実際の現代の戦場では、
礼儀も挨拶もあったものではありません。
どうやって、相手をたくさん殺すかだけが主題です。
「戦い」と「美学」とか「精神性」は、
それがその人の人生の中で、無数の「経験の結果」として、
たまたま結びついた人の中では、そうであるのであって、
結びつかない人の中、または状況の中では、結びつかないで「いい」のだと
私は割り切っています。
つまり、精神性なる曖昧なもものを、
武道の「表札」とか「看板」とか「体裁」とか「世間的な形」として、
結びつけるのが正しいということではないということです。
融合、統合は、あくまでも「個人的事情である」ということです。
手裏剣術と剣術もそうです。
もともとから不可分の一体のものであったのではなくて、
それは元は「全く別のもの」です。
だから無理に剣術だの古武術の術理の中に型にはめる必要などなく、
個々に別のものとして学び、統合したい人だけが
「自分の心身の中で統合」をすればいいわけです。
__________________________________________________________________
●書にも、たとえば、「禅書」というものがあります。
書にも、古典、現代書、創作書、前衛書、
そして最近ではCGで着色や変形をする「書」まであります。
しかし、だからといって、すべての書道家が、禅書を目指すのがいい
というものではありません。
書は、もともとは「文字の美」を追及するのが本領です。
そこに文字の美ではないものを持ち込むのは、これも「個人の問題」です。
何かと何かが結びつくときには、それを結びつけた個人がいたということです。
禅の書など、別の分野の書道家から見れば、ただの汚い落書きです。
いっぽうで、書道家の字など禅から見たら、魂のない腑抜けの文字です。
しかしどちらかが正しいのではなくて「何を目指すかが違う」ということです。
これを「武道」や「武術」にあてはめれば、
武と「礼」すらも、本来は「全くの別物」である、ということです。
たまたま道場の「看板」として掲げると、なんとなく格好がつくからとか、
不良がやってこないとか、門弟が問題を起こさないようにとか、
そういうことで、礼を重んじると言いたげですが、
絶対的に、殺人術と「礼」とは、「普遍化」した形での同居はあり得ません。
だから、「看板が先にあるというのが、そもそもおかしい」のですよ。
これは、学問でも、宗教でも、肩書きでも「何でもそうです」。
もしも人殺しを極めていった人が、あるときに自らの経験として、
その中に、別の精神性や礼節の必要性を感じた、統合を感じた、
そういう生の本物の経験から、その道場主が、礼節や精神性を説き、
自分の流派の要とするならば、
それならば、それは「中身のある統合」です。
しかし、武道とは一般には、こうだと言われているからとか、
誰かがそうだったからとか、そんなことは、他人の猿真似にすぎません。
●だから、私は、もともと人間性が統合されている人が、
武術とそれをたまたま統合した人が道場主をやっているならば、その人の言う
礼や武や美には納得しますが、
とってつけたような形だけの礼節を「着込んだだけ」の武道家など、
まっぴら御免ですね。その偽善、その中身とのギャップに吐き気がしますね。
何ごとも、いかに古人が作ったものを尊重するといっても、
形から入れば、形に従うという、俗説と定説はある意味では「嘘」です。
なぜならば、その「形」を作り出したのは、「元々の中身」です。
呼吸は精神によって変わりますが、だからといって、
呼吸を変えれば精神が変わると考えるのは、非常に低俗な考え方です。
それが、どれだけの効能を実際に持っていたとしてもです。
常に、本当に操作すべきなのは、
現象の「原因のレベル」であって、結果を模倣することではありません。
どれだけ調息の名人になったところで、
彼らは自分の雑念、妄想ひとつも排除できませんから。
それぞれに、何を操作するかによって、
そもそものアプローチをかける次元が、本来は異なるわけです。
________________________________________________________
●同様に、手裏剣術というものを何を目的とするかで、かなりの要素や
物事の是非が変わってしまうというのは、私の変わらぬ持論ですから、
距離をたとえば、4間未満の近距離にして、相手の顔面のみを狙う、
という前提でしたらば、私も「打つ?」という身体動作、または
古流に言われる動きを応用することは有効かもしれないと思います。
しかし、手裏剣は剣術、分銅、その他の武器とは全く異なることがひとつあります。
それは、武器が「手から離れる」ということです。
すなわち、力で「剣に自分の言うことを聞かせる」とか、
中国武術のような「手の延長としての武器」という考え方が通用しない部分があります。
なぜならば、手から離れた剣は、その直後から、
気流や重力などの「自然現象の中」へと「吸い込まれてゆく」からです。
従って、私の感覚では、投げる武器というのは多かれ少なかれ、
その滞空時間と距離が伸びるに従って、
力でねじ伏せるとか、打つという感覚では必ず限界があるというものです。
私が自らの手裏剣を「打つ」といわずに「飛ばす」というのは、
まさに、手離れ以後から剣にかかわってる自然現象と「どう調和するか」が課題だからです。
そのために、考えれるかぎりの軽量物体から、
上は600g近い模擬刀まで投げてみましたが、
全てに共通することは、道具の意識と一体となり、
手にした道具から、学び、読み取り、その個々の道具に合わせた身体運動をしないと、
それらは、決して4間以上の距離から刺さってくれないということでした。
4間という距離は、あらゆる点で、面白い距離です。
そこを超えた距離が出る剣であるか、打法であるかを、
(普通の一般的な手裏剣ではなく)私の検品基準としたのは、
そこから先は、打つとか、気迫の問題ではなく、物理学的な課題が
無数に出てくるからです。
そうなったときには、剣に言うことを聞かせるとか、打つのではなくて、
「剣と魂をひとつに一体化させないと出来ないこと」が沢山でてきます。
手裏剣の距離と目的によってむろん、使用される概念も方法論も
変わるわけですが、
少なくとも、その先の距離というのは、殺気でも気迫でも命令でも、打ちでもなく、
「いかに、力を抜いて、優しく、穏やかに、心を静めて、剣と一つになるか」
ということが、重要性を持ってきます。
そうしないと、いかに工夫を施した剣とは言え、
たとえば、4間距離から、5本、6本、8本もの剣を同時に
刺すことが出来ないからです。
打ちとか、気迫とかは、私の流儀では禁物なわけです。
それは、ほとんど弓道の領域に近いと思っていただければいいです。
そして、そうした、「調和性」を全動因した結果、たとえば、8本同時打ち
などが起きるわけです。
■たとえば、「松の間」の4間からの8本打ちのところは、
「武術的には、全く意味がない」ほど、じっと精神を無心にして、
私が空を見上げたりして、動かない時間が非常に多いと思いますが、
そのように、その空間と一体にならないと、
「ぎりぎりの限界の技」のような領域を、うろつく技は出来ないのです。
____________________________________________________________
●私見では、「言葉の有効性には限界がある」と口にするほとんどの人達が、
そう言うわりには、実に多くの言葉を使って日常会話をし、
論議をし、誤解を作り出し、時には言葉を使って誤魔化し、逃げて、
ということを繰り返してきたのを、
この約50年間の生の中で見続けてきました。
家庭、社会、メディア、ネットの「いたるところ」で、です。
すなわち、言葉についてその効果と限界について、
ほとんど考察したこと観察したこともなしに、
人は安易に「言葉は伝わらない」とか、
逆に「言葉は伝わる」と言いやすいということです。
かなりのご都合主義で、なんでも、レッテルを貼る癖が見て取れました。
そういう人の中のご都合主義があるという観点をふまえ、
その上で、私個人の見解を言いますと、結論としては、こうでした。
「文章が下手であるとか、言葉を使うのがうまく出来ないという人が
いるが、これは全く正しくない」ということでした。
どのような、つたない文、どのような意味のつかみにくい文、
どのような一行2行の言葉にも、その人の「中身」は明確に出る、
というのが私の結論です。
肝心の中身の経験があれば、言葉による表現がどれだけつたなくとも、
伝わるものがあるということです。
逆に「中身がなければ」何万の言葉と専門用語と感情用語を連ねても
全く何も伝わってこないということでした。
嘘を書くような人の言葉の中にすらも、その行間には本音が現れます。
これは、数え切れないほどの手紙(ネットがない時代)の私の経験と
ネットでの数えきれないほどのネットでの議論、
(この場合にも、特定の分野ではなく、恋愛相談掲示板から、その他
専門掲示板、あらゆる分野の人達との対話)や、私信の中で確信したことでした。
伝わるか、伝わらないか、論議が成立するかしないか、
それは、「言葉の限界」に責任があるのではなく、
「その人の経験の中身」、その人間そのものにかかわることだということでした。
従って、私は言葉に責任はなく、もしも伝わらないとしたら、それは
「本人の現実生活の中での経験の未熟さに問題がある」、と結論しました。
●ここで、また、専門的な話に戻りますが、
「投げる」と「打つ」の違いは、簡単に言ってしまえば、
「相手を殺すことを前提にした昔の打法か、そうでないか」
という問題に収束するだろうというのが私見です。
投げるという動作の中に、もしも何段階かのプロセスがあるとすれば、
「打つが目指しているもの」があるとすれば、それは「必勝法」としての
動きの「プロセスの少なさ」です。
甲野氏が、そもそも、なぜあのような論理を組み立てようとしたかの
動機の部分には、「いかにして相手よりも速く斬るか」というものがあります。
つまり「いかにして勝ち」を得るか、
というのが彼の動機の一部にあるわけです。
その結果として、古流の剣術、居合い術でも、
チャンバラ劇などはありえず、抜いてから斬るのではなく
「抜いたら、その時点で斬っていなければならない」わけです。
刀が交わったその瞬間に、
その直後に相手の手首をバッサリと斬り落とさねばならないわけです。
この速度、つまり言い方を変えると「一拍子」で勝負をつける、
この、「もともとは殺人のため」であった概念を、剣術や手裏剣術に
適応しようとする場合には、
それは「投げる」という何段階かのプロセスを経ずに、
構えから、次の瞬間には、事(仕事)が終わっているようにしようと
人間は試み始めます。
その結果が、概念としての投げると、一瞬で打つの違いに、
ある人々の中では、個人的な感覚の違いとして、
また術理の違いとして、たまたま区分けされたのであろうというのが、私の見解です。
●ただひとつ、問題提起をしますと、この私の推測した「打ち」が、
仮に投げとの動作速度の違いであると「仮定」すると、
これは、「剣術では真実」でも、
剣よりも武器それ自体としては、威力の劣る手裏剣術または、
その間合いの距離の差、その他の、いろいろな現実的な要素から考えて、
本当の殺し合いになったら、こと手裏剣術や投擲術に関しては、
「打ち」の概念と、動作速度、一拍子、
これらは、必ずしも、有効ではないどころか、
逆に打剣の姿勢や打剣道具、打剣の方法、打剣から次に繋がる戦略に
「限界を作ることになるリスク」を生むということです。
私は構えから、一瞬にして打つことの(特定の状況設定と条件内での)
有効性は、むろん自分でもやってみた上で、一部、認めますが、
逆に、それは手裏剣術の「可能性を非常に狭める結果となる」ということです。
しかし、逆に、もしも手裏剣術の理を、剣術に生かせないかと考える人がいたとしたら、
私は、厳密にはそれは、違いがありすぎる、と言わざるを得ません。
部分的な意味あいにおいて、たとえば、体の軸とか、その他、
何か「部分的な学習効果を期待して」ということなら、手裏剣術は、
剣術にほんの一部は、還元できることはあるでしょうが、
剣術と手裏剣術、これは、実のところ「全く異なる世界である」と
考えた方がよろしい、というのが私の結論です。
●この点においても、過去からの伝承とか、他者の意見とか、本の知識を
鵜呑みにしてしまっている人たちは、剣術と手裏剣術が、あたかも
何か、相互に関連性や、稽古による相乗効果があるのだろうとしてしまっていますが、
実は、かなり「違う」のです。
無理に、剣術と手裏剣術を統合しようとすると、あきらかに矛盾した問題が出てきます。
統合というものは、
自然に統合されるときには統合されるものであって、
最初から統合されているわけではなく、
統合「されているべきものでもない」ということは既に述べたとおりです。
__________________________________________________________________
●言葉、言語というものの使い方についてですが、
私は禅問答に回答する側、そして読者に対して、問いを発する側、
この双方の立場に立つことも多くありましたが、
相手の意識の扉を叩くために発する側からの言葉の使い方と、
叩かれた立場での、言葉による明確化の際の、言葉の使い方は、
全く別のものとして分けます。
ということですから、たとえば、
今では死滅した「ニューエイジ系」の人種が昔、言っていた
「パラダイムシフト」なる言葉も、
それは、その者個人が、「他者の言葉をどう自分に対して使うか」
という「個人的な事に関係する問題」ではあっても、
それは「通常の対話上で、持ち込まれる問題ではない」のです。
たとえば、
「説明はできるが、弟子のために、わざと説明をしない」というのは、
それは相手への配慮からの意図的な「言葉の調整」ですが、
そうでない、全く通常の対話ないしは、会話の場合には、
「一般的に理解可能な言葉」で対話がなされるもべきものです。
その点で、哲学的課題や、公案ではないものは、
最低限でも感覚なり、概念を説明できるというのが通常のことであると
私は思うわけですが、
(ちょうど、ジャーナリズムやニュースと同じです)
そのあたりの根本からして、
「言葉とは、己のパラダイムシフトのための刺激だ」、
とかなってしまっているような人は、全く話が、かみ合わないですね。
●言葉の機能、もともとの基本的な「有用性」というものは、
一例をあげれば、
病人がタンカが運ばれて、意識がまだあるときに、医師から
「どこか痛くありませんか?」と問われたときに、
「冬の朝のペニスのごとし」と答えることではありません。
相手の力量を見て、相手に努力や工夫や解釈を促すために
「意図して、焦点のずらしを操作する言葉を使う」というのは、
それは、「師弟関係においてのみ」であって、
そのようなものの一切存在しない、掲示板や、日常会話では不要のことであり、
私は「特殊な人との対話」を除いては、
一般的な掲示板では、日常会話の形式以上のことをしようとはしておりません。
(その必要が全くないからです。)
またテーマも、特にそれほどに哲学的でも禅的でも全くありません。
しかし、動物たちでさえも、「意志や状況説明の連絡」として
言葉や鳴声や合図を使うのが、コミュニケーションの目的ですから、
色や形を現す言葉のように、ある程度「共通する言葉で伝達」できるものは、
武術や宗教に限らず、特に「科学や法律」では、
主観から客観まで、多くのことに、その、
「単なる一般的な言葉の有用性(伝達性)」を適応できます。
その伝達の可能性と努力を、人間関係と社会生活の中で、
すべて「使い尽くした上で」、
「最後の最後の最後に」行き着くものが、
「全面的に、相手のことだけを、配慮した言葉」を投げかけるという行為です。
私の考える、こうした通常の対話、ないしは、言葉というものは、
話をしているテーマに関わらず、
聞き手とか、誰かが、その言葉に、
いちいち「新しい発見や解釈」を、必要としなければならないようなもの
ではありません。
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●というわけですから、武術の世界であれ、宗教の世界であれ、
「古人」が残した「言葉」、特に「短い格言のようなもの」は、
取り扱うときには、
私は、それを数種類に、注意深く「分類」をしています。
>1/
その本人が、後世のことを配慮して発した、凝縮された一句。
>2/
その本人にのみとって真実となる、本人のぎりぎりのところから
出てきた言葉であるが、
当事者ではない「他者には全く意味をなさない」ような(非普遍的な)一句。
>3/
実は、謎めいたことではなく、明確な論理背景があるにもかかわらず、
当事者または、後世の者が「歪曲」してしまった言葉や句。
>4/
当事者でもないのに、その句自体が、他の分野の他者の言葉を、
単に、受け売りして、後世に伝えられたもの。
たとえば、禅師の言葉を勝手に受け売りしただけの剣術士など。
このうちの、3と4、そして2に対しても、その言葉の由来について
自主的に疑い、考え、あくまでも、
「その言葉が発させられた背景を推察すべき」というのが、私の見解です。
真に「道標」としても価値のあるものは、「1」のみです。
しかし、時には、希に「2」の中にもあります。
それは本人は意図せずに発したが、
(ある段階の人にとってのみ)、普遍性を持ち得るような句です。
その点で、武術にせよ、芸術にせよ、宗教にせよ、
「伝承された言葉」というのは、厄介なものです。
多くの人は、それを自分の身を持って検証しようとせずに、
無駄口をたたいて人生の時間を無駄にします。
そうした古来からの言葉には、まがいものや歪曲されたものも大変に多く、
本当に自分の生涯の時間を犠牲にしてでも、
一生取り組むに価値あるような、
「本物の宝石のような一句の言葉」を発した者、
またはその言葉を見つけること自体が、
草原の中から、一本の金の針を探すようなことなのです。
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●話は、全然、違いますけど、
こういうこと、ちゃんと疑う頭って、
日本のマスコミや、「テレビでは規制があるからだ」とか、
ジャーナリストにあるまじき、みっともない言い分けをして、
「一般論しか、しゃべれないようなジャーナリスト」には、皆無ですよ。
↓
>「約1年前より、ブッシュ政権は北朝鮮が米ドルを偽造していると主張し、
>これが現在、各国によって行われている対北朝鮮経済制裁を発動する際の根拠となった。
>しかし、そもそも極貧の北朝鮮に、
>米国すらも驚愕するような偽札を作りあげる能力があるのだろうか?
>――ドイツの有力紙であるフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング
>(Frankfurter Allgemeine Zeitung)の元特派員で、
>紙幣専門家であるクラウス.W.ベンダー氏は、
>今年5月に刊行した著作『マネーメーカーズ』でそうした疑問を投げかける。
>それでは一体、北朝鮮以外の誰がそうした精巧な偽米ドルをつくっているというのだろうか。
>確信を持ちつつも、用心深く、ベンダー氏は米国・ワシントンの北部を指差すのである」
>要するに、「北朝鮮による偽米ドル作り問題」とは、米国による自作自演の疑いがあるというのだ。
>このことが「真実」であった場合、私たち=日本の個人投資家が持っている「世界観」は
>ものの見事に崩壊するであろう。なぜなら私たちはこれまで、
>「北朝鮮とはリスクであり、そのリスクから救ってくれるのが米国である」と
>マスメディアを通じて思い込まされてきたからである。
>その「救世主」こそ、「地震源」であるとは、まさに悪夢のコペルニクス的展開としか言いようがない。
>個人としての投資のみならず、安倍政権の下、「国家全体」としても
>ブッシュ政権率いる米国に「賭けて」きた日本人としては、
>もはやあぜんとして立ち尽くすしかないのだ。
「ノイエ・チューリッヒャー・ツァイトゥング」
チューリッヒで発行されている伝統あるドイツ語新聞より。とあった。
詳細はここ参照。
↓
http://biz.yahoo.co.jp/column/company/ead/celebrated/person5/column_person5.html
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