▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
島流しリンク
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
★
「竹の間自薦投稿集」
★
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[3645]
■
禅問答の何人かの方の「回答例」です。
by:
崩残
2006/12/24(Sun)04:05:12
■
虫食い問題の方は、
いうまでもなく、
仏でもない者には、仏を見つけることすら出来ない、
仏に触れることすら、出来まい。
だから、仏に遭い、仏を殺すためには、
何よりも、「自分自身が仏であらねばならない」。
よって、この答えは、
>仏に遭うては仏を『現し』
>祖に逢うては祖を『現し』
が正解である。
この『現し』の部分は、『仏を映し』『祖を映し』でも、よろしいです。
____________________________________________
母子己の三人斬りの回答は以下の通り。
>>母親の言葉を聞いた侍は、こう答えた。
>よかろう。
>ただし拙者は、生きた者を斬るのは好まぬ。
>だから、お前たちが息絶えるのを、ここで、とっくりと見物させて戴こう。
>そして、お前たちが死んだら、まるで獣が食いちぎったかのように、
>ズタズタに斬ってやる。
>そう言うと侍は、刀を抜くと一振りして、その切っ先を母子に
>つきつけ、ニヤニヤと不気味な笑いを浮かべた。
>そして、侍は、
>母子が屍になるまで、ときおり、くすくすと、不気味に笑いながら、
>ずっとそこに、座り込んでいたのである。
__________________________________________________________
●これが正解の一例である。
どうして、こんなものが正解なのか?と、
それが、分からない人が大勢いることでしょうね。
だから、注釈をつければこうなります。
____________________________________________
侍は、この言葉と非情な態度によって、
母子が苦しみから逃れたい、死にたい、という、
「自分たちを殺して欲しいと願う気持」を、斬ったことになる。
一方で、母子は「なんという情けのない侍だ」と絶望し、
その君の悪い態度と言い分を聞いて、
その侍の非情さを呪いさえするだろう。
その母子の恨みの心が、すなわち、侍を斬ったことになる。
(どうしてこれが、斬る事になるのかは、後述してあります)
かくして、死ぬことが確実な瀕死の母子から、
呪われ、人として非情と思われる、その「不名誉すら」をも、
いささかも怖れることもなく、
しかも殺生をしない、唯一の方法が、これなのである。
●ちなみに、母子が死したあと、
侍は、その亡骸を一切傷つけることなく、
そっと、その場に丁重に埋葬したということである。
侍は、手を合わせ、
「つらい思いをさせたが、私の真意は、死んでから知りなされ」
そう心の中で呟いたのである。
瀕死の母子からは、鬼、悪魔、死神のようだと呪われる事も覚悟して、
そして、また死にゆく者を、ありのままに直視する。
こういうことは、
自我を捨て、心情的な情けも捨て、
善悪へのこだわりも、すべてを捨て去った者でなければ、
決して出来ることではないのである。
この回答のポイントは、
侍が、「自分のことを相手に呪わせるような言葉を言った点」である。
そのことによって、自分の中の「人」をも斬ったという部分である。
ただ、単に、死が迫っている母子の死を、言葉をかけてそのまま去るとか、
あるいは、「優しく、あるいは悲しく看取る」程度のことなら、
そんなことは、「どこの誰にでも出来ること」である。
しかし、この侍は、
「誰も、お前さんらを、
その苦痛から、救ってなどはくれないのだ」という、
「仏法の本当の現実」、この世の「実相」をもってして、
母子の死を待つ「野犬や昆虫のような姿」にすらも、
自由自在に、変化(へんげ)することが、出来たのである。
相手に、どれだけ非情だ、異常だと非難され、呪われても、
「苦しいから殺してくれるようにと他人に頼む」
などという甘えは、「仏法では許されない」、ということを、
侍は、そこで自分の身をもってして、その母親に教えていたのである。
●また、殺してくれと「殺しを頼まれる側の人間」が、
仮にそこで苦しみから解放してあげるために殺したとしても、
その後の、その相手は、殺したことを後悔しいたり、悩んだりしないのか?、
そういう、殺しを頼まれる相手のことを全く配慮できなかった、
その母親に対する「戒め」でもあるのである。
どれだけ自分が苦しくても「行きずりの他者に、自分を殺してくれと頼む」、
そのこと自体が、そもそも他者に対する配慮がなく、身勝手で、迷惑な、
「道を踏み外した言動」なのだから。
人間以外の自然界の動物たちは、何に看取られることもなく、安楽死させて
もらえるわけではなく、
皆、ありのままに苦しんで、死んでゆくのだから。
だから、3人とも斬るには、ほんの一振りで充分なのだ。
すなわち、
仏や祖師に逢ってもそれらを殺す為には、
まず「おのれを殺しておかねば、彼らを見る事すら出来ない」
ということです。
●
____________________________________________________
・追加・
虫食いが、不正解だった人は、その理由を知るために、
原文をよく読んでください。
↓
>突如そのような別体験が働き出してくると、
それこそ驚天動地の働きで恰も蜀の劉備の家臣で、
天下に豪勇を轟かした関羽からその得意の大刀を奪いとって、
自分の武器としたようなものだ。
>「無」の一字の別体験こそは、
釈迦にあっては釈迦を殺し、達磨にあっては達磨を断って捨てるのであり、
↑この黄色で表示したところです。
つまりここで語られていることは、
「悟りを得ると、どうなるか」ということであって、
悟りを得るための「方法論」ではありません。
悟りに至るため、または小悟をさらに磨くための方法を示唆しているのであれば、
それは、「仏という妄想を殺しなさい」となりますが、
ここで語られているのは、すべて、
「悟ったらば、という前提」での話です。
よって、そもそも、釈迦や祖師を「自分の妄想として殺すべきもの」として
考えること自体が、しょっぱなから大間違いであって、
それ以前に、そんな事では、殺すどころか、
彼らを発見したり、見ることすら出来ないということです。
しかも、
>六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる。
といわれているのに、
どうして釈迦や祖師など「殺さねばならない」のですか?
ようは、ここは、「彼らと戯れられる」という事を言っているのであり、
そのためには、そもそも、既に自分と仏が不可分である必要があるのです。
対象として仏を考えた時点で、アウトです。
だから、答えは、「仏を映し」または「仏を現し」です。
仏に会ったら、
「普段は相手にとっても必要がないので隠してある仏の資質」を、
相手が仏となれば、自分もそこで自然に現すか、
または相手の仏を自分の仏とが共鳴されて、
「映し出せ」と言っているのです。
ここを殺しとしたのは、原文の著者の、
完全なる「ひっかけ」です。良く言えば「言葉の悪乗り」です。
一方の「方法論」とは、それは、後半部分に出てくる次の部分であり、
死人禅で言うところの闇の瞑想の「本質部分」のことでもある。
↓
>八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、
>この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。
>日夜この問題をとって工夫してみるがよい。
>一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、
>ちょうど熱い鉄丸を呑みこんでしまって吐くこともできず、
>呑みこむこともできないようなもので、
>このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、
>まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落してしまうがよい。
________________________________________________________
Aさんの正解。↓
>母親「・・・どうか私達親子を、ここで切り捨てて下さい。」
>侍「わかった。では、あなた方が自然と息絶えるまで、私はここで見ていよう。。。」
>そう言うと侍は親子の傍らに腰を下ろした。
><解説>
>子供については心情が語られていないので私の誤解があるかもしれませんが、
>設定上、母親と似たような心情であると仮定いたします。
>この侍が斬ったものは親子の「肉体を殺せば楽になる。」という想い(迷い)と、
>侍自身の「この親子を楽にしてやりたい。」という想い(迷い)です。
>この三者のエゴを斬りました。
>もちろんこれでは即死など出来ないでしょうが、とにかく斬るには斬りました。
>もしかしたら一刀両断で即死させる方法もあるのかもしれませんが、
>今の私ではこれが精一杯で、実際私がこの侍ならこうするでしょう。
>傍らに腰を下ろした理由は、
>その場を離れてしまうとほかの事に気を紛らわされてしまいそうなので、
>自分のエゴが死にゆく苦を、できるだけ十全に経験して、その死をなるべく邪魔しないためです。
____________________________________________________
●この最後の斬り方の部分、
>侍自身の「この親子を楽にしてやりたい。」という想い(迷い)です。
ここが私とは、だいぶ違っていました。
この正解者は「侍自身にある、相手を楽にしたいという迷いを斬るため」とありますが、
私の回答は、「侍自身には、迷いは一切なく」、
よって、それでも自分を斬るためには、
自分の中には斬る迷いすらもないので、
「相手の母子の心の中で自分を斬らせる」、
という方策を取ったのです。
その詰めの部分の違いが、ありましたね。
Aさんの二つめの回答↓
>ひとつめの問答の答えを追加いたします。
>>母親「・・・どうか私達親子を、ここで切り捨てて下さい。」
>侍は(しばらく考えたのち、、、)「よしっ!!」
> と言い、母子の遺体を埋めるための墓穴を掘り始めた。
>母親は、「お侍様、なぜ斬って下さらないのですか?」と訊くと、
>侍は「何を勘違いしている?
>安心しなさい、私はとっくにあなた達を斬りましたぞ。」
>といって、墓穴を掘り続けた。
><解説>
>私の思惑は、基本的には前回と同じですが、対応を変えてみました。
>傍らに座ったままでもよいのかも知れませんが、墓穴を掘る理由は、
>そのほうが母子が自分達の死をより意識できるかもしれないと思ったからです。
■Aさんへ
母子の傷口に、「あえて、塩を塗るようなことをする」。
そこまでは、母子を斬ることになるので、いいのですが、
これでは、肝心の「侍が斬れていません」よ。
>そのほうが母子が自分達の死をより意識できるかもしれないと思ったからです。
これを始めると、「説教したいエゴ」の傲慢さだけが目立ち、
野狐禅、まっしぐらです。
侍は、どうやって己を斬るかが、失われています。
前のよりも悪いですね。
虫食いは、あいかわらず、不正解です。
もう、dvdは大予言経由で、そちらに送りましたので、
休んでいてください。
前にも、Aさんは、しつこくやって、墓穴を掘りましたので、
「引き際が肝心」です。
実生活でも、同じこと、してませんか?(笑)
______________________________________________
次はBさんです。
>崩残さん、はじめまして.
>いつも竹の間HP、拝見しています。
>早速ですが、禅問答の私の回答です。
>問1.
>>母子:「お侍様、御願いですから、その御刀で、私達を斬ってください。
>> もうこれ以上、苦しみとうございません。
>> 後生ですから、どうか私達親子を、ここで切り捨てて下さい。」
>侍 : 黙って刀で自分の髷を切り落とし、
> 「好きにするがよい・・・・・・・・。」
>髷と刀を地面に置いて立ち去る。
>三者同時に斬るといっても、肉体的な「死」ではなく、精神的な「死」ととらえます。
> 母子が「ここで切り捨てて下さい。」と嘆願したのは,
>通りかかった者が侍だからで、刀を持たない農民や商人だったら
>「切り捨て」という「他力による死」は望まない。
>母子が、「切り捨ててください。」と嘆願したにもかかわらず、
>それを拒否することで、侍は、母子の望み(欲望)を斬り捨てた。
>↓
>侍は、自分の髷と刀(自我)を斬り捨てた。
>↓
>よって、母、子、侍、3人同時に斬り捨てた。
>※ 最終的に、「人為的に死ぬ」も「自然にまかせて死ぬ」も、
> 決めるのは母子。
>問2.
>仏に遭うては仏を【 映し 】
>祖に逢うては祖を【 映し 】
>相手(対象)が仏であるとか祖であるとか思うのは、
>それ自体が仏や祖なのではなく、「仏だ、祖だ。」
>と感じた自分自身(自分の意識)が仏であり祖だから。
_______________________________________________
●親子の斬り方は、まーまー、いいのですが、
侍の斬り方は駄目です。
>>三者同時に斬るといっても、肉体的な「死」ではなく、精神的な「死」ととらえます。
●これはむろん、そういう主旨の問いですから、この解釈はいいのですが、
>>侍は、自分の髷と刀(自我)を斬り捨てた。
この部分が「いまいち」です。
もう1人の正解90%の人も、ここでつまづきました。
●ただし、もうひとつの回答は、正解です。
「映し」でいいです。
従って、訂正した「捨て」は不正解です。
最初のでよいのに、どうして、訂正などしたのでしょうかね?
やはり、侍の中に「自我」があることを、
当たり前の前提にしていたことに誤りがあるようです。
それでは。
今回の半分ほど正解ですので、一例として、
後日、竹の間で使わせて戴きます。
__________________________________________________________________
Cさんの回答
>>「お侍様、御願いですから、その御刀で、私達を斬ってください。
>> もうこれ以上、苦しみとうございません。
>> 後生ですから、どうか私達親子を、ここで切り捨てて下さい。」
>武士は刀を抜いて言った
>「この刀であなたの体を切り捨てることはできますが、「苦るしみから救われたい」
>というあなたの心は切り捨てることはできません。
>私が見るに、あなたたち親子は長くは持ちません、いっときの時間しか残っていません。
>あなたたちが亡くなったあとは、私はこの刀を売りお金に替え、近くの寺に葬り
>供養してあげたいと思います・・・・・。
>武士は刀を捨てて母に近づき聞いた・・・
>あなたの名は?、子供の名は?どこから来たのですか?・・・・。
>しばらくして母子は息を引き取った。武士は約束どうり刀を売り(武士を捨て)
>亡骸をねんごろに葬った。
>>-------------------------------------------------------------------
>解説
>「母、子、己、この三者を、同時に、一刀で、斬ってみよ」
>この問いに対する疑問
>?母子の願いを聞き、二人を切り捨てるのはいいとしても、
>何故自分まで切らないといけないのか?自分は死にたくない。
>?私の手で母子の命を奪わなくても数時間後には必ず死ぬことは分かっている。
>苦しみを早く終わらせたいという気持ちは分かるが、
>今死ぬか数分後に死ぬかの違いであり、苦しむ時間に大差はないのではないか?
>へたすれば今以上に苦しむかもしれない?
>よってこの場合は三者の肉体の命を切り捨てることではないと考えられる。
>では何を斬り捨てるのだろうか
>「同時に、しかも一刀で」となると、それはこの三者に共通したものでなければならない
>もし 私がこの武士ならば、その場に立ちすくみ何も出来ずに悩むと思う。
>母子を見捨て、見ぬふりして立ち去ることも出来るが、あとで後悔するだろうし
>母子を刺しても納得できないだろう、
>母子を殺して自分も自害してもどうにもならない。
>自分は何もできないからと言って、自分だけが先に死ぬのでは本末転倒だし
>どんな言葉をかければいいのかも分からないし、
>どうしたらすべてがうまくいくのだろうと考えても答えはでない。
>そして最後に私はこう言うと思う
>「この苦しい進退極まった状況から逃げたい救われたいというのが自分の本音だ」と
>またこの母子も何時まで続くかわからない苦しみから、
>逃れたい救われたいというのが本心だろう
>だとしたらこの三者に共通する者は「救われたいという自分」ということになる。
>母は「その御刀で」「救われたい私」を切って下さいと言っているのだから
>武士は刀を使って「救われたいという者」を切らなければならない。
>それで武士は刀(武士の魂)を売り武士という立場を捨てて、
>この場で自分にできる最善のことを果たした。
>武士は母子を救おうとはしなかった、自分が救われるためにという思いもなかった
>救われないといけない苦しみも三者には存在しなかった。
>刀を捨てることによって一刀で切り捨てたのである
>>--------------------------------------------------------------
>>「仏に遭うては仏を【見る】、
>> 祖に遭うては祖を【見る】、」
>仏を目前にして、持ったものが芥子粒ほどでもあれば、
>そのフィルターをとうして見るから違うもの(妄想)を見てしまいます。
>何かに囚われた者はありのままに物事が見えない。
>この句の時点では、関門なき関門を通過した後のことであって
>「囚われないとか捨てるとか」はもうやり終えたのであるから、
>仏に遭えば仏を見ること(ありのままに見る)ことしかできないのです。
>私の中に観念的な仏はもういないということです。
_____________________________________________________
おおむね、大筋はいいのですが、
他の何人か方も、この「母子の問題点(エゴ)」には気がついたようです。
しかしながら、90点だった答えの人すらも、最後の詰めが甘いのです。
分かると思いますが、救われたいという、母子の煩悩を切るのは、
実に簡単なの事なのですが、
問題は、「武士の自分の斬り方」です。
それ以前に、はたして武士に、そもそも斬るべきものがあるのか
ないのか、その前提によっては、
斬るものも、斬り方も全く違ってきます。
この3者では「迷いが共通している」というふうに見てしまった人達は、
母子までは、切れたのですが、
侍が切れないか、半分胴体が繋がったままになっています。
おおむね、45点といったところです。
●もうひとつの「見る」については、解釈はおおむねそれでもいいですが、
見るというのは、なんとも、「消極的」な心境です。
むろん、正答は、斬るでも捨てる、でもありませんが。
見るという以上に、もっと仏と自在に「戯れること」です。
>この句の時点では、関門なき関門を通過した後のことであって
>「囚われないとか捨てるとか」はもうやり終えたのであるから、
↑
この着眼部分は、全く正しいです。
他の不正解のほとんどの人が、
まだ迷いの中にいる者のことだと勘違いをしていましたから。
原文に、ちゃんと、「その境地になったらば」と、書いてあるにもかかわらず。
しかし、だからこそ、そこまで分かっていたのに、
「仏を見る」では、花と「粋」がないですね。
回答はいずれ、竹の間で、他の方の回答と併せて
掲載させて戴きます。
そちらのものは、完全に不正解ではなく、完全に正解でもないので、
解説の中で、匿名で、使わせて戴きます。
_____________________________________________
Dさんの回答。
>武士は、
>「すべてを捨てて、私の中に、飛び込んでこい。
>これが、私の武士としての最期のひと振りだ。」
>と、言って、母と子の間に横になった。
>三人は〈川〉の字のように、横たわった。
>そして、三つの死〈し〉となった。
>《解説》
>母と子が武士の中に消え去り、武士も己自身を墓場とすることで消えます。
>後半の部分は、川という動体を三人の死に見たてました。
______________________________________________
正解ではないのですが、
ここが、
「なら、お言葉に甘えて、私も、【三途の川】に入れていただこうか」
で横たわると、かなり「落語的な、バント・ヒット」ではありました。
野手の意表をついたヒット、という意味で。
しかし、そこまで、遊べなかったのは、おしいです。
「し」の川では、こじつけの絵柄としても苦しいですが、
「三途の川」だったら、笑いは取れましたね。
しかし、正解ではありません。
しかし、侍の「心境」の在り方としては、
けっして、遠くはありません。
ふたつめは、はずれです。
_____________________________________________________________
以上、私の回答の「一例」と、4人の方の回答を載せました。
むろん、他にも沢山の方からメールを戴きました。
お手元に、今回の皆さんと同じ視点の正解のある人もいます。
何かしら私が「感じたもの」のある回答には、ここでは掲載は
しなかったものもありますが、全て個別に返事を書きました。
さて、・・・・・・・・・
●
これまでの回答を読んで、ひとつの疑問がある人がいるかもしれません。
つまり、侍がそもそも悟っているのだとしたら、
その侍は、どうやっても、他者からも斬れず、
自分でも斬れないのではないか?、という疑問です。
むろん、自分で斬ることは不可能。
となれば「他者に斬らせる」しかありません。
しかし母子、特に母親が「この人は、狂人だ。ひどい奴だ」
と恨んだぐらいで、侍は斬られたことになるのか、
という疑問がある人も中にはいるかもしれません。
これについては、次のようにいえば、「理解の早い人」
あるいは悟りの「経験者」ならば、すぐに分かります。
>ブッダというのは「不死身ではない」。
伝説によれば釈迦は、その最期は、食の毒にあたり、
和尚はタリウムで殺された。
彼らは本性は無傷でも、その体や本性より下る次元の身体、
たとえば、エーテル体などは不死身ではない。
ブッダたちのことを「何があってもなんともない不動心の人達だ」
と妄想するのは、
実際に悟ったこともない人達の勝手な言い分であると言うことです。
よく言われる不動心というのは、ただの「死んだ、堅い心」に過ぎません。
●あまりにも微妙な違いであるために、外部からは認識されないことですが、
この不動心(正しくは心ではなくて、意識の不動軸)が形成されやすいのは、小悟です。
これは、全く平安な状態てあり、そこには不安もありませんし、
実際に、人畜無害ですから、
そこに何百年でも永く留まることになるケースが多いということは、
「虚無の微笑」の本にに書いたとおりです。
しかし、次を通過すると、状況は「一転」します。
それは、かつて他者の意志に心が翻弄されていた迷いの時期にあったものとは
「全く異なる意味」で、「外部に完全に同化する」ということが起きます。
悟りの世界では、言葉の限界がここにこそあります。
つまり、
>同化しつつ、同化しない。
>同化しないが、同化する。
そういう心境、そして心境に留まらず、実際問題としての状態です。
ここが同化可能な範囲、
つまりこの外部の受容の範囲というのを決定するのは、
それまでに、その人が生きてきた「経験内容」にも左右されます。
その点で、小悟の段階で停止すると、下手をすると、
他人の無意識の望みを反映するような行動を取る危険がある、
ということを、私は「虚無の微笑」の「あとがき」で書きました。
このあたりの「微妙かつ、大きな違い」が、小悟と中悟のギャップです。
いずれにしても、悟れば悟るほどに、
>それは、ある部分では、以前よりも壊れやすく、
>デリケートになるということです。
全く何にも乱されることのない境地の次元がそこに明確にある一方で、
以前にも増して、壊れやすくなり、また傷がつきやすくなる
そういう別の次元が、あやうく「共存している」ということです。
これを知らない愚者たちは、ブッダたちを「不死身」だと
「妄想」をする。実際に、そういう妄想によって多くの人達が、
迫害や殺害に遭いました。
しかし、母子に恨まれただけでも、充分に傷がつくほど、
彼らのある部分の次元身体というのは、
「繊細なものに変化している」のである。
彼らは法を説くときに、無傷ではない。
まさに、血を流しながら、誤解と偏見と呪いを受け、
それでも、一握りの比丘たちの為だけ道を示し、
絶対に、仏法を民衆化したものに、ねじ曲げることをしないのである。
●だから、
この侍の「後日談」というものがもしもあるとしたら、
さしずめ、それはこうなるだろう。
>その侍のその母子に対する態度を、通りがかりの村人が見て、
>その村人の流した噂によって、その侍は、
>武士からも非情とそしられ、人々からは、「気違い侍」と呼ばれ、
>行く先の村でも、石を投げられて、
>それが元で、彼は失明しました。
・・・という事にでもなるだろう。
______________________________________________________
彼らはいかにその「意識」が無傷でも、その「身体までは無傷ではない」。
そうした、不当な不名誉、誤解からの偏見、
人々の無知、罵声、
そうしたものを、自ら進んで受けても、
「真剣な修業者だけには、道を説く」、という覚悟をした時点で、
充分に彼らは、ズタズタに斬られているのである。
世界中の、エゴまみれの亡霊たちから。
そうやって、魂は全く斬られねども、
その肉体が斬られ、死んでいったブッダたちが、
どれほど多かったことかは、知る人なら知ってのとおりである。
何があっても「この本性は無傷だ、ゆるがない」を口にする者は、
ただの小悟である。
それでも、「つくところには、傷がつく」というその「現実」を
知っている者は、「その先に踏み出した者」だけである。
ただし、その先は、普通に言うところの他人の影響を受ける
というのとは、全く次元の異なる「影響」の世界である。
しかし、その両者の違いは、悟っていない人、
または小悟の段階の人達には、区別が決してつかない。
その次元は、自分自身が経験する事でしか、
体験としての理解は、決して出来ないのであるから。
●
___________________________________________________________
●といったわけで、今回は、本当に、2名ほどを除いては、
ほぼ全員が、本当によく、考えた答えでした。
全くの不正解の人もいましたが、それでも、
侍を「自分のこと」として、置き換えて、取り組んでいました。
以前の禅問答のような、パッと派手な注釈も、遊び心もない
地味な問答となりましたが、
私の記憶するかぎり、最もいい回答者だけが集まりました。
回答を下さった方には、
本当にこちらこそ、皆さんのお時間を割いてしまい、申し訳なく思います。
●ただ、最後に一つ言いますと、
私は侍と全く同じことを、「現実の世界」でやりました。
その本質においては、それは、侍と、全く同じことでした。
それが「虚無の微笑」の後半です。
そして、それは今でも、行われています。
ただし、それは、今回は、
「特定の誰か」とか、特定の「修業者個人」に対してではなく・・・。
_______________________________________________________________
●クリスマスイブともなれば、ご家族や、恋人同士で過ごす方も
多くいらっしゃると思いまして、
せっかくの年末の日々を、
問いなど抱えたままで、過ごすのはよくありませんからと思いまして、
少し予定よりも早かったですが、回答例を出しました。
それでは、良い年末をお過ごしください。
重ねて、言いますが、信頼の元に、個人情報を記して、
きちんとした形で、思索を重ねた真剣な回答を戴いた多くの人達に、
本当に、感謝いたします。
竹の間をやってきて、良かったと、しみじみと想いました。
私自身が、今回は、本当に良いものを、皆さんから見せて戴きました。
■
左右ともに、左の字が「無心の書」、右の字が「無無心の書」です。
↓
部分拡大。
↓
______________________________________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(3645 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -