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似たようなケースの「逆説」のひとつ。
by:
崩残
2006/12/25(Mon)07:56:27
●さて、そもそも今回の問答、事の起こりは、禅の世界からではなく、
新陰流の極意書に、その文言がかかれていたことが発端であることは、
最初に言いました。
それがどのような誤解や弊害をもたらしたのか、実害については
私は知りませんが、いずれにしても、人間というのは、
聞きなれない斬新な言葉に対しては身勝手な自分に都合のいい
解釈をするか、または拒否するという反応しか起こしません。
●さて、この「仏に遭うたら、仏を殺し」と似たような構造の文言を
皆さんはよくご存知のはずです。
「仏を殺し」とは、全く正反対の「極」に位置するが、
いわんとすることは似ていると言ってもいいものです。
それは、親鸞の
>「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。
●このようなことを言った宗教は、それまでどこにもありません。
すべての仏教は、それまで、善人は極楽へ、悪人は地獄へを
民衆に対する恐喝として利用、それこそ、
何何をすれば、地獄へ落ちるということを鼻高々に坊主どもが説いていたわけです。
ところが、革命児の親鸞は、まっこうから、それに反するようなことを
言い放った。
「善人が救われるのであれば、悪人はなおのこと、救われる(べき)だろう。」
と。
これを皆さんの頭、そんな簡単に理解したり、そうだそうだなどと言える
ものではないのですよ。
そして、その誤解の結果が、それを大乗的な慈悲だと、
全く大きな勘違いをしてしまったことです。
それが元で、親鸞というのは、ある意味で、誤解されたままで民衆化し、
自分は罪人で悪人なのに、それでも救われる宗教とは、なんと、
慈悲深いのだと、「とんだ勘違い」をしてしまったのである。
この顛末、この本当の意味については、既にEOシリーズに
書かれていた通りです。
それは、直接に、罪人とか悪人とか善人を意味するのではない、と。
______________________________________________________________
●さて、これとは反対側に位置しているのが、
今回題材にした「仏を殺し・・・云々」である。
察しのよい読者ならば、この二つは共に、
「無分別」のことを言わんとしていることはわかるはずである。
親鸞の場合にも、
何も、悪人を賞賛しているわけでも特別視しているわけでもなく、
極論すれば、「善人も悪人もいない」「どっちにもかかわるな」
ということである。
となれば、この「仏を殺し」もまた、殺しという言葉が、
実は、まったく逆の意味を同時に持っているということになり、
同時に逆に意味を持つ経典の文言というのは、
その本質は、「その2極のどちらでもない」というのが、
賢い人達の、経典解釈の、目のつめどころなのである。
しかも、ここでは、原文では、
既に「悟った場合には」という前提です。
となれば、そもそも、悟った意識が、なぜ仏など殺さねばならないのか
となると、矛盾が出てくるわけです。
また、仏というのは、ここでは仏や祖師「という妄想を捨てよの意味でもない」ことは
明白です。
●そこで、あなたがもしも悟っていたと「仮定」したらば、
もしも仏を見たり、遭ったらどうなるであろうかと考えればいいのです。
ここで、この「仏を殺し」の禅語の「最大のトリック」は、
皆さんは、これを読むときに、
「動詞形」だと、すぐに思い込んでしまったことです。
「殺し」というのを動詞としてみてしまうと、
殺す主体である、「殺すあなた」が出てきてしまう。
それは、あなたが「やる」殺しになってしまう。
●しかし、よく想像してみてください。
悟った人が、一体どうして、いちいち、対象物を、
生かしたり、殺したり、など「しなければならない」のでしょうか?
そんな必要はありませんし、第一、そんなことは彼らは「していません」。
そこには、「殺す主体などない」のです。
ということは、同時に、「生かす主体もない」ということです。
●したがって、最も厳密な日本語でここを意訳するならば、
「仏に遭うては、仏を殺すことが【起き】・・・」です。
そして、よく、覚えておいてください。
この「仏」の部分は、祖師であろうが、母子であろうが、
あなたの上司であろうが、妻や夫や子供であろうが、同じです。
ここは対象ですから、任意のnは、何でもいいのです。
そして、それと同時に、
「殺す」の部分は「生かす」と、全く同一のものを意味します。
すなわち、悟った者にとっては、
殺すも生かすも、その分別すらもないのである。
もしも、結果として相手を生かすという世間的な形になれば、
それは、周囲から「何何に遭って、何何を生かした」という結果に
たまたまなる、というだけの話であり、
もしも、結果として、相手を殺すという解釈をされる形になれば
それは、たまたま、結果の形としてそうなったということにすぎない。
では、主体である侍、あるいは仏はどうか?となれぱ、
そもそも彼らには、
殺すという観念も、生かすという観念すらない。
だから、厳密には、「仏を殺すことが、自然に生じ」または、
「祖師を生かすことが自然に生じ」ということである。
●だから、彼らは、
自分自らの判断で、相手を斬っているのでもなければ、
自分を切っているのでもない。
何かを仏だとも認識もしていない。
その「生かす、殺す」という観念に対する最大限の、
「無分別」を現す表現が、
「殺す」という、極端な「謎かけ」として残されたのである。
それは、本当によく、親鸞の言葉と酷似している。
親鸞の場合には、「殺す」ではなく、「往生」という言葉を使った。
真意であるところの「分別するな」、
どちらも「本性には関係ない」、
という、その「全くの自由無碍の境地」を表現しようとして、
無門関では、臨済宗らしい逆説として「殺す」と書いたのである。
●ようは、ここの本質は、「殺す」でも「生かす」
その「どちらでもない」のである。
殺すとか生かす、そういう区別に囚われる者は、
殺すという言葉の「異質さ」だけに囚われてしまう。
そうした囚われた者が、その分別を超える悟りを実際に体験するまでは、
あれこれと悩み続けるだろうということを見越した上での、
これは「策略」なのである。
そして、実は、親鸞の言葉もそうであったことを
忘れてはならない。
それは、往生とか悪人救済の「慈悲を意味しているのでは全くない」。
少なくとも、悟って、ある悟りの段階にあった彼の中の側から見れば、
そもそも、そこには、善人も悪人も、区別が「彼の意識にはなかった」
という「個人的な視点」から、彼は、それを言ったのである。
だから、
この無門関も同じく、その悟りの中にいた人間にとっては、
相手が、仏だろうが、祖師だろうが、乞食だろうが、王様だろうが、
相手が誰であるかは、全く関係がないことだ。
そして、さらに言えば、
これを記した人間の中には、人を生かすとか殺すという概念すら
存在していなかったということである。
だから、この彼にとっては、
「殺す」というのと、「生かす」というのは、全く同一の意味を持つのである。
●では、一体全体、この全く正反対の行為が、
どういう意味で、「同一平面の出来事」であり得るのか?
その正反対の極を同一のものとして繋いでいるものとは、何であるのか?
それは、言うまでもなく、
彼は、侍は、ブッダは、禅師は、
「何もしていない」
ということなのだ。
そのような意味では、この無門関の語句というのは、
かぎりなく、「老荘の教え」に近いものなのである。
ここで言っていることは、
無為自然の境地では、「殺すものは殺され」「生かされるものは生かされる」
というだけの話であって、
それを「殺し」であるとか、「生かし」であると、
そんなことを区別して「言う者」は消え去っており、
従って、自分が「殺す」「生かす」のではなくて、
そう意図することなく、何もなそうとせずに、
殺したり、生かしたり、が「起きる」と言っているのである。
自分の意志ではなく、「起きる」ことに関しては、そこには、
行為者は存在しない。
だからここは、「殺す」のではなく、
>●●に遭うては、無為自然に、●●に感応するだけ。その結果は知らぬ。
という、ひとつの「公式」のような語句に置き換えてもよいのだ。
もっと正しく言えば、
「仏に遭うては、仏をどうするか、そんなこと、私は、何も知らんさ」
とでもいえるだろう。
そこまで自由で、かつ、無為自然な境地を禅師が描こうとした結果が、
全く世間の理解を超えた「仏や祖師を殺し」という、言葉を
「平気で言わせることになった」のである。
なにしろ、彼には、生死の分別がないのだから。
だから、彼は、「醜いものを美しい」と言ったり、
「美しいものを醜い」という。そんなことにも、平然としている。
そもそも、どちらの区別もないのだから、
どう言ったところで、彼には意味をなさない。
ただし、それを聞いた人々にとっては、
それは、「恐ろしいまでの分別そのもの」に見えてしまうのである。
●そして、しつこいようですが、
全く同じことが、親鸞においても起きたのである。
どっちも「私の目から見れば、既に往生しとる。
つまり、私には善悪の心(思考)はもうないのだから、
善人も悪人も、私にとっては意味がない。」
ということ。
ただし、
「君らにとっては、おおいに、その分別には、意味があるだろうが」
と言っているだけのことなのである。
●
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