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◆「武士道」と「戦争」を混同する、「勘違い系」の人たち◆
by:
崩残
2007/01/19(Fri)03:37:23
武士道の定義
松の間の話題とも言えるのですが、竹の間の皆さんの方が話が
通じると感じて、こちらに書きます。
世の中には、武士道と戦争を混同しているヤカラがよくいます。
また、真剣やら、居合いの模擬刀を振り回すのが古典武道で、
竹刀での剣道は、スポーツにすぎないと言い腐ったりする人もいます。
ようするに、彼らは「過去に武器として役立った物体」で、
今では、実用性においては、全く出番がない刀や武器に、
執拗にストーカー的なロマンを投影しているだけのことです。
実際問題として、
真剣などは、戦場でも日常でも、何の役に立たないのですから。
もしも「古いものがいい」と言うのであれば、
刀などという「代用兵器」が登場する以前の、より古い体術だけやっていれば
いいではないですか?
戦場でも、日常の防犯でも、
「過去の刀や槍などの武器には、もう現代では、実用性はない」
というその「現実」を、いつまでも認めたがらずに、
「過去の遺物にしがみついている」だけのことです。
ただし、むろん、「文化継承としての価値」はそこにはあります。
また「身体運動の研究」のためには、有効な遺産は、その中にある事でしょう。
しかし、
こと「実用性」とか「実戦性」とか「護身性」とか「殺傷性」を口にする人たちは、
全員とも、頭のネジが、何本か外れて、精神的に、
一部、または全部が「壊れている」と思っていいです。
●こうした人たちを良く見ていると、そもそも物事を深く考えもしないで
「見た目の分かりやすさに、依存していること」がよく分かりました。
つまり、物事の本質を「自分の頭で深く考えようとする意志」がないということです。
たとえば、武士道と騎士道は、似ている面もありますが、
勘違い系の外人さんに、これまた勘違い系の日本人が、
武士道を、もっともらしい口調で語る愚かな場面があります。
実際、それで頭が毒されてしまった外人さんも多いでしょうね。
幸いにして、私の付き合いのある外国の人にはそういう人は皆無で、
一切いませんが、他所では、日本の武士道を、いまだに
「東洋の神秘」だか、「エキゾチックなもの」と勘違いをして、
よく意味も分からずに、「かぶれている」人もいるようです。
もっとも、日本人自体が、武士道のなんたるかを考察もしていないで、
古人の言葉を、空虚に振り回している始末ですから、どうしようもないですが。
*******************************************************
◆さて、「武士道」というのは、全く難しいものではありません。
それが人殺しや戦争とは異なるものとして、
武道で在り得るために、「いくつの条件」があるだけです。
>「以下の条件を3つとも満たしているもの」が武道です。
>ただし、ひとつでも欠けると、武道にならなくなります。
その3つの条件とは、
1/「戦うに値する相手である」と自分が思った相手や状況とだけ、
双方共に、真剣さをもってして戦うこと。
これこそが、古来から言う「礼」の本質である。
形骸化した「形式だけの会釈」や作法なんぞではなく、
内面的な本質の問題なのである。
2/相手が「参った」を言った時点で、その勝負は「終わる」こと。
つまり「相手の殺戮が武道の目的ではない」という大原則。
そのために、勝敗をきちんと決する事の出来る、
「明確なルール」が存在すること。
3/その「戦い」によって「自分にやってくるかもしれない、死」が、
急激であれ、緩慢にであれ、
「自分の生死」がかかっているものであるならば、
それは「広義な意味」においては、日常の労働も生活も、
「すべてが武道である」、とも言えなくはないということ。
●1、2、3は、戦争においても類似する点もあるが、
ただし戦争には、1の「礼」はない。
また戦争には「殺さない」という原則がない。
そして戦争には、勝敗を決する明確なルールがない。
あってもせいぜい、普遍的効力を持たないような、
いいかげんな「条約」だけである。
ゆえに、イラクを攻めたアメリカ軍は、フセインが死んでも、
一向に勝ったことにもなっていないわけだ。
●一方で、スポーツや、ごく普通の娯楽ゲームの中にも、
1と2の要素があるが、
ただし、その場合には「命や生活が懸かっているのではない」という点では、
「武道」とは呼びがたい面がある。
しかし、まー、この定義で言うと、
パチプロは、パチンコ台を相手にした「武道」ということに
なってしまうのかもしれないが(笑)。
人間を相手にした格闘技や競技ではない、という点をどけてしまうと、
本質では、「武道」になってしまうかもしれないが、
あながち、間違ってもいないように、私には思える。
もっとも、「プロ」ともなれば・・・の話ですが。
というのも、武道の定義どおり、パチプロやギャンブラーは、
1/生活の為に「価値ある戦いだ」と本人自身は思っている。
2/負ければ金をすられるという「明確な結末」と、
やってはいけないルールもそこにはある。
3/生活そのものがかかっている。
ということで、やはり、プロのギャンブラーは、
「武道家」に分類されます。(爆)
まー、以上は「冗談」ですよ。というのも、
もしもここまで定義の範囲を広げると、全ての士農工商と芸人と、
株取引や、オレオレ詐欺までもが、
「武道」という事に、なっちまいますから(^O^)。
>土俵やリングやグラウンドの中のルールで、
>「対人で対戦する競技」というのが「武術の基本」ですから、
・・・とは言え、
世の中、本当は「武道だらけである」という「側面の事実」をも、
あえて、以下に述べておくことにします。
↓
__________________________________________________________
あえて拡大解釈をした場合の武士道の定義
ざっと「要点」を書いておきます。
「武術というのは、
そこで死ぬかもしれない緊張感と切迫した状況がなければ、
それは、本質的なの武術ではない」
という言い分は、世の中に石を投げたら当たるほど転がっていますね。
脳みそ、スカスカの「お馬鹿な武術家」は、よく言います。
しかし、そういう意見の人たちというのは、
「人間の死には大きくわけて2種類ある」ということを見失っています。
たとえば、どうして皆さんは、
会社で頑張って働いたり、いい仕事をしようとしたり、
時には、屈服したくもない「アホウ満開の上司」に対して、
我慢などしたりするのですか?
理由は簡単なことです。あなたが「死にたくないから」です。
下手に逆らうと、首になる、再就職困難になる、食えなくなる、
住めなくなる、困る、そして最後には、死ぬようなことになるかもしれない。
これが、労働と言われるものの「約半分」ほどの動機です。
◆つまり、とっくに平素の生活や、平素の仕事そのものが、ある意味で、
誰にとっても「自分の生死のかかった、真剣勝負」であるわけです。
またスポーツ選手とて、もしも負けが多くなったり故障をすれば、
スポンサーも離れ、そしてやがては、
文字通り「選手生命」が脅かされます。
これも立派な「死」なのですよ。
◆ただし、それは一刀で斬られるとか、一撃の銃弾で死ぬのとは違い、
何ヶ月か何年かかけて、やってくる「緩慢な死」、
または「緩慢な死に対する恐怖」であるということです。
そういう意味では、人間というのは、日々、いつかくるかもしれない
病気や死を、心の奥では常に想定して、それをもってして、
仕事をして、家族を養い、時には、そのために、
くだらない見栄を張ったり、みっともない言い訳をしたり、
自己防衛に走ったりしますが、
すべては、「自分の立場」が死にたくない、とか、
あるいは、自分の生活のかかった仕事で失敗して、
首になって路頭に迷って、あげくに死にたくない、
ということが、労働している「動機」の「多くの部分」です。
◆となれば、武術というもの、あるいは戦うということ、生存方法、
これらは、「一発で勝負の決まる殺し合い」の中にのみ
「その本質がある」とする人が、たまにいますが、
その人たちは、
「緩慢にやってくる死」と自分が常に毎日戦っているということに
気づいていないようです。
つまり、「武術的」でないものなど、むしろどこにもない、
というのが私の「極論的な」、ひとつの総論です。
毎日、私達は、いつやってくるかもしれない、解雇や、
苦痛や、死と戦っているのですから。
そこに相手がいようといまいと。
◆それを「白黒が分かりやすい形で観戦できるような娯楽」としたり、
または「非娯楽的な競技」としたもの、つまり、
個人または、複数での「対戦」の競技(野球やサッカーも含む)として、
>そこに「殺さずに、勝敗が決まるためのルール」を人為的に作り、
>「どこかでその勝負が、終わりとする決め事がある事を前提とした競技」
>そして、それは価値を見出した真剣な勝負であること。
これが私の中での、
武術や戦いの「哲学的な定義」であり、私個人の「美学」です。
つまり、その戦いが、きちんと終わらないならば、戦う意味がないということです。
そういう意味では、
戦争などは、いつまでも果てがない事が多いのですから、
私の中では、それは全く「武道的である」などとはいえません。
第一、戦争のことを武術や武道であるとは、誰も呼びません。
だからこそ、「松の間」でも語ったように、
もともとは、その「愚かな戦争」の中から生まれたであろう武術を、
これから未来には、
(軍隊や警察での実用性は別としても)、我々一般庶民としては、
これからは「武芸(=マーシャルアーツ)」として明確に「分離」をすべきです。
>その競技の中では、「真剣勝負」が、充分に可能であり、
>「武術の本質は、そうした形でも、何ひとつも失われない」というのが持論です。
考えてみても下さい。八百長がないという限りにおいては、
野球の試合、格闘技の試合、卓球の試合、なんの試合であっても、
彼らは、文字通りの「選手生命」を賭けてやっているのですから、
これを「真剣勝負」や「武士道」と言わずして、何と言うのかです。
既に言ったように、日々稼いで、食うことそのものすら、
我々は「死」をそこに想定してやっているのです。
それ故に、
>「ことさら、見た目に分かりやすいような殺し合い」だけが
>「武術の本当の本質」を物語るのではない、ということです。
・・・・・・・・・
「トンデモ騎士道」の殺人事件
◆だいぶ昔ですが、西洋人が日本で、殺人事件を起こした事例がありました。
その西洋人は、男女が路上でもめているのを見て、
女性が男性に不快な思いをしているものと思って、
その男性に回し蹴りをしたそうです。
結果は、その男性は死にました。
しかも、その男性は、その女性の大好きな「彼氏」なのでした。
ただ単に、恋人同士がささいな口論をしていただけなのでした。
それを「大きなお世話」の西洋人は、空手をやっていたので、
助けにでも入るつもりで、男性を蹴ったのです。
その後、取り調べで、「空手かぶれ」のその西洋人は、
「あれは騎士道の精神によるものだ」と主張したそうです。
「その場の状況もよく判断しないで」、見た目で判断して、
いきなり蹴って人を殺すとは、とんだ騎士道なものです。
これじゃ、ただの「奇刺道」ですよ。
◆これは極端な「勘違い系の人間の例」ですが、
そもそも、「武道」というのは、私の定義によれば、
それは、ただの戦いや、殺し合いや、戦争とは明確に「区分されるべきもの」です。
>実際、戦争のことを誰も「武道」とも「武術」とも言いません。
国家や財閥が設けるための戦争のことは、
殺戮と呼び、侵略、または自衛と呼ぶのですから。
それを「武道」と混同する人間などいません。
しかし、たまにいるんですよ。
>実戦や、真剣や殺傷力のある武器を振り回すこと、そして殺人技、
>これらイコール 本当の武道なんだ、
>というふうに「単細胞的にしか、考えられない、困った人たち」が。
_____________________________________________________
酔っ払いとは真剣勝負をするな、の巻
次は、、、
>酔っ払いとは「真剣勝負」は出来ないという話。
「酔っ払いと薬物中毒の人間」は、「平素の時」はまともでも、
事が起きているその時点で「意識が不鮮明すぎる」という点が問題なのです。
そもそも対話が通じなければ、あるいはそこでの戦いに
全身全霊で挑み、意識が目覚めて、注意を「してない」のであれば、
その時点では、「通常の人間としては意味をなさない」ということです。
酔っ払いを、酔っているその時点で、
人間として「差別する」のが妥当かどうかについては、
私は「妥当である」と思っています。
法律がやや改正されたものの、
飲酒による犯罪では「心神耗弱」が減刑理由とされてきたという
国内での歴史的な経緯もあります。
つまりその時に、本人に「どれだけの自覚があったか」ということによって
「負うべき責任の重さに、かなりの差」が裁判で出たわけです。
◆これを対人の交渉、または戦闘行為に置き換えるならば、
「起きている物事に対する自覚をなくしている人間」に対しては、
シラフの側の人間が、誠心誠意、何かをしたり、
真剣勝負をすることはその時点で、「差異」が生じています。
片方は、「恐怖もボケて、状況判断もボケていて」、
片方は、「意識的に注意していて、いろいろな迷いや痛みも感じる」。
一方は、それこそ、倒れても気づかないほどの酔い。
これでは、スポーツとしてすら、
酔っ払いが「失礼」すぎて、とても「勝負」などとはいえません。
●そういう意味で、酒や薬で「酔っている状態」においては
その者を私は人間として対等には扱いません。
という事を単に言ってみた事があるのですが、それを聞いて、
「差別だ」とか、「ファシズムだ」と言った、
「酒好きの人」が、以前にいました。
私は、どうしてファシズムにまで見えるのか、
はなはだ、その人の性格や、思考を疑問視してしまいました。
たぶん、この手のタイプの男性は、女性ときちんと付き合うと、
いつか必ずこう言われるハメになります。
「あなたって、ちっとも私の事(女性の気持)、わかっていないわねー!」
つまりこの場合には、そういう人は、よく自己申告で言い訳に言うような、
「誤解されやすい性格なのではなくて」、
自分が他者を理解せず、自分が誤解をしやすいタイプということです。
____________________________________________________
◆さて、「真剣勝負」というのが、
現在では、その語源とは意味が異なるにしても、
その「真剣」である「姿勢」が、
武術に限らず、すべての「対人関係」における基本条件です。
その証拠に、酒に酔った人間が、会社の企画会議にいたり、
酒に酔った人間が、国家間交渉の公の場にいたり、
討論番組や、ネットの掲示板にいたり、
あるいは最も明確な例は、酒の匂いのする者が、「スポーツの試合」にいたら、どうなりますか?
ひんしゅくをかうだけではなく、「退場」です。
退場とは、すなわち、「あなたの意識がちゃんとしていないから、
その場からは、一時、去ってもらいましょう」ということです。
酔っ払いを、重要性のある「場」から、シラフになるまでの間、
「捕縛して、一時的にその場から排除すること」に、
一体どのような「不当性」やファシズムがあるのか、
説明して戴きたいものだと思いましたよ(笑)。
◆明確に言えることは、
>薬物とアルコールの「影響下にある、その間」は、
>とりわけ「話がほとんど通じない人間になり下がる」
>そして「真剣勝負で向き合う価値のない人間になり下がる」ので、
それでは、真剣に向き合ったり、武術的にも戦う価値はありません。
自然界の動物たちにおける武道
●さて、本論に戻りますが、
そもそも、自然界の動物の世界では、
食熱連鎖の中での「弱肉強食」という行為では、
殺戮してから、さらに相手を「食べる」という行為がありますが、
「同種同士」において食べることなしに争うのは、
>ひとつは縄張り争いの時、もうひとつは、雄がメスを獲得する時のみです。
>ただし、同種の生物は、身体機能が互角ですから、
>捕食のときのような「一方的な殺戮」にはならず、
>また、ほとんどの場合に、「勝負がついた時点で、争いは終焉を迎えます。」
もしも「人間は動物と違う知性をもっているんだ」と、
どこにでもあるような反論がなされるとしたら、
>人間というのは「動物ですら守っている本能のルールを守れない」、
>そういう「動物以下の生物である」ということになりますね。
実際、人類というのは、地球と人間以外の生物に対しては
「迷惑」以外の何も(ほとんど)やってきませんでしたし。
◆ということで、武道というものを本当に人間が人間たる中で行う
というのであれば、最低限、動物たちと同じルールのもとに、
意図しない事故を除いては、殺すことまでは極力しない、
>そして勝敗のみを決めるというのが妥当であるというのが私の意見です。
そのルールに潔くなれないのであれば、ルールを改変するか、または、
リベンジすればいいだけです。
死んだら、リベンジも出来ませんからね。
もっとも、死んだ方が、そこで白黒もついて、楽だと本人が思っているならどうしようもありませんが。
◆しかし、最も「人間的な武道」である行為とは、
酔っ払うことなく、そのすべてのプロセスを意識しつつ、
負けたと感じたときには、相手にも敬意を払うという、
そういう姿勢で挑むものであると私は思います。
実際、私は、蹴りや殴りで、ダウンする試合よりも、
関節技とか、締め技で、「参った」になる試合形式の方が
私個人の美観としては、「見ていて気持いい」です。
●
総論
武術が「武道である条件」とは、非常に、簡単なことです。
こう定義すれば、あらゆる理想は、そこに集約されます。
>武術とは、対戦相手に「参った」を言わせることを目的とせよ
これに尽きます。
既に指摘したように、武術と聞くと、すぐに実際の殺し合いや流血だけを、
うっかり想像してしまう人が多いようですが、
そもそも、「戦いの目的」とは「何であったか?」です。
それは、自分の領土や家族や民族が、他者から不当に侵略されないこと
それを実現できる為の手段が、正当防衛と言われるものの本質です。
これ以外のものは、不当な「暴力」と「侵略行為」です。
となれば、武術的な制圧においても、相手を殺すことなく、
相手に「参った」を言わせることが、最も理想であるとなります。
なぜならば、人というのは、
殺された方が、「甘ったれる」には「楽」だからです。
一方で、死にはしないが負けた、
しかも自分から「参った」を言ったら、
その者は、生きて、さらに相手を超えようと努力するかもしれません。
そうしてリベンジがなされてゆくことで、
「武術の世界全体」が進化します。
たかだか、1人の人間が、誰かに勝ったとか負けたとか、
そういう「ちっぽけなこと」ではなく、武術という「全体が」です。
しかし、殺されてしまえば、そういった責務を放棄して、
ただ相手を恨む「怨霊」にまで成り下がる事もあります。
◆武道の理想というのは、
相手をボコボコにしてしまい、相手に恨みを持たせたまま相手が逃げることでもなく、
相手が死ぬことでもなく、
相手に「参りました」を心底言わせることです。
いわば「将棋」と同じです。
もともと、対人関係や、村との関係、権力との関係、
これらの「こじれ」が、
同種生物のくせに戦うという「愚かしい行動」を発生するわけですが、
武術を「外交手段」として究極的に進化させようとすれば、
それは、相手を殺すことが出来る余力を残した上で、
相手を殺さず、相手に「参った」を言わせ、
しかも相手から恨みは買わない。
そのような「勝負」をすることが、
美学的にも哲学的にも人道的にも最も理に叶った方法です。
◆そういう意味で、私は、「スポーツ化された競技」の中に潔く飛び込み、
その勝敗結果に、潔く従い、また努力して進歩するという
「精神そのもの」の方が、
現実には出来もしない殺し合いの妄想にふけることよりも、
より、「武術の姿として理想的である」と結論しています。
既に言ったように、「選手生命と生活を賭けている」という時点で、
既に、プロスポーツでは、「命がかかる」という、
「武道たる条件のひとつ」を満たしているのですから。
◆また実際の現実問題としても、
殺しあうよりも、話で決着をつける方が、
その後の外交手段としても長期的にも有効ですから。
そもそも、個人や民族や国家が戦うことは、それが最終的に
「どのような平和的生活を目的としているのか??」
という「自分たちの目的の根本」を見失う人たちだけが、おうおうにして、
武術を、「殺す技術だ」と、短絡的な勘違いをしたりします。
それは、動物や、酔っ払いや、薬物中毒患者を相手にするのではないかぎりは、
最初から最後まで「外交」であり「対人関係」であり、それが最初に
人類の目的とされたのは、殺すことではなく、
「自分たちの生活の安定のため」ですから。
もしも相手が「動物や酔っ払い」となると「対話」が出来ないのですから、
その時のトラブルの回避の方法は、
外交や武道ではなくて、相手を「捕縛術」「捕獲術」で制するか、
またはこちらが逃げる、という「別の分野の技の話」になります。
◆こうした、私の「スポーツ武道論」を、
奇麗事だと言い腐る連中は、多くいそうですが、
その彼らが言う、奇麗事でない現実の方が、むしろ非現実的で、
野蛮で、その後、延々と外交がこじれたり、
裁判で10年も時間を無駄にするということになるのですから。
私にとって「現実的」というものの定義とは、
>目的としたことを
>最も効率よく短時間で「現実に実現する方法」、
それが「現実的である」ということの定義です。
「目に見えた現実なんだから、これは現実なんだ」というだけの、
そういう薄っぺらな「現実という名の幻想」ではなく。
_________________________________________________
禅との「本当の接点」
「自分の目に見えたままを信じる者」ほど、
手品に、あっと言う間に簡単に騙されるのは、当たり前のことです。
自分がそれによって「現実をとらえているんだ」と「思い込んでいる」
その目や耳を欺くために、マジックは何百年もの歴史を持ってきたのですから。
だから、
経験した事実、つまり「感覚」といわれる情報を、
いくら継ぎはぎしても、真実は見えないのです。
事実を本当に見出すのに必要なのは、
先見性をすべてとっぱらって、事実を並列に並べて、
ただただ無心に、そこで起きていることを眺めるだけです。
考えや洞察というものは、考えて生まれるものではなく、
まず、裸眼で「観る」ことからです。
洞察というのは、何も努力をしなくとも、あとからついて来るものです。
禅問答の解き方、あるいは面倒な社会問題の解き方と、まったく同じです。
その秘訣は、
>考えるな、
>しかし、感じる事にも重きを置くな。
>自分が感じたことすらも、安易に信じるな。
>一切、信じることなく、
>また一切余計な疑いをも持たず、
>ただ、そこに向き合ったまま、
>「じっとしていろ」、ということです。
そうすれば、ほとんど何も考えなくとも、
結論めいたものは、「自然に浮上」するだけです。
_____________________________________________________________
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