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[3869]
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■復習シリーズ■無明庵の宇宙観 PART2
by:
猫然
2007/12/05(Wed)09:12:12
●人間ひとりが存在している理由を問うと、
それは究極的な万物の存在理由が
バックアップをしているものでなければ、
何の普遍的効力も保証もない、
というのが前回までの話である。
さて、ここで、人間の曖昧さについて
よく観察すべきことがある。
万物に対する「期待」なるものは
実に漠然としているのが世の常である。
「万物」ではないが、
たとえば、神についてや天国について、
10億人にアンケートを取ったとしても、
「お前ら、一体、何を読んで、そんなデタラメを
信じているんだ」といいたくなるような、
稚拙な回答しか帰ってはこないだろう。
一方で、万物や宇宙というものを
どう認識したり、そこに何を期待しているのか?
という人間の「心情」を観察すると、
これまた、実に曖昧極まりないものだ。
●たとえば、ひとつの認識法は、
この世界、または万物が、現在は正しくないあり方、
または、バランスを崩した在り方にあり、
それは将来、正されるべきであると思い込んでいる
そういう安直な考え方がある。
もうひとつは、万物は正しくないが、
しかしその正しくなさに対して、鈍感になり、
間違いを無視できる能天気な境地に至れば良いとする
安直な考え方がある。
そして最後のは論外だが、
この地球上の人類は混乱と未発達の中にあるが、
他所の星では正しい在り方があると信じている人々。
これが、いわゆる宇宙人教なる信者に落ちぶれる。
●さて、ではあなたは、この3つのうち、
どこに、世界観の基準を今まで置いてきたのか?
精神世界をぐるりと見渡しても、
その99%は、ひとつめか、ふたつめである。
すなわち、そもそも宇宙には叡智なるものがあるはずだ、
という前提からして、疑うこともせず、
何か、実によさげに出来た法則でも、
そこにあるかのように思い込み、
何かの意図によって確実な方向性を持っているはずだ、
という思い込みに、いとも簡単に陥っているわけである。
●その単なる、希望的観測に過ぎない、
万物や宇宙に対する、ただの思い込みを全く
疑うこともなく、それを根拠にして、
やれ、いずれ世界は正されるとか、
いずれ、人々は悟るだの、
いずれ最後には、こうなるといった、
全く、何の証拠も根拠もない、
あわい期待で、持ちこたえているのが、
人類の根本的な心理状態の「現状」である。
●すなわち、とにかく宇宙は間違ってはいない。
神は間違ってはいない。
万物には、意味と進化の方向がある「はずだ」
という、希望的観測が、漠然と人を
エセポジティヴ志向に走らせていると言える。
何度も言うように、
これらの進化なる幻想も、目的があるという幻想も、
ただの一度も、証明されたことはないのも関わらずである。
●さて、意識の進化だの、悟りの進化だの、
宇宙の今後だの、あれやこれやの進化妄想を
いったん横において、
あなたは、頭を冷やしてみることとする。
●すると、我々はそもそも宇宙や創造の意識が
間違ってはいない、
という単なる思い込みの前提を疑うことがないが、
無明庵の本が提示した最大のアンチテーゼは、
「輝かしい宇宙や、意識の進化の為に存在するのではなく、
逆に、進化という概念そのものが、生存のための燃料になる」
という認識法である。
すなわち、これは、実際には今日にでも潰れてもいい
ろくでもない会社なのだが、
社員に対しては、
「この会社は必ず負債を返済する」とか
「うちの会社必ず発展する」とか、
「うちの会社は、社会に貢献しているんだ」とか、
「うちの会社が、潰れたら、困るのはお前ら従業員なんだぞ」
とか、こうしたもろもろの言い訳と、
説明にもなっていない説明で、
かろうじて、社員に逃げられないでいる会社に似ている。
たとえば、その職種あるいは組織とは、
「無駄な公益法人」であったり、「暴力団組織」であったり、
あるいは、こんな企業、世の中にいらんだろう、という
そういう組織であってさえも、
内部では、社員にくり返し言われることは、
「俺たちゃ、必要なんだ」
「意味と意義があるんだ」という社員教育に他ならない。
●といったことと、全く同じ構造が、
この宇宙全体に喩えられた場合に、
この宇宙と万物は、実に整合性のあるものに
見えてくるのである。
つまり、この全くのデタラメな混乱、
まったく進化の形跡もない状態、
他所の天体に行っても基本は何ひとつ変わず、
あくせくとした、「生存」に追われる日々。
生存の理由を無理にでもひねり出しては、
自分に生きるモチベーションという燃料を
供給しつづけなければならない状況。
●そして、それをやめれば、
待っているのは、停滞と、新陳代謝の停止と、
動きの停止による有機体の崩壊であること。
いわば、「お前、死んでもいいのか?」
という脅迫によってのみ、
この宇宙は支えられているといえる。
それが肉体の死であろうが、
何万年も継続する霊的身体であろうが、
尺度が違うのみで、
「恐怖」と「飢え」が「動き」と「動機」の燃料となる
という基本構造は同じである。
●平たく言ってしまえば、
宇宙には進化のメドもなく、
輝かしい終末もなく、
ただ、だらだらと、
そこに生息している無限に近い生物たちが持っている
なんとなく、なくなってはいけないんじゃないか、
という「漠然とした思い込み」によって、
かろうじて、生存が維持されていると言える。
●この事実を実にうまく皮肉ったのが、
ダグラスアダムスであり、
彼は「さようなら。魚をいっぱいありがとう」という小説の中で、
宇宙の創造主から、被造物たちへの最後のメッセージを
こう記している。
「大変、ご迷惑をおかけしており、申し訳ございません」
________________________________________________________
ロクでもない会社であっても、
それが潰れないためなら、何でもやる、
なんでも許されている、
とにかく、動きが止まらないならば、
殺そうが、わめこうが、楽しもうが、悟ろうが、
全く、全面的にOK。
それがこの宇宙である。
つまり、人間が思うような、
正しさの基準は一切、存在しない。
弱肉強食の法則ですら、正しくはない。
進化というものも単に生存するための
適応を目的としているのみで、
何も高尚な目的はそこには存在しない。
事実、「お前、そうまでして、生き残りたいのか?」
と目を疑うような、
実に陳腐な「擬態」や本能が生物によくあるのは
ご存知の通りである。
人類は、実に、曖昧に、漠然と、
ぼけーっとした頭の状態で、
「なんとなく進歩しているんだろう」という
思い込み、
「今は変でも、そのうち、なんとかなるのだろう」
という、まったくデタラメな、救済願望を持っている。
しかし実際には、
どこからも、救いはこない。
どこに向かっているわけでもない。
ただ、宇宙は、
同じところをぐるぐると回り続け、
その同じことを繰り返すことの
正当な理由を、
「進化するはず」「そのうち光に統合するはず」などと
「捏造」することに、
その時間の大半を使用しているという始末である。
●
■宇宙論の基本のおさらい■
この宇宙は「進化をするためではない目的」によって
維持されている。
明確に言うと、
「ただの生存維持」が宇宙の唯一の目的である。
あなたは、
なぜ自分の人生に意義や目的を欲するかの原因を、
自分で考察すると、
それはあなたの精神の
「延命治療法」であることが明白になる。
つまり、それはあなたが自殺をしない理由になる。
それはあなたに生きる動機の「燃料」を供給する。
しかし、目的なく単純に生きて死ぬことを人は恐れる。
たとえば、それは、
明日にでも、倒産してもいい会社なのに、
いろいろな言い訳の理由をつけては、
生き延びようと、もがいている会社に似ている。
■選挙のような愚かな宗教■
今日の宗教は、まるで選挙のようである。
それは、多くの支持者だけを集めるところである。
しかし、私は個人主義である。
たとえば、一部の人々がエベレストに登る。
しかし、彼らは、それを全ての人間に
勧めるということはない。
エベレストの上に行きたい人は、上がる。
ただ、それだけのことだ。
むしろ彼らはその登山の苦痛と困難を知っているので、
彼らは他の誰かを決して登山に招待はしない。
■エセ瞑想の蔓延の一つの原因■
私は過去30年の間瞑想の世界的な広がりについて
わずかな異常さを感じた。
おそらく、「ビートルズが、インドを訪問した」。
そこからこのブームが始ったのだろうと私は推測している。
しかし瞑想とは、ヒットソングのように広まるものではない。
言い換えると、
エベレストまで上がることは、一般的な事でない。
しかし、「瞑想が、一般的に広まった」ために起きた
「弊害」がある。
すなわち、その最初の姿勢が忘れられた。
瞑想、そして、本当の禅は、
むろん一部の人々の独占物ではない。
しかし、実際に、
それを必要としているのは本当に少ない希な人間だけである。
だから、私はこの異質な道の問題については、
その精神的な道の話を、誰とも一切共有したくない。
■そもそも前提が宗教とは異なる■
ちなみに悟りに対するアプローチは複数ある。
しかし、その中で、ポジティヴな表現をした者は
過去にほとんど失敗した。
たとえば、Oshoである。
彼は「人々の鼻の前に、
にんじんをぶら下げること」には成功した。
「人々を酔わせる性質の美しい言葉」によって。
しかしそれを人々に食わせることには大失敗した。
この理由は、彼は扉の前に何があるのかを
明確に語らなかったからである。
さて、「私はこの宇宙を肯定的に見ていない」という前提を
持っている。
すなわち「悟り」を人類の目標であると考えていない。
むしろ逆に、それは現在の宇宙の指向性と
逆行すると考えている。
西洋文化の中でこれに類似する思想がひとつある。
それは「グノーシス」である。
私は基本的に、それに似た視界で世界を認識している。
ただし一部が似ているだけである。
というのも、彼らもまた、
理想的な状態にあるであろう宇宙を想定することによって
自慰的な慰めにすがるからである。
さて、世界中ですらも、全く理解されていない
「重要な本質」がある。
それはブッダは創造されたこの宇宙を
賞賛していないという事実である。
彼は「苦」を説いた。
なぜならば
彼は地球だけではなく
「宇宙のすべての要素」が幸福ではなく
「苦に満ちている」と理解したからである。
彼の仏教はそこから始った。
しかし、多くの人々は、
その最初の重要な前提に関する認識を避けて、
ブッダの語る「美しい言葉だけに執着」をした。
欧米の文化やヒンズー教
イスラム教、ユダヤ教、道教、神道、
それ以外のほとんど全ての宗教は
神が作った世界を「善」であるという前提から語る。
しかし仏教やグノーシスは、そうではない。
だから彼らは、「脱出の道」を探索した。
それは「宇宙からの脱獄」というほうが、
正しい呼びかただろう。
■「自分の欲望に正直であれ」■
楽に見えるものは売れる商品になる。
正しく言うと、
それは「誰でもが」うっかり欲しがるものである。
しかし、
人々が「最も欲しがらないもの」の中にこそ、
常に「秘密」は隠される。
それはちょうど、宝が常に魔物に守られるのに似ている。
西洋の神話のほとんどに、
宝の周りには必ず恐怖をもたらす門があるだろう。
しかし、それではただの英雄伝説である。
まだ、それは貪欲な状態である。
宝を手にいれるという目的はまぎれもなく「欲望」である。
しかし本当の探求者とは、
全てを捨てたいと本当に思った人だけである。
その人は、宝を求めていなかった。
宝があることを彼は知らなかった。
だから、それを得ても彼は「私が得た」と言わない。
「自分が真理を知ったと」は彼は言わない。
そうは彼らは断じて言えない。
なぜならば、
それは、そこに「残ったもの」だったから。
彼は宝を得ようとなど全くしていなかった。
だから、「彼は、宝の中に」ある。
宝が彼の中にあるのではなく。
世界中には、似たような、同じような「童話」がよくある。
それは、無欲な人が宝を得るのを見て、
その「無欲な人」を別の人が「模倣して」、
宝を手に入れようとして失敗するという寓話である。
しかし、その愚かな行為が、
今も、世界中の「自称求道者」の心の中で発生し続けている。
それならば逆に、あなたは自分の欲望に正直であった方が良い。
少なくとも、その人は正直だ。
私は嘘つきの善人よりも、正直な悪人を愛している。
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