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[3885]
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どうやって猫を斬ろうとする南泉を斬るか?
by:
猫然
2008/01/03(Thu)11:31:28
>1/3 18:40 梅の間が更新されています______________
【正月の禅問答】
南泉斬猫
年賀状の返信に、何の文字を書で描こうかと、
今朝、しばし、日なたで考えていた。
年賀状に合う禅語というものは、いくつか存在する。
例えば、
「日々是好日」などは、もっとも当たり障りがない。
これは別に「毎日が吉日だなどという軽薄な意味ではない」のは
禅をかじった者ならば、知ってのとおりだが。
そういう意味では、「両忘」という文字も良い。
しかし、武術関係の師範の人からの年賀状などもあったことから、
私が選ぼうと思ったのは、
「残心」の二文字だった。
この残心というのは、とかく武術の世界では、
スキがないことと誤解されているがそうではない。
出典は明らかでないらしいが、この禅語が、
弓道や茶道や剣道で用いられるようになったわけであるが、
注意が途切れないことを残心というほど、
それほど禅というものは甘くはない。
なぜならば、
誰にでも憶測が出来たり、分かるようなものを禅は決して残さない。
心というものを禅では大抵の場合には、邪として扱う。
無心というように、心という文字に対しては肯定的な意味は
禅では、あまりない。
実際、日本人がやたらに好きな心という字が、
禅語には、極端に少なく、また使われるときには、
心身脱落など、落とされるべきものとして語られることが圧倒的に多い。
心がまえという意味で心という文字が使われることすら
めったにない。
そのような前提から言えば、
残心の「心」が、「そこに残るべき心」の意味であろうはずもない。
よって、観察力や注意力が、動作のあとでそこに残されること、
そのような俗なことを「残心」が意味するのではなかったことは
明らかなことである。
●ならば、「残心」という文字で禅師は、本当は何を言いたかったのか?
禅の場合には、教えをそのまま言うのではなく、
「いましめる」という手法も多いために、
この二文字を逆に、「残心」を戒める意味で、
「心を残すな」
「残心には気をつけろよ」という解釈も出来ないことはない。
つまり「残心」は、
実はその原型は「斬心」であるとも言えなくはない。
●あるいは、心が消えて、そこに残ったものに在れ、
という意味で、「心の後の残」とも解釈可能ではある。
しかしいずれにしても、
わざと誤解を生むような言葉を残し、
その本質を自得した者以外には、一切の解釈を許さないというのが、
本物の禅語であるので、
そういう意味では、
「残心」というものが、何を意味するのかは、
各自で、この正月に、よく自問することです。
禅語とは、その解釈を覚えて知ったかぶりをすることなどには
全く何の意味もなく、
実際の日常生活の中で同じ状況を経験して「自得」する以外に、
それを知るすべは決してないからである。
__________________________________________________
●さて、残心で思い出したが、
私の好きな禅話に、「南泉猫を斬る」というものがある。
概略はこうである。
唐代の頃、池州南泉山に普願師という名僧があった。
山の名にちなんで、南泉和尚と呼ばれている。
一山総出で草刈に出かけたとき、
この閑寂な山寺に一匹の仔猫があらわれた。
ものめずらしさに皆は追いかけ回してこれを捕え、
その結果、東西両堂の争いになった。
両堂互いにこの仔猫を、自分たちのペットにしようと思って
争ったのである。
東西に分かれ、それぞれ自分たちの禅堂の飼い猫であると、
所有権を主張しあっていたという。
(ネズミの被害を防ぐための猫だったとの説もある。)
それを見ていた南泉和尚は、
忽ち仔猫の首をつかんで、草刈鎌を擬して、こう言った。
「誰でもよい、論争の余地のない、真実の一言を吐け。
もし、それが出来なければ、猫は殺すぞ」と、つめよった。
ところが、だれひとり声を発する者はなく、衆の答はなかった。
南泉和尚は仔猫を斬って捨てた。
日暮れになって、高弟の趙州(ちょうしゅう)が帰って来た。
南泉和尚は事の次第を述べて、趙州の意見を質(ただ)した。
趙州は、
たちまち、はいていた履(くつ)を脱いで、
頭の上にのせて、出て行った。
南泉和尚は嘆じて言った。
「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」
_________________________________________________________
●私はこの物語を非常に愛している。
欧米では、猫を斬ったということで、批判されることがあるらしい。
私が見たところ、禅師を本業とする、
秋山も、松原も、中野も、この物語には、
全く、ろくな注釈もつけることの出来ない状況にある始末である。
●この物語を、私が名作の逸話として、特に好きである理由は、
この物語には、あとで語るように、
無数の要素が包含されているからである。
ありがちな、舌先三寸の一発の返答で、
小奇麗にまとめた趙州語録とも性質が違う。
この逸話の美しいところは、問いは依然として、今もなお、
これを読む読者に、突きつけ続けられているということである。
●さて、この逸話のどの部分を謎解きをしようとするかにもよるが、
趙州の回答の行為に注釈をつけるよりも、
重要なのは、あなたがその場にいた僧ならば、
どうしたかということである。
構造的には、2人の子供がオモチャはどっちのものだで
言い争っているところに、親が出てきて、
「まともな事が言えなかったら、このオモチャを壊すぞ」と言っているのと
同じなのであるが、
ただしそこには生命の生死がかかっている点が異なる。
●こうした逸話をあなたが見たときに、
重要なことは、猫をどうやって助けるかではない。
南泉に問われて、あなたが、反射的に何を考えたかの自覚があるか
ないかが重要なのである。
こうした問いを突きつけられたとき、あなたの反応は、
おおむね次の3種類になる。
これは、これまで竹の間で、何度となく現代の新しい禅問答を
出題したときにも、ほとんど全ての読者に見られた不真面目な
態度であったからだ。
1/単なるクイズでもやっているつもりになる馬鹿者。
逆に言うと、私に馬鹿にされない答えを出そうとする馬鹿者。
2/師に認められたいという動機の馬鹿者。この場合には私。
3/猫をなんとかして助けたいということを動機にする者。
この3者のいずれも、特に最後のを入れても、
これらはすべて、間違った姿勢である。これらの全てが正しくない。
なぜならば、
禅問答で唯一問題にされるのは、
自分が悟っているかいないかだけであるからだ。
すなわち、どのような動機や理由からであれ、
正解を出そうとすることからして、
第一歩で間違えるわけである。
だが、それにもかかわらず、正解というものは明確に存在する。
______________________________________________________
●私がこの逸話を目にするとき、これが事実であったにしても、
単なる、後世の創作話であったにしても、
最もむかつくのは、この馬鹿僧侶どもが、
ただの一言も、発することが出来なかったその
あまりの「ふがいなさ」に対してである。
だが、読者である貴方も、全く同じ結果となることだろう。
あなたは、猫を救うことは出来ない。
●私はこの問いを、砂手に読ませてみた。
砂手はこの手の禅問答のことは、ほとんど知らない状態にある。
すなわち、禅問答の非常に面白いところは、
禅について、全く何ひとつも知らない人間であっても、
その人間が悟りの中にいる場合には、
必ず、あっけなく、正当するということである。
この南泉の物語は、禅の逸話の中でも、一種の難問でもあるので、
砂手の状態をチェックするために、私はこの原文を砂手に読ませ、
どういう見解でもいいから、言ってみるようにと言った。
以下が、砂手の言葉である。
******************************************************
南泉和尚の猫禅問答について。
■1■
猫はすでに【斬られた者】=【道】の象徴であり、
そのことについて、あーだこーだと、
言い争うこと事自体がナンセンスであるということ。
猫を理解するには、そもそもすでに【己がすでに斬られていろ】
というのが本質です。
和尚の公案の「道にかなう一言」など、言わずとも、
そもそも、そのことについて言い争っていた時点でアウトです。
だが、すでに過ちを犯した雲水が、和尚の公案時に、
我に返ることはできました。
言い争っていたその内容を省みて、自分らの現状を見て、
「その猫は、すでに斬られていました。」
そう言うことができたなら、
雲水が、道について、とやかく言う前に、
雲水達が、道になることを示唆する一件となったでしょう。
しかし、これは、雲水が、自分達の現状を認識できた場合に
言えることです。
◎「しかし、いったい雲水達は、猫の何に言い争っていたのか?」
ということを、大きな猫に聞きました。
「そもそも、南泉和尚に、こう言わしめたほどの、ばかばかしい
言い争いだったと思われます。」
「その部分が無いと、和尚の理不尽じみた禅問答を
創作的に読み解くしか、他ならず、現場の生々しさの中で、
この禅問答に参加することができません。
この、本の著者は、片手落ちです。」
そう私が言うと、大きな猫が、この禅問答の発端となる
言い争いのエピソードを、見せてくれました。
■2■
◎ここで、「そもそも、何に言い争っていたのか」ということの
エピソードを読みました。
東西に分かれて、その猫を、
「我らこそ、その猫を飼う、ペットにする、ネズミ駆除をさせる。」
と、言い争う時点で、完全に猫を無視していたのです。
すなわち猫は、
雲水によってすでにその時点で【殺されていた】とも言えます。
猫の道は、猫が決める。
すなわち、猫という仏性を
「こっちの物だ」「いや、あっちの物だ」と、
奪い合った時点で、アウトです。
南泉和尚の公案によって、
自分達の犯した事を自覚した雲水がいたとしたら、
「猫(=仏性)に決めさせて下さい。」
と言ったでしょう。
和尚は猫の仏性をいかに見るか、和尚にとっての公案になります。
雲水側から見れば、猫の生命への責任は無くなるので、
和尚に責任を取らせることができます。
■3■
◎南泉和尚の
「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」
について。
⇒『趙州がいたら、そもそも、あのようなナンセンスな、
雲水達の、猫の争奪すらも起こっていなかったであろう。』
という意味に解釈しました。
雲水の場合【猫=ペット=ネズミ駆除】
趙州の場合【履≠足に履くもの】
履すら、足に履くものとしてでなく、
ものの仏性=本質を見る目があるのです。
「・・・・・・猫の児も助かったものを」
とは、何から助かったかというと、
「猫争奪戦」から、助かったということ。
猫争奪事体が、そもそも起こらなかった、ということ。
南泉が仔猫を哀れんだのは、猫が「めくらの餌食になったこと」で、
めくらとは、仏性を知らぬ者=【仏性を殺すもの】です。
猫の仏性を無視して、猫争奪をしたこと、そのものが、
既に、仏性を無知に殺していたに他ならない。
それは、あまりに無知=無慈悲なこと。
それを、南泉は露骨に体現して、猫を斬り、
雲水に、雲水達がすでにやってしまったことを見せつけたのです。
そして、南泉は、その猫を悼み、業を背負う、その覚悟を示すことで、
雲水が、日頃、無知=無自覚に行っている、
【仏性に対する殺戮の何たるか】を示しました。
そして、それが、いかに罪悪で、業が深いことかを、
雲水に刻んだのです。
●ほぼ、完全な正解です。
ただし、100点であるが、120点ではない。
ただ、私が、砂手の見解で、非常に面白いと思った点は、
普通の人達は(禅寺の「大馬鹿坊主ども」も含めて)、
「もしもその場に、趙州がいたら、彼が問いに正解してくれる、
そして猫は助かっただろう」
と、禅学者づらした馬鹿者も含めて、
世の中のほとんどの者が思っているということである。
実は、この私ですら、いつの間にか、そう決め付けていたのである。
●ところが、砂手は
「もしも趙州がいたら、そもそも猫を巡っての争いそのものを
彼が、調停しただろう」という深さまでの読みに至っている。
つまり、砂手には、この僧侶の中にある問題の本質が、
完全に見えているということである。
全く普通の形式の回答を超えてしまっている。
私の中にはいくつかの回答があったが、
そのうちのひとつが、
「猫は既に斬られている」というものであったが、
もう少しアクティブに表現するならば、
南泉が、問いかけた瞬間に、
ただ「ニァー」と大声で叫んで、地面にばったり倒れるべきだろう。
それで南泉は猫を手放すのだから。
秋山あたりの書いたのアホウな禅書には、
「私の首を切ってください、と自分の首を差し出す」のも手のひとつ
といったものがあったが、
実に的ハズレである。
なぜならば、もう雲水たちは、問いの一言で、
とっくに斬られているというのに、
何を今さら、「首を切ってくれ」である。
秋山の傲慢さと、悟りの不在がよくも現れていると言える見解であろう。
南泉なら、そんな僧には、必ずこう答えただろう
「無い首を出して、お前、何のつもりだ?」
そういう僧侶は、まだ自分が斬られてしまっているという
自覚が全くない最低の者なのである。
●私は、常に今日まで、禅問答で最も重要なのは、
現状認識であると言ってきた。
禅問答を打破する唯一無二の方法は、
1/問いの本質が何であるかを見極めること、
2/問いに答えるのではなく、問いを消し去れ
この2点である。
●そういう意味では、砂手は、「問いの本質」を、
読んですぐに、一瞬で完璧に把握していた。
この物語を私が美しい物語のひとつとして語るもうひとつの理由は、
次の点にある。
南泉は、何も答える事の出来なかった僧たちに対して、
「今斬られているのはお前たちだとわからんか」といって
猫を放すことも出来たのであるし、
また、「こういうときには、猫の仏性に決めさせればよいのだ」と
自ら、正答を示して、猫を放すことも選択肢にはあったのである。
にも関わらず、南泉は、そのとき、
回答できない僧に、答えを与えるよりも、
猫を斬り捨てる方が、今後、その僧たちの為になると判断したのである。
●なぜならば、その後、僧たちは、全員ではないにしても、
一生、その光景を忘れないことだろう。
けなげな子猫が、自分が何も言うことが出来なかったせいで
目の前で殺されたというその情景に、ずっと罪悪感を持たせること、
それが南泉の狙いの一つであったからである。
むろんどこの世界にも、ボンクラのポンコツ人間というのがいるので、
中には「そこにいた、先輩の僧も含めて、どの僧も答えられなかった
のだから、俺だけに責任なんかないさ」
という現実逃避をする馬鹿もいたことだろう。
●しかし、まともな神経をした僧であれば、
子猫が死んだのは、
「全部、ダメな自分のせいである」とその後、
ずっと自問を繰り返すことになっただろう。
そういう僧がいたとしたら、彼は
「自分自身が悟らないかぎりは、あの猫は一生救えないままである」
という罪悪感を背負って生きてゆくのであるから。
●一方の南泉の覚悟の深さは、
仏法を守る者でありながら、殺生をするという大変なリスクを
自分から背負ったことである。
南泉はおそらく、そのあと、子猫を丁重に弔ったに違いあるまい。
そして、無駄な殺生をした罪を、自分自身1人が被る覚悟の上で、
猫を斬ったのである。
弟子の未来のことを考えて。
ちなみに、南泉という男が、犬猫に対して何の感情もない人間だったからだろう
などと決して思わぬよう。
なぜならば、南泉の口癖とは、こうだったからだ。
「祖師も仏も、実在をしらん。山猫や野牛の方が実在を知っている。
ずばりと畜生仲間に入らねばならん」
つまり、南泉という男は、畜生こそ実在を知っていると、
そこまで畜生に敬意を持った人間が、どうして猫を無感情で殺せるだろうか。
彼は自分が僧などよりも尊いと思っているその猫を
自分の手にかけ、その罪を背負ったのである。
そして、何も発することもできなかった僧たちは、
日頃から、その南泉の教えを、全く理解できていなかったことを
暴露している。
なぜならば、本当に南泉を理解していたらば、
回答は、砂手の回答と同じく、
「その生死は、猫に決めさせよ」であったからである。
または、猫を巡って争っていた、
その自分自身が、既にもう南泉に斬られたという事を自覚して、
自分が先に倒れるか、
あるいは、または、
猫の仏性を自分の愚かさが既に斬ってしまっていたことを自覚して、
「その猫は既に私達の愚かさによって、斬られてしまっています」
となったはずなのである。
つまり、これを「自覚」というのである。
●ちなみに、その南泉の教えを自得していた趙州だからこそ、
彼は、草履を猫にみたてて、それを頭の上に乗せたのである。
人間などよりも、草履や猫の方が、よっぽど仏だということを
示すために。
また、別の解釈をするならば、
僧侶たちの愚かさを示して、
そもそも、問いに対する僧侶たちの態度が、「本末転倒であった」
ということを言いたくて、
草履を頭に乗せたという解釈も可能ではある。
何がそもそも本末転倒であるのかは、砂手の見解を読めば
あきらかなことであろう。
●ちなみに、私は100点の回答では、納得しない。
よって、私がその場にいたときには、
南泉に対して発する言葉はこうなっただろう。
猫然「正答したら、お前が腹を斬ると約束しろ。いいな?」
南泉「よかろう、仏法にかなう事を、言ってみよ」
猫然「お前が禅師だと言うならば、
きさま、猫で、その鎌を斬ってみろ」
________________________________________________________
■しかし、勘違いをしてはならない。
こうした回答を頭で知ったからといって、
これを読んだあなたは、猫を救えたわけではない。
あなたは、今そこで、ずっと、
その子猫を、今も、殺し続けているのだから。
あなたには、南泉の猫を助けることは出来ていない。
それはあなたが悟るまで、絶対に「不可能」なことなのだ。
こんな禅問答を空暗記したところで、
あなたは、異なる状況で同じことを問われたら、
何百匹でも、猫を無駄死にさせることだろう。
実際に、そうやって、あなたは今も、猫を殺し続けているのだから。
■この南泉の物語は、私にとっては、ただの逸話ではない。
このことは、初めて話すであるが、
私は猫の博士が、生死の境を、さまよっていたとき、
三つの選択肢の中にいた。
二つの選択肢しか、これまであなたたちには話していない。
つまり、
第一の道は、彼を医療によって助ける。
第二の道は、どれだけつらくても、彼の死を静かに見守る。
第三の道、それは私の手によって、彼の苦しみを終わらせる
という選択肢だった。
このことは、砂手すらこれを読むまでは、
今日まで知らなかっただろう。
私の中には、この自分の手で彼を楽にするという選択が
10%だけは、確かに、あったのである。
その三つの選択の中で、あのとき私は迷っていた。
いや、正しく言うと、迷っていたのではなく、
答えが、自然にそこに現れてくるまでは、
決して自分でその三つの道のどれかを、
決めようとはしなかったのである。
苦しむ彼を見守るのは、つらかったが、
それでも、回答を自分の常識や頭の中から出してはならなかった。
そして、答えは、「博士自身」からやってきた。
彼はどうしたいのか、
それを、自分の口で、しかも人間の言葉をしゃべったのだった。
もしも、彼が生きることを最初から望んでいたならば、
私は、それを察して、彼をすぐに病院に連れて行ったことだろう。
しかし、それが私に直感として明確にならなかった最大の理由は、
彼自身が、生死のどちらを選択するかについて、
その最後のぎりぎれの土壇場まで、
選択を決められなかったからである。
私に看取られる最後を選ぶか、
それとも、私と共に生きるか、
それを彼はギリギリまで、決定できないでいたのである。
つまり私は、彼を斬っていた可能性すらあるのだ。
●だから、南泉斬猫の物語は、
私にとっては、絵空事ではない。
しかし、あなたにとっては、ただの絵空事であり、
ただの、くだらないクイズごっこ、禅ごっこにすぎない。
そんな貴方も、自分の生死の最後の選択か、
あるいは、自分の大切な人の生死の選択をあなたがしなければならない
その状況におかれたとき、
そのとき、はじめて、この南泉の物語は、
生きた禅問答となるだろう。
苦しそうだから、老いているからといって、
だからといって、それを自分の手にかけるのが、
全くの、ただの「安楽死カルト」という身勝手な考えによる
大きな間違いであることも、多くあるのである
なぜならば、たとえば、あなたの犬や猫やペットが、
怪我や病気や老衰によって瀕死の状態にあったとしよう。
馬鹿な者は、苦しいから助けてやると勘違いして殺すかもしれない。
しかし、その犬や猫が、自分の命をかけて、
最後の瞬間に、何かをあなたに教えようとしていたら、
あるいは、その犬猫には、正しく死ぬべきタイミング、
つまり「正しく旅立つべき」時刻があるのであるから、
あなたは、たとえ1時間でも、30分でも、10分でも、
その彼らの旅立つ時刻の判断を誤ったらば、
その犬や猫の最後の瞬間を、身勝手な信仰で「台無し」にしたという
大罪を犯したことになるのである。
そういう愚かな人間を、私は知っている。
人間の場合においては、
そもそも、人工呼吸器というものそれ自体が自然のものではないために、
それを外すという選択は、状況によっては、間違ってはいないこともある。
しかし、人工呼吸器をしてるのでもない動物を
安楽死させるというのは、その動物が狙っている死のタイミング、
旅立つべき列車や飛行機の「時刻」を、
大きく狂わせることになるのである。
●だから、あなたが悟るまでは、
何ひとつ正しい判断などできまい。
「何ひとつも」である。
目前の道路を、右にゆくべきか、左にゆくべきか、
そんなことすらも、何ひとつも分かるまい。
だから、そんな人間には、
他人や、あるいは他の動物を、自分の勝手な判断で、
「保護」したり、「生かしたり」、または逆に「殺したり」、
そんな権利も資格も、そんな人間には、一切ありはしない。
________________________________________________________
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