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▲感情と知性の役目 本当のあるがままとは▲
by:
砂手
2008/01/20(Sun)19:19:09
竹の間の投稿の通り、
自殺未遂はほぼ3日に一度、
口論は毎日、と記憶しています。
以下『虚無の微笑』でも触れたことですが、
私は、20歳で、最初に闇に落ちるまでは、
『感情系』の人間ではなく、いつも冷静でした。
他人はもとより、自分でも冷静だとわかっていました。
しかし、それは、感情を抑圧していたのではありませんでした。
当時(4歳〜20歳)の私にとって、感情は、縁遠いもので、
『思い』は、言葉ではっきりと表現すればいいのでした。
感情論で物事の是非を問うのは、ナンセンスであり、
「矛盾しているかしていないか」「理にかなっているかないか」など、
それが争点でした。
ですから、そういった小学生の私は、大人には煙たがられました。
「感情抜きで、理屈だけの私は、確片端(かたわ)であろう」
ということは当時から、気付いてはいましたが、
感情の惰性にのみ流され、言い訳だけの大人に承服することは
一切ありませんでした。
それが当時の私にとって誇りのひとつでもあったのです。
私の周りには、そういう大人しかいませんでしたが、
例え、多少の感情込みで理解しようとしても、
彼等との間に、『和解』が成立することはかなわなかったでしょう。
彼等が望んでいるのは、
彼等にとって都合のいい『馴れ合い』だけだったのですから。
さて、私は中学生の時に、
いよいよ、「感情を経験しなければならない」と思い試行錯誤しました。
その頃には、思うようにはなりませんでしたが、
それから近い将来に念願叶った『感情』がもたらしたものは、
驚きの結果でした。
今思えば、その人生の前半部分において、
私が感情の介入を抜きに理屈に次ぐ理屈の『知性』に集中できたことは、
私にとっては、理にかなっていました。
感情があっては、知性にがんじがらめになることが難しいからです。
一方、闇に落ちることによって、
それまで自分を主導してきた『知性』は失墜させられ、
(その前後のことは『虚無の微笑』参照してください)
今度は、『知性』というストッパーが一切無い状態で、
『感情』を爆発させることが可能でした。
無論、その『感情』の発露は、自分の目でしっかりと見届けなければ
経験したことにはなりません。
我を忘れてしまっては、それは、さながら他人の経験に等しいのです。
そんなことでは、せっかくのどん底の経験も無価値になったでしょう。
『知性』と『感情』この二つを、
上手く同時に乗りこなす人もいると思いますが、
私にとってはこれが、最良のカリキュラムだったのだと思います。
これにより、
『感情』『知性』それぞれに、充分主張をさせ、走らせることができ、
それぞれ、崖から落ちることができたのでした。
私のような極端な性質には、
この方法が、合っているやり方だったのです。
そして、私の場合、女性であるので、
知性はどれだけ酷使しても、し足りないということは無かったのです。
女性は、身体の構造上、生理になれば、おのずと、
次第に、地に引き摺り下ろされることになるので、
人生の前半(20歳まで)に知性の足固めをするべきだと思っています。
女性は特に、知性を置いてけぼりにし、夢見がちであったり、
直感やフィーリング系に走りたがりますが、
それでは、ただの『いたこ』で終わってしまいます。
それでは、降りてきたインスピレーションを、
自分で消化することができないと思います。
それでいいなら、いいのですが。
だた、これは『自我から離れる』ということの前提の話しであり、
望まないひとには関係ありません。
例えば、「かわいいお嫁さんになりたい人」は、
私のようなことは、絶対にやってはいけません。
自我に翻弄されている段階で、
果たして『知性』と言ってもいいのかどうかわかりませんが、
『知性』という言い方が、カッコ良すぎだとすれば、
『理屈』『頭脳人間』という言い方でいいかも知れません。
精神世界の一部の人はとかく、感情は軽視しがちのように思います。
しかし、感情というより、それの元の性質を『感情性』と呼ぶならば、
『頭脳』に『感情性』が加わることで、
とかく物事の白黒を付けたがり、極端な結論がお得意の『頭脳』に対して
その頭脳労働では、有り得ないような、巾、奥行き、立体的な複雑な
バランスが出るようです。
ただ、自我を通過すると、その『感情性世界』のものは
一気に、頭を混乱させ、元の姿がふっとんでしまうんですね。
元々は、それ単体ではひとつの世界でしかないのですが、
自我を通すと、とても歪曲されてしまいます。
ですから、『感情性世界』が不当に誤解されているこの様には、
唖然としました。
自我の持つ『感情』は、
それが来る、もとの世界とあまりにも違っていて、
明らかに『理屈』なんかよりも、
自我には、本質が理解され難いもののようです。
怒りは怒りの空間であり、
悲しみは悲しみの空間であり、
喜びは喜びの空間でしかなく、
良くも悪くも、正しくも間違ってもいない。
そもそもは、人間が言う、
「感情は、そのままがいいのだ」、とか「自然に怒ればいいのだ」
とか「発散」しなさいなどと言うものの対象ではない。
なぜならば、
それら、そもそも人間のものでは無いのです。
それらは人間が自己表現の為に使う産物でも
自己表現の時に出るものでも、
そもそも、人間がいるから、あるものでも
人間が生み出したものでもない。
怒りは怒りのもの
悲しみは悲しみでしかなく
喜びは喜び
そもそもそれらを、誰も所有などしていなかったのだから。
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