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Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1241]
■
「存在を認められたい人達の狂気」
by:
砂手
2008/01/22(Tue)16:19:54
両親を発端とし、異性や社会に、
「自分の価値を認めてもらえなかった」という、
その自分の悔しさを無視し続け、劣等感の塊になっている人間が多く居る。
そして、そういう人間が、たまにですが、
無明庵にメールをよこして来ることがある。
彼らは、
「無明庵に認められれば、自分を認めなかった全ての人間を
負かしたことになる。そうなれば人生逆転だ。」
という自分の動機に、無自覚なままでメールをよこして来る。
あるいは、更にひどいと、
「ここ無明庵でなら、必ず自分の価値が認められる」と信じて疑わず、
こちらから「あなたは、おかしいです。」と、丁寧にお伝えしても、
「僕の価値を認めないと、許さないぞ」という歪んだ考えを屈折して
表現してくる者もいる。
このひどいケースの人達は、
「僕は無明庵に認められて当然で、
すでに認められているはず」という思い込みで、
いったい何年、そのつまらない人生を、食いつないで来たのか知らないが、
そこまで御立派な僕(俺様)なら、
「僕が僕自身を認めればそれで、充分だ」ということを、
わかろうとはしません。
なぜ、成人にもなって、
他者に「自分を認めろ」と、幼稚な言動をするのでしょうか?
また、これは、ロクに恋愛もしたことのない人間だということが、
とても、よくわかります。
この人達は、いとも簡単に凶悪犯罪者になるでしょうね。
「普段は大人しいのに・・・」という例のよく報道されるタイプで、
そしてすぐにキレる人です。
本来、この人達は、自分を認めなかった自分の両親に向かってのみ、
やりきれない思いをぶつけるべきであるのに、
自分の親に対しては、一向に頭があがらないので、
親に対して、怒ることすらもできない人達なのです。
無明庵に、そんな両親の代わりになれとでも言うのでしょうか?
「僕を認めろ!!」と、屈折したやり口で、訴えてくるわけです。
こんな態度は、彼らは自分の親に対して向けることすら出来なかった
でしょうに。
彼らは、どれだけ、竹の間を読んでるんでしょうか。
そういう気持ちは親に向けるものだ、と、
それが発生した場所で落とし前をつけることだと何度も書かれているはずです。
こういう人達が、両親との関係において、落とし前をつけられずに、
赤の他人を積極的に傷つけるような犯罪行為に走るんですよ。
たとえば、こういう人達は、
「僕を認めてくれないなら、
僕は、他人の人生を左右できる力があるということを、見せつけてやるぞ」
と思い込んで、その結果「通り魔」などになり、
全く無関係の赤の他人を巻き込むような、理不尽極まりない犯罪に
手を染めることが多いようです。
しかし、この人達は、ごくごく幼稚な精神状態なので、
これを言われた「当の本人」は、
この投稿を読んでも、決して
「それが自分の事だと、思える自覚が生じません」。
一方で、そうでない、この例に含まれない「まともな人」が、
「これは、もしや、自分そのもののことではないか」と悩むのです。
▲さて、この犯罪傾向のある
「僕を認めてくれないと、許さないぞ」系の人達について、
大きな猫と話していると、
「もしも仮に、私が、こういった人達、相応しい、
彼等が心底望んでいる状況をプレゼントできる立場にいたとしたら、
こんなのにするだろうな。」
と、話し始めた。
「そのプレゼントは、
受け取りようによっては、『刑罰』と取られてしまうかも知れないが、
私としては、かなり、親切なプレゼント、のつもりなのである。
例えば、『自分を認めてくれないと、許さないぞ』といった、
狂気の中に住んでいる、人間に対しては、
何年かの間、または一生寝たきりになるような運命に導いてあげるだろう。
なぜならば、その結果として、その者の家族はその者に対して、
心にも無く、
『がんばってね。』とか『あなたがいないと、みんな悲しむのよ』とか
『死にたいなんて言わないで下さい。』とか看護婦さんから
は『早く元気になりましょうね』などなど、
存分にその者は周囲から、その存在を『認められる』状態になるからである。
そんな者がもしも、私に苦情を言うとしたら、
あるいは、運命を呪うとしたら、
私は、その者にこう言うだろう。
『どうだい。君の 望んだ通り じゃないか?』と。」
________________________
これは、とてもクリエイティブだと私は思った。
自己学習コンサルタント、とでも言えばいいでしょうか。
無論、大きな猫は(現在は)そういう役職にはいないので、
その者がそうなることは無いので、ご安心を。
大きな猫が続けた。
「だいたい、無明庵に認められて、
それがなんぼのもんだと、言うのだろうか??
もしも、私が誰かを『悟っている』とか、
『すごくまともである』と認めたらば、
確かに、それは、ものすごく稀なことだとは思う。
無論これは、私の主観である。
しかし、その人は社会的にあるいは、霊界的にいってもおそらく、
私が認めたようには誰からも、認められないだろう。だから、
いったい、無明庵や、EOイズムに認められたり、無視されたからといって、
そんなことが、
一体、あなたの人生に、どう関係あると言うつもりなのか?
私には、全く理解できない。
●たとえば、砂手は、
完全に、その中悟を私に認められているが、
彼女の人生に、社会的に、あるいは他者から、
何かの利益が降って来たことなどただの一度もない。
彼女には、それこそ既に悟りの至福の花が、
人知れずに、絶え間なく降り注いでいるのだから、
この上、一体何の利益が必要だというのだろうか?
むしろ、逆に、彼女は私にその悟りを認められたことによって、
利益どころが、屈折した軽蔑心や嫉妬の目にさえ、さらされていることだろう。
すなわち、誰かから認められたからといって、
そこに何の他者からの評価という利益もないのが、
悟りの世界の最大の特徴である。
ごく少数の、それが理解できる資質のある人達は、
尊敬の念を向けるかもしれないが、
残りの9割の人間からは、常に歪んだ批判を受けるのが
この世界の構造なのである。
私達が、もしも、もっともっと簡単に、
悟りというものを、人々に分かち与えることが可能であったらば、
それは、「受け取った人達、あるいは実現した人達」からの
正当な評価を私(私や砂手)は受けるだろうし、
それはちょうど、「セックス」や「手裏剣」の分野では可能だったように、
私自身が、それを受け取っても、逆に感謝すらしたくなるような、
「全く歪みのない評価」を私達は他者から受けることになる。
これと同じことは、いわゆる創作の世界や、製品開発や娯楽の
世界では成立する。
だから、そんなに他者から認められたいのであれば、
悟りなどに構っていないで、
社会的な成功を、きちんと果たして、そこできちんと満足してください。
ほとんど9割以上の、悟りに対して無知な人達たちに囲まれて、
伝達の可能性は、たったの0.01%以下、
しかも、社会的には、歪んだ病人たちからは、批判を受け続ける
これほど、社会的にはワリの合わない分野はない。
もっとも、「非社会的」には、
これほどまでに、繊細に完成された「幸福」は、
悟り以外の中には、どこにもないのであるが。」・・・・
_______________________________________________________________
ここで、ごくごく一部の「傲慢な読者」に言っておきたい。
あなたはどうせ、そもそも理解できないのだから、
あなたが私の文章を読んで、
「砂手は悟っているっぽい」と、
一歩引くようなそぶりを見せるくらいなら、
あなたは今のまんま、偉そうなごたくならべて、
私を、「ただの小娘だ」と馬鹿にしておる、今のままでいろ。
ずっと私を、小馬鹿にしておれ。
あなたは、今後、一寸も私に対する見解を変えるな。
あなたが、もしも私への見解を変えそうになったら、
その時、あなたは、
あなた自身の動きを、しっかりと見て、
その、あなたの「浅はかな、せこさ」に、嘆くべきだろう。
______
私「例えば、誰かに崇められるくらいなら、馬鹿にされる方がいい。
このいずれの誤解を選ばねばならないとしたら、
私を馬鹿にしておれ。になるよね?」
と、大きな猫にそう言うと、
大きな猫
「だって、下手に崇められると、被害が、大きいだろう(笑)。」
私
「でも、今の時代は大丈夫だね。」
大きな猫
「ああ。幸いに、今の時代は、とても安全な時代だよ。
どんな真実を言っても、
『また、何か変な事言っている奴がいる、』としか思われないからね」
私
「よく昔から、『道』を行った者のことを、
いやらしい奴らが、彼等の都合で作った敬称で呼ぶが、
この『道』の到着地にいるのは、ただの『馬鹿』だよ。
前に大きな猫が『悟りは、どんどん馬鹿になることだ』と言っていた時、
当時私は、それは、
悟った人の一種のウィットなのかな〜、と思っていた。
でも、そうではない。
これは冗談ではなく、ただの『馬鹿』なのだ。
これこそ、自我には、これは決して理解できない。」
大きな猫
「じゃあ、その『悟った状態を、馬鹿と表すに相応しい』というのを
自我のある人が聞いたとする。
すると、彼等は一体、何を想像するだろうか。
無論、悟りに関するガラクタの知識を集めれば、
一般的な馬鹿を言っているのではない事ぐらいは彼ら馬鹿も想像する。
あとは、せいぜい、勝手に想像できることは、
@雑念が無いから馬鹿のよう、とか
A意識がぶっとんでいて、頭がからっぽだから馬鹿のよう、とか、
あとは、そうだなー・・・
私
「社会常識や、社会通念を、」
大きな猫
「そうそう、それ。
B社会常識や、社会通念を無視したような言動をするから馬鹿のよう、
とかという、全くの誤解を彼らはしてしまう。」
私
「それと、
C自分に起きた現象、外側の現象を、無差別にすべて、
何も考えずに、無抵抗に受け入れるというサマが馬鹿のよう。など。」
大きな猫
「そして、勝手に想像してつくり出した、この4つのうち、
自分が真似できそうな、都合の良い部分をつまみ食いして、
それらしい気分に自己陶酔するのが彼らだよ。
しかし、残念ながら、
このいずれも、本当の馬鹿の意味を表現できてはいない。
また、無明庵の読者には、それこそ、最も馬鹿な読者の中には、
『何もわからない状態』とか『認識不可能な状態』でも良いと、
全くの勘違いして、
それを悟りとか、または、他の人間に比べて、マシな状態にあると、
とんだ勘違いをしている、鈍感な者もいる。
じゃあ、ここで聞きたいけど、
砂手なりに、馬鹿の状態とは、どのようなことと、表現するか?」
私
「私は今、個体性の枠がはずれて、
かつてこの状態にあった意識達が相手にしてきた、
集合自我の問題を検討できる状態に、私があることがわかるのです。
つまり、集合自我が今まで、
『個体性の枠がはずれた意識』を見ては、
いつも、どのようにそれを誤解してきたのかの具体例を、
今は検証することが可能であり、
私には、言及できることがあるのです。
そして、私は、2年前まで、お付き合いしていた『自我』の性質が、
どうであったかという記憶がまだ、新しくありますので、
それを検証しやすいとも言えます。
そこで、この『個体性の枠がはずれた意識』が、
自我の都合で、やらしくも崇められてきたという問題を改めて見たのです。
その一面で、自我はこの意識に『聖』などという言葉をあてがい、
自我のご都合主義のため、利用し、汚してきたわけです。
私と、大きな猫は、お互いの状態がわかるので、
あえて、互いを『馬鹿だね〜』と言い合う必要もない。
が、『私は、馬鹿ですよ。』と言う必要のあるのは、
悟りを崇めたり憧れたりする集合自我にです。
◎A馬鹿のフリをして、
『こんなに馬鹿な自分はすごいだろー。』と偉ぶる集合自我に、
言う必要があるのです。
◎Bこれは、崇める対象では無いのに、性懲りもなく崇めてきた、
集合自我に、言う必要があるのです。
その集合自我に、
『あなた達は、絶対に、この馬鹿にはなれません。』という、
【厳然たる事実】としての、
『私は馬鹿です。』なのだ。
つまり、『本当は馬鹿になりたくない人』
『本当の馬鹿になれない人』に対して、
私は、『私は馬鹿です。』と、事実を言います。
さて、先ほどの大きな猫の質問、
馬鹿の状態とは、どのようなことと、表現するか?、ですが、
評価の対象の消滅と、評価する主体の消滅が、
馬鹿と表されるのだと思います。
『還元』されるものが無ければ、
『アンチ馬鹿』であるところの『成長』が無い、ということです。」
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