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[1246]
■
■カウンセラーの限界
by:
砂手
2008/06/30(Mon)07:43:45
カウンセラーの限界
率直な印象としては、
世の中の心理学、カウンセリングの理想は、苦しい限界を持つと思う。
彼らは人間一般の自我の特性を分析することで、
陥った病状に対して、自我に肯定的な情報を流入させることで、
病状の回復や、緩和を目指している。
例えば、大雑把に言えば、
親から見捨てられ不安を植えつけられた子供に、
「受け止められる」経験をさせることによって、
もう一度、正常な自我の発達を促すというもの。
誠実なカウンセラーの手法は、ごくごく正しいのだが、どこか苦しい。
私は、彼らのどこが苦しいのだろうと思っていたら、
「本来、子供(自我のはじまり)は真っ白で、良くも悪くも無い。」
と、カウンセラーに譲っていただいたとしても、
カウンセラーの理念は、
それでも、『自我の性善説』に依るしかないというところが、
その理念を、最終的なスタート地点にするにしても、
ゴール地点にするにしても、とても苦しい。
つまり、カウンセラーが『自我の性善説』という前提を持たなければ、
患者をカウンセリングの船に乗せることもできないし、
乗客も、『自我の性善説』という宣伝文句が無ければ、
船に乗りたがらないということ。
それは、例えるなら、
正常な自我=正常(健康)な身体 が基本スタンスだとして、
その正常に機能している身体、というものは、
そもそも、いったい何なのか。
”正常な体”と、言われるモデルケースというものは、あるだろう。
五体満足、どこも痛くない。健康診断でひっかからないような。
しかし、そもそも、身体とは、いったい何なのか。
私見では、『正常な自我』というポイントと、
『自我とは何なのか』という疑問のポイントを結んだラインを、
それを、できる限り果てなく伸ばしていった先を思う時、
『自我の冬』が来る。
無論『正常な自我』を開花させることは必要不可欠なことだと思う。
それを折々の季節に例えれば、
自主的な=自我を手にする春は、生まれたばかりのように、はしゃぎ、
喜び、その喜怒哀楽は、すべて、その人のものになる。
そして、その自我を大切にするほどに、
どんな苦労も苦労と思わないような、
自分の可能性に火をつけて燃やしまくるようなそんな夏が来る。
そして、自我の実りを確認する季節が来る。
ゆったりとおおらかな季節の秋。
そこへ来ると、もう自我における遣り残しは、見当たらない。
自我が己の存在の意味を問い始める。
それまでの自我経験と、
今、冷たく、自分を見つめる意識とが遊離しはじめる。
それが、自我の冬。
>しかし、その冬は、寒さをしのげば、時間をやり過ごせば、やがて春が来る、
>というわけでは無い。
そして、冬から次の季節を迎えるには、もう『自我』は連れてはゆけない。
>次の季節を迎える時、あなた、は、居ない。
カウンセリングは、自我を春へと導くことは出来る。
(もちろん、本人が努力すれば。)
それは、絶対に必要なこと。
しかし、自我が消えた次の季節を迎えた者に言わせていただければ、
『自我』は、存在の始まりには、無かったものだということ、
そして、自我のある時には経験できなかった、
無私の静けさや不思議が、ここにはあるということから。
自我=性善説とは、とても言えない。ということ。
とはいっても、自我をその身に、
一旦は引き受けてしまった、人間という生き物は、
その自我を、しっかりと、面倒をみて、
余すことなく大切にしなければ、自我との別れはやって来ない。
・・・・・・
私が、自分の自我と取っ組み合いの自我嫌悪の長い日々の末、
最後の時、
「私は、これと、このまま運命を共にして、
死んだ先でも永遠にこのままでも、いい。」という覚悟が生まれた。
このまま、自我嫌悪と共に先のわからない一歩を踏み出そうと、
覚悟したその時、
私の自我は、私に向かって、具体的な姿を現し、その顔を向けた。
それは、私の姿のようでもあり、
見たことも無い姉妹のような姿でもあった。
その湖面に映ったかのような、その姿が、最初で最後の言葉、
「ありがとう」というささやきと共に、次の瞬間消えていった。
私は、その時はじめて、純粋な『感謝』の概念を知った。
『思い残すこと、一切無し』という状況下で、自然発生する現象。
それが『感謝』だと知った。
つまり、『感謝』とは、感謝を捧げる主体も、感謝を捧げられる対象も、
そもそも存在する必要は無く、
すべてが、納得のもとおさまった状況それ自体から発生する。
以来、私の中に、『自我』という自意識の所有者は、現れない。
自意識とは=「私が○○したんだ」「私が○○考えた」
「それは、私の○○。」という
私が、私が言う意識と、ここでは定義している。
自我とは、その自意識をコレクションして、
一つの人格として方向付けたりして、
自己同一性を保持しようとする運動体。
自我は重力のようなものがあり、
自意識のコレクションを引き寄せて、なかなか手放そうとせず、
自我とそのコレクションは、外から見ると、”塊”のように感じられる。
その運動自体は、人間の視点からは、良い悪いは無いが、
明らかに、自我は苦痛を量産する。
私の書いた文を読むと、大きな猫は言った。
___大きな猫______
「そう。
問題は、カウンセラー自身が持つ、価値観が、
患者を連れてゆく岸辺を決定する。
しかし、カウンセラーというのは、資格のある職業だ。
資格がある職業というのは、患者が、到達すべき岸辺が、
すでに、常識で決められてしまっている。
なぜならば、もしも、そうでないカウンセラーがいたとしたら、
それは、哲学者か、導師のようなものになってしまうからである。
では、カウンセラーのマニュアルに、
どのような状態が患者が正常になったと、言えるのか、を見れば、
それは恐らく、どのような状態が病んでいるかという
チェック項目と、大して変わらないものになるだろう。
この場合、無論、異常と正常のチェック項目は、
真逆の内容になっているだろう。
しかし、いつものごとく、心理学のチェックシートというのは、
正常な人間もが、あてはまってしまうような、
異常についての項目を多く含み、
逆に、異常な人間が、当てはまってしまうような、
正常についての項目が羅列されていることだろう。
結局の所は、カウンセラー自身が、自分の経験則と自分の世界観によって、
患者が治ったとか、治らない、という判断を下すしかない。
場合によっては、患者の自己申告によって、それを決定するケースもあるだろう。
これと、非常に似たようなことは、
実は、スピリチュアルカウンセラーにおいても、同様である。
この二つは、つまり、地上のカウンセラーと霊的カウンセラーは
同じ程度の水準に位置している。
だから、下手をすれば、地上的カウンセラーが、
自分の治療に、限界を感じれば、
いとも簡単に、彼自身が、今度は、船に乗って、
違う診療システムの医療や、スピリチュアリズムを学びたがることすら
ある事だろう。」
___砂手______
:「カウンセリングにおいて、精神的な自己治癒力を引き出すという手法は、
人間として、とても健全だと思いますが、
しかし、やはり自我の性善説に拠るので、苦しく見えます。
つまり、本来の自我のあるべき姿を取り戻し、自己治癒力を引き出すことは、
健全な自我の季節を経験してゆくことに全くもって必要なことですが、
自我善説として、
『あなたの、自我本来の姿は、そのままが、あるがままが、それが良い』と言うのは、
見ていてとても苦しい。
自我はそもそも『あるがまま』を知りえないという事実は、
ここでは置いておいてもです。
そこまでの『自我肯定感』を声高に宣言しなければならないのは、
それまでの自己否定へのカウンターバランスを取る為だとしても、
行き過ぎていて、
逆にバランスを崩してしまっているようでもあります。」
自我の冬の先にあるもの
___大きな猫______
「次の事例は、めったに無いことなんだけど、
例えば、完治したと言われる患者が、
その後、何年かして、同じカウンセラーの所にやってきたとする。
そして、こう言うかもしれない。
『先生のおかげで、すっかり自分を取り戻しました。
あれから、数年間、人生の楽しみを取り戻すことができました。
この数年間は、私の人生の中で、最も最良の時期でした。
でも、この半年は、私の人生の中で、最も最悪の時期です。
なぜならば、すべてが虚しくて、
私は、毎日、死ぬことしか考えていないからです。』
カウンセラーはこれを聞いた時に、
十中八九、相談者の、何かの病理が再発したと、
判断してしまうことだろう。
しかし、実際には、砂手が言うところの、自我が、冬を経験している状態で、
あるかもしれない。
しかし、世の中には、その違いを理解できるカウンセラーは、皆無だと言っていい。
自我が、成熟し、飽和した結果なる虚無感と、
まだ、春も知らない植物が、尻込みして感じている不安と虚無感とは、
180度性質が違っている。
実際のところは、そうした患者、
つまり前述したような自我の冬にいる患者にとっては、
『患者では無いのだが』カウンセラーはすでに、全く無力であろう。
なぜならそれは、心理学が言うところの病理ではないからである。
>その先は、カウンセラーの領域ではない。
無明庵の本というのは、あらゆる季節を経験してきて、
その『自我の冬』すらも長い間経験してきた人達、
その人達だけを想定して、語ってきた書物がほとんどである。
しかし、どの時代でも、起きた誤解によって、
自我の冬以前にいる人達までもが、冬の先にある、
『季節の無い世界』を夢見てしまった。
カウンセラーが『正常になった』とみなすのは、
自我の出発点のところであり、
自我の終わりの部分は、『異常』と認識されてはならないのである。
しかし、多くの場合、カウンセラーの知識では、
それは、『異常』としてしか定義できない、
それが、カウンセリングの持つ限界である。
しかし、それでも、こうしたことを言ってしまうと、
実際に、自我の正常な出発点にすら、立っていない自分の異常さを棚に上げて、
>本当に異常な人が、『自分は異常じゃない』
>『自分に必要なのは、カウンセリングではなくて、
>もっと、上の世界だ。』とやってしまう、そのような、
>【本当の病人】が、精神世界や宗教には、あまりにも、多すぎた。
95%はそうだった。
そこで、無明庵が一つの【地図】を作ろうとしたのは、
@・・・カウンセリングによって、修正される正常な自我になる自立方法。(竹の間の主題)
A・・・正常になった自我を、どう満喫するかという具体的マニュアル。(竹の間と梅の間の主題)
B・・・自我が冬を迎える時に何が起きるか。(EOイズムの主題)
C・・・その冬すらも終わる時に、人はどうなるか(EOイズムの主題)
こうしたことの、全体の地図を整理しようとした。
それまで、一般的なカウンセリングと、
脱自我の領域は、まったく分断していた領域である。
カウンセリングから言わせれば、脱自我の領域は、自分達の知らない
それこそ「カルト宗教か、または、伝統的宗教の領域」になってしまう。
一方で、脱自我の体系を持つ側からすれば、
カウンセリングなど、「その場しのぎの低い理想」に見えてしまうだろう。
しかし、私は、人間の自我が経験してゆくプロセスの全体にあっては、
どちらの領域も、軽んじられるものでは無いと、確信している。
だから、無明庵では、
その「二つの領域」を、接合することが、ようやく可能になった。
●余談であるが、和尚の講和の中で、私がとても好きな話がある。
それは、講和ではなく、もしかすると、
身の回りの世話をしていたヴィヴェク個人に話した物語だったかも知れない。
和尚がかつて、迷いの極限の中にいた時、
彼の家族が、医者を呼んできた、という話がある。
するとその医者は、和尚を診るなり泣き崩れたと言う。
記憶違いでなければ、医師が言ったのはこんな言葉である(原文どおりではないが)。
『彼は全く、どこも、狂ってはいない。
そればかりか、私自身が、彼のような状態になることを、
どれほど望んでいたかわからない。』
そういうと、医師は家族を安心させる為に、砂糖の粒を薬である、と、
バグワンの家族に偽って、彼に渡したという。
その話を和尚は当時を思い出して、
「その医者は非常に稀な人物であった」と振り返っていたという。
恐らく、古い時代のインドには、医者本人は、光明を得ていなくても、
患者の状態によっては、それが、通常のノイローゼではなく、
意識が変容する際の、必要不可欠な、プロセスであることを判断できる、
何らかのマニュアルが伝承されていたに違いない。
無論、それは一歩間違えば、インドですらも、
現代医学に、対立するものとなってしまうだろう。
また、知性の無い、医師の手に渡れば、
何でもかんでも、「神聖な狂気」に仕立て上げてしまうこともできたであろう。
それゆえに、古い時代のインド、この場合には、和尚の青年期のインドにあっても、
医学を超える領域の診断法について、知る医師は、極めて稀だったことだろう。
だからこそ、インド人である和尚自身が、『稀である』と言うのであるから、
その医師は本当に稀有な医者だったのだろう。
しかし、現代にいる、それが日本であっても、
インドであっても、チベットであっても、
そのような人間のプロセスを正確に判断できる、普通の医者など、
皆無だと知ると良い。
もしも、スピリチュアル系の教祖が見たら、憑き物でもついているとしか言わないだろう。
この私が見てすらも、
ただの、未熟な希釈自我の末路だと判断するしかない人達が
圧倒的に多い。
しかし、一万人、または、十万人に一人、
または、百万人に一人かの割合で、
本当に、自我の冬が、その終わりに来ている人達がいる場合もある。
■そういう意味では、
「そのような、低い確率でしか存在しない人々」に対して、
語っているのが無明庵の大半の本なのであるから、
普通の人達は、
カウンセリングの本や、せいぜいスピリチュアリズムの信念体系を頼りに、
安易に自我を否定せずに、自我が育ちうる限界まで、
それを経験することが必要である。
◆しかし、こうした、「真実の言葉」に対して、
次のようなことを言う連中がいる。
『悟りへの道は万人に、開かれているはずである。』とか
『悟りは、もともと、万人に備わった本質である。』とか、
『あなたの言っていることは、選民主義で、差別で、特別な人しか、悟れない、
という偏見だ。』
こういうことを言う愚かな人間は、後を絶たない。
しかし、私に言わせれば、
この連中は、ひどく自己矛盾していることに気が付いていない。
なぜならば、『頼むから、大学の門は広くしておいてくれ』と言っている。
しかし、
「その大学に入るのも簡単で、しかも出るのも簡単だ」としたらば、
彼らは社会に出たときに、「どこも特別ではない人間」になることになる。
だから、私はこう尋ねる。
「お前さん達は、自分に劣等感を感じて、
自分に劣等感を感じさせた人間に対して、
一発逆転的に、
『特別な人間になりたい』と欲望して、悟りだ、なんだのに、
かぶれているのではないか?
万人に開かれて、どこも特別では無いものに、ひたっていたかったら、
J-popや演歌でも聴いていればいいではないか。」
だから、この人間達は、ひどく自己矛盾している。
そもそも、心底、『特別では無い』、
又は『万人に開かれた可能性』があると思っているものに、
愚かな人々は、夢中にならないどころか、関心すら、持つはずが無い。
また、そこに、特殊性が無い、あるいは、困難さが無いとしたらば、
彼らのエゴが、それで満足できるわけも無い。
つまり、悟りとか、悟った人、いうものを、崇める時は、
ことさら、必要以上に、持ち上げて、
それこそ、雲の上の人物であるかのように、奉って、
そこまで『特別』な者に、仕立てておきながら、
『誰でも、簡単に、悟れるんだ』とか、
『誰でもその資格があるんだ、』と言ったりしている。
いったいこの人達は、悟りや、悟った人達を、
崇めたいのか、おとしめたいのか、どっちなのだ?
と聴き返したいものである。
◆つまりいつものように、愚かな人達は、
「対象が同じ」であっても、
都合のいい時には、崇め奉り、
都合が悪くなると、平等とか、無差別とか、言い出すのである。
だから、私、あるいは、無明庵は、彼らのお望みどおり、
つまり、彼らの大好きな『無差別』へのご要望通り
無差別に、『誰にも悟る資格など無い。』と、お望み通りの、
『無差別批判』をしただけである。
そもそも、「万人に、悟りへの可能性がある」、と言ったのも、
それは悟った側にいる人間が言ったことであって、
「愚かな彼ら自身の、体験的な認識では全く無い」。
それは、ただの、受け売りと引用であるにすぎない。
和尚自身が、『努力こそが、障害であった』と言っている、
その直後に、『大変な努力が必要である』と言っているのにもかかわらず、
エゴは、甘口の、前者だけを口にして、後者を、食べようともしない。
これが、彼らの、崇めている、導師に対する、
「侮辱」以外の、なにものだというのだろうか。
◆こんなことが恐らくは、仏陀や、イエスの周囲の愚か者達の中でも、
無数に、繰り返されて来たに違いないだろう。
恐らくは、特に、イエスにおいては、
後世の者達が、イエスが言った言葉であると書き記したくないような、
とても受け入れがたい言葉が、少なくとも
記録されている言葉と「同量」は存在したはずだ。
おそらく、無明庵というのは、
記録されなかった、彼らの言葉、つまり、エゴが、口に入れることを
阻むような、側面を遠い過去の中から、拾い上げて来たのかもしれない。
彼ら自身が、絶対的に、経験している、「共通のもの」が
明白に、そこにあるのに、
どうして、その「明白なもの」を自分自身が経験することを、
拒んだり逃げたり挙句には、必要ない、などと言うのだろうか。
その、明白な事実とは、
イエスが経験したのは
『受難』であったという事実。
仏陀が経験したもの、彼を追い詰めたものも、
『死を覚悟するほどの、消えない不安』であったということ。
彼の言った苦というものは、日常的な苦を意味するのではない。
しかし、彼の言った苦を論理的に理解したふりをする事などは、
断じて出来ないのである。
そんなものより、
実際に本人が、肌で感じる耐え難い苦のほうが、どれほど重要だろうか。
なぜならば、
苦の経験とは、その原因については誤認をすることはありえても、
その経験そのものには嘘はないからだ。
実体験としての苦を訴えている者の方が、
すました顔をして、すべては苦なのだからとやっているような馬鹿よりも、
どれだけ重要な体験であるかは、医学的な苦を例にしても明らかなことである。
>極限の苦を知らない者に、極限の楽を知る事は出来ない。
これは物事の当たり前のバランスというものである。
>故に、何かを読んだ結果の、知ったかぶりの「苦」などは、
>知ったかぶりの安っぽい「楽」しか持てないのである。
そのように、
>彼らのようでなければ、彼らのようにはなれないのは、
>あまりにも、明白な事実である。
恐らく彼らは、そのことを、限られた人達には、
何度も、繰り返し、語っていたに違いない。
しかし、それは大衆ウケしない。
それよりも、愚かな人々は、「慰めの言葉にすがる」のである。
例えば、
『それでも神はあなたを愛している』とか『仏性はすでに備わっている』
とか『あるがままでいい。』
しかも、この最後の『あるがままでいい。』
は、何と、近年では、カウンセラーですら、誤読して、
うっかり口にしている言葉なのである。
『あるがままでいい。』と本気で思っているなら、患者など、治療するな。
あるがままに、無差別殺人をするのを、放っておけばいいではないか。
そもそも、
>『あるがままには』『都合の良いあるがまま』もなければ
>『都合の悪いあるがまま』もありはしない。
その領域に、心理学やカウンセリングは決して立ち入ってはならないし、
『あるがまま』と口に出してもいけない。
無論、宗教の信者達も、
金輪際、二度と、『あるがまま』を口にしてはならない。
唯一それを、本当に口にできる資格があるのは、
中悟者以上の者に限る。」
***********************
___砂手______
『愛』というものを声高に言うことへの違和感。
灼熱の砂漠の旅路で、ほんの少しの水を得て、
「水だ、水だ」「慈雨だ恵みだ」「愛だ」と騒ぐのに似ている。
水は、ただの水だ。
その時、あなたが渇いてたら、「助かった。」くらいの話。
その程度のものを、
渇きが癒された、という「癒された感」を大騒ぎされたのでは、
「水の本来の姿」からは、かけ離れてしまう。
地球には、愛がほとんど無いから、ことさらここまで騒ぎになる。
つまり「私は癒されました」
「私は癒される価値がある」
「私を癒してくれて、愛ってすごい」
「愛はすべて」
というように、それらの言葉は、
{自我の誤用}というようにしか、私には感じられない。
「愛。」
人間がひとたび、言葉にしてしまったら、
口を出た瞬間に汚れてしまう。
***************************
★
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