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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1297]
■
禅書道日記−その40
by:
鈴木崩残
2009/08/26(Wed)05:21:47
★雑談★
そもそも、精神世界というのは、人間とどう関わりがあるのか、
という問題は、何度も自分の中で止まってみて
考え直す必要があるものです。
カルチャーの一種として娯楽として扱う人がいますが、
私はあまり賛成できません。
カジュアルになったからいいというものではありませんので。
無明庵の読者の人たちには全員ではありませんが、共通性があり、
精神世界を娯楽的に扱う人は、非常に少ないです。
ごく一部に、「他に行ったほうがいい人たち」がいます。
しかしサイトを開設してから、約10年以上が過ぎた今、
残っている人たちを見ますと、
ある意味では、「駆け込み寺」みたいな状態になっています。
つまり、他では駄目だった、他の体系では満足できなかった、
という人たちですが、
重要なのは、知識的にどうこうではなくて、
生活上に密着した問題として、より深刻な状態の人が多いということです。
深刻さを嫌がり能天気なポジティブ系の人たちは多いですが、
深刻さなくして、どうして問題を解決しようとしたり、
そのためのアクションを起こせるでしょうか?
深刻すぎるほど深刻な問題を通過した結果として
軽くなった人の言葉には意味がありますが、
はなから、「深刻になるなんて馬鹿で、重い奴だなー」とか
他者を見下して、それで、単に「軽いのがいいと思い込んでいるだけ」の
人たちの言葉に、いったい
クラブのDJまがいの軽薄な「乗っているかーい」以上の、
どれほどの意味があるのでしょうか?
それならまだしも、漫才でも見たほうが人生勉強には、はるかにマシです。
よく作られたジョークほど、引いた視線と、
人間性に対する共感性を養うものは、なかなかありませんので。
●さて、無明庵と精神世界それ自体との関係は、少し異質かもしれません。
そもそも「精神世界」というのは、皆さんにとって、
どういう分野だったでしょうか?
私から見ますと、おそらく大雑把には三種類の関わりがあると思います。
1−すんなり、どの分野も、それなりに抵抗なく信じられた人たち。
2−「人間や自分というのは、こんなもんじゃないだろう」と、
日常生活の中のモラルや善悪の定義の限界に疑問を持った人たち。
3−実際にどう考えても、精神世界の分野で困った問題を
幼少期から抱えていた人。
1のわりとすんなりとどれも抵抗無く信じた人たちというのは、
無明庵には多くて、その意味では、よくも悪くも、
精神世界オタクかもしれません。
かく言う私も、子供のときから、抵抗なく、当たり前に、
それなりにどの分野も、「分野の存在としては」、
さして疑う気はありませんでした。
つまり、幽霊ウェルカム、異星人ウェルカム、転生ウェルカム、
超能力ウェルカムの、占いウェルカム、悟りウェルカムという状態です。
ただし、のちに、大人になるにつれて、そこに関わっている人たちの
愚かさには疑問を持つことになりましたが。
2の人たちというのは、
世間的な問題の愚かさと、その中での自分の愚かさを見て、
「人間って、こんな程度のものか?」と疑問を持ち、
サーチしてみると、どうやら、そうではない人たちが存在した
という記録に行き当たる人たちです。
ただ、ここで大問題なのは、
手の届く人たちと、手の届かない人たちが混在していることです。
たいていの場合、精神世界で、有名な過去の人というのは、
やらかしたことが、偉業すぎたり、難しいことだったりします。
俗な分野の超能力一つとってさえも、もともと、何万人に一人
何十万人に一人という異彩を放つ人たちが、
たいていの場合には、その分野のエキスパートとして知られています。
つまり、私達や皆さんがそこを目的地にしても、
それは、最初から無理があるというものです。
それらよりもカジュアルになれば、街中の鍼灸師か、
マッサージ師か、占い師か、気功まがいの治療師、
またはセラピストという程度に、レベルをひどく落としてしまえば、
それは、手の届くものではありますが、
そこで満足できるなら、その程度だったということです。
3の分野が入り口だった人たちは、もう少し深刻です。
これは実際に精神世界にまつわる問題に悩まされたから
その分野に解決法を求めた人たちです。
主に、幼少期から変な感覚をもっていたという場合がほとんどです。
ただし、この3の中にも、問題児がいますし、
主にそれは1の分野に最も多いタイプの人たちです。
それは、次のような人たち。
「働かないでもお金が入るように、開運グッズを買おうぜ」
「とにかく、あのパワースポットへ行ってご利益を貰おうぜ」
「おいおい、あんた、それ違うやろ」という人たちです。
つまり、特定の分野と別の分野を混同する人たちです。
お金が必要ならば、普通に自分に出来る仕事をすればいいんですよ。
パワーストーンとか買っている場合じゃないですよ。
そういうグッズとかスポットというのは、
そもそも、「普通の方法」では解決法がなかった場合の補助に
使うものです。
たとえば、幽霊に悩まされてどうにもならないとか。
平常な状態からの開運ではなくて、
問題がある状態から、それを打破するために、しかたなく使うものです。
●と、まー、精神世界と個人には、いろいろなかかわり方があるわけですが、
そもそも宗教がどうしてこの惑星に定着したかの理由は、
既に「宗教に汚染された地球人」に分類して書いたので、
ここでは省きますが、だいたい理由は3種類です。
●それで、無明庵と精神世界の関わりというのは、
実際には、ごちゃまぜにしてはならない分野を分離しようとしたことです。
特に悟りという問題について言及した理由は、
紀元前から、この問題は、たびたび出現しては、世の中に
余計な混乱を作ってきたわけですが、
その混乱の生じ方は、
超能力やらUFOやら、霊感詐欺商法とは比べ物になりません。
それらの分野は、「社会の経済システム」に組み込まれる「商品」ですから、
矢追さん的なテレビ番組や、特番として成立しますし、
まー、出たりひっこんだりしながら、「ネタ」として生き延びてゆくものです。
カルト教団のモグラ叩きも同じようなもんです。
●ところが、問題なのは、本物の人たち。
これは、そもそも、人間社会とは関わりをもてない。
範囲を宇宙にまで拡大してみても、
彼らは、あまり他者とは関係を持ちたがらない。
彼ら自身が、それが「個人的な事」であることを最もよく知っているので、
それを社会現象にしようとは思わないわけです。
それを社会現象として価値のあるものとしようとしたら、
それは悟ったと自称する者の「誤認」によるものです。
ちなみにあの和尚、実は彼もごく「個人的な動機」で、
あれらの問題にかかわったのであって、
何かの広範囲の計画がそこにあったわけではありません。
●精神世界の中には、小悟レベルならば、いずれ、自動的に、
人類は到達すると思い込んでいる、かなり馬鹿な人たちもいるようですが、
そうは問屋が卸さないのが、この世界です。
それで、結局無明庵が、精神世界という分野に、
外部から関わった最大の原因は、
「どうやって悟れるか」ではなくて、「どうして悟れないか」という
ことにつきます。
可能性はゼロではない。
しかし、非常に困難であると。
これに異を唱えるならば、この2500年の世の中を見てみなさいと、言ってきたのです。
一体、どこに、それがメジャーになった時代がありますか?
ほとんどありませんよ。
理由は、それ自体は、商品にならないからです。
エゴが、それを社会で応用することが不可能だからです。
いろいろなしがらみから、抜け出る方法が、
どうしていろいろなしがらみを拾い込むことに応用など
出来るでしょうか?
●既に述べた「人間の現状を超え得る可能性」のうち、
明らかに、悟りという分野は、人間の状態からは距離が離れすぎています。
多くの人たちにとって、現時点では、
手の届く精神世界の分野ではありません。
しかし、それを「手が届く」と誤認をした人たちが、
インチキな自称最終解脱者のオウムの麻原のような詐欺にひっかかったわけです。
●それで、結局のところは、
「何度も悟り人が、ここに出現するわりには、
どうして、いつも結果は同じなのか、何も成果がないのか」
ということを、ありのままに観察した結果、
悟りには、絶対に変更不可能な原則というものがあるというのが
無明庵の結論です。
決定的に必要なのは、悟りと称する「鼻の先に吊るされた人参」を
追いかけるための何かの行為、たとえば、瞑想ごっことか、
セラピーごっことか、座禅とかではなくて、
「自我の完全燃焼」が、結果として次の軸を引き連れてくるという
必然性から考えて、
むしろ重要なのは、悟りと「真逆の位置にあると人々が思い込んでいた」
自我の問題そのものであるということです。
●それゆえに、無明庵では、悟りの問題は、
EOシリーズで、嫌というほど語られていますので、
1997年以後からは、自我が最も成熟させにくくて、
つまづいている「性」の問題の完全な体系化に関わり、
つづいて、自我がもっともつまづいている、自主性の問題、
つまりゾンビ問題、機能不全家族問題に焦点をあてたわけです。
機能不全家族問題は、未だ特効薬は「とにかく一人になる」
または「一人にさせる」以外に方法はありませんが、
セックスに関しては、「超人になれ」といっているのではありません。
ほんの2年ほどの努力で、誰でも(男性の場合)、
女性を何度もオーガズムに誘導することは出来ます。
それが出来ないのは、単に、私が三冊の本で書いたことの、
必要最低限の努力を怠っているだけです。
健康上、深刻な問題さえ抱えてなければ、
少しの努力さえすれば、どうにでもなる問題であるのに、
それで、セックスが上手くいかないとか、
夫婦や恋人の関係で問題を引き起こしているというのは、
全く馬鹿馬鹿しいです。
しかし、それも、あれ以上にアドバイスすることはありませんし、
あの三冊のセックスマニュアルは、この先、200年でも通用しますから、
もう言うことはありません。
「性のレシピ」と「虹のオーガズム」はマニュアルに終始しましたが、
私が本当に書きたかった性の本質と、
そもそも人間が異性を好きなる、または精神的にであれ、
性的にであれ、結合したい意志というのは、どういうことなのか、
それに決着をつけたものを、私はずっと書きたかったのですが、
それに到達できたのが「性恋愛教本」の後半部でした。
●それで、話が戻りますが、
自我が、ある一定の飽和状態になることのほうが、
そのあとで、どう生きたり死んだりするかは別問題として、
重要であるわけです。
しかし、俗っぽい「悟り」の世界の常識では、
自我は、不当に、悪者にされてきました。
それこそが起爆剤であるにも関わらず。
●自我を完全燃焼させれば、悟りへの経路は、おのずと開く人もいる、
というのが原則であるのに、
自我をはなから否定して、それを除去しようとしたり、
自我の作用を敵視して、自我によって自我を押さえ込むことは、
単なる徒労であるばかりか、
それは社会的には、害悪です。
その害悪の最たるものが、カルト教団や、カルト禅寺です。
または、いろいろな新興宗教のうち、
特に、悟りうんたらかんたらを、他人に押し付ける者たち。
_____________________________
■そういうわけで、なんと、2500年も、
ある種の秘教的なものを知っている魔術師たちのようなごく一部の人たち以外は、
悟りという経路の「道順を曲解していた」、
それゆえに、問題ばかり引き起こしていたことにたいして、
終止符を打とうとしたのが、無明庵の仕事でした。
●まず悟りというのがどういうことなのかを、
明確に「定義し直した」のが、EOシリーズでしたが、
そこから引き継いで、無明庵で行ったことは、
目標にすべきでないものを目標して、
人生の時間を無駄にしてしまった人たちを、
元の道、「正常な順路」の道に戻すことでした。
正常な順路にさえ戻れば、
この世界はもうすこし、マシな面白さを生み出しますし、
その中から、その次は、死にたくなるほど、しんどいでしょうが、
その次の軸に移行せざるを得ない人たちも出てくるからです。
●そもそも、自我がまだ、今のような「ひどい希釈」をされる前の、
16世紀あたりには、生活水準こそ、今よりも劣るものの、
この世界がまだ「楽しみ」を持っていたと私は考えています。
全自我だけの人間社会というものがあった場合、
当然のこととして、それは会社に二人の社長がいるような状態ですから、
対立は常に起きます。
しかし、そうした対立は創造性を孕んだものですから、
無益な争いという感覚はあまりありません。
●一方で、もしも人間が4倍、あるいは8倍に希釈されてしまったら、
それは「労働力」、または「他の強者の餌食」以外の存在意味を
持ちません。
それでも、皆さんは、
自我が希釈された人間の集団が作る社会がお好きだったり、
そこに、強引に何かの意義をあてがうつもりですか?
私なら、たとえ対立が生まれようが、
もしも、相手が全自我の人間なら、
それこそ、争いがいというものがあります。
しかし、希釈された自我の人々だったら、
それは、地球や何者かにとって、単なる労働者に過ぎません。
私は皆さん(というより人間)には、そうなって欲しくありません。
ちなみに、参考になるかどうかわかりませんが、
松の間には以前に出したと思いますが、
江戸後期から幕末にかけての当時の人々の写真です。
この時代は、1800年代で、
もう、激しく自我の「希釈」が、開始されているので、
全員ではありませんが、
写真がセピアとかモノクロだったり、
または写真の雰囲気のせいだけではなく、
この中の「一部の人たち」は、あきらかに、
現代人よりも、「濃い」でしょう?
↓
http://www.youtube.com/watch?v=0yIWJla8GTo
http://www.youtube.com/watch?v=hSgAAlE_4oc
http://www.youtube.com/watch?v=4GEEWmPmsnk
●さて、何度も言いますが、
悟りとは、自我を使い尽くして、それが失われるという現象です。
ただ、もうひとつの問題は、
自我を非常におおざっぱに分類すると、
個人的な自我と、集団的な自我があり、
その壁を越えるときに、
砂手に起きたような、困難が待ち受けているわけです。
その困難は、「困難に見えない困難」であるだけに、
非常に厄介です。
それは、構造上、非常に自覚しにくい。
個人自我がなくなってしまうので、
個人の枠だけでは、
そこに隠れている違和感と問題点を感じることが出来ない。
惑星単位ないしは、恒星単位の範囲にまたがってる自我の層が、
現状に対して「これでは、まだおかしい。まだ違う」と自覚するのは、
ものすごく難しいのです。
だから小悟するよりも、その次のほうが、もっと困難なのです。
ま、この複雑な問題も「宗教に汚染された地球人」に、
書き尽くしたので、ここではもうやめておきます。
私が本を書く唯一の動機は、
「もうそれ以上、書かなくても良い」状態にするためです。
つまりは、
何も書かないために、書くということです。
_______________________________
★
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