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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1313]
■
●禅書道日記−その55
by:
鈴木崩残
2009/09/21(Mon)23:31:40
■おしらせ■
「第14巻」は、構成を一部、編集し直しますので、
ブッククラブ回さんへの納品は、26日の土曜日ごろになります。
*********
皆様からの、おたより
>■お一人目■
こんにちは。
「書」の生命力に関して感じたことを報告します。
最初、「書」は、気に入ったものを “額” に入れて、
部屋に飾っていました。
残りの「書」はクリアーファイルに入れて保管しています。
時々、取り出しては、眺めています。
そして、その時、気に入った「書」を選んで “額” に入れ、
「書」を交換してていました。
しかし、クリアーファイルから取り出した「書」を見ている時の方が、
“額”に入れて見ている時よりも、活き活きとしている様子が伺え、
「書」の生命力・迫力を感じます。
特に2回目の書は、その‘力’をより顕著に感じました。
崩残さんの「書」は、
文字の造形の他に、墨の艶・立体感などを感じ取って、
初めて、こちらの意識にすんなりと落ち着くような感じがします。
ということで、今は “額” から取り出し、厚い画用紙で簡易的に
作った台紙額に入れて、部屋に飾るようにしました。
「書」が活き活きと躍動感を持ち、見ていて気分がいいです。
やはり、墨の艶は直接見ないとダメだと感じました。
話が変わりますが、昨日、家内が、
『わっー、虹が出ている。(驚)
「本道」に虹が射している。』
と気づいてくれました。
わっ、これは凄い!
‘虹が射す→いい兆し’ と感動し、急いで写真に収めました。
ご参考までに添付します。
手振れで文字がぼやけていますが、虹は綺麗に映っています。
この「本道」は北の部屋の北側に飾っています。
太陽光が、南に飾っていた水晶に反射し、プリズム効果で
綺麗に7色の虹が映し出されました。
わずか5分間の天体ショーでしたが、虹の動きに見入っていました。
また、新たな感想が出ましたら、報告します。
>書について、より深い理解を戴きまして、ありがとうございます。
>私の書の特徴のひとつは、あの墨の艶です。
>一般の半紙に書いた場合には、墨はすべて艶消しになります。
>それによって何か書の迫力そのものが落ちるというのが私の印象です。
>「つや消しのほうが渋い」と言えば、それまでの話ですが、
>私の表現したいもの、私が欲しい線は、それでは表現できないのです。
>たとえば、私が最初に筆を下ろす時には、かなりの量の墨が筆に含まれます。
>そのおかげで、そのあとの線が、一気呵成にかけます。
>しかし同じ事を書道用の紙に対して行うと、
>あまりにも墨の量が多すぎて、最初に筆を下ろした場所が、ものすごく滲むのです。
>書道家の人の場合には、そうならないような力加減や墨の量で書くのですが、
>そうなると、それは一般的な書の持つ上品な風合いに留まります。
>かなりの量の墨を含ませた筆で、全く滲まずに、そして
>ある程度の距離までは、かすれたりしない、という私のスタイルは、
>画用紙という素材の相棒を見つけてこそ、実現したことでした。
>ただし、墨汁は画用紙の中にほとんど浸透しないために、
>墨が「池」のように溜まった部分が乾燥するには、8時間以上かかることがよくあります。
>その部分は、墨が盛り上がったり、艶がありますので、一見して分かると思います。
>■お二人目■
崩残様
このたびは素晴らしい書をいただき、ありがとうございました。
「道」「極」「意識」を書いていただいた者です。
今回は、かっこいいものを取り込みたい、
かっこよくなりたいというような自分の思いと、
そういうものに漠然と憧れている自分の浮ついている部分が、
無様にも露呈することになってしまったのだなあと思いました。
私の「意識」という字を見た人はきっと「なんじゃこりゃ」と感じる
のではないかと思いますが、この書を見て私は、今までの自分の人生や現状について、
「これなら、しょうがない、こんな意識で生きてきたのなら、
うまくいかなくて当たり前だな」と思いました。
けれども、自分のこれを見ることができてよかったと思いましたし、
心の奥底では、これこそを見たかったのだとも思いました。
これからしばらくは、この書を時々取り出して、
自分の醜さをじっくり噛みしめようと思います。
また、「道」の字は、DVDでもおっしゃっておられましたが、
反対向きに流れるしんにょうが、逆走する時間軸のようで、
そのまんなかに自分がぽつんと佇んでいるような感覚になりました。
私の無粋なわがままを少し取り入れてくださって、申し訳ありませんでした。
けれども、この字は私も、とても気に入りました。
届く前に梅の間で見た時は、自分の書だとは思わなかったので
開けて見てびっくりしましたが、嬉しかったです。
今まで、先のことばかり考えて、未来ばかりを見ていましたが、
清算しきっていない、かきなぐって散らかし放題にしてきた過去を
まずはきちんと整理してみようと思いました。
その時、自分が何を感じていたのか、どう思っていたのか、
楽しい、面白いといったポジティブな気持ちばかり感じていたと思っていましたが、
本当のところはどうだったのか、もう一度よく見てみようと思います。
(草書体の)「極」の字は、とても不思議な感じで、何かを極めるような、
芯のしっかりした丁寧な人間になりたいという憧れがあったのかなと思います。
私は子どものころから劣等感が強く、いつも
「もっとこうなりたい、こういう人間だったよかったのに」と、
自分ではない何かになろうとする気持ちが強かったと思います。
そういう気持ちをぬぐうために、自分の得意分野の仕事に就いて、
少しは治まったように思えた時期もあったのですが、
得意なことを認められるのではなく、苦手なものを消したい、
嫌いな自分を消して違うものにしたいという気持ちだったのだと思いました。
コンプレックスとなっている部分を悪者にして、
「だから私は自分のことが好きになれないんだ、この部分があるからいけないんだ」
と思っていたのだと思います。
嫌いな部分を消そうとして焦ったり、そこが弱味になって他人の
言うことを鵜呑みにして影響を受けすぎたりしていたようにも思います。
今回の「道」と「極」は、いつも目につくところではなく、
ふと振り返った時や仕事机から立ち上がった時に目に入ってくる場所に
飾ろうと思っています。
前回いただいた書も、いくつかはファイルにいれて保管しているのですが、
見るたびに受ける印象が微妙に違って不思議です。
やはり見る時の自分の状態で変わってくるのでしょうか。
今回の書も、これからどう変わっていくのか、
どんな印象を受けて何を感じるのかということも楽しみです。
このたびは本当にありがとうございました。
>私も思いがけず、良い作品が出来て、楽しかったです。
>「立体的に逆回転する、しんにょう」というのは、
>今まで何度もいろいろな方に書いた「道」という字ですが、今回のは、
>全く経験したことのない不思議な書でした。
>文中で言われている「私が、わがままを少しだけ聞いた」というのは、
>禅書っぽいのを望まれているようでしたので、
>一箇所だけ、そのように書いた部分があったのです。
>しかし結果としては、そのサービスの部分をどけても、
>全体として充分に禅書の風味が出ている「道」の字だと思います。
>■三人目■
最新の投稿、読みました。
今回、無無心の書についてかかれている事を読みながら、
改めて、今はいただいた書をしっかり咀嚼していこうと思いました。
そして、以前いただいたDVDを見た時、崩残さんがまるで
「クライアントの注文に完璧に答えるデザイナー」のように感じたのも、得心しました。
DVDから「そちらのご要望に全力でお応えします」的なオーラを
ヒシヒシと感じて、えらく恐縮してしまったのを覚えています。
今回の書が「私たちの為」の、デザイン的なものなら、
無無心の書は、純粋な芸術…。
注文条件がなんであれ、
崩残さんの書の一ファンとしては、
決して敷居の低いものであって欲しくない。
誰もが(もちろん自分も含めて)気軽に入れる場所であって欲しくない。
そこに関しては、崩残さんに、自分達の所に降りて来て欲しくない。
「こんなの絶対登れない!…でも…」 って所にいて欲しい…。
なんか勢いで勝手な事ばかり書いてしまいました、すいません。
でも正直な気持ちです。
相変わらずの乱文お許し下さい。
それでは失礼します。
ひとつ前の投稿の最後に、文を追加したので読んでください。
「モノ」の価格には二種類あります。
ひとつは労力に支払われるもので、これは時給と同じです。
そこには、何の創作性もなく、技術料だけが払われます。
現在行っている「禅書」の価格は、その時給と同じです。
たとえば、デザインではなくて、
簡単な文字のレタリングや図面やイラストをそのまま写し描きする
「単なるトレース」を依頼すると、
1時間あたり5000円から一万円ぐらいの料金になります。
しかし「無無心の書」の場合は、私の「労賃」の時給計算ではありません。
それは、作品に対する価格です。
たぶん、書家には、無無心の書は書けないか、
あるいは一生の間に、幾度しか書けないものだと思いますし、
たぶん、著名な人のものであれば、価格も何十万とか百万とかついていると思います。
前にも言いましたが、最初に筆を持った数年前の、その最初から
私にとっては、無心の書や無無心の書以外には、
どれだけ技術のある書道家の書いた書も、私には何の価値もないものでした。
確かに、書道家の書というのは、それは本当に美しい形状で、荘厳かもしれません。
他界した私の母が、書道家でしたので、幼いころから、
そうした文字はずっと見てきました。
しかし、いわゆるアートの要素のある「創作書」を除けば、
伝統的で形式的な書道は「いや、実に達筆ですねー」と言うに留まり、
「芸術の真髄」や「無為自然の真髄」を見ることは、
私は、ほとんどありませんでした。
(昔の人が書いた草書体の書簡とかに、感動的なほど達筆なものは、
あるのですが、それは無心という世界とは違うのです。
良寛和尚が、「書家の書」を嫌った理由がそこにあります。)
ですから、私はずっと無心の書だけを書いてきたわけです。
そして私個人が単に、それについて自分で品評をしていました。
その基準とは、意図せずに、どんな線になったという事も含めて、
書かれるときに、本当に完璧に無心だったのかどうかです。
今回、サンプルとして掲載した「無無心の書」の「ビデオ」を見てみてください。
単なる「かすれ」ではなくて、墨の「かすれ」が、
立体的な「縄」のような「ねじれ」を描いている部分があります。
そうしたものは、決して、私が意図して出来るものではありません。
ひとつ前の投稿の中のリンク先の動画の、
「6:16〜19」のところに出てくる文字の部分です。
それをどうやったのかも私は覚えていませんので、
私には、それをもう一度再現することが出来ません。
書道家の人であれば、技術的に再現できるのでしょうが、
技術が頭をよぎったら、無心の書では、アウトなのです。
しかし、どうやら、そうした「無心や無無心の書」は、
いわゆるプレゼントとしては、あんばいがよくないようでした。
「無心」を「必要としていない人」に「無心の書」を届けるのは、
問題があることに気づきました。
●それが急展開をしたのは、今年2009年でした。
無心の書や、無無心の書をメインとせずに、
それらを全面に反映するのではなくて「ツール」に使うにとどめることで、
「カウンセリング書+創作書」という、どこにも既存しない手法を使って、
注文者の方の内面にある、もっとも活用できる部分を表現しようとした書を
作れるようになったのでした。
■喩えとしては、正しいかどうか分かりませんが、
音楽の世界に新しいものが生まれるときのプロセスに似ていたことは
あとから振り返ると自分でも、どこかしら満足しています。
特に、無無心の書ともなると、
それは書の世界では全くの異端であり、全くの駄作とみなされるであろうものであり、
全く価値のないものであり、むしろ、醜くて、嫌悪される可能性のあるものでした。
表面的に一見すると、
見た目の上では、ようするに「読めないような字を書く」前衛書や禅書は
昔から、書道の世界の一角に既存していたとはいえ、
そもそも、私のそれは、やり方もコンセプトも全く違うものでした。
それはある意味では、エレキギターの登場やロックの登場に似ています。
それは岡本太郎的に言えば、
当時の人々にとっては、「なんだ!これは?!」というものであり、
私の無心の書の原点とは、
「美しくなく、上手くなく、心地よくないもの」だったのです。
ただ、その中に、「何か」があるのは私個人には明白でしたし、
親しい知人の中でも、ごく少ない人たちは、
「一見、無作為に見えて、既に、何かの独特の世界をもっていますね」
ということを私に言うことが多かったです。
ただし、それだけでは、今の「禅書」は存在しません。
そういう意味では、前衛音楽、
あるいは伝統に対する破壊的で不快な音楽として誕生したものが、
その後に、ポップミュージックやロックの中に取り込まれて、
音楽として聴ける形に変化したプロセスに少しだけ似ています
(あくまでも私個人の中ではです)。
●さて、現在皆さんにお届けしている禅書と、無無心の書の、
そのどちらが手間がかかるかといえば、
作業内容の「複雑さ」においては、今の禅書のほうが大変です。
ただし、これぞという作品にいきつくまでのプロセスで
失敗する枚数や時間においては、現在の禅書も、無無心の書も、
ほとんど変わりはありません。
唯一違うのは、今の「禅書」は、その人に必要な書を編み出す
「職人」または「カウンセラー」としての目的を持って、
私はやっているということです。
一方で、「無無心の書」は、
それはデザインや創作書ではなく、クライアントに対する助言でもなく、
それは私個人にとっては、「芸術」であり、
私個人にとっては、本当の意味での「無為自然による禅書道」です。
●ところで、私は「第14巻」の説明の中で、
「無心の書がどうなろうが、私はそれに執着がないので関係ない」と
言っているのですが、この部分は安易に誤解しないでください。
私は「無無心の書」が捨てられたり、破かれることには、
全く執着していません。
つまり、その作品がこの世からなくなってしまうのは、全く構いません。
しかし、不当な形で生き延びて欲しくないという意味では、
作品そのものの「存続」には、全く執着はしていませんが、
逆に、作品が「変な形では、生き残って欲しくありません。」
これを皆さんにも、分かりやすい喩えでいいますと、
皆さんが、とっとと「死んで欲しいと思っているような他人」がいたとします。
あなたは、その人が死んでしまっても、
むろん何の執着もないでしょうし、むしろ清々することでしょう。
しかしその相手が、生きたままで誰かに迷惑をかけているとしたら、
それをあなたは許せないし、それには無頓着ではいられないはずです。
私は自分の作品を別に呪っているわけではないですから、これは、
喩えとしては、少し変ですが、大まかな意味としては同じです。
つまり、「無無心の書」がこの世に存続しなくて、その存在が消えても、
それは全くいいのですが、
私の望まない形で生き延びたり、
直接の購入者以外の、関係のない他人の手を渡り歩くことだけは、
可能な限り食い止めたいのです。
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