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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1314]
■
■禅書道日記−その56
by:
鈴木崩残
2009/09/24(Thu)07:10:53
■お知らせ■
昨日までにご注文を戴いた方の分は、
本日木曜日の午前に全て発送しますので、2日から3日ほどで
到着すると思います。
なお、連休開始よりも、もっと前にご注文をされて、
まだ到着されていない方が万一おりましたら、
注文用アドレスまで一報ください。
郵便局への問い合わせ番号をお知らせいたします。
●おたより●
崩残様、こんにちは。
梅の間の「その55」を、いつものように、興味深く拝見しました。
私は個人的に、崩残さんの書は、芸術カテゴリーには納まらないし、
くくれない、と常々感じてきたのですが、
そう感じていた理由は、
私自身が、どうも今まで、芸術を、
デザイン的なものを含めたものとして捉えていたことが
理由だったのかもしれないな、と改めて思いました。
デザイン的なものを遥かに超えて、
畏怖の念を生じさせる何かを持った作品などは、芸術範疇を超えている、
芸術という言葉に納まりきれないものだろうと、
自分で勝手に感じていました。
それで、崩残さんの書は、
デザインとしての芸術の領域を明らかに超えているし、
既に次元が違うので、芸術ではくくれない、
と感じていたのだと思います。
率直に言って、
崩残さんの定義で、芸術作品を創れる作家さんは、
ほぼ皆無になるのでは、と思いました。
>いえ、それはありません。
>他人の言葉に一喜一憂してしまう人や、盲目的に信じる人が多いので、
>具体的に誰とは言いませんが、
>過去にも現在にも、私の定義する芸術作品を作れる人はいます。
感想紹介で、
「クライアントの注文に完璧に応えるデザイナーのように感じた」
とありましたが、私も、崩残さんの、この企画に対して、
そのような感じを強く覚え、また同時に、とても恐縮してしまいました。
>初めて見ると、少し驚くかもしれませんが、恐縮はしないでください。
>それが私に出来る仕事ですから。
私は、崩残さんが、自分達のところへ降りてきてくださったように感じて、
大変にうれしく感じました。
そして今も、大変、うれしく感じています。
>ずっと以前から、私は降りていましたよ。
>1999年から、あちこちの掲示板にいましたし。
>ただし、そのチャンスを生かせたかどうか、単に時間を無駄にしたかは、
>各自で異なりますが。
奇妙なことをお話ししてしまいますが、
私は、無心や無無心の書を、お書きになり続けることが、
崩残さんの、肉体寿命を縮めることになりはしないかと、
ふと、心配になったりしています。
>それはありません。
無無心の状態は、人間の肉体生命活動の初期設定?には
組み込まれていないのではないか、
だから、無無心状態は、
いろんな意味で大変な負担が生じるのではないのだろうか、と。
>それは勘違いです。あとできちんと説明しますので。
現在のカウンセリング書+創作書でしたら、
無心をツールとして使っておられるということで、
肉体負担も最小限に抑えられるのかもしれないけれど、
100%無無心にもなれば、様々な意味で、
その何倍にも負担がかかるのでは・・・と。
私の勝手な考えで、ふっと頭の中を、かすめただけですが。
でも、ひょっとすると、読者の方の中には、
私と同じようなことを感じている方もいるかもしれないですし、
このような奇妙なことを感じている読者もいます、
という、お話なのでした。(^^;)(笑)
>もしもそんなことを言ったらですよ、
>無心で手裏剣を投げて、無心で買い物にいって、無心に猫に接して
>無心でセックスもしていて、そのように、毎日、生活の随所で、
>100%の無心を出しつつ暮らしている私は、
>とっくの昔に死んでしまっていることになります。
>つまり、無心に書を書くことも、無心に原稿を書くことも、
>負担には全くなりません。
>ちなみに下ネタの真面目な話をするならば、
>無心の書の時に現れるような「あの動き」は、
>当然、私の「下半身の筆の動き方」や「手の動きや体動にも現れます」
>だからこそ、セックスですらも、
>私にとってはそれは「無心のアート」であったり、
>時には相手を「カウンセリングする手段」なのです。
話は変わりますが、
私には、いろいろなことが、なんだか、よくわからないです。
昨夜は、真夜中に目が覚めました。
真夜中に一人で目が覚めると、独特な感覚が生じます。
昨夜は、外で鳴いている虫たちの鳴き声が、
きれいなコーラスのように聴こえていて、
その鳴き声に、しばらくじっと耳を傾けていました。
・・・愛猫の介護生活を送っていたときは、毎晩、小間切れ睡眠で、
真夜中に起きていることが、日常当たり前でした。
毎日毎日がそんな感じで、
まるで、真夜中、この世界に愛猫と二人きりで目覚めているような、
そんな感覚を抱くことが、しょっちゅう、ありました。
今は、愛猫は他界し、真夜中に目覚めても、当たり前ですが、ひとりです。
あぁ、ひとりだなぁ、と思う感覚は、昔からわりと親しみのある感覚なのですが、
愛猫がいた間は、その感覚の濃度が、少しやわらいでいたと思います。
でも、もう近いうちに、真夜中に目覚めて一人だなぁ、
と思う感覚が戻るであろうことを、意識しながら過ごしていました。
昔から、真夜中に目が覚めると、
まるで、太陽系の一番外側にある、冥王星になった気持ちがしていました。
冥王星は喩えですが。(^^;)
太陽から遠く離れた場所で、ひとり、廻っている感じです。
寂しい気もするのですが、なぜか、安堵感も、同時に覚えます。
そして朝になると、太陽の光が、全てを明確にしていくような気配を放ち始め、
慌ただしく日常が始まり、
それに伴って、自分の軸がとりあえず収束していくような感覚があります。
それで、真夜中に目覚めたときの感覚とのギャップを、強く感じます。
それで、昨夜の真夜中も、
いろんなことが、なんだか、よくわからないけれど、
しばらくずっと、虫たちの鳴き声コーラスを聴いていたくなりました。
なにか、荘厳さのようなもの、畏怖のようなものを、強く感じました。
崩残さんの書を眺めているときに感じる感覚に、ちょっと似ている、と感じました。
書を、お書きになる際は、
どうかくれぐれも、(いろんな意味で)、ご無理のないようになさってください。
とりとめがない内容になってしまいました。
奇妙なこともお話ししてしまいましたが、思いつくままお便りしてみました。
●さて、では、他の読者の方の思い込みにまで、
気を使って戴いたようですので、ここから、一気に書いておきます。
まず第一に、
悟りや無心の意識が身体に負担をかける場合というのは、
それはその人物が、「表現法」を一切持たない場合のみです。
つまりアース線を持たなかったような人だけです。
もし表現法を一切持たなければ、
充満する停止意識の「エコー」によって、
肉体に存在することは不可能となり、身体から離脱します。
身体は活動をするためのものですが、
本当の原初の意識(絶対光ではない)は、活動をしない意識だからです。
●あまりにも馬鹿な人たちが多すぎるので、
ここで、久しぶりに、ちょっとだけ、私の昔の口調に戻しますが、
そうなった場合に21日で死ぬとかそういうことを
どうして何も疑問を持たずに鵜呑みにする「おばかな人たち」が多いのでしょうね。
21日って、そりゃあんた、7の数字に基盤を持つインドの特定の体系の中での話であって、
どうして、21日なんて、クッキングの調理時間みたいに
きっちりと決まっていなければならないのでしょうか?
それなのにそういうことを知ったかぶりして、
「悟った者はそのままだと21日で死ぬ」とか言うのは、
本当に愚かです。
国や体系が変われば、それは9日にもなりますし、
時には数ヶ月にもなり、また6年にも20年にもなります。
何もアースせずに、表現法も持たない無能な者が、
悟ったままの意識を放置してから、その充満で身体から分離して、
本格的にそのまま逝ってしまうのは、
そんなにめったに起きることではありません。
(ただし、その「国境線」の手前は、何度も来ますが)
それだけ我々の身体に作られた防壁は頑丈ですし、
ある意味で、それは地球の人間を、閉塞感の中に苦しめていると同時に、
それは視点の違う悟りの視界からすれば、
「防護壁」になってくれているのが、この世界のシステムです。
●別にこの世界に残ることがいいということは全くありませんが、
逆に、早く去ったからより高度だったんだなどということも全くありません。
ようは、その本人の意志しだいですから。
ただ、確実な表現法となるアース線を何も持たないような
怠惰な生活を悟る以前にしていたような人の中には、
数日で死んだ者もいると思います。
ただし、だからそれが高度な悟りというのではありません。
しかし逆に言うと、
地上に上手く足をつけて歩ける悟り人がいたとしても、
だからといって、それが技術的に前者よりも高度というのでもまたありません。
●人間というのは、常に優劣をつけたがる阿呆な悪癖がありますが、
ようはレベルや善悪の問題ではなくて、
本人にとっての「必要性や必然性によって」、
生き延びたり死んだりするだけの現象に過ぎません。
●話は全く変わりますが、
冥王星の話をされていたので、思い出しましたが、
太陽系に惑星が12あるというデマを最初に言ったのは、
アダムスキーですが、
彼の理屈(彼もまた聞きのですが)によれば、
天文学的には、大変に、おかしなことになってしまいます。
どうして、全ての太陽系が12の惑星に制限されるべき理由が
あるのでしょうか?
(彼がこの太陽系といったのか、他の太陽系もそうだと言ったのか、
そのあたりの記憶が私は、あいまいですが。)
もしも全ての太陽系システムが12の惑星を持つとしたら、
それは原子物理の世界でいえば、
この宇宙は、単一の退屈な性質の元素で出来ているということに
なってしまいます。
(12だったら、この宇宙はMg=マグネシウムだけかいな?、みたいなもんですね)
確かに太陽系や物質宇宙の構造上、
恒星が肥大化できる限界というものがありそうで、
必然的にそこから、周回できる惑星の数の上限はあるでしょうが、
少なくとも、30やそこらの惑星が回っている太陽系だってあるはずですよ。
●最近、思うのですが、
何年前からか知りませんが、数理的な法則や幾何学が
宇宙で普遍的といったことを思い込む人が増えているようで、
これは何かの洋書か何かの翻訳本が流行った結果なのかもしれません。
最近、何年も、本を全く読んでいないので、知りませんが。
しかし、そんなこと、何百年も前の大昔から、精神世界では当たり前のことでしたが、
いわば、それが軽薄なスピリチュアリズムファンの中や、
一般に浸透し始めた価値観になりつつあるのかもしれません。
ただし、どうもひとつ重要な事を忘れている人が多すぎます。
●幾何学、数字、そして厳密に言えば、色や音階もそうですが、
そうした体系を本当に自分が応用しようとしたら、
いったん、自分に既に組み込まれている幾何学構造を
解体する必要があります。
そうしないと、三角の目で生まれつき世の中を見ている人は、
幾何学を勉強したつもりになっていて、ずっと三角構造で
世界を見ているだけということになりますし、
色でいえば、そもそも赤色の色目がねをしているのに、
それをしたままで、やれオーラが何色に見えるとか言っているぐらい
ナンセンスなものです。
●で、ここからが本当の問題ですが、
もしも、本当に数字や幾何学や色や音を学びたいとなると、
いったん、それらの法則の外側に飛び出て、
「禊(みそぎ)」といいますか、無の洗礼といいますか、
とりあえず、いったん、宇宙では不良品といった状態にまで、
ぶっ壊れてしまう必要があります。
これは何も悟りという次元のことを言っているのではありません。
少なくとも、自我の崩壊ぐらいは起きないと、
ゼロ、無色、無音、無形という立脚点から、
幾何や数字を扱えないのです。
そもそも、数字や幾何が登場するのは、
宇宙の創世の三番目か四番目あたりです。
それは、いわば、
出来てしまった宇宙、動き出してしまった宇宙に対する
一種の「尻拭い」「後始末」に過ぎません。
初原を絶対の闇とすると、
制限された闇、
次が制限された絶対光、
そして、その絶対光が、「運動」を開始してしまった時点で、
そこで初めて、数理や幾何といったものが、登場します。
つまりそれは「円の分割」です。
したがって、数理や幾何「以前の」次元とつながりをもてなければ、
数理や幾何を本当に扱ったり、理解することは出来ません。
「宇宙は幾何であり、数によって構成されているんだ」、
と口でわかったような気持ちになって言ったところで、
その人たちは全く何も出来ないと思います。
実際には、形や数理が崩壊して、全くそういうものが通用しない世界に
ぶちこまれた経験を持つ人間だけが、
本当の意味での幾何や数理の使い道を知っていると私は思っています。
つまり、そもそも幾何や数といったこの宇宙の法則から、
いったん、完全に見放された人だけが、再びそれを手にするときに、
それらを使えるということです。
数は非常に少ないですが、そういう人は、この世界に今も何人もいますよ。
で、一方で、そうでない一般的な多くの人は、
ゴミのようなオカルト知識の「一角」に、
数字や幾何学という玩具、
あるいは、エゴが自慰をする為のプレイメイトのようなものが
単に加わっただけで、
えらい、「よどんだ目」をしている人が多いのを
私はこの世界で見てきました。
その人たちは、まったくシャープでもなく、
また無機的な世界が持つ「良さ」のひとつでもある「無機質さ」でもなく、
しまいには、「あんた、一体何をごた混ぜにしてんだよ」ってな
人がかなり多いと思います。
言い方を変えますと、
「あんた、自分の頭に四つのネジで、そのマンホールをつけたまんまで、
9の法則とか、言うなよな」ってな、ぐあいかな。
その人にとっては、何を見たって、
しょせんは「4のフィルターごし」なのですから。
この埋め込まれたフィルターを、自分で自由に交換できているらしき人
というのは、私は、この世界では、ほんの数人しか知りません。
別の世界では、うんざりして吐き気がするほど、
毎日毎日そればっかりやっている「幾何学中毒」の人たち(存在)はいますが。
ただし、彼らを見ていると、どこか「薬中」みたいにも見えます。
手当たりしだい宇宙の結晶(幾何学薬品)を飲んだけど、
「まだこれじゃ満足てきないんだ」「もっと面白い図形をよこせ」
とかやっているドランカーに、ちょっとだけですが、似ていますね。
●話は戻りますが、
アダムスキーが見た宇宙というのは、
業界では定説の常識ですが、どうやら、彼のコンタクトの多くは、
OOBEによるものが「含まれている」という事になっていて、
結局、彼の話は、
彼の中で同調できた「構造的宇宙」というのに過ぎませんが、
もしもそれを言い出すと、他の人たちのコンタクトストーリーも
全部、そういうことになってしまいます。
物質としてこちらがわに突き出たUFOという「尻尾」は、
確かに物理的な写真として残るような「物理現象」として現れたものの、
それが、また、あちら側に「引っ込んだ場合」には、
そこは、もう現在の私達が認識しているような物質世界ではないということで。
というより、厳密にいうと、
こっちとあっちの「中間」を私達は知らないのかもしれません。
あっちに行ってしまえば、物理法則や精神性そのものは、
ここと、さして変わりないものの、
問題は、「移動するときの乗り物と通路が何か?」だと思います。
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