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Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1336]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その77=」
by:
鈴木崩残
2009/11/27(Fri)09:26:11
「在り方」ということについて
●この問題は、私個人の価値観に関係するので、
私がこの世界に生まれてから、ずっと感じてきたことから書く必要がありますね。
そもそもどうして、希釈自我の問題と、その解除の作戦に関わっているかといいますと、
それは別に、私が人の「全自我」を特別に評価しているからではありません。
私にとっては、一般に言われるところの悟り(ただし、この定義は
「宗教に汚染された地球人」を熟読して、一般の軽率で曖昧な定義とは
分けておいてください)
で、その意識が唯一「まとも」に見えているものですから、
たとえ全自我でも、自我というのは、それよりも以下に属しています。
ただし、全自我の人は、まともになる「可能性が最も高い」という点において、
評価しているのみです。
●さて、物心ついて、自分の主体意識が明確になって、
ある程度それが安定した高校生のころから、
私には生まれてからほとんど変わらない、
人間の見かたの一つというものがありました。
かなり若い頃から精神世界という分野には片足は突っ込んでいましたが、
私がまるっきり価値を感じないものがほとんどでした。
●人間の主体的意識がそもそも何であり、それが機能していなければ、
私にとっては、それ以下に属する思考、感情、行動、さらには
霊感といったものは、小さいころからも、
ほとんど、まるっきり無価値なものだったのです。
せいぜい、それらは雑学やテレビでのショーとしての好奇心の対象
という程度のもので、私個人の価値基準にはほど遠いものでした。
●つまり、他者や誰かが、
何をやっているか、何を考えているか、どんな知識をもっているか、
どんな超常的能力を持っているか、どんな古代の知識を知っているか、
どんな治癒能力があるか、
こういうことには、学生時代から、まるっきりその価値を
認めていなかったのです。
つまり私が人を評価するときの唯一の基準は、
霊感、思考、感性、肉体、これらの機能の、どれにも無かったということです。
まー、とにかく私が高校生のころには、
阿呆な自慢しか出来ない馬鹿が、私よりも年上にも沢山いまして、
そういった小さな集会とかに言ったり、個人的に会うことも
高校生のときありましたが、その人たちの幼稚さを見て、
ただ、あきれるばかりでした。
やれ、何が出来る、何を知っている、何が見えるとか、の
誰々とチャネリングしているだの、体外離脱してどこかの星に行っただの、
あるいは、宇宙船に乗ってきましたという、家賃無料のアパートに住む
爺さんとか、その人たちから出てくる話といったら、
そんなつまらない話ばかりで、
結局その人たちは、
人生の根本とか、宇宙の存在理由とか、絶対的な物事の基準とか、
そもそも、この意識とは何なのか?という「根本的な疑問」、
そんなものには全く関心のない人たちでした。
●一方で、物心ついたころから、他者を見ていて、
私にはひとつの違和感を感じるものがありました。
それは、かなり多くの人たちが「意識がない」ということでした。
ほとんどそれは夢遊病か、
眠っていると言ってしまっても、差し支えないほどのものに見えました。
こうなると、何を言ったり、何をやったり、何を成し遂げたり、
何を知っていても、そもそも意識がなくて眠っているのですから、
話にもなりません。
●それで、私が他者を判断する基準は、唯一、
その人の意識がどういう状態であるかだけでした。
ここで誤解して戴きたくないのは、それはその人の持っている
能力、知識、などとは全くほとんど関係がないということです。
ところが当時も、私のその視点から個人的に世界を見ると、
高校生のときには、まださほどその視点では他者を分別していませんでしたが、
大学ごろには、はっきりと相手の人間をその基準で振り分けていました。
●すると、今にして思えば、そこに見えたのは、
希釈自我の分割率でした。
マトモな意識の人、かなりマトモに近い人、マトモからは、かけ離れた人、
と、だいたいそんな区分でしょうか。
よく相手のことは相手の目を見れば分かるといいますが、あれは嘘ですね。
目には「意識のあるなし」は表れていません。
また相手のオーラにも、それは現れていません。
そもそも、その次元の問題ではないですから。
ただ、強いていうと、マトモな人のオーラって、
えらく範囲が広がっているという「小さな特徴」はあります。
ただしあくまでもそれは「副産物の」一つなので、
その気配を全く出さないでも目が覚めている人はいます。
●それで、困ったことに、この半世紀の人生を振り返っても、
自我自体がマトモな人というのは、ほとんど会ったことがないのです。
悟りとかそんな問題以前に、そもそもほとんどの人たちが、
今も睡眠中で、しかも眠ったままで、行動したり思考して、
この社会を作ったり壊したりしているのですから、
この世界を夢遊病患者が作っている「ただの夢」だと断定しても、
支障はないぐらいです。(極端に言うとの話ですが)
●生きてきて、ほとんどの時間が、私にとっては、そんなわけでしたから、
いわゆる精神世界の一部で言われているところの
「在り方」というのが最重要な評価基準となりまして、
他者を見るときにも、常に、その人の能力や行動や思考内容ではなく、
その意識の状態のみを見てきました。
●ただし、「在り方」ってのが、そもそも何のことかすら、
ほとんどの人は知りません。
それを軽薄な態度で口にしてきた、たとえば、昔オレンジ色着て
騒いでいた間抜けな集団すらも、
在り方っていうのが、そもそも何のことか、分かっている人に
私は一度も会ったことがありませんでした。
●実は在り方というのは、
その人が何かをしたり、何かを言ったり、何かを考えたりしているとき、
あるいは何かに霊感を研ぎ澄ませているとき、ではなくて、
全く何もしていないときに、明確に出るものなのです。
そもそもこの「在り方」という言葉、
世間一般では「生き方」とか「生き様」とか定義されていますし、
先ほどいった、間抜けな集団においても、瞑想ごっこをして、
落ち着いたフリでもしていれば、「ただ在る」状態だと思い込んでいる始末です。
●しかし「在る」とか「在り方」に関わっている中枢というのは、
行動したり思考したり霊感を感じるための中枢とは全く違うものです。
無明庵で言うところの頭頂部、腐りかけた古い言葉で言えば、
サハスラーラというのは、無明庵の本でも、さんざんに書かれているように、
それは「生」または「活動」を担当している中枢ではありません。
極端に言ってしまえば、それは「死」を扱っている中枢でありまして、
もう少し正しく言うと「生死の中間」あるいは「生死のつなぎ目」に
関わる中枢です。
●したがって、その中枢の開発によって起きることは、
創造性や、感性や、霊感ではまったくありません。
自我の成熟ですらありません。
「自我」というのは、頭頂部、前頭部、眉間のあたり、
「この三つの部品がひとつの三角となって」出来上がるものですから、
頭頂部は、自我の「構成部品」の一つにはなりえても、
自我そのものではありません。
●それで問題なのは、この頭頂部が正常に機能している人が
ほとんどいないために、結果として、そもそも私が言うところの
「意識がある人」がほとんどいないのです。
かといって、どっかのカルト教団の阿呆たちみたいに、
クンダリーニごっことか、クリアヨガごっこをしたところで、
一向にそれは開発できるものではありません。
なぜかというと、それって、そもそも生まれたときに
設定されているからです。
●頭頂の基本機能には、「後天的な要素」というのは、ないのです。
そこを「刺激すること」は誰にでも出来ますが、
刺激して本当に意味ある現象が起きるのは、全自我の人のみです。
全自我が飽和状態に近づいたときに、次の基準となるために
準備が開始されるものですから、普通は全く機能していないからです。
通常の人でもそこが機能するのは、唯一、
よくてせいぜい、死ぬときだけです。
●全自我でない人が、頭頂に刺激を与えた場合にはどうなるかを
長年観察してきましたが、
そこで上手く行った場合には、起きることは、
その人に欠損している自我のパーツを揃えようとする動きです。
刺激しても無駄な状態にまで希釈されている人の場合には、
全く何も起きません。
●で、何の話でしたっけ・・・・
第七中枢が「生死」のつなぎめ、
または「ある領域の活動の死」と定義されるものに、
直接的に関係している以上は、
その中枢開発によって起きることのすべては、「停止」状態です。
思考の停止、感性の停止、感情の停止、霊感の停止、身体の停止、
故に、生きていて、常に何かを学習したり、知識を得たり、
何かを作り出したりすることが当たりまえのように思い込んで、
その活動に中毒している、ほとんど99.99パーセントの人にとっては、
「停止」という一種のアンチなベクトルは、忌み嫌われるものなんですよ。
リラックスとか、人格形成だとか、ぶっこいて瞑想していたり、
座禅ごっこしている人たちって、そもそも、
「何者かになってやろう」とか「落ち着きたい」とか思っているわけですから、
それって、そもそも、活動領域において「活動したい」という望みそのものに過ぎないんですよ。
つまり本当に死にたいのではなくて、
「死を、味わいたい」というだけの話。
●しかし、死というのは、知ったり、味わったりするものではなくて、
それらの経験主体そのものが死ぬことですから、
全く意味と現象が違うんですよ。
●そういうわけですから、
活動を停止できる人(つまり本当の意味で瞑想できる人)というのは、
十全に活動しきった人だけであって、
活動の中に、まだ何を成し遂げたいという不満のある人が、
何も出来ないことの言い訳にして悪用するための逃避場ではありません。
●そもそも、ここの人間の自我が今のように分割などされていなければ、
ほっておいても、自我が機能して、十全な生き方になるしか道はなく、
ほっておいても、その燃焼が終わる時期が訪れていたはずです。
そういう意味では、自我も生きられず、悟りという次段階の意識にも
移行できずのまま、単に、
いつまでも、ずっと中途半端にしておいた人間から
「落ち着きのない焦りの感情」を搾取できるという、
現在のこの「納品者」の管理システムというのは、
私が知っていた世界から見たら、
どうしようもないほど、劣化しまくっているのです。
私の場合、かなりの、くだらない事まで、見ていて許容できますし、
もしもそれが「全自我」の人達だけが作り出したものでさえあれば、
むしろそれは、アートとすら言えるものですが、ただし、
この「希釈現象」だけは、ひとつも笑えないですね。
納品者の言い分に、1000歩譲っても、
そこには、「家畜の納品頭数を無駄に増やした」という以外には、
何の正当性もありません。
これが1000年か、あるいは500年ぐらい前でしたら、
「地球は、少しぐらいは面白いところもあるから、
一度だけならば、行ってみれば」と、
知人に薦めることも出来ましたが、
今では、
「間違っても、あそこだけは、行くなよ」というしかありません。
来てみたら、地球が、こんな状態になっているとは、私ですら
思いませんでしたよ。
ということで、この件は、
私の上司にも、報告しないとならない。
●
■あ、そうそう。話は全く変わりますが、
業界では、「あいつは電波の入りすぎだ」と言われて、
ちっとも信用されていない面もあるベンジャミン・フルフォード氏の
最近のコメントですが、
あながち、全く嘘でもないと思える点がありました。
もしも、彼の言うように、
本当に、ペンタゴンの従業員が現在「反乱行動」を起こしはじめているとしたら、
私の予測どおり、汚染率の少ない核兵器の使用も、
そう遠くはない未来になるはずです。
以前にも松の間だかで言いましたが、
反ユダ菌の反乱部隊か、ユダ菌の、どっちが勝利するかは、
着弾の位置(国)と、それが起爆した高度で判断できます。
ベンフルさんのブログだよ。
↓
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/
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