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Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1337]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その78=」
by:
鈴木崩残
2009/12/01(Tue)16:12:18
1980年代から増加した中毒・依存症
■ちょうど、「自我の希釈と劣化が急激に進んだ一つの時期」
として私が見ている、1980年代というのは、
それと平行して、現在にまで至る娯楽商品が、登場した時代です。
1980年ごろに初めて私はインベーダーゲームというものを、
ゲーム機器が設置された場所で行いましたが、
その三年後の1983年に、任天堂がファミコンを発売しました。
■言うまでもなく、大人までをも含めて、ゲーム中毒したわけですが、
私の周囲なども見ていると、節度をもって自己管理できていた人など
ほとんどおらず、翌日は会社で仕事が溜まっているというのに、
夜中まで、ゲームに明け暮れている人も多くいました。
かく言う私は、ゼビウスとスーパーマリオのファーストバージョンを
何度かクリアした段階で、
「こんなものやっていたら、人生の時間が、確実に無駄になる」と
結論して、その後、ファミコンは一切やめました。
街中にあるゲームセンターで、少し変わった機種が出ると、
ガールフレンドとやることはありましたが、けっして自宅では
やりませんでした。
■ゲームに限らず、そもそもパチンコとかパチスロとか、
中毒や依存症を引き起こすものは、昔からあったわけですが、
いずれにしても、当時は、遊技場にまでは最低限、足を運ぶ必要がありました。
それが家庭用のゲーム機器の登場によって、
さらに依存症と中毒を加速することになったわけです。
そして、インターネットの登場によって、人々の中毒は、さらにひどくなり、
しかも、多くの人達は、その弊害に全く気づいていません。
■私が問題にしているのは、こうしたゲームによって
運動不足になるとか、そういう問題ではありません。
私が最も問題にしているのは、
ただ座っているだけで、「思考に餌をやる」という行為が、
こうした機器で成立してしまうことです。
古くは、それはテレビというものに始まりました。
そういえば、ジョンタイター氏の、面白い発言の一つに、
こんなのがありました。
「この時代の人々は、ほとんど、テレビばかり見ていて、
ボーっとした人々だと思っていました。」
しかし事実は、もっと劣化しています。
■私は高校生、あるいは大学生のころから、
ある特定の人種とは、距離を取るようになりました。
それは次のタイプの人達でした。
1−読書中毒(一般には読書家と呼ばれているが、当時も今も、
自主的な論理を持たず、他人の意見引用が多いという意味でも、
その人達の半数ぐらいは、単に中毒しているようです)
2−今ではあまり聞かない言葉でしょうが、アマチュア無線オタク。
当時面識のない人間とコミュニケーションを取る方法といったら、
アマチュア無線ぐらいしかありませんでしたから。
3−これも既に死語ですが、インターネットが作られる少し前に存在した、
パソコン通信に中毒していた人達。(周囲の音楽家に多かった)
4−で、現在では、ほとんどの人々が陥っている、ネット中毒。
5−言うまでもなく、PCゲーム趣味のある人とは、
私は一切交流を持ちません。You−Tubeでもゲーム系の
画像をアップしたり、お気に入りに入れているユーザーは、
即時ブロックしています。
_______
■私は別に反テクノロジー主義でもなんでもありませんので、
私が問題にしている弊害とは、ひとつは、それらが、
目的のある情報検索、商品購入の手段でないかぎりは、
あまりにも、くだらなさすぎる「時間の無駄」であること。
しかし、もう一つの理由の方が重要です。
それは、「自動的な思考の連鎖」に、皆さんが中毒するということです。
■この中毒は、テレビですら起きますので十分に注意が必要ですし、
インターネットでも、無目的にネットサーフィンなどをしていると、
2時間も3時間も、時間を使うハメになります。
古典的には、読書やパチンコ、現代ではテレビとネットですが、
どのタイプの中毒にしても、私が最も悪いと思っているのは、
あなたの「自動的で反射的な思考と、連想」が、
それによって止められなくなっている、という点です。
■もし正気を保ちたいと本気で思うならば、
一日に、最低でも1時間から2時間は、
目を閉じて、一度、頭の中の思考を排除してみてください。
現在の人間の状態では、朝っぱらから、すでにいくつもの
ソフトが既に起動している状態から、物事の観察や、対応や、
社会関係、人間関係というものが成立しています。
平たくいうと、毎日のただの習慣的思考が作る世界です。
■朝起きたら、時計を見て、時計から仕事へゆく事を連想して、
その連想から、仕事場のことを考えてしまい、また仕事場に
何か問題があれば、そのことで頭が一杯になってしまい、
そして、そうした日常的な思考を延々と繰り返します。
こうなってしまうと、
人間というのは、「個人の記憶と習慣的思考パターン」が他人や自分であるという、
単純な発想中に埋没してゆきます。
●私が子供のころから、どうしてもついてゆけなかった、
社会常識の一つがこれです。
だってですよ、どんな人間だって、それこそ自我が希釈されまくった、
ゾンビですらも、その人間の頭を去来している思考を全部どけてしまえば、
そこにあるのは、観測者という主体の意識だけですから。
私が人間を人間として見る場合に、それが人間足りえているか否かの
唯一の基準は、
その人間が、自分の思考との自己同化から、どれぐらい分離できているかだけです。
●つまり、自分の頭が何を考えているのか、それをモニターする意識が
正常に機能しているかどうかです。
しかしほとんどの人達は、何かに対する、反応の内容、
そして思考内容がそのままイコール、「その人である」とか、
自分や他者そのものであると思い込んでいます。
しかし、人間というのは、(潜在的部分は別の話になりますが、)
少なくとも、本人が、表面意識で捕らえられる狭い範囲ですらも、
思考が数分間停止したところで、記憶喪失になるわけでもなく、
人格が崩壊するわけでもなく、不安になる必要もありません。
なにしろ、思考などというものは、意識を去来している対象に
過ぎないのですから。
むろん思考がさらに結晶化して固定された感情や身体の生理的反応も
同じです。
そもそも、思考も感情も、そして五感情報も、
観測主体としての意識とは、本来は距離を保っているものです。
■ところが、自分の主体がもともとは単なる意識であって、
人格とか能力を形成している記憶は、単なる思考の寄せ集めにすぎない、
ということをすっかり忘れてしまったのが、現在の人々です。
こんなことは、私の知っていた、大昔なら、普通の人達にとってすらも、
当たり前の常識でした。
■つまり何が言いたいかといいますと、
一体、皆さんは、一日に、何分、自分の観照主体に戻っているのか?
ということです。
それをせずに、休む間もなく、思考を働かせ続けたあげくに、
ストレスが溜まっただの、リラックスできないだの、睡眠障害だの、
パニック症候群で困っただのと、よくも言えるものです。
そもそも、自分で自分の思考を休息させる管理もする気がない人の頭が、
PCみたいに、フリーズしたり、妄想で犯罪に走ったり、
コケてしまうのは当たり前のことです。
■現在のような生活をしていて、まる一日中、仕事のこと以外には、
ほとんどしなくても良いような思考で頭を汚染されていて、
しかも、それを止められもしないとしたら、
それは、スイッチを切れないPCや、
初期化すら不可能になったポンコツのパソコンと全く同じです。
■ですから、私は人間から、思考、感情、知覚、霊感、全部を
どけたところに残っている観照主体の意識にしか、
昔から興味がなかったと言ったのです。
ところが、おもしろいことに、
皆さんが、一日に、1時間か2時間ほど、目を閉じて、
なるべく何も思考しないように、じっとしていると、起きることは次のことです。
1−気がついたら、ずっとグダグダと、
全く無意味な「連想」をしてしまっていた。
2−自分の思考を突き放して観察しようとしたら、
逆に、雑念の洪水になってしまった。
3−ぼーっとして眠ってしまっていた。
この場合、目を開くと、目に見えるものからの「連想」が始まるので
目は閉じたほうがいいです。
●試しに、今夜から、毎日、少なくとも一時間は、
目を閉じて、ご自分の頭の中に、一瞬一瞬、絶え間なく、
「何が起きているのか」を、よくよく観察してください。
どれだけ、どうでもいい、無駄な連想で、びっしりと埋まっているか
という事実。
主体性をもった自分の思考だと思っていたものが、
単なる連想の産物にすぎないことのあまりの多さ。
霊感と呼べるものなど、微々たるもので、
イメージの断片のほとんどは、どうでもいいようなことばかり。
●むしろ、何も考えないほうが遥かにマシだというような、
そんな思考で、あなたの頭の中は、動き続けていることがほとんどです。
その事実に、まず直面しようともしない人には、
私は興味などありませんし、そもそも、そういう人達を、
人間として認識していません。
ある意味では、思考のほとんどすべては、「機械的な習慣」によって
暴走している「連想」ばかりです。
しかし、それに中毒した状態を、少し停止してみて、
頭に何も思考が去来しない状態を正常とし、
去来しても、徹底してその発生と減衰に加担しないように、
ただ観察しているうちに、
人間の中には次の「強迫観念」が起きます。
「こんなことをしていても時間の無駄だ」
「何かしたい」
「何かしないといけない」
●「おいおい、一体、今まで、どんだけの無駄な思考と、
全く生産性のない余計な連想と、
あげくに他人への誤解までをし続けてきたというのに、
いまさら、時間の無駄だなんて、一体どの口が言うか?」、
といいたくなる言い分ですね。
しかし現実に、多くの人達は、その「脅迫観念」の中に、
どっぷりと浸かっています。
だからこそ、何もしないだけではなく、
さらには、全く何も考えない、
その上さらに、何も感じない、といった遮断を行うと、
あれほど、静かにリラックスしたいと口で言っていた人々が、
あっという間に、逃げ帰るのです。
どこに逃げ帰るのかといえば、
「思考と連想を止めたくない」という中毒の中にです。
●どうやら、人間というのは、あまりにも、
活動したり、何かをしたり、何かを知ったり、何かを感じるという
生の領域に中毒しすぎたために、
それをいささかでも停止することすら出来なくなってしまい、
さらには、非活動性というものを、敵視する習慣までつけたようです。
●だらしくなく退屈して、部屋に引きこもることぐらいは、
どんなゾンビの人にでも出来ますが、
問題は、部屋に引きこもるかどうかの問題ではなくて、
部屋の中で、頭の中から思考を排除することを出来る人が、
あまりにも少ないということです。
人間の思考の、
このキチガイ状態とも呼べる症状に対してブレーキをかけるか、
またはエンジンを一度切るための、
ひとつの方法は、「思考の排除または停止」であり、
もうひとつの方法は、「思考の傍観に留まること」ですが、
いずれも、たったの数分すら出来ない人がほとんどです。
あっというまに、主体である観照意識は、思考内容と同一化していまう
というのが、ほとんどのケースです。
■雑念を傍観できている、思考を停止できている、と思い込んでいる
座禅や瞑想に関わっている人達のほとんども、私から見ると、
実際には、特定の思考とずっと自己同化したままであるのが現実です。
それらの人々の中では、ほんの一時、数分程度、
思考が静かになったように感じた、という程度のことで、
それが終われば、すぐさまに、
日ごろから執着している特定の信念体系や、
日常的に、いつも囚われている思考と、
べったりと、愛人のように癒着してしまっています。
●そういうわけですから、
少なくとも、「思考中毒」で、観測者のことなど忘れっぱなし、
という、この人間における「最悪の病気」をやめたかったら、
まずは、毎日、1時間、出来ればそれ以上、
どんな心情や、思考や、価値観や、イメージにも汚染されていない、
初期状態にまで、意識を思考と感覚から分離する作業を忘れないで
ください。
そこには、大げさな理屈など一切いりません。
これは瞑想でもなければ、座禅でもなく、
いわんや、悟りなどとは程遠いもので、
「単なる人間としての基本」にすぎませんが、
それでも、そこからしか、あなたの本当の主体との接点を
取り戻す入り口になる方法はありません。
意図的に、自分の意識の濃度を下げて、無意識化したり、
わざとボケてみるなどというのは、そもそも十全に、
意識を意識化できる状態にある人だけが行ってこそ意味のあることです。
●私から見れば、この地球に最も欠落したもの。
それが「死」です。
ただし、それは死という「概念」や「死に対する思想づけ」ではなくて、
実体として「死の経験」です。
もともと、生と死は、半々ぐらいに拮抗した状態にあってこそ、
どちらも健全な機能をします。
ところが、皆さんの頭の中にある死のイメージたるや、
どうでしょうか?
それは、こんなもののばずですよ。
↓
生 死 霊界? 生
_________| |_____|____________
つまり、価値基準のほとんどが、生の活動領域で、
あなたが何をするか、何を考えるか、どう生きるか、ということに
あまりにも偏りすぎています。
そうなると「死」というのは、
次の生までの、中間にある「つなぎ」であるとか、
または、少しばかり次の生までの間だけ「待機」しているための霊界?
とやらへの「入り口」という、そんな程度の認識しか、あなたは持てません。
こんな状態であれば、人間が精神を病むのは当たり前ですし、
思考中毒や、活動中毒や、何か精神的に成長たり、
自分の持つ問題の何かを解決しなければならない、という脅迫観念に、
一生突き動かされ続けても当然です。
何しろ、そんな脅迫観念が、全く必要のない領域を、
あまりにも、長く、虐げてきたのですから。
その領域とは、すなわち「死」です。
●本来は、前述の図は、
死と生の時間的な密度、または経験的な密度が、均等に近くなければ
なりません。
60年間生きたら、60年間は、死んでいるべきだということです。
毎日の生活の中でいえば、
12時間、そこに、生産性があろうが、なかろうが、
連想をつづけて、思考し続けたのならば、
きっちりと、バランスを取り、「正気」を保つために、
半分の12時間は、思考は死んでいなさいということなのです。
●とにかく、まず、一日に一時間は、
頭の中を去来する一切の思考に、可能なかぎり、関わらないこと。
どうせ、何を大げさに考えたところで、ただの思考なのですから。
むろんこの思考の中には、
「ノーマインドがいいんだ」などという思考も当然含まれます。
次に、その思考が暴走する口実の「餌」を、
ネット、テレビに依存して、中毒に陥っていることにすら、
気づかない人が多いでしょうから、
まず、本、テレビ、パソコン、など、自動的に思考を動かしてしまう
要因になるものから、意図的に、数時間は離れることです。
まー、そうはいっても、携帯でメールとにらめっこしているという
異常な生活がまかり通っているのですから、
どこまでそれが出来る人がいるかは、知りませんけどね。
■まー、総論をいいますと、
私は、よく世間の馬鹿な学者たちが言っているような、
「ネット中毒すると、ゲーム脳になる」とか「五感との接点を失う」
とか、そういうことを問題視しているのではありません。
むしろ「逆」です。
五感との接点や、さらには六感との接点も切り、
自分の頭の中の「思考」との接点すら、
日常的に、何度も何度も、ぶった切っていいものなのです。
反射的で自動的な思考というものが存在しない時間を、
必ず、一日の間に一度は、持とうと試みてください。
そのために、一日1時間は、必ず、目を閉じて、
自分だと思い込んでいる思考情報から、離れなさいということです。
これ以上、この惑星の生物として「変態」になりたくなかったら。
それに、もう、あれこれのことに、興味を持って、
何かの能力を開発したいだの、知りたいとか、
そんな時間的余裕は、もうありませんので。
皆さんの価値観に基づいて、
最優先したい問題だけを、最優先してください。
私はかつて、「悟りなき悟り」という著書の中でこういう
趣旨のことを書きました。
「この世界で、いろいろな人達が、
生きる知恵や、魔法と称して教えていることは、
思考の「ハンドル操作」の問題である。
しかし、思考のブレーキ操作については、
ほとんど誰ひとりも教えていない。
つまり人間そのものが、
思う方向になんとか走ることは出来ても、
ブレーキもかけられず、エンジンも切れないという、
欠陥車だ。
●
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