▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1338]
■
■禅書道日記と、そうでない日記−その79
by:
鈴木崩残
2009/12/03(Thu)15:17:05
極端な無関心と超関心
●箸休めといっては、なんですが、少々面倒な話が続いたので、
最近、注文を戴いた何人か方の書からの抜粋です。
いつもですと、寄せられた感想や私からのコメントを書くのが
通例ですが、
たまには、作品だけを静かに載せておきます。
さて、早速ですが、その面倒な話にまた戻ります。
*** *** *** *** *** ***
●前回の投稿で書きました「思考中毒」という状態は、
分かりやすくいうと、スナック菓子を、横において、バカスカ食っている
という状態に非常によく似ています。
吟味された食べ物を食べるのではなくて、癖としてスナックを
たらふく食べ続けている。その状態に現在の携帯中毒やネット中毒は
大変によく似ています。
スナックといえば、スナックではありませんが、
かくいう私も一ヶ月前に、「ガルボ」というチョコレートに少し
ハマりましたが、現在は、飽きて、脱却したもよう。
何がいいって、味そのものは、なんという事もない普通のチョコレート
なんですが、口の中で砕けるときの食感がいい。
ガルボミニというのが、お薦めです。コンビニにあります。
●で、話は戻りますが、チープなスナック菓子とか、バカスカと食っている
アメリカ人で、体重300キロ超えてベッドから降りられないとか
たまにテレビでやっていますが、
実際には、現在の人間の思考に関係する状態は、あのような状態に
酷似しています。
ただしそれはオーラが太っているとかのことではなくて、
頭の中の情報の話です。
たいがいの場合、オーラが、どでかく太っているのは、芸能人です。
そうでないと、観客を処理することをやっていけない。
●で、話が今回はところどころ脱線ぎみですが、
ネットや携帯メールに限らず、テレビでも、本や、普通のおしやべりですらも、
それらをバカスカつまみ食いし続けた場合、頭の中は、
「超肥満状態」だと思っていいです。
●そもそも情報、つまり思考と感覚情報に対処する方法は、
乱暴で、おおざっぱな分類ですが、3つあります。
1−既に述べたような、節操ない食い続けによって、
身動きが取れないまでに肥満化する。
2−情報をバカスカ食うのだが、いっこうに肥満化しないという
「ギャル曽根」状態。
ただしあれが、食物が効率よく吸収されているとはとても思えない。
3−燃費のいい、省エネタイプの人間。
ようするに、少量しか情報を食わないのに燃焼効率がいい。
で、話がまた脱線しますが、私は昔約10年以上、
一日一食の生活でした。
現在でも、量的には一日に一食半です。
高校生のときも朝食は抜いていたので、それ以来、
一日三食なんか食べたのは、病院に入院したときと、
ごくたまに、知人と旅館に泊まったときだけでした。
それ以外は、社会でサラリーマンやっていた激務の真っ只中でも、
一日一食(夕食だけ。昼はコーヒーだけ)みたいな生活でした。
別に、何かにこだわって、そうしていたわけではなくて、
何かの修行でもなく、単に、私の体には一日2食でも、少し多いのでした。
そしてそういう生活を長く続けていたせいで、
食物に対しては、燃費というのがやたらによくなりました。
スポーツをしていた時代もありますが、
スポーツや肉体労働などしていようがしていまいがに全く関係なく、
私の体は一日に一食で十分だったのです。
今でも、食ったものは、ほぼ完全に吸収。
この約30年間は、快便で、
便秘と下痢をした記憶は、ほとんどありません。
で、これと同じことは、思考や情報の世界でも起きます。
●私は、極端なほど本を読みません。
たまに本を書く人間であるくせに、本はほとんど読まないのです。
どうしても資料として必要なもの以外は、参考にすることも
ほとんどありません。
読むのも、めんどくさくなると、横においておくだけで十分です。
物体としての本というは、結局のところ、そこに書かれている内容も
確かに重要なのでしょうが、どうも、本というモノは、
その本の世界の何かに、つなげるという意味、または繋がる効果の
ほうが目立つことが多いです。
●また話が脱線しましたが、
私が書いた本というのは、ほとんど全部が、経験に基づいているので、
セックスの指南書でも、手裏剣の本でも、その他の精神世界の本でも、
外部のもので資料として参考にしたものは、
どの本でも、多くても、10パーセント程度以下です。
というのも、結局は、既存のものでは、私が整理したいセックスや
手裏剣や瞑想本の体系には、大して役に立たないものが多かったことと、
現場での実地の経験の方が、内容の大半を占めているからです。
********* *********
●さて、なかなか本題に入れないので、そろそろ本題ですが、
この世界には3つのベクトルの体系が混在しています。
1−高次元のことは、もう昔に済んだから、低次元のことをやろう主義
2−低次元のことは、もう昔に済んだから、高次元のことをやろう主義
3−高次と低次のバランスが大切だから、まー、そのあたりを上手くやろう主義。
●これらの比重の違い、個々の人にとっての必然性というか、
正しくは「必要性」、そして重心位置によって、
どれもその人にとっては、正しくなったり、逆にベクトルとして
間違いだったりすることもあります。
で、残念ながら、私の場合、前述のどのベクトルにも属していません。
なぜならば、前述の3つの方向性は、
どれも、とりあえずは「この活動世界で、やらなくてはならない何かかがある」
という、思い込みの前提か、または、その個人にとって、
解決すべき心身の不快感として「差し迫った何か」が、
モチベーションとなって、その人を動かし、
また一時的に、価値観を作り出しているからです。
●前述の3つの方向性は、あくまでも、この世界の存在そのものを
「正しい」または「何か意味がある」「解決すべき問題がある」
としたところに前提として、まず「立脚」しています。
ところが私個人の場合、
魂の進化も、魂の修正も、魂の帰還も、
宇宙は遊びなんだとかいう、実に能天気な妄想や、
それらを提唱する体系については、
その根拠について、全く何も信頼をおいておらず、
そもそも、この宇宙が形成されたことに、不満すら持っていますので、
この世界のほぼ99.999999パーセントの人達とは、
根本的な部分で、食い違っています。
●つまり、生の世界に、たいして、参加する気がないんですよね。
で、こういうある種の「少しばかり困った状態」にいる人間
(実は私だけでないのですが)たちが、
適当に、この世界と「折り合い」をつけて、
時間を潰すのに、とる方法というのは、毎度同じなのですが、
その毎度同じ方法には、ある種の美学があって、
その美学というのは、
「全くの無関心と、強烈な超関心」が同時に、または交互に、
共存しているということです。
傍から見ていると、関心があるんだかないんだか、
全くわからない人。または生き物。
●実のところは、本当は、全く無関心なのですが、
何かがぎりぎりになるまでは、何もしないし、何も考えもしないわけでして、
この本当は全く関心なくせに、とりかかると、
外側の人達から見ると、妙に、熱く関心を持っているように錯覚される、
というあたりが、だいたい私達の意識の生存形状としては、
「落としどころ」「手のうちどころ」なのです。
●たいていの人は、個人が関心を向けているものと、自己同化しますので、
関心の方向イコール「自分自身」という、
「あの野郎、どうかしているぜ」という状態になるわけですが、
私の場合、「あれ、また、こんなしょーもないことに関心持ってやがる」
という具合に、少々あきれて眺めているのですが、
そのまま勝手にさせることが多いので、外から見ると、
人よりも何倍ものめりこんでいるように錯覚されることが多いです。
でも、実は、ちゃんちゃら関心ないのです。
精神世界も関心なし、この宇宙のことも関心なし、
地球がどうなろうが、人間がどうなろうが、本音では、全く関心なし。
それが私個人の本質的な部分です。
雑務をとっとと片付けて、
何もしないときこそが、一番「幸せ」の絶頂の中。
●あれだけ親切に書いたセックスの本にしても、手裏剣の本にしても、
精神世界の本にしても、現在行っている「禅書」にしても、
本質部分では、逆説的にいうと、
無関心だからこそ出来た事とすらいえます。
これを喩えるのに少し参考になるのは、
私が「無心の剣」を投げるときです。
標的に当てることになんか、実は全く無関心で、
またそうでないと、神業的な、奇跡的な的には、当たらないという、
構造的なパラドックスがあります。
■その点では、現在、やっている書の個人注文というのが、
その「無関心なのに、どういうわけか、個人個人で異なる作品が
出来上がってしまう」という意味で、
私にとっては、一番、やっていて「らしいこと」をしている、
という感じはします。
それに、昔は美術系にいたのですが、
油絵の具を塗り重ねるって、結局は好きではなかったのです。
計画的に「構造的な作品」を作りたい人ならば、
日本画や油絵が良いのでしょうが、
一瞬の中で明滅するものを捉えて(というより通過させて、)
しかも、「表現」して、そのあとは誰かに差し上げて「忘れ去る」という
この流れが、私の性分には、合っているものですから。
それに、瞬間的な直観だけを、何週間も維持しながら、
瞬間を同一平面に重ねてゆくと、
それは、結果として「自動書記落書き」みたいになってしまいます。
まー、それに興味がある人もいるようで、売って欲しいという声も
あったのですが。
●そういうわけで、
大きな関心を意図して自覚的に向けて起きてくる活動というものよりも、
むしろ、心のどこかでは、少し嫌々やっている、
むろん、少しは楽しんでいる。
だけど、別に好きでやっているわけでもない。
といった状態のほうが、
もうずっと「長い間」、私のライフスタイルとして、続いているものですから、
また、そのほうが、物事の処理が無駄がなくて速いんですよ。
●物事の範囲を少し広くして、
「私の主観が認識できている範囲の宇宙」という中でも、
同じような人にしか、ありていに言うと、「心を許さない」という
傾向が私にはあります。
「宇宙も、またまた、毎度のごとく、どうせまた無くなるんだから、
まー、気楽にやろうや」
といった、ある意味で、世界にドン引きしていて、
この世界とか宇宙に、完全に冷めちゃった人達というのが
少しだけ私の知り合いにいて、
なんというか、そうした宇宙の創造と破壊と「退屈」の結末に対する
どこか、「哀愁ある背中」を持つ人達とだと、
バーで一杯ぐらい一緒に飲んでもいいかな、とか、私には思えるわけです。
一方で、「この宇宙は、こうだから、こうしないとならない、
こうしましょう、こうあるべきです、必ずこうなります!」
とかやっている他の座席の客とは、かかわりたくないですね。
宇宙酒場に、もしもそういうのがいるとしたら。
「うるせぇーんだ、このタコ」とか、遠い昔、地球ではない所でですが、
そういう人達(=タコ型生命体)に、言った覚えがある。
●彼らって、「枯れること」に極端に反目しているんですよ。
バランス悪すぎ。
だから、どうも地球でまかりとおる用語というのが、
「エネルギー」とか「エナジー」とか「ダイナミック」とか、
そういうのを欲する人達が大半で、
リラックスとかいうても、
「あんさん、それって、戦争と同じで、
次の戦争までの休憩、という意味での平和とちゃうんか?」、
といいたくなるようなものばかり。
●で、宇宙というもの関わるんだったら(とっくに関わっていますが)、
「まー、それも、ええのやけど、
とにかく、自分、一度、頭冷やしてからにせんか?」というのが、
私の少数の知人たち。
言うまでもなく、ちょっと、いつも、かったるそうで、
それでいて、なんとも言いえぬ「魅力」のある人達です。
●だものですら、どっぷりと、世界の中に価値を見出そうとしているよりも、
冷め切っていて、全然本人は、本当は何にもほとんど無関心なのに、
その無関心故に、とても無関心とは思えないようなものを
「副産物」として、本人もたいして関心もなく、
排泄物のウンコみたいに、ただ、落としてゆく人達。
この人たちって、私は、けっこう美観として、昔から、好きなんですよ。
そうね、、
たとえて言うと、頭の半分ぐらい、宇宙の外側に出て、
もう、とっくに、どこかが死んでいるのに、
残りの半分が、こっちがわで、何かを、
あまりやる気もなく、演じている人達。
それも、いつもかったるそうに、無関心的に、
それでいて、どういうわけか、変に情熱的であるかのように、
たまに他者から誤解されたりする。
あれですね、ダグラスアダムスの小説でいうと、
フォード・プリーフェクト、あのあたりのキャラです。
熱苦しくないし、ムサ苦しくないんだけど、
変に、たまに親切だったりする人達。
私が、唯一、くつろいで、ジョーク言って少々笑えるのは、
そういう人たちかな。
または、宇宙の事を「つまみ」にして討論したかったら、
話し相手には、マーヴィンとかが、最高ですね。
______________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(1338 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
梅の間 の最新投稿
オーガズムTop
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -