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掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1341]
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●無明庵日記「猫の足跡=その80=」 ■笑顔のコレクション■
by:
鈴木崩残
2009/12/14(Mon)09:20:50
【さとりびと】
年末に一回だけ、この話題をやっておきます。
●「送り人」じゃありませんが、私はこの呼称が気に入っています。
覚者だの、大悟者だの、見性者だとのという、うさん臭い言葉は嫌いです。
ところで、もし将来自我を司る脳の器官が発見されたらば、
それを外科的に削除すれば自我がなくなったり、さとり人にでも、
なる(なれる)と思いますか?
そう思うか否かは、その前に、
まず「自我の定義」がされなくてはなりません。
しかしそれを正確に定義できている文献など私は見たことがないです。
●無明庵が長年の間、最も警告してきたことは、
悟りというのは自我が、自分の不満多き人生に対して、
「一発逆転」を狙って獲得するような代物ではないという点です。
どういう物事でもそうですが、
物事には、飽和地点とか、自然崩壊する地点があって、
それは使い切るか経験しきることでしか生じません。
毎回言うことですが、自我も同じです。
だから、悟りなどということに憧れたり、それでもって自我を
満足させようとして、そうした世界に足を突っ込んでしまった人達に
対して、
「それでは、逆に、一歩すら近づかない」と私は言い続けてきました。
修行や瞑想でもしていれば、いつか起きる、、、そんなことは
断言できますが、100%不可能です。
●また、いつ捨ててもいいような自我を放棄したがったところで、
そんなものは決して捨てられませんし、
自我を捨てたいとか、そんな事を口走ることには、
なんの価値もありませんし、ただの阿呆です。
決して、これだけは、捨てたくないと、
最後まで、必死に死守して、
膨大な時間、それを大切にし続けたものが、
その限界に達して、「捨てざるを得ない」状況になることと、
たいした執着や愛着もないものを、ゴミでも捨てるように
捨てたがるのでは全く次元が違います。
かといって、今皆さんが大切に思っているものを捨てろ
という意味ではありません。そう思うとしたら、馬鹿げたことです。
最も大切に思っていることを捨てるのではなくて、
最も大切「だったはずのもの」が、自然崩壊を始めて、
それはほとんど不可抗力的で、それに逆らえない、
それが、悟り人に至ってしまう、もっとも普通のプロセスです。
●さて、自我が悟れるわけもなく、自我が悟りを「拝めるわけもなく」
自我がそれを得て満足など出来るわけがないのに、
自我がそれに憧れているというのは、全くのナンセンスです。
自我にはそれは見えないのですから。
そもそも、自我がそれを見たり、認識したり、得るのではなくて、
自我が完全に跡形もなく消えた段階で、
単に、そこに残っているものなのですから。
●これを分かりやすく言うと、
現在、自我を持っている人が何をやろうが、
何をしようが、畢竟、つまるところ、それは、
本人の自我の為に餌をやっていることにすぎません。
自我に餌をやること自体は悪くないのですが、
それを「利他的な行為だ」「社会や他人の為だ」などと、
口が裂けても、決して口にしないことです。
自我があるうちは、どれだけ他者に愛情を向けようが、
何かの思想や主義に、命をかけようが、
慈善的な活動をしようが、全て、その動機は、本人の
自我が生き延びるための食い物を与える行為にすぎません。
ただし、その動機自体には、よしあしはありません。
問題は、自分のその動機に無自覚であり続けていることの方です。
何をやっても、結局は自我に食い物を与えていることが、
その基盤にあるということを十分に自覚してやっている人たち、
それが私が言う「ごく普通にマトモな人」の条件のひとつです。
それに全く自覚で、あたかも「自分以外の何かの為にやっている」
と錯覚したがる人は、ゴミの山ほどいますが。
●しかし、悟り人には、そのような餌をやる自我がいません。
これを喩えると、こんな話がもっと分かりやすいかもしれません。
自我を持っている段階にいる場合、
それは、膨大な餌を食う、ペット、たとえば、象とかを、
自分の中に飼っている状態です。
哺乳類で本人の体重に比較して、最も多くの餌を必要とする
生物をちょっと知りませんけど、
まー、そんな生物をあなたが、ずっと飼っていると思っていいです。
あなた自身の生活費すらも、ままならなくなるほどに餌を食う
大型の生物を飼っている状態、
それが自我を持つ人達の現実の状況です。
●しかしそのペットがある日、死んだらどうなるでしょうか?
もうその生物(自我)に餌をやる必要は全くありません。
それと同じように、悟り人の場合には、
そもそも餌を食わせる自我というペットがもういないのですから、
自我の為に何かをするということは、不可能です。
●そうなると、行われる行為や言動は、
本人の自我の為には全く行われず、ある意味で、
本人の為にやるべきことは、何もなくなってしまいます。
ただし、これを何かの熟達者と同一視しないことです。
たとえば、若い頃にオリンピックのメダリストだった人や
人間国宝の人が、晩年に自分の活動をやめて、
啓蒙活動といった、一見すると利他的に見える行為をする、
これは、まだまだ自我に餌をやっている段階です。
それは単に自我が餌を得る方法が、「形を変えただけ」です。
●自我がなくなった場合には、どういう形でも餌を食わせる
ペット自体が存在しませんので、
何かをするときの行動指針やモチベーションは、
別の形で生じてきます。
●ただ、問題は、
「宗教に汚染された地球人」や「虚無の微笑」にも、
かなり詳しく明確に、書いたように、
人間が個体としての自我を喪失した初期の段階では、
その無自我の状態を、次段階の範囲にまたがっている自我が利用したり、
利用といった能動的な状態でなくても、
「影響する」という形が現れます。
これが小悟が持つ、もっとも危険な罠です。
本人は確かに自我をもう持ってはいない。
しかし、他者とか、特に、地球や太陽系といった範囲が持つ固有の自我が、
その個人に何かをさせるモチベーションを
与えてしまうことがあるということです。
だから小悟したら、最も注意すべきことは、
他者の願望や、惑星単位の持つ願望を影響させないために、
徹底して、自分の近辺から、馬鹿げた人たちを排除することです。
これをしなかったのが和尚。
それを今でも、ちゃんと続けているのがバーナデットロバーツです。
●結局のところ、本人の自我は消えたが、
個人の自我の「次段階を統括している自我」が、それに代わってしまう危険性がある。
それを意図して受け入れるか拒否するかという「選択権」はむろん
本人にはあるのですが、
小悟程度の段階だと、その自由は、まだ得られておらず、
自分以外のシステムに使われる身になる場合が多くあります。
それを昔の人は、大我とも言ったようですが、
かなり、いいかげんで、危ない言い方ですね。
●だいたい、私の見た範囲では、
もう少し先の広い範囲にまたがる母体(マトリックス)にある
広範囲の自我(枠のシステム)から切り離されないと、それは悟り人とは言えません。
そういう意味で、最低でも悟り人を「三段階」に分けたのです。
●さて、では一体悟り人には、世界はどう見えているのか、
どう感じられるのかという問題になりますが、
それを、あまりにも正確に言おうとした結果、全く理解されなかった
のがバーナデットロバーツで、
一方で、それをあまりにも、適当に、その時々ででまかせに言ったために、
「理解できたかのように誤解され続けた」のが和尚です。
●しかし、
悟り人と、まだ(個人の)自我のある人の違いは、
ごく単純な構造で説明できます。
悟り人には「外部」というものは、その日から存在しなくなります。
それまでは、明らかに外部として認識されるものが、そこにあったとしても、
その日から、外部というもの(認識)自体が存在しません。
外部の影響下にある現象というものは、むろん認識されています。
たとえば、身体の痛みや飢えなどです。
しかし、それはもはや「外部世界のもの」としては見えません。
もっと正確に言うと、悟り人に見えているのは、
1−その時々に、鏡に映った映像の認識。
2−鏡それ自体があることを、常に自覚しっぱなし。
3−そしてその鏡を見ている主体があることの認識。
この三つのものが常に同時に意識されている状態といえば、
なんとなくですが、理解の助けにはなるかもしれません。
●通常の自我のある人は、鏡に映った映像以外は、
全く何も認識されていません。
何かの精神世界の本を読んでは、
本当の自分だとか、主体だとか、観察者だとか思っているものすら、
「鏡の中の映像であること」がほとんどです。
●悟り人にとっては、経験される現象は、
すべて鏡の中の映像のように見えるために、
直接的にそれが外部のことであるとは、認識できなくなっています。
ただし、
現象と観察者の間に「距離がある」という言い方は厳密には間違いです。
バーナデットロバーツが再三言ったように、
ものごとは「何であれ、【それ】を通して見る」ようになりますから、
自分の中で起きているという感覚ではなくて、
表現は漠然としていますが「常に意識の中で起きている現象しか存在していない」
と、喩えるほうが正確です。
そしてその映像が去ったときに、そこにあるのは鏡です。
しかしその鏡もなくなった場合には、
そこにあるのが観測主体だけということを経験し続けます。
しかしその観測主体にも、さらに母体となるものがあることを経験し続け、
といった、認識の構造をすべて同時に有しています。
●外部の世界は、実際には、多くの人にとっては、
そのままに歴然とそこにあるでしょうが、
悟り人にとっては、それは外部のものとも認識できず、
つまりは、「内部のもの」とすらも、もう認識できません。
内部も外部も、どちらも同じ鏡の上に映っている状態だからです。
●ただ、感覚的に説明すると、自我があったときには、
非常に直接的に外部が重く感じられ、
それが明確な存在感や、実体感を持っていたものが、
突然に、または急激に失われ、
そもそも、生きているという感覚や、
現実という認識をしている軸になる立脚点が、
非常に、シンプルに単純化されたものになるということです。
ただし、生きている感覚が希薄になるとか
現実感を持てないという一般的な「病理的な精神状態」とは
これは全く異なります。
●こうした悟り人に特有の、認識の中に、外部が一切存在せず、
ただ外部の影響をうけた鏡の中の変化し続ける映像がある、
しかし、それは鏡を割れば消えてしまうことも知っており、
鏡を見ていた主体が残ることを知っており、
さらには、その主体すらも認識の中心ではないことを知っている。
そういう状態にあるわけです。
●悟り人というのは、厳密に言うと、こうした状態にあるために、
逆に言うと、そこから見た場合、
自我というのが、一体何であったのかも、推測が可能になります。
自我に関する正確な定義が出来るのは、
それを「失った者」だけです。
それがなくなったときに、後になってから、
はじめてそれが何であったかを知ることが出来ます。
簡単にいってしまえば、
それは「境界線意識を生じさせる」仕組み、または事故の産物です。
つまり、外部と内部という意識の初期的な分裂を引き起こした
段階で、自我がそこに存在するということになります。
故に、惑星や恒星や銀河系にも、それぞれに固有の「境界線意識がある」
という意味においては、「枠」としての自我は存在します。
●しかし、ここまで言葉を正確に使って解説しても、
なおも、この状態は、今までも、そして今後200年か300年ぐらいは、
ずっと誤解され続けると思います。
●なにしろ、このへんぴな、
「ほとんど無害」とガイドに明記されるのも当然のような惑星では、
自我やゾンビが、ぐちゃぐちゃにその領域の知恵の手かがりを汚してしまい、
あまりにもひどい誤解が発生したものですからね。
悟り人になったら、愛情深くなるだって?それはあり得ない。
悟り人になったら、怒りがなくなるだって?それはあり得ない。
悟り人になったら、何でも知ることが出来るだって?それはあり得ない。
悟り人になったら、自我から開放される。それはあり得る。
●ただし、自我がないということは、自我に起因する行動指針も
なくなるということですから、
いわゆる人間社会で大切にしろと教え込まれてきた、
希望、夢、目的、達成意識、ならびに、
それに対して「相対的」に生ずる挫折感も、劣等感も、改善意識も、
問題意識も、何もなくなります。
自我が作り出していた問題どころか、自我そのものがないのですから、
解決すべき問題が、そもそも最初からなかった領域が、
その悟り人の「常駐」する領域になります。
●ただし、ちょっとした雑用は、常にこなさねばなりません。
たとえば、最低限、身体に餌をやること。
どこか体や周囲の具合が悪ければ、少しは、修正すること。
そして、多くの場合には、本人に目的がないために、
周囲または、ある範囲の全体の持つ無意識的な希望を反映するような
言動に出ることはありますが、
ただし、私の個人的な感覚では、
それは何かや、どこかの誰かの判断が正しいからそうするのではなくて、
常に、「バランスの悪さ」に対して行われる「少しばかりの修復」というのが、
悟り人の主なモチベーションになるようです。
もっとも、バランスがいいという固定観念自体が、
既に、汚染されたものなんですけどね。
バランスを故意に崩す必要がある場合も多々ありますから。
●まー、どのみち、悟りのことなど、気にする必要のある人は、
ここの世界には、ほとんどいません。
それは「部分活用」というのが不可能な領域であり、
またもしも、自我が部分的に、魔術の一部として活用しようとしたら、
それは活用がひどく限られたり、
最悪の場合は、欲望を達成したいという自我の意志とは全く相反しますので、
せっかくの自我経験には、まったく良いこと無しです。
●それよりも、もしもあなたが、
退屈感を含めた、「不快」の根源を除去したいのであれば、
それに至る最も効率の良い最短の「近道」は、
下手に、バランスなどとろうとせずに、
外部と内部が、隔てられているという、自我に固有の感覚を
存分に大切にして、自我をなんとしてでも死守し、
それに餌を与え続け、それが肥大化して、
ベッドの上で動けなくなって、のたれ死にするまで、
自我を本当に「大切に扱うこと」です。
その正しい道に対して、水をさして、
中途半端な意志や欲望しか持てない人間を作ってしまった原因の一つが、
悟りという構造に対する、この惑星の人達の持った誤謬です。
●つまり「まだその時期にも来ていない人」に対して、
「無欲」などという役にも立たない教え方をしたことが、
自我に、ちゃんと手入れをしないことの、
「言い訳と逃げ道」に悪用されたわけです。
●もしも自我が限界にまで飽和する、そのプロセスがなく、
単純に、脳外科的な除去または、軽薄な自我の経験しかないままに
悟り人になったところで、
それでは、「名産品が記憶喪失」という、この惑星に来た意味がないんですよ。
正しく言うと「記憶喪失からの帰還ゲーム」という名産品ですが。
単純に、早く、楽になって、開放されたいとか、
そんなことをしたいなら、とっとと自殺して、
地球でない別の世界にでも戻って、
また、うんざりするような「退屈な生活」をしてください。
●
●そうそう、以前に有料購読のときには、購読者の人には
詳しく話した覚えがあるのですが、
私が地球に来た目的は、たった一つに絞り込まれていました。
それは、
「人間の笑顔」を見るという、たったそれだけの目的です。
見苦しい歪んだ笑い顔から、腐った笑顔から、
さわやかな笑顔から、自我が満足した笑顔から、不意に生ずる笑顔と、
いろいろな造形と動きが、人間の表情にはありますが、
私がここに生まれる前に、最終的に映像によって、
自分の誕生の目的を確認したのは、
「人間の笑顔の中に、特別に面白い笑顔がある」ということでした。
それを確認しにきた結果、
その、めったに見られない「最高の笑顔」を、
実際に、私は見ることが出来ましたから、
もう他にはすることは、基本的にありません。
あとは、私が何をしようが、言おうが、単なる余興です。
●笑顔っていうと、ひどく人間的な表現ですが、
もう少し無機的にいうと、
笑顔を構成している意識状態の元になる因子です。
まー、構造的には、バグというか、ハウリングというか、
情報の混線による一種の「痙攣」なんでしょうけどね。
そういえば、ロバート・モンローの本の中に、
「地球上のギャグ、ジョーク、コメディーばっかりを収集している奴」
が登場しますが、
さしずめ、私の場合は、
「笑顔」コレクターとして、ここにやってきました。
で、ここ最近、動物が笑ったときって、分かるようになりました。
表情筋は、人間のような複雑なものではないのですが、
猫や犬や、はては、鳥類とか。
かなり微妙なんですが、オーラ観察によるとかではなくて、
笑ったときに固有の「にやーっとする表情」があるのです。
言うまでもなく、この世界で見た最高の(人間の中の)笑顔とは、
悟り人たちの笑顔でした。
●ただ、これだけは言っておきたいのですが、
軽薄で、冷笑的な、下品な笑い顔などよりも、
人間は、本気で怒ったり、本気で苦悩している顔の方が
まだずっといい(マシ)という事実です。
私は、関わる人に、軽薄な笑顔など見たくないですし、
軽薄な笑顔を他人に与えるようなものも作りたくありません。
だから、今日まで、そういう本を書き(軽薄にはなれない本)、
そういう「書」を渡してきたてのです。
本気で、悩んだり、怒ったり、苦しむような本か、さもなければ、
オーガズムによって女性が、ほんとうに、心底ほっと安心して
くつろぐ事のできるマニュアルか、
ほっと微笑むような書か、そのいずれかです。
■■■
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