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2007年3月までは
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2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1358]
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「習字」「「臨書」「商業書道」「創作書道」「前衛書道」「禅書道」の違いと分類■禅書道日記-その97
by:
鈴木崩残
2010/02/19(Fri)22:48:40
★博士君とブリジットが同じ部屋に?
↓
http://www.youtube.com/watch?v=qzUmb3iX4nE
●実は、どうしても家の中が見たいというので、
ご近所の猫さんで(半ノラの)ブリジットを部屋にいれてみました。
ひとんちのおもちゃで、思いっきり、勝手に遊んでいますね。
博士君は、天井近くの高台から、それを淡々と見守っています。
二人を一緒にすると、博士がブリジットに興味を持って近づくのですが、
ブリジットが、博士君に猫パンチをしそうになるので、引き離しました。
●ちなみにこの一生に、今まで私が聞いた猫の「ゴロゴロ声」では、
ブリジットのゴロゴロが最も音が大きかったので、
ついでに録音してみました。
ふつう、あの喉を鳴らす音は小さいので、録音するのが難しいのですが、
ブリジットが私の膝の上で、うずくまっているときに出していた声を
録音できました。
猫のゴロゴロ音ばっかり集めたCDってのがあったら、
すごく売れると私は思いますよ。
不眠症・睡眠障害とかには補助的に効果ありそうです。
ただし、猫がこの声を出すときは、必ずしも100%嬉しいから
とは限らなくて、
猫が自分で自分の気持ちを静めるために出す場合もあるようです。
●途中で入るピアノは、以前に書を注文された方から贈っていただいた
曲です。使わせていただくのは、これで3度目ですね。
【私と書】
●タイトルが、まるで、学校の文集とか、新聞の読者投稿欄みたいに、
なんともありきたりですが、
これ以外に序章のタイトルを思いつきませんでした。
●書というものに接したのは、幼いころから母の書を見て育ったからでした。
しかし、まさか45歳を過ぎて自分が筆を持つことになるとは
全く予想しませんでした。
子供の頃から、母が書く字が好きでしたし、それを見るのも好きでした。
書くものは主に、手紙などですから、大きな半紙に書いているのは
見たことがありません。
母が何かの書簡とか手紙を他人に出すと、必ずといっていいほど、
達筆ということで、受け取った人が感心していたようです。
●息子が母親をベタ褒めするのもなんですが、
母親が、50歳ぐらいまでは、どえらい美人だったもので、
子供のころ、一緒に歩いていると、(特に母が着物を着ているときには)
通りすがった人が(男女問わず)振り向かなかったことがないほどで、
それは、子供ながらにどこか嬉しいことで、
母親の存在を、ひそかに自慢できることの一つだったのですが、
達筆であったことも、子供ながらに嬉しいことでした。
●母は学生時代に書道の賞を、総なめにしたようで、
そのほかにも、お花、お茶、三味線、琴、水墨画と、習い事は
なんでも一通りやったようですが、
結局、最後まで好きで残ったのが書道だった、と言っていました。
ただし、本当に好きなことは仕事にしたくないということで、
教師免許は持っていたようですが、書道教師にはならなかったようです。
●書を書いている母が、ときどき、面白いことを言うのを子供の時から
見ていました。
それは、「面白く書けた」と一人で喜んでいる姿でした。
「大和がな」が混じった文章ですから、私は読めませんし、
私には、一体何がどう面白くかけたのか、は分かりませんでしたが、
とにかくそうやって、自分の書いた書に自己満足して
一人で勝手に喜んでいる母親を、たまに見てきました。
●この「上手いとか綺麗の問題ではなくて、面白いかどうか」
という美観は、母の影響や遺伝は別に、
私の中にも、ずっと存在していることは確かです。
以下は「母の書」です。(他界する数年前に書いたもの)
遺体の供養を頼まれた「一休禅師」が、
遺体を無造作に、川の中に放り投げたあとに、
ぼそっと村人に言った言葉として語られています。
●さて、話が半世紀ほど飛んで現在に戻りますが、
私が筆を持ったのはなんと45歳を過ぎてです。
しかも「書」を書く事になどは、私は何の興味もありませんでした。
たまに書店さんに送る納品書の封筒の裏に、
屋号を書く程度しか、筆ぺンは使いませんでした。
ただ、あるとき、ふと、筆ペンで「檀紙」つまり神事用の紙に、
何気に、落書きをしていたときに、
突然に、何かのスイッチが入ったようでした。
●「無心」とそれを超える「無無心」の違いというものは、
手裏剣術を通じても嫌というほど知っていますし、
また瞑想その他、セックスにおいてすら、
それがどういう違いを状況全体にもたらすかを私は知り尽くしています。
それが突然に毛筆というものに乗り移って表現された瞬間、
それが今から数年前でした。たぶん、2005年か2006年。
言うまでもなく、そこで問題になる「判定基準」はただひとつです。
「無心だったかどうか」ただそれのみ。
文字が上手く書けるかどうかなどは全くの論外。
上手くかけるか、とか、かっこよく書きたい、などという雑念ほど、
この無心の書を根本的に台無しにしてしまうものはありません。
また文字が「面白くかけるかどうか」なども論外。
面白くなどしようと、僅かでも頭をかすめたら、もうおしまいです。
●私の中では、無心に筆が勝手に動くときと、
いささかでも、そこに雑念が混じったときは、はっきりと白黒がついています。
ですから、そうやって、ろくに書道(習字)すらやったことのない人間が、
ほぼ「自動書記」に似た形で、文字を書いてゆきました。
といっても、たまに気が向くときだけでした。
それは今でもそうです。注文がなかったり、差し上げたい人がいないときには
私は全く筆を持ちません。
いわゆる書が仕事だったり、または好きで、毎日書いている、
という人たちとは全く違います。
そこに「必要性」が生じなければ、全く何も書かないというのが私の書です。
●厳密に言えば、書というツールを無心の表現方法としているだけで、
何も書でなくてもいいのですが、
現時点では、表現媒体のひとつとしては、私にはあっているようです。
以前にも言いましたが、私の基礎になっているのは、
習字や書道といった背景ではありません。
徹底した「自動書記」の積み重ねと、
あとは無心や無無心の状態に、出入りできるという特技のみです。
●それがまさか、カウンセリングを伴う形で、
依頼者に応じて文字が変化したり、依頼者の状態を映し出したり、
また依頼者にとって改善できる部分を刺激する字体に、個別に変化する
などという応用が出来るとは、
私すら、やってみるまでは、思ってもいませんでした。
●ただ、数年前から、面識のまったくない知らない人の名前を書くと、
その文字がその人の状態をあらわすように変わり、
書いているとき(というより書かれてゆく時)に、
その人について読める部分が出てきたので、
一時は、知人がくるたびに、私の知らない人の名前を言ってもらっては、
書を使って、リーディングをして遊んでいた時期がありました。
●さて、書には、いくつかの分野があるようですが、
私の書は、全くどこにも分類できません。
結果としては、素人のお習字に、少し創作書が混じった程度、
というあたりに似ても見えますが。
●ちなみに、「カウンセリング書」というのは、なくはないようですが、
それは患者さんが書を通じておこなう「セラピー」であって、
治療の為に、お絵かきをするカウンセリングと同じようです。
●私の場合には、カウンセリングを「する側」の立場で書を書くものですから、
「占い書道?」みたいにも思われてしまいますが、
別に、コーヒー占いみたいに、
墨をたらしたシミで、何か占うわけではありません。
いちおうは、文字というモチーフを使って、
書を書く過程で、相手の人の状態が文字に現れてきたり、
また文字が調和していないと、勝手に文字が崩れたり、ゆがんだり、
ばらばらになってかけなくなるといった、妙な事が起きたわけです。
●「無心の禅書」の「DVD」のシリーズの中でも、
何度も繰り返し、言っていますように、
私は、創作書には興味はありませんし、
デザイン書にも興味がありません。
また、自分の書をアートだとも全く考えていません。
無心の書は、私の中では、
「書のアート」ではなくて、「無心のアート」という定義です。
私にとっては、禅的な境地をあらわしたか否か、
100%よしか、ゼロしかない世界、それが私の禅書です。
●そこで、今一度、いわゆる世間様が言っているところの
「書」「書道」という世界はいくつのカテゴリーに分かれるのか
私なりの言葉で、簡単に説明を試みてみたいと思います。
【書道の分類】
●筆記具というのは、言うまでもなく世界中にあるわけですが、
欧米のペンとインク、
そして中東や、インドの書体に使われる「平筆」のような、
いわゆるカリグラフィーペンに比べて、
いわゆる「毛筆」を使った中国と日本にのみ、書道文化が発達したのは、
面白いですね。
−1−
習字。
これは私たち日本人の場合、小学校と中学校で書かされたあれです。
「対象となる文字」は、常用漢字やひらがなで、
「その目的」は、毛筆を正しく書くことのみ。
絵画の世界にたとえると、これは
「クロッキーやデッサン」かもしれません。
結果としては美しい文字になるはずなのですが、
私に言わせると、全体としてどれも「美しい」と思えるのは、
「行書体」あたりですかね。
「楷書体」の場合には、そもそもその文字そのものの造形がちっとも美しくない
ものがあると私は思っています。
なにしろ、何万字もあるのですから、
どの字も、全部美しいなんてこと、「絵(象形文字)」としては、ありえませんから。
−2−
臨書。
「対象となる文字」は習字とは違って、中国の古典や、漢詩、和文などで、
古人の文字を完全に手本するもの。
「その目的」つまり、心構えとしては、
単に文字を写し書くのではなく、
その筆づかいを追体験して辿ることで、
そのオリジナルの「書家の気持ちや歴史的背景」をも感じ取るというのが
臨書の目指すもののようです。
絵画の世界でいえば、有名な絵画の「模写」に該当すると言っても
いいと思います。
■さて、この「お習字」と「臨書」、
ここまでは、商品価値が発生しません。
つまり、これらに対しては、お金を支払う人は存在しません。
なぜならば、絵画で言うならば、
それは練習で書いたデッサンと模写だからです。
贋作で骨董屋を騙すならともかく、どれだけ原書にそっくりに
書を写し書いたとしても、そこには「商品価値」が一切発生しません。
●「商品価値」というものが発生するのは、次の「商業書道」からです。
−3−
商業書道。
これは、「依頼者の望む書を書くことが目的」である、
という点で、次の4の「アート書」とは私は区別しています。
商業書道とは、私たちの身の回りに氾濫しています。
私たちは自宅でそれを見ないことはないと言っても過言ではありません。
日本であれば、台所に行くだけで、そこらじゅうに毛筆で書かれた
商品ロゴを見ることが出来ます。
つまり「商業書道」とは「毛筆によるロゴデザイン」をメインとしています。
または、創作性がない字体の甲板も含めて、
「毛筆」という技術を「商品」とした場合に生まれるものです。
食品ラベル、映画タイトル、アニメタイトル、Tシャツ、
いろいろなお店名の看板、印刷物で、
特に私たち日本人は、それを目にしない日はありません。
「アート書道」とは、一線を引いて区別するべき点は、
クライアントの注文が全てであって、
書道家の持つアート性などは、主張してはならないという点です。
音楽家でいうとクラシックもジャズもポップスもロックもテクノも、
なんでもこなせて、といったのと同じで、
どんなクライアントの注文する書もかける人、
それが「プロの商業書道家」です。
映画や、CMなどの曲を作るスタジオミュージシャンの世界だと、
そういうプロの音楽家は存在します。
しかし書の世界では、実際には、そういう人はほとんど存在していなくて、
クライアントが逆に、企業イメージに合いそうな作風の書家を
「指名する」という形が多いはずです。
それらは、以下の写真のように、
私たちの生活のあらゆるところに見ることの出来る「毛筆文字」です。
■余談ですが、テレビの画面で見る限りですが、
中国の街中の看板と、日本の街中の看板を比較すると、
圧倒的に、日本の店の看板やロゴマークの方が、
遥かに、創作的な商業書道が多いと私は思います。
中国の店の看板や広告や本の表紙というのは、
だいたい伝統的な書を逸脱していないように見えます。
●たぶんこれは、そもそも「創作書」という分野が、
第二次大戦後に、日本ではじまった運動で、それを分岐点として、
中国とは著しく異なる書の文化(大衆文化と芸術文化両面で)を、
構築していったからだと思います。
これは中国のアカデミックな書道協会みたいな人たちに言わせれば、
「書のカオス化」だとか「書道の堕落」とまで、ボロクソに言う人もいるみたいですが、
日本人は、書の中に、日本独特の、「わび」「さび」そして「粋」などを
人によっては、遊び心として、人によっては精神性として、
持ち込んだと言えます。
−4−
「アート書道」または「創作書道」
●これが「商業書道」と異なる点は、商品価値が問題なのではなくて、
芸術的な価値や、人を感動させられるかどうかが、そこでの鍵になるからです。
お店の看板やロゴマークでは、人を感動させる必要はありません。
それは書のイメージの効果で、その商品や店が売れればいいのです。
しかし創作書の「その目的」は、
それで企業や、旅館や料亭のお客さんに喜ばれることではなくて、
本人が、そこにアート性を主張することです。
それが社会的にどうであるかとか、他人に感動を与えるかどうか、
価格のつく作品になるのかどうかとか、そんなことは、ただの結果論にすぎませんが、
まーそれを目的にしている人も多いようです。
●私個人は、あえてここでは「感動させることが目的」といっていますが、
その理由は、「創作書」というのは、分類上は、
これまた絵画でいいますと、「印象派」あたりの作風が多いからです。
●「いかにも、雪らしく雪を書く」とか、
よく「カレンダー」や「絵手紙」に見られるような、
「絵との調和」という要素もあります。
「らしく書く」とか「絵のように字を書く」という雰囲気がキーワードになる
分野だと思います。
●それほど、ぶっ飛んだ書の世界ではない、という点では、
見る人には一定の「感動」を与え、また美観的には「心地よさ」を与えるものと
定義しても私は構わないと思います。
ですから、日本人が一般的に一番好みそうなのは、
この創作書道の分野です。
絵画と同じぐらいの無数の作風がありますから、
その中から皆さんは、好みとして好きな書を選べばいいと思います。
ただしこの「創作書」は「商業書道」になり得るものも多く含むので、
社会的には、混同されて、重なっている部分はあると思います。
−5−
前衛書道。
●これは前述の「創作書」とは区別されるべきものだと私個人は考えています。
「創作書」が、人に一定の心地よい美観を維持していて、
人に感動を与える要素を持つのに対して、
「前衛書」とは、
人間に「衝撃を与えるべきものである」という定義が私の中にはあります。
見る人の価値観が、どこかで割れたり、
カルチャーショックを与えるほどのものになってこそ、
それは、前述の「創作書」という一線を超えて、
「前衛」と名乗る資格を持てるものになると私は感じています。
ただし、単なるパフォーマンスで終わる可能性もある、
危うい領域ですがね。
絵画でいうと、キュービズムや、シュールリアリズムあたりになる
「かも」しれません。
●ただひとつだけ、「前衛」といっても、
「絵画の世界」と書道の世界では、一点だけ違う点があります。
それは書には「モチーフ」があるということです。
そのモチーフとはつまり「文字」です。
どれだけ抽象化されたとしても、
その原型にあるものが「文字」である、という点が、
それすらも持たないところから開始する絵画とは違う点です。
私がカウンセリング書や、あるいは「無無心の書」に魅力を感じるのは、
そのモチーフとなるもの、そのたったひとつの「制約」となるものとして、
「字」が元になるという点なのです。
■以下の作品は、他人様のものですが、
私が何か「ぐっと」感じる部分のあるものです。
前衛というカテゴリーでいいのかどうかは分かりませんが。
↓
−6−
禅書道
●これは二つの意味を持ちます。
ひとつは、禅僧が書いたという意味だけで言われる禅書。
その禅僧の境地とか、芸術性などはどうでもよくて、
単に禅僧が書いたから、禅書と呼ばれるもので、
これは私に言わせれば論外の代物。
全く無価値な、どうでもいいものです。
また、ネームバリューがある人(作家や学者)が書いたものは、
それは禅書ではなくて、
骨董品としての価値や希少価値があるものということにすぎません。
左から、良寛、 盤珪、 一休、の書
●私から見れば、真の禅書とは、
悟りの意識状態の中にあって書かれているかどうかであり、
その結果として、その字は必ずしも、暴れたり、前衛的になるものでもなく、
逆に、必ずしも、美しい字や整った書体になるものでもありません。
そのときの自然や状況を、作為の心を介さず、鏡に映すようなもの、
それを私は禅書と呼びます。
現在までに、写真なども含めて、それを見たことは非常に少ないです。
西洋絵画の世界では、例えることが難しいです。
私の「無心の書」と「無無心の書」は、ここに属するものです。
左から「翔」「無」「創造」
−7−
カウンセリング書道。
●これが私が現在、開拓しつつある「異形の新種」の「書の分野」です。
前述しましたように、何もそれは、心に問題のある人に書を書かせて
アートセラピーをして、癒したり、社会復帰させるわけではありません。
そんなチープなことは、巷の「癒し屋」にやらせておけばいいのです。
そうではなくて、書き手である私が、依頼者を書として転写し、
かつ転写するだけではなくて、その人のために部分的に変形すること。
左から「観」「静」「道」
■使う素材・道具については、いくつかを試した結果、
どういう筆の速度で動いて書かれるかが、私にも予測できないような書になるので、
通常の半紙と筆では、対応が不可能と分かりました。
いわゆる臨書や習字のように、慎重に書くのとは全く違い、
筆圧が高すぎて紙と筆がひっかかるわけです。
また、普通の書道のように、とめ、はね、はらい、などの
ルールを無視して、筆が勝手に動くのを最優先する結果、
どういうわけか、筆速が異常なほど速い、という現象に気づきました。
そこで、その速度でも表現できるように、
パステル画を書くような画材紙と、ナイロン筆に行き着いたわけです。
おかげで、裏打ちを気にせず清書を何十枚もかけることと、
筆を最初に降ろすときに、大量の墨を含ませても、滲まないこと。
そして高速の筆勢にも対応できるという利点がありました。
●逆に欠点としては、
墨が紙に吸い込まれないので、墨が完全に乾燥するまでに、
(外気温によりますが)6時間から12時間かかることです。
左が「勇気」右ふたつは「笑」
★なお、私の書の【ご注文方法】は、
隣の↓「竹の間掲示板」にあります。
http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html
_____________________________
■では、最後に、
松の間にも同じリンクがありますが、 ほんの余興を。
初心者向けのカードマジックです。
手順や演出方法は、私が考えたものです。
かなり無駄のない手順で出来ています。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=NYKyZLhX_7M
●言うまでもなく、実際にお客さんの前でやるときには、
前半と後半、どちらの場合にも、
お客さんには、全く自由にカードを選んで戴けます。
★おまけに、もうひとつ。
前半部は、テレビで前田さんがやっていたのとほぼ同じですが、
手順を一部、複雑にしました。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=zm7psA-aytA
■なんと、ハイスピードカメラと「対決」してみました。
後半がちょっと退屈で、申し訳ないです。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=TPQJGNYlsXw
___
★
.
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