▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1393]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その130=」地球での本来の生存目的
by:
鈴木崩残
2010/05/20(Thu)04:13:43
真夜中に、
この「狂気の世界」から離れ、
「独り」になる時間を持つ事
●人間にとって、最重要であることは、
「自分が何であるか」と「外部世界が何であるか」、
この二点のみです。
それ以外のものは、すべからく単なるガラクタに等しい。
ただし、この自分が何であるか、と、外部世界が何であるか、
という問題に直面する時に、
本やら、他人からの聞きかじり、あるいは自分の記憶、
そういったものをいくら寄せ集めて、自分に対して知ったかぶりを
したところで、あなたにとっては、明日の朝から何が変るわけでもなく、
翌日も、今日と同じ、職場、家族、諸問題が、
そこで繰り返されるだけです。
_________
●世界が何であるかということと、自分が何であるか
という問題は、いくら本を読もうが、歴史を学ぼうが、
天文学を学ぼうが、脳神経学を学ぼうが、心理学を学ぼうが、
哲学を学ぼうが、座禅や瞑想ごっこをしようが、
決して、知ることは出来ません。
●実際には、それを知る方法は、
そうしたガラクタを一切廃することで、
それを知れる可能性が出てくる「門」が、ゆっくりと開きます。
_________
●いつも私が言うことですが、
「慣れ」というものは恐ろしいもので、
ある意味では、慣れるという現象があるおかげで、
人間は、日々、発狂しないで生きているのですが、
逆に「慣れすぎる」というのも、一種の発狂状態であることには
変りありません。
●慣れたものを「現実である」と取り違えるのは、人間にかぎらず、
生命の持つ癖のひとつですが、
人間が自分が何であるかということを模索するときに、
自己同化しやすいものは、次の四つです。
1−あなたが知覚している内容。
2−あなたが行動している内容。
3−あなたが思考している内容。
4−あなたが記憶している内容。
●たったこれだけのものの総体が、人間が自分が何であるかを
かろうじて、「思い込むことの出来る素材」に過ぎません。
●それで、いつも言うことですが、
実は、他人を見るときに、私はこのどれひとつにも、興味がありません。
その人間が何を知覚しているか(これはやや興味がありますが)
その人間が何をしたか、何を考えたか、何を記憶しているか、
これらは、
全く私にとっては、無意味であり、関心をもてません。
私にとって最重要であるのは、
その人がどういう意識のあり方をしているかのみです。
●「この部分」は、実は、その人間の記憶でもなく、
思考でもなく、知覚でも行為の種類でもないからです。
だたし、長い歳月での知覚、記憶、思考、行為による
汚染度が低い人ほど、
意識の部分は、原初のままで保存されていることが多くあります。
ようは、行動派でもなく、思考派でもなく、
記憶力が良いわけでもなく、
さらには霊感を含む一切の知覚力もそれほどない、
そんな状態の中では、むしろ原初の意識は、
生き延びていることが、多くあります。
●最近では、ここにその人の自我が原型であるか希釈物であるか
という問題も加わりましたが。
_________
●だから、
「自分が何であるのか」「一体、ここで何をしているのか」
「本当にこんなことはする必要があるのか」
「そもそも何をしに生まれているのか」
「そもそも生存に価値などあるのか」
「宇宙も含む外部世界が何であるのか」
こうした問題に取り組むときに、
私は一環して、皆さんに、繰り返し、同じことを薦めてきました。
それは、
「一人っきりになって、自分の記憶、行為、思考、知覚」から
離れる時間を持ちなさい、ということです。
●それが「最も可能」なのは、時間帯では、
おおよそ、夜中の2時から4時までです。
それ以外の時間帯でもいいですが、なるべくならば、
静かな環境で、誰とも接する必要のない夜中が適しています。
そして、部屋を決して明るくしてはいけません。
手元の字が見えるか見えないか程度のごく小さな明かりにするか、
または、窓からもれてくる光程度の暗さで良いのです。
●その「薄明かり」または暗い部屋の中で、
じっと自分がそこにいることと、自分の意識がそこにあることと、
そしてどうやら世界なるものが、自分の周囲にあること、
その単純な事実だけに向き合いなさいと私は言ってきました。
そこに決して、ガラクタの精神世界の読みかじりの内容や、
くだらない社会やら、家族のことやら、明日のことやら、昨日のこと、
くだらない宗教も、魔術も、霊感も、何も持ち込んではいけません。
それらを持ち込むほどに、そこに歴然とある本質を見逃してしまうのですから。
_________
●こうしたことは誰にでも可能な、
人生の中でも、他の何を犠牲にしても、最も重要な時間である
にも関わらず、
多くの人たちは、
毎日のように、まるで麻薬中毒患者のように、
何かをせずにはいられず、何かを考えずにはいられず、
あげくには、黙って座って不安になっていればいいものを、
子供じみた瞑想ごっこや、座禅ごっこを始めます。
私が言っているのは、
そこに在るものに「身を浸せ」といっているのであって、
あなたが、何かをそこで知ったり、得たりするためではありません。
逆に、得たり知っていたと思い込んでいたものが、
ほとほと、単なるガラクタだったことを思い知り、
また、それとは関係のない意識にあなたを戻すために、
こうした時間を薦めているわけです。
●たとえば明日は仕事がない日だとします。
その前日の夜でしたら、あなたには、なんと、4時間でも半日でも、
自分が何であるか、世界が何であるか、ということに
じっくりと取り組む時間があるわけです。
そんな重要なことをさしおいてまで、
一体どんな重要な用事が、あなたにあると言うのでしょうか?
こうした問題は、あなたが死ぬ直前になってから考えればいいものでもなく、
あなたに死が迫ったと自覚したときに考えればいいものでもありません。
そんなときに考えるとしたら、とっくに手遅れです。
だから、これを見ているあなたが何歳であっても、
それは、今、今日、感じて、考えるべきことです。
●その問題(自分と宇宙)に、一人っきりで向き合うこともせずに、
あなたが、何をどれだけやってようが、どれだけできようが、
何をどれだけ知っていようが、
何をどれだけ霊視できようが、全く無価値です。
少なくとも、私にとっては。
●だから、夜の暗闇や、薄明かりの中、
あなたに何もすることがない、何もする必要がない、
という環境をどれだけ多く持っても構いませんから、
その中で、根本的な問題を自問し、
あれやこれやの屁理屈で自分を慰めて翌日を生きる前に、
自分にたいして一切の慰めを持ち込まず、精神世界を持ち込まず、
最も重要な、
「あなたの本当に自由な時間」の中に身を浸してください。
私が言うところの、
「あなたの自由な時間」とは、
あなたが、何かする為の自由な時間ということではなく、
また、あなたが、何かを自由に考えられる時間ということではありません。
あなたが、行為、記憶、知覚、思考などのガラクタから、
意識を自由にすることの出来る時間と環境、という意味です。
だから、私は、それが最も可能なのは、
あなたが落ち着ける「あなたの自身の部屋」よりも良いところはない
というのです。
そういう意味では、寺や、寺院など、糞とカビの生えた、不浄な場所に過ぎません。
●もっとも神聖な次元に対して、扉が開く可能性のある場所。
それは、あなた自身がたった一人で、
しかも、少なくとも数時間は、誰にも邪魔されず、
「心底落ち着ける」場所です。
ただし、そこで何かを考えたり、何かをしてはいけません。
「自分がそこにいること」と「世界が外側にあるらしいこと」
この単純な事実から起きる、
あらゆる疑問や、知覚や、問いの中を漂いなさいということです。
_________
地球という名の、
廃業寸前の遊園地
●さて、ここで、話は突然に、変な話になりますが、
そもそも、
地球上の人間の寿命が、平均的に60年から80年ぐらいに
設定されているのは、どうしてかご存知でしょうか?
設計する側からすればそこはかなりどうにでもなったはずなのですが、
なぜか、たったの70年程度に設定されています。
●しかも、もしも前世というものがあると「仮定」した場合ですが、
ご丁寧に、いちいち、その記憶を喪失して生まれるという
なんとも、お粗末なシステムです。
たとえば、地球での人間の寿命が、
4000歳程度だったと仮定してください。
そこまで多くなくても、500年程度でも充分でしょう。
もしも最初からそうだったら、社会はどう変ったと思いますか?
●その4000歳なり、500歳の寿命の中で、
言うまでもなく、機能低下や老いがいつから始まるかにもよりますが、
少なくとも、一生の間で経験できることは、現在の7倍から10倍以上になります。
アインシュタインが今もなお生きていたら、
彼はその後も、別の発見をしたかもしれません。
まー、何百年生きても、だらだらと同じことを繰り返すという
悪癖も人間にはありますので、必ずしも大きな変化があったであろう
とは断言できませんが、
少なくとも、人間の寿命がもしも4000歳程度であった場合には、
文化や文明の発達というのは、加速的になります。
●ですから、
別の銀河系(と地球の人間の知覚に呼ばれている、
または観測されている領域)に、
多くの種類の生命や、二足歩行生物も、そうでないものも
存在している事は、間違いありませんが、
その多くの種族が、
とっくの大昔に超光速で移動できる技術を開発済みであることなど、
ごく「当たり前のこと」なのです。
なにしろ、こんな知性や文明の発達に「不効率なロス」しかない
この地球の方が、病的なほど例外的で「異常」なのですから。
●また、仮に、肉体は50年で死ぬとしても、
もしも、あらゆる人間の記憶がすべて残るとしたら、
生まれたばかりの子供であっても、その子供の中には、何万年分もの、
知識の蓄積があることになります。
●実は、宇宙では、どちらかといえば、
そのサイクルの寿命の単位が、平均的であるという話は、
皆さんも、あちこちの「トンデモ系の」本で読んだことがあると思います。
私は「その点だけ」に関しては、
事実が語られた部分も多いと見ています。
実際は、逆に、この地球での生存形態の方が、異常です。
●いちいち生まれるたびに(死ぬたびに)記憶を失ったり、
また寿命がたったの70年、この方が、よっぽど異常です。
この点に関しては、ロバート・モンローが、ごく簡単にですが、
さらりと真実を述べていました。
「この世界では、人がさらなる欲望を達成しようとする、
その前に、寿命が尽きるようになっており、云々・・・」
つまりは、人間の寿命設定も、管理側が、わざとやったんですよ。
ほとんどの場合には、一回の生で、目標が達成できないようになっており、
それが原因で、「あと、もう一回、やりたい」というトラップに
はまるわけです。
これが延々と、繰り返されて、人間が下降し続けて、
「帰還不可能に陥る」という構造です。
●それでも、千年ほど前の昔は、まだ、全自我が主流でしたから、
短い生の回数でも、経験を上手く回収して、
満足して地球を卒業する、(飽きる)ということも頻繁にありました。
それもあってか、少なくともあの1500年あたりの希釈自我事件が
起きる前までは、けっこう、他の惑星や天体からこの地球に生まれた
という人も多くいました。
その名残が、この惑星の文化の一部には、まだ残っています。
●しかし、内部で分割自我を生産し始めてからは、
自我が地球での経験を何度も経験しても、不満がつのるという
悪循環が起き、多少とも賢い人たちは、
見切りをつけてそれ以後は、地球には生まれませんでした。
簡単にいえば、「あのラーメン屋は、もう終わったな」というわけです。
●それでも、まだ中世ヨーロッパから、
イギリスで産業革命が起きる前までは、
「全自我」も、今よりもずっと健在でした。
それは、どこに発見できるかというと、
主に、絵画と音楽の世界です。
私はクラシック音楽は、個人的には趣味ではないですが、
それでもたまにテレビなどで聞きますと、
現代の人たちが、今でもなお、クラシック音楽を越えられない原因は、
簡単なことです。
当時、かなりの芸術家たちは、全自我だったのですから。
絵画でも似たような状態です。
現在よりも、物資も、楽器も、情報もなかった時代の
その人たちの作品が、今の時代に聴いたり、見ても、「すげぇー」のは、
何を差し置いても、
当時の人間の自我がまだ原型を多く保っていたためです。
現代の、スッカスッカの自我の人たちが何を作っても、
彼らに、かなうわけがありません。
_____________________________
●さて、そもそも、この地球という惑星ですが、
たとえ、原始的な状態の人類としてここに生まれ、
飢えて、食べて、生殖する、そして病に倒れたり、死ぬ、
この単純な生命経験でさえも充分な価値を昔は持っていました。
いや、むしろ当時の方が、今よりもずっと誰もが人間に生まれる
目的を把握していましたから、生きる目的で迷うこともありませんでした。
いつの時代かというと、ちょっと古すぎるのですが、
今から、紀元前5000年以上前ぐらいの話です。
●ちょっと想像してみてください。
これは、たぶん、これから約3000年ほどの未来に地球に
起きる「可能性の一つ」ですが、
地上から人類が全くいなくなったとします。
ほっておいても、当然、その日は必ず来ます。
あるいは逆に、今から何十万年も前の地球。
さながら、地球という惑星は、
まるで、植物園や、動物園のように、
さまざまな動物たちと植物たちが存在します。
惑星のデザインとしては大して珍しい星でもなく、
たいした価値がある星でもありませんが、
唯一、現在のような「人間」さえ存在しなければ、
ここは比較的、美しい星です。
植物を眺め、動物と共存し、飢えて、食って、生殖して、寝て、死ぬ、
それだけで充分すきるほどの生命経験の恩恵がこの星にはあります。
●死ぬほど退屈な、別の次元での生活に比べれば、
一時の、休暇ぐらいにはなり得る星でした。
なにしろ、たった50年という、信じられないほど短い、
つかの間の生を、高速で経験できる遊園地だったからです。
_________
●そういうわけですから、
知的な探求がしたいのでしたら、ご自由に早く死んで、
別のところに行くことを私はお勧めします。
また本来、生命がどういうものが平均的であるのか
思い出したいのであれば、ここであーだこうだと、
(本当は何も確実なこと知らないのに)知ったようなことを言ってる
そんな時間が無駄ですから、
これまた、早く死んで、郷里の星に帰ったほうがいいです。
また、悟りたいとか言っている人たちも同じく、
ここで生きていてもラチがあきませんので、
早く死んで移動した方がよっぽど無駄がありません。
●この地球で、僅かにですが、悟った人たちが存在した最大の理由は、
実はその人たちは、
そもそも、自我経験を終了した人たちだったということです。
本来であれば、自我経験の満了と同時に死して、
ここでの生は「解約」となるはずでしたが、
いろいろな「個人的な理由や動機」によって、
居残ってしまったわけです。
その居残っている時間に、
本来は、他の星で「その続き」をやるべきだったものを、
この惑星上で経験してしまったわけです。
そうなれば、自我経験と生命経験が目的であったこの地球での
主流の目的とは「全く違うこと」をやらかしてしまったわけですから、
彼らがこの惑星の人たちが無自覚的にいだく価値観には、
うまく適応できなくなるのは当たり前のことです。
大学院にいってからやればいい勉強を、
中学校の中でやっているようなものですから。
______________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(1393 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
梅の間 の最新投稿
オーガズムTop
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -