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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1422]
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●無明庵日記「猫の足跡=その156=」●最後のちいさな望み
by:
鈴木崩残
2010/09/22(Wed)01:44:28
【あと、もう少し】
●たまには、全く個人的な、私的な雑談を書きます。
私にあと何年の寿命があるのか現時点では、まだ定かではありませんが、
残る時間の中で、もしも望むことがあるとしたら、
それは、たった二つだけです。
●ひとつ。
それは全自我の状態にある人のうち、
悟りというものが必然的に必要な限界に来ている人に出会うこと。
そしてどんな犠牲と努力を払っても、
その一人の人間をその「向こう側」へと放り出すこと。
だいぶ前にこの事は書きましたが、
私は相手の人間に私の存在を知られる必要は全くありません。
単に、私がそうしたいと思った人物がいれば、
そうするだけのことです。
物理的に会う必要すらない場合もあり得ます。
●現在地球上にどれぐらいの「全自我」の状態の人がいるかは不明ですが、
その全員が何も悟りに行くしかない切迫した状況にあるわけではなく、
おそらくですが、私個人の感覚では、該当する人たちは、
おおよそ10人前後しか、この地球にいません。
●そもそも、まず普通は、「悟りたい」と本人が自分で言っている時点で、
その人間が現在どういう状態の自我であったにしても、
それは、悟りという現象からは、あまりにも程遠く、
悟る資格はゼロです。
誰一人も、悟りたいなどとほざいた人間は、本当に悟った人の中には、
ただの一人もいません。
ダイジのことを少しでも読んだことのある人は、
見性前の、彼の唯一無二の望みが何であったのかを思い出すべきです。
彼の唯一の夢は「眠ったまま翌日目覚めないこと」。それのみでした。
和尚の変化の前にあったものが何であったのか、
思い出すべきです。
彼は、悟りたいなどと言ってはいません。
実在の真理への探求で、気が狂いそうな毎日の連続と、
後戻りできない底なしの世界に落下し続ける状態です。
彼はそれに対して、「確実に死が近づきつつあった」と明確に言っています。
死の中に、希望やら悟りたいなどというものがあろうはずはありません。
クリシュナムルティーがどうだったかは知りませんが、
いずれにしても、彼の中には人並み以上の苦悩があったことは確かです。
バーナデットローバーツが願ったことはたった一つです。
「もう、終わりにしてほしい」である。
●つまり単に全自我の状態にあるだけである場合には、
その人たちは、未だ、自分の欲望を実現し続けることに集中し続けており、
現実にその人たちが望んだことは、何ひとつも漏れることなく、
本人自身の精神面に限れば、あーだこうだと不満も口にしません。
実際、全自我の人たちは、
失うものよりも得るもののほうが多いプロセスにいるからです。
●しかしそれが完全に燃え尽きてしまった人たちにだけ、
大悟というものの足音は迫ってきます。
ただし、前述したような、「もう終わりにしたい」とか「死にたい」
という程度のことであれば、
今この瞬間にも、膨大な数の鬱病患者や、生活苦の人々や、
とるにたらないことで人生に絶望したり、絶望したと思い込んでいるだけの
人たちが、無数にいます。
だからといって、その人たちが、首をくくって、死にそこなったところで、
悟る可能性などは「ゼロ」です。
●全自我の人が言う「死にたい。終わりにしたい」は本物ですが、
そうでない希釈自我の言う「死にたい」は、一時的な逃避にすぎません。
解決できる素材がそこにあるのに、怠惰な態度で、それをしなかった
単なる自分への無力感から、「私は存在していなくていい」と、
思い込んでいるだけです。
こういう人に、悟りなど口にする資格はありませんし、
そんな人たちに、悟りという領域を汚すような事を言って欲しくもありません。
そういう人たちは、彼らが望んだ通りに、
早く、自殺して、死んだほうがマシです。
本人が一時的に、今の目前の苦しみから逃げたいと望んでいるのですから、
一刻も早く、その望みを実現した方が、遥かにマシです。
どうせ、何も改善されないまま、次の悪夢が続くだけの事ですから。
●しかし全自我の人が、本気で、自分をもう二度と存在しないように、
消したいと思う場合、
その根拠となるものは、本人の快・不快などとは一切関係ありません。
その人間を襲っているのは、個人の苦しみではあり得ないからです。
ここで、以前に書いた、悟るにあたっての、最低限の条件を、
もう一度記しておきます。それは「5原則」です。
1−必ず全自我の状態で生まれてきたこと。
2−個人の悩みではなく、普遍的な問いに継続的にとりつかれていること。
この時点で、その人物は、いかなる体系や宗教も他人も信じていません。
3−休みなく、散々な精神的苦悩の中にずっと毎日存在し続けていること。
4−死人禅の行法の要点にあたる部分に類似することを
意図して、あるいは意図せず、行っていること。
5−自分が得たいと思ったすべての楽しみを経験し終えていること。
●この条件を「一つ」でも満たしていない者には、
悟りという領域に足を踏み込むことはおろか、
それを語ることさえ、本来は許されてはなりません。
●そういうわけで、私は大悟以外には、
何も、その人間をそこからもう移動できないという「本物の苦悩者」、
本物の自滅願望者以外には、この問題に関して、一切興味はありませんし、
その人たちが、たったの10人しか、この惑星にいなかったとしても、
10人もいれば、多いぐらいです。
そのうちのたった一人でいいので、
私は、出来る得るならば、相手に私の事を知られることなく、
残る人生の時間をかけて、出来るだけの誘導をするつもりです。
しかし、どうしても物理的会う必要があれば、
それは、狂気的な苦痛の中にいる相手は、決して誰の助けも求めていませんし、
そもそも、決して私を見つけられませんから、
逆に、私からその者を探しに出向きます。
この今では、この惑星では、ほとんど不可能に近いことでも、
それを望むのは、それがどれだけの巨大な犠牲の果てに起きる、
どれだけ美しい現象であるかを、私が明確に知っているからです。
*********
●そしてそのほとんど不可能な、最後の望みの他に、
もう一つ、私には実現しておきたい望みがあります。
それが、自我の復元を、無明庵の読者の誰かが、やってのける事です。
たとえ、その人の出発点が、
ほとんど復元困難な1/8であろうが、1/4であろうが、
そのことに関しては、本人さえ、
本気で、死に物狂いでやって、その結果をきちんと、出してゆくならば、
私は、この生涯の残った時間をその人たちの為に使いたいと思っています。
●二つのうちの、どちらが、重要であるかといえば、そもそも、
悟るなどという、そんな問題に見当はずれに頭を突っ込んでいるような
馬鹿な人たちよりも、
私は、自我の問題に関して、危機感を持っていて、それをどうにか
しようと努力している人たちを真っ先に選びます。
確かに前代未聞の困難な復元作業をしようとするわけですから、
何も保障はそこにありません。
ただ、そうした努力をした人たちがこの時代にいた、
という現象だけですら、それは私にとっては、価値を持ちます。
●悟りへのプロセスは、かつてまだ人の自我がほとんどすべて
全自我を出発点としていた、かなり古い時代には、
ある意味では、「自我が持つ性質」の当然の結果として、
あちこちで起きたことであり、紀元後の世界で言われるほどには、
珍しいことではありませんでした。
つまり、基盤となる自我が全自我であれば、
全自我が数十回転生を繰り返して、ある根本的な「問い」に到達すれば、
それは、必然的に起き得る可能性を含んだ現象でした。
●しかし、現在のように、ほとんどの人たちが希釈自我に分割されていたのでは、
悟りどころか、地上での正常な生命経験すら出来ず、
それでは、本当の絶望など出来ません。
そんな状態では、何かに部分的に絶望するだけのことであり、
全部には絶望していなくて、まだ何かを望んで、希望を持ったまま、
それが実現しないことに、チマチマと不満を持った状態ということになります。
そんな状態では、自我は全面的な絶望にはなりえず、
せいぜい、部分的に何かを切り落とすという中途半端な欠陥品にしか
なり得ません。
●従って、現在、私が第一に、この梅の間あるいは、無明庵として
最優先していることは、「自我復元」です。
それに関しては、他のどんな事よりも優先しなければ、
そもそも、人間の生すら始まらないと確信し、そう結論していますので。
●もう一つの地上で誰かがあの悟りの向こう側へと転落する様子、
これは、本当に私の儚い、高望みなのですが、
これは、私が死ぬまでに、もう一つ見てみたいものの一つです。
四分の一や、二分の一の自我ではなく、
全自我がその現象に入ってゆき、そこを突破するその様子は、
あまりにも現象として美しいものです。
とはいえ、私がそれを見たいという要求にかられて、
この世界に戻ってしまうというトラップに、ひっかかる可能性はありません。
基本的には、私には、どうでもいいことですから。
●ただ、せっかく、この惑星に縁があったのですから、
私にしか出来ない、手伝いというのは、
全自我の人たちのうちの、ごく少数の人たちが、
その自我が経験できる「飽和点」を明らかに過ぎてしまっており、
その結果として、苦痛以外の何も生み出さなくなった自我に対して、
その自我を完全に、破壊し尽くすことに私が加担するのみです。
●ただし、これは、梅の間の読者の人たちが、
まずは「自我の復元」をどんどんと完成させていった、その姿を見て、
安心してから、「その次に」取り掛かりたい、「最後の」私の仕事です。
●今は、その前に、まず、「本気で」全自我に戻ろうとしている人たちを
サポートすることしか頭にありません。
★「禅書道」は、カウンセリング書、無無心の書も含めて、
その自我復元の、補足的な作業の一部になっています。
******************
●悟りという現象に対して、私がそれを形容するとしたら、
それは、とてつもない、最低最悪の、
人間としての末期症状の果て起きる、
この上もなく、パラドキシカルな結末であり、
それ以上に美しいものなどは、この世界に、何ひとつもありません。
「何ひとつも」です。
●ただし、この大前提の条件となる「全自我」「原型自我」、
これに、もしも数少ない人々たちであっても、自力で復元して
戻ることが出来たならば、それは、美しいとか神秘的な現象では
全くありませんが、
少なくもと、私にとっては、「愉快この上ない現象」なのです。
つまり、人類が人類以上の存在がやったヘマと、悪意と、
人類に対する軽蔑的な処置と、
彼らが作り出した悪夢のような悪趣味なゲームに「勝利した」という、
この上もなく、愉快な結末です。
その時にだけ、私は本気で、「ざまみろ」とニヤつくことが出来ます。
もっとも、それは、何度も言いますように、
別に、たいそうなことなのではなくて、
単に、紀元前の時代には、「当たり前であった元の状態」に戻るだけなのですが、
今のこの、とんでもなく醜悪な世界のすべての元凶が、
そこ(自我の不当分割)に存在している以上は、
これ以上に優先する価値のあるものなど、私の視界には存在しません。
何しろ、それさえ実現できれば、
現在存在する、人間の精神上の問題と、おまけに物理的な難問も、
人間が、ただ「全自我」でありさえすれば、
多少の意見の食い違いはあれども、自然に解決の道を模索出来て、
「無駄で余計な不快感」を減らすという事ぐらいは、
実現できてしまうのですから。
しかし、今のままでは、他の誰かの不快感と不満こそが、
それを悪用し、利潤を搾取する側にとってのビジネスを成立している
という、ただの下らない悪夢の中に、
この惑星の人間全員が、悶えて、うごめいているだけの状態ですから。
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