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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
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より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1423]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その157=」【無題】
by:
鈴木崩残
2010/09/24(Fri)04:41:35
実存的なものだけを相手にしなさい
●こうした話題は、昔は「竹の間掲示板」で主に語ってきましたが、
今では、この梅の間に、書その他の雑感とともに、混在させています。
●そもそも「悟り」という分野に起きた最大の悲劇と誤謬は、
それがまるで「宗教」のように貶められたことです。
皆さんは、まさか悟りが宗教を生み出したなんて、
そんな馬鹿げた事は微塵も考えていないと期待したいところですが、
どうも、そうではない人たちがいるようです。
そもそも、悟りというものは、
一切の宗教と、一切の指導者を「必要としなくなる」状態に、
個人を至らしめる道であって、
さまざまな理由での心身の苦痛からの救いを求める人々に
手を差し伸べるものでは全くありません。
●宗教と悟りの最大の違いは、
宗教とは、妄想、偶像、魔術的行為を信じることに始まり、
まさに、信仰こそを基盤にしているということ。
一方で、悟りとは、信仰こそを最も敵視し、あるいは滅しようとし、
人は他人であれ、神々であれ、何ひとつも信じる必要はない、
そんなことに関わることを一切不要とする地点に至りなさいと説く。
●二つは全く異なる分野であり、対立すらしているはずであるのに、
悟りが宗教と混同されてしまった原因は、二つあります。
ひとつは、それを混同した悟っていない人たちの愚かさ。
つまり、彼ら(つまりここの読者を含む多くの人々)にとっては、
自分を助けてくれそうなものならば、
ようは、なんだっていい、とにかく助けてくれと、
相手を選ぶ目すら持っていないということです。
だから、彼らは、「楽になりますよ」とか「安心できますよ」とか
「問題が解決しますよ」とか「願望は実現しますよ」という文言の
看板を抱えているところならば、
みさかいなく、下品に飛びつくわけです。
●ところが、原因のもう一つは、悟った側の人たちにあります。
それは、明確に宗教が提供する「商売の商品」とは全く違うものを
提示しているはずだったのに、似たような言葉である「安心」という
言葉を使ってしまったことである。
つまり異なる筈のものの商品名に、妙な類似点が生じたことである。
●これに対して何度か、古人の賢者たちは、
本来の正しい表現に戻そうという努力、
つまり宗教との差別化をしなければならないという切迫した危機感から、
説明を積み重ねてきましたが、そのほとんどは、成功していません。
おそらくは、唯一、無明庵だけが、相手がわかろうが解るまいがに
関係なく、その説明責任を果たした場所であると言えます。
その他の体系のほとんど全てが、逆に、誤解を生み、
宗教と悟りの区別を曖昧にしてしまい、
本当のところは、悟りを求めてもいない消費者に対して、
誤解をさせ、逆に、悟りでもなんでもないようなチープな商品を
悟りを売ると称して売ってしまう、多くの宗教が存在しています。
●宗教の言い分は、こうです。
「救われたいのでしたら、私たちの神仏を信じて、従いなさい」
悟りの言い分は、こうです。
「お前の救われたいという、その陳腐で下劣な、思い。
それが二度と口を開けないようにしてやるが、それでもいいか?」
*********
つまり、悟りの場合には、苦しいとか救われたいとか、解決したい
と思っている、その本人主体そのものを、
「殺そうとする」努力と方法論がそこに存在する。
つまり、悟りの体系の看板とは、元来は、
「死にたい人だけが、おいでなさい」である。
一方で、宗教とは、
「死んではいけません。生きる為に私たちの目的を信じなさい」である。
_______________
非実存的な妄想に住む人々
●さて、精神世界とい呼ばれる「ゴミ置き場」における、
もっとも嘆かわしい現象は、次の現象です。
何一つも実感も持ってすらいないものに対して、うつつをぬかす人々。
そしてその間違った方向を作り出してしまったのが、
前述した、宗教と悟りの混同です。
私が、精神世界と呼ばれる分野に足や頭を突っ込んでいる人たちに
言いたいことは、ただ一つです。
「切迫した問題に関わるものだけに集中しなさい」
「そのほかの事にあなたが軽い関心を持ったり、手をつけても、
それらは、死ぬまで、何ひとつも、あなたに役に立たないような、
腐って悪臭を放つ生ゴミ入りの袋を、どんどんその手に持って、
あなたは重苦しい人生を引きずるように歩く結果になるだけだ。」
●つまり、理解できないあなたにもっとはっきり言えば、こうです。
↓
『毎日、毎日、
神様や、仏の幻影やら、神々が、やってきては、あなたを悩ませる。
そうでないならば、そんなものに関わるな、そんなものを一切信じるな。』
実感を持って見たり感じたりしてもいないもの、
しかも、それに悩まされてもいないもの、
問題にもなっていないものについて、どうして、他人の作った妄想や、
良くてせいぜい他人の経験したことなど読んだり聞いたりして、
そんなものに、うつつを抜かして、知ったかぶりをして、
それで、一体、あなたの人生にどんな有用なことがあるのですか?
●毎日、毎日、ひっきりなしに、
宇宙人が夢の中に出てきてあなたを悩ませる、
そういう事でもなければ、そういう話に関わるべきではありません。
同じように、それがあなたを日々、悩ませるという実害のある問題で
ないかぎりは、
それらの分野は、現実逃避の手段以外の何ものでもありません。
それは、現実の異性と恋愛やセックスをできなかった者が、
アニメや映画の登場人物にうつつを抜かすのと全く同じことです。
たとえば、西洋人に見られるこの下品な妄想の最たるものは、
「人は裏切っても、神は私を裏切らないんだ」という誇大妄想である。
そうやって彼らは、家族間や社会で自分で引き起こした問題を無視し、
「それでも神は私を愛しているんだ」という慰めにすがりつくわけです。
●つまり「現実逃避」の口実としての宗教があまりにも多すぎて、
宗教は、ちっとも「現実」の一部になっていません。
かつて原始的な宗教が芽生えた時代には、
彼らは、自然霊などを、実在するものとして実感し、
それを現実として生活していた点で、現代とは全く異なります。
そして、私が言うところの「現実の一部であった宗教」とは、
集団的なものではなくて、個人の中で、
実際問題として、毎日のように、うざい神々や何かの存在が、
自分を悩ませる、そうなった場合にだけ、それは多少の意味を持ちます。
もっとも、そんな症例は、無数精神病患者の中にも、沢山在りますので、
その全部を、いちいち真に受けるわけにはいきませんが。
●同じく、では悟りに関しては何が現実的に問題となるのかといえば、
今度は、その探求対象は、
神々の幻影やご利益といった下世話なものでもなく、
病や社会で起きる、精神苦の解決がその対象なのではありません。
多くの人たちが、現在まで、悟りに至るきっかけとなり得た、
その最も大きな「現実的な悩み」とは、
「自分の意識そのものが何であるか、わからない」という事に尽きます。
彼らが求めたのは、宗教や偶像や神の救いではありません。
彼らは、単に存在しているだけですら、充分に苦痛だったのです。
神々の幻影や宇宙人の幻影やら、幽霊など全く見えなくとも、
目前の「テーブル」や「壁」でさえ、
彼には見るのも苦痛だったのである。
そして自分の脳裏に明滅する記憶、思考に対して、
それらがそもそも存在していることへの疑念である。
正しく言えば、彼らは、全くもってして宗教的な問題などではなくて、
もっと根本的な「実存的な問題」に苦悩していたのである。
●このように、対象は何でもかまいませんが、
本人にとって、明確な現実感と、問題意識と、切迫した苦痛を
ろくに感じてもいないものに対して、
それを知りたいとか、解決したいとか、得たいとか、
そんなことが叶うとでも、思っているとしたら、
その人は、相当の救いようのない馬鹿者です。
全く自覚が眠ったままで、夢遊病のように生を引きずって死ぬだけの
ただの病人に過ぎません。
●だから、この10年以上、
解決すべき問題に対する「解決手段」の選択を間違うな、
と私は言い続けたのです。
いわゆる宗教というものが、
もしも神仏といった偶像を一切取り扱わないのであれば、
それは、一種のセラピーとしての分野をなんとか形成できますが、
現実にはそうではありません。
彼らが売っている詐欺商品は、
なんと「大人のオモチャとしての神仏のイメージ」です。
●だから、社会や家庭で形成されたあなたの不満を解決できるのは、
宗教でもなく、悟りの体系でもありません。
それは、あなた独自のやり方で、解決するしかありません。
ある程度は、現在存在する「精神医学的な方法論」「カウンセリング」も、
人によっては充分に有効です。
●ですから、
恋人やお金が欲しいからといって、
パワースポットへ行ったり、水晶を買う、そして、
ちょいと、良い仕事が見つからないから、
どこかの占いで、運勢を見てもらおうとする、
・・・そういう、そこの「あなた」。
「パワースポットに行ったり、水晶を買わなかったり、
占いで鑑定してもらわなかったら、
もう本当に明日には死ぬかもしれない」
そういう状況になっていないならば、
そんなところに行くな。買うな。関わるな。
それらは、結局は、有用な知識にすらならず、
腐敗したゴミになって、あなたはそのばい菌を、周囲にも
振りまくだけの汚物になるだけだからです。
●あなたにとって、
決して腐敗しないで「生き続ける果実や食材」があるとしたら、
それは、
本当に、それがあなたにとって必要になって、
あなたが嘘なく、必死に、探した出したものだけです。
そしてその大前提として、
あなたは、それに対して、
否定できない「現実感」を持っていなければなりません。
■私が二度と関わりたくない人たちが存在します。
それは、次のようなことを言う人たちです。
「私には悟りが必要です」
「私には宗教が必要です」
「私には魔法が必要です」
■残念ですが、そんなシロモノが、その人が明日を生きるのに、
絶対に今日、必要である人など、
私は、見たことがほとんどありません。
(本などでなくて、現実の世界で面識を持った人たちの中で、
本当にそれがその人に必要だった人間など、
私は片手の指の数しか見たことはありません。)
●だから、悟りの体系や、宗教に限らず、
どんな種類の精神世界的な領域であっても、
そもそも、それらは元々からして、
「娯楽」ではないのである。
娯楽でも、慰めでもなく、ロマンでもなく、
現実逃避の趣味の世界でもありません。
●あなたが、
その何かをしなければ、あるいはその何かをやめなければ、
明日、生きるか死ぬかの死活問題の「現実そのももの」となってこそ、
それらは、はじめて、悪臭を放つゴミ以外のものであり得ます。
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