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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1426]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その160=」 『死』ということについて。
by:
鈴木崩残
2010/09/28(Tue)05:03:07
【「死」ということ】
●書の注文でもたまに「死」の文字を注文する人がいます。
私自身も造形的に「死」の文字は、好きですし、
死というと、何やら意味深に感じる人も精神世界には多いと思います。
また、死に対する概念やイメージも人それぞれですが、
必要以上に美化している人もいれば、必要以上に軽視している人も
いることでしょう。
●このサイトのメインページの表題は『性と死のホームページ』と
名づけてあります。
性の部分は、その名の通り、著作や昔の梅の間で、
性の問題を膨大に扱ってきたわけですし、
死の部分は、主に竹の間でも語ってきました。
また、このサイトの「自然葬」のページは別に死を扱っているものではなくて、
死のあとの処理の問題です。
また「自殺」に関してのページは、自殺についての哲学的な考察が
メインであって、死そのものを扱っているわけではありません。
ちなみに、新しい読者の人ですと、ご覧になったこともない
という場合もありますので、メインのメニュー画面のリンクを
つけておきます。
↓
http://www.mumyouan.com/
コンテンツが多すぎて、
どこから入ったらいいか解らないと思います。
_______________________________
●さて、『死』といっても、私が扱う死は、ごく限られた種類のものです。
たとえば、『死』というものは、昔から一部で言われているように、
人間を根本的に変えたことなどあるのでしょうか?
私は「ない」と断言します。
●人間にとって、人間が見る死には、次のような種類のものがあります。
これは死とあなたとの間の距離感の違いを生み出します。
他人の『死』との「距離感」の違い
■最もあなたから「遠い死」とは、
他人から聞いた、あなたとは無縁の他人の死のことや、
報道に見る死です。
しかも報道の場合には、死体すら映っていない場合です。
これは全くあなたに何の影響もしません。
■次に写真や報道で、あなたが死体を見た場合、
これは死を見ているのではなくて、死という現象のほんの一部に
すぎない、物体としての「死体」を見ているにすぎません。
それによって多少のショッキングな感覚を受けるでしょうが、
それは死そのものについて学ぶことではありません。
■これに関連したことを言えば、
私の母の世代は、東京大空襲で、路上の隅に積み上げられた、
黒焦げの死体の山を横目に見ながら暮らしたわけですが、
別にそれによって精神的な何かが変わったわけではありません。
当時、まだ女子高生だった母には、
単に、気持ち悪い、不気味だったという印象しか残っていませんでした。
「真っ黒焦げ、ならばまだ良いが、生焼けで顔の表情が残っている
死体は特に見たくなかった」と私によく話していました。
■次に、他人といっても、あなたの親しい知人が死んだという知らせ
または、その通夜や葬儀に参列した場合、
ここでは、その知人とあなたの関係や付き合いの度合いによって、
その死があなたに与える印象や思考は、かなり違います。
また毎日その人と接していたのか、
それとも、しばらく離れて疎遠だったところにその知人の死の知らせが
来たのかによっても、かなり違います。
■高校生のとき、私と同じクラスの生徒が二人他界しました。
ひとりはほとんど付き合いがないが毎日同じ教室にいた生徒。
もうひとりは、多少、昼休みなどに遊んだ経験のある生徒。
しかしどちらの場合にも、突然に翌日から彼がいなくなったことには、
特別な感情を私は持ちませんでした。
■これが、毎日のように付き合っていた親友や知人、あるいは、
毎日、共に暮らしている家族や、そしてペット、となると、
ぐっとその印象は、変化する場合が多いようです。
ただしこの場合にも、二種類の死がそこにあります。
突然にやってきた死と、病死などのように緩慢に時間をかけて
到来する死の場合です。
前者は、本人にとっても、周囲の人間にとっても、
覚悟の準備なしの状態で、突然に訪れるものであり、
後者は、覚悟した上でやってくる死です。
■そして、私がここまで書いた死は、
それがどれだけの影響をあなたに与えたり、
どれだけの悲しみをあなたに与えたり、
どれだけの哲学的な考察をあなたに与えたとしても、
しょせんは「他人の死」であるということです。
あなたがその他人の死に対していだく印象や感情のすべては、
あなたとその死んだ他者との間の「利害関係」または「関係」によって
大きく変わるものですが、
それでも、それは「他人の死」にすぎません。
どれだけ悲しんだとしても、または、どれだけそれが、
あなたの恋人や愛する人たちだったとしても、
それは「あなたが勝手に」悲しんでいる、ということに過ぎません。
■人類はこれまで、有史以前から、
病死、戦死、災害などによって、身近な人たちの死、
そして無数の死体を直接に見てきましたが、
それによって何かが変わったことはただの一度もありません。
せいぜいあるのは、戦場で兵士がトラウマを受ける程度のことです。
あるいは、家族や仲間を殺された事への憎悪から、
次の殺し合いを生み出すだけでした。
●このように、死というのは、基本的には、
人間の中に、「不快」な感情を残すか、
あるいは、まだそれが来ない段階で、「死に対する恐怖」を
人間に与えるというのが、その最も大きな効果です。
そして、その死に対する恐怖や、あるいは畏敬の念や、
死んだらどうなるのかといった不安が、多くの宗教を創作させた
という面も持ちます。
■何しろ、困ったことに、
この世界の全ての商売と商品は、実は、『死』を脅迫として使う
ことによって成立しています。
「これがなければ、あなたは明日から不便になります。
その不便の結果、あなたは、やがて死ぬかもしれません」
と、なんと、これが全ての商品コマーシャルの本質です。
衣食住に直接に関係する商品は、
「そこのあなた、食べないと、やがては死にますよ」と言っているのであり、
パソコンや携帯電話は、
「そこのあなた、これを買わないと、不便で社会から取り残されて、
その結果、損をして、ついには死ぬかもしれませんよ」
と、遠まわしに言っているわけです。
そして、あらゆる種類の生活に直結しない娯楽商品や
知識を得るといった分野は、
「そこのあなた、これを買ったり見ないと、
退屈して、そのうち自殺したくなるかもしれませんよ。
さー、そんなことにならないように、楽しい思いをするために、
これを買いましょう」と言っているわけです。
■つまり、「商品」「商売」というのは、
3つのステップの脅迫によって成立しています。
>「今、あなたは”不便や不快”を持っていませんか?」【疑問を植えつける】
>「不便だと、何かと”損”をしますよ」【損という感覚を植えつける】
>「”損”をし続けると、死ぬような不幸にまでなるかもしれませんよ」
>【その”損”の延長には病気、事故、死があるという思い込みの恐怖を植えつける】
嘘だと思うのでしたら、サプリのコマーシャルを見るといいです。
「あなた、体は大丈夫ですか?健康に不安はありませんか?」に始まり、
頑張っていた人が、突然に病気になった体験談が出てきて、
最後に、回復後は、「アホ汁」を飲んで、健康に気をつけています、
といった、某・長編コマーシャルはおなじみだと思います。
これらはすべて前述の3つの「恐怖へのステップ」を応用しています。
つまり、
>死、病、事故、不便さや、退屈=(苦痛)を回避して、
>あなたが、”損”をせずに、生き延びるのに有利な情報と商品を、
>私たち企業はお届けします。
これが全ての商品の「売り文句」の本質です。
■さらに、「宗教」の困った問題というのは、この商品が、
現実の死の回避ではなく、
死んだ後の「架空契約」に基づいている点です。
全く証明も出来ず、ただの風習と思い込みと、
人間の勝手な期待によって作られた、天国極楽と地獄のイメージ、
あるいは、良い転生とか悪い転生といった、イメージの刷り込み、
これが宗教や精神世界の「商法」の基本です。
■この世界のほとんどの商品が、
現実の中の苦の回避を売りにしているのに対して、
一方では宗教は、まだやってきてもいない死、
しかも死そのものではなくて、
死んだ後の証明もされていない世界との「架空契約」をさせようとします。
「うちの宗教を信じれば、この世界で、あなたがどんな不幸で、
死ぬときにどんなに悲惨で、苦しんでも、あなたは天国に行けます」
と、このトンデモな言い分に食いついた人たちをよく見てみるといいです。
それはまさに、毎日が不幸な人たちに限ってです。
つまり自分の不幸を肯定してしまい、それに諦めて、
「それでも神様はこんな私でも、死んだら、救ってくれるんだ」
というその安直な思考に、うまく付け込んだのが、この手の宗教です。
まー、悪くいうと、
あなたが死んでも、遺族には何一つも支払われない、
極悪非道の「保険会社」、といったところです。
■さて、そういう視点で見てしまえば、
むろん、精神世界に存在する、すべての「死後」を想定した
主張というのは、同じように「保障」は何ひとつありません。
しかし皆さんは、その中で、各自が信じられそうな、あるいは、
「出来るならば、そうあって欲しい」と、
信じたい死後を自分で勝手にイメージし、
それにイメージが近い精神世界の主張を、あなたは信じているわけです。
転生を否定するにしても、肯定するにしても、
天国や地獄の様相を、肯定するにしても、否定するにしても、
他の次元や宇宙の様相を、肯定するにしても、否定するにしても、
それらはすべて、「あなたが信じたい」ものであるに過ぎません。
■むろん、その原則の枠の中で言えば、
私が「分割自我復元」のDVDの中で言っていることも、
それは、皆さんのうちの何人かが、同意するかしないかだけが
問題です。
他の無数の精神世界の体系と同様に、
人間の自我が、人間の上位存在によって、勝手に分割されたという
その証拠を、どこかの大学の実験室や数学で証明することは
現在、まだ出来ていませんから。
■さて、【死】の話の続きです。
これまで述べてきた『死』は、全て「他人の死」でしたが、
「あなた自身が死んだ場合」は、どうでしょうか?
といっても、「死人に口なし」なので、あくまでも、
あなたが臨死体験をした場合、死にかけて戻って来た場合の話です。
ところが困ったことに、臨死体験報告には、
いくつかの共通点はあるものの、
矛盾する点、その体験者の国家、地域、民族などによって、違いも
多くあるために、どれかの臨死体験に普遍性があるとは言えません。
(たとえば、
なぜか白人の臨死体験には、黒人の神様は出てこないときてる。笑)
■その臨死体験に、どれほどのリアリティーを本人が確信したとしても、
他者がそれを分析しようとすると、
しょせんは、あたかも「夢分析」でもするかのような、
そんな曖昧な手がかりしか、その体験談の中にはありません。
何の「死」が問題なのか?
■このように、どれだけ多くの死の現場、死体を見たり、
死に至るまで苦しんだ人たちの過程を見ても、
さらには、自分自身が死を経験してさえも、
そんなことは、無数にこの地球で起き続けたわけですが、
その結末に、何か人類に大きな精神的な変化はあったでしょうか?
ほとんど何も変化はありません。
●そこで無明庵が、言っているところの「死」が何を意味し、
何がそこにあるのか、どうして重要であるのか、
その点が、他のほとんどの宗教と全く異なっており、
唯一、「やや似たような死の概念」を見出せるのは、禅宗のみであることは、
無明庵の読者の人たちは、常に知っているべき問題です。
ただし禅宗が全くカバーできないのは、大悟、中悟、小悟という
無明庵に、独特の概念体系です。
これは、単にいたずらに、ランクをつけているわけではありませんし、
古来から、どこぞかの仏教書に書いてあるような、
既存する「境地」の説明や分類法によってランキングをつけて、
瞑想や座禅について、全く何も知りもしないのに、
知ったかぶりをしたがっている馬鹿な人たちを、
からかっているわけでもありません。
■この三つは明確な境界線を持ちます。
無明庵が言う『死』とは、実際には「希望の死」「価値観の死」を意味します。
つまり、もしも、個人の自我が、
>自分の自我に対して、
>それまで自我に期待していた、
>一切の希望と価値観を、放棄した場合、
これを「個我の死」と呼びます。
これ自体ではなくて、この結果が小悟の「引き金」となります。
悟りに至るかどうかは別問題として、「引き金になる」ということです。
次に、
>人間全体の自我に対して、
>それまで人間や地球全体に期待していた、
>一切の希望と価値観を、放棄した場合、
これを「人間としての死」と呼びます。
これが中悟の「引き金」となります。
ほとんどの禅は、誰かの大悟を賞賛したり歌っていても、小悟止まりです。
彼らは人間の「自我がなせる事」に対する希望には、失望し尽くしても、
人間全体に対しては、まだ失望し尽くせてはいません。
これを称して、ダイジは
「所詮、人間禅にすぎない」というわけです。
一方で、彼は、人間全体に対して、
それがどうあがいても、希望のないものとして失望し尽くしている、
という点では、中悟の状態にはあるのですが、
別の総合的な「宇宙の全次元」という価値観をも、
巻き添えにまでするには至っておらず、
よって、彼は人間は失望しても、至福が存在する地点や宇宙には
失望していません。
●そして次に登場する次元が、問題の次元、すなわち「大悟」です。
>この宇宙に存在する全次元の構造に対して、
>それまで期待していた、一切の希望と価値観を、放棄した場合、
これは「生物としての死」と呼びます。
これが大悟の「引き金」となる本質部分です。
●つまり、何が悟りの「各層」を隔てているのかと言いますと、
どの範囲にまで、絶望的なほどに、希望を喪失しているか?
価値観が失われたか?というメジャー(ものさし)です。
●ただし中悟と大悟の中間には、実際にはもう少し区分があるので
無明庵の論理では、この話題は、
実は、「もっと面倒なこと」になっています。
悟りの定義と問題点が、こんな複雑な事になっているのは、
地球では無明庵だけです。
実際には、世の中にほとんどその本質が知られていない秘教の一部には
まだその名残は残っているのですが、
誰も、そのことをクローズアップする段階にはありません。
なにしろ、その問題は、地球以外の別の宇宙ですら、
ある意味では、持ち出してはならない「ご法度」のテーマですから。
●さて、過去の特定の時代の地球の人たちは、
人間というもの、あるいは地球という惑星しか知りませんでした。
むろん紀元前の時代を遡ると、逆に、彼らは別の惑星のことを
知っていたのですが、少なくとも近代の地球では、
他所の惑星や太陽系のことなど、眼中になく、
あっても、それらに対して「妄想」を膨らませることは出来ても、
「日々の現実感」など、持てませんでしたから、
文字通り彼らにとっての「世界」とは、
天動説と同じように、この地上に住むものだけが、彼らには、
「生きているもの、存在しているもののすべて」だったわけです。
従って、こういうことです。
●人間であれ、人間でない生命であれ、
人間以上の次元の知性体であれ、
絶対的な原則として、
その生物の意識が知覚した範囲だけを
「希望の対象」に出来る、と同時に、
「希望と価値観を捨てる対象」すなわち「絶望出来る範囲」も、
常に、その生物の知覚の及ぶ範囲にのみある、という点です。
説明するまでもない「当たり前の事」です。
●ここで悟りに起きる、さらに複雑な問題は、
地球上の全人類に絶望したところで、
では、次の人類、別種の人類、あるいは人類ではない
「トンデモない存在たち」に対しては、
その本質に絶望できる根拠を持った者は、一体どれほどいたのかです。
ほとんどいません。
●地球の人類に絶望しきって小悟した人がいたとしても、
彼らは、別の段階の恒星や次元の神々には、
まるで、奴隷や、飼い犬のごとく、簡単に、ひれ伏してしまいます。
また、たとえ、恒星レベル、小宇宙レベルの全希望に絶望したとても、
彼らは、その次の段階の次元存在や、
そこにある「希望と期待ができる、改善された宇宙という価値観」に
希望を託してしまいます。
ですから、厳密に言うと、小悟は人間の個我の消滅であるだけなので、
論外なとほど、無価値なのですが、
もっとも「複雑な悟りの断層」を持つのが、「中悟の層」です。
この中悟の層には、
地球という惑星とその人類や生物たちに対して持つ希望と価値観を、
一切放棄しつくしたとしても、
次に、太陽系、銀河系、
小宇宙、小宇宙群、卵形宇宙、その卵形宇宙の、さらなる集合・・・
といった「連鎖次元」があります。
そのひとつひとつの層の中に、
それぞれに強固な「希望」と「価値観」が残っていますし、
それこそが、そのそれぞれの宇宙を支えているというわけです。
■ところが、悟りというのは、
本質だけが残されて、本質以外が、すべて崩落してしまう、
ということをその大原則としています。
その点では、それを経験する者が、
「世界」と呼んでいる範囲が、どのように感じられて、定義されていたのか、
そのことによって、
中悟の中には、単純に「中悟だ」とは簡単には、くくれないほどの、
複数の「層」が生じるわけです。
●つまり、悟りの世界で、唯一の、判断スケールとなるのは、
どれだけの宇宙の初源の中心部に至ったかという事と同時に、
だれだけの宇宙の範囲の「希望を喪失したか?」
「その次元にある、価値を、すべて否定したか?」
にかかっているということです。
●だから、無明庵では、『死』というキーワードは、
本人が自覚しているかいないかに関わらず、
どんなに生を否定しても、無意識には隠れて存在しているであろう、
「価値観」の「死」を、その「鍵穴」としているわけです。
肉体の死や、さらには、人間としての自我の死、
その程度で、何かが変わることなどあり得ません。
この宇宙を支えている、最も強固で、厄介なもの、
それは、
この宇宙にどういう「価値と意味」を無理やりに定義するかという
その価値観です。
もしも、これが全宇宙的な規模で崩落し、もしも空中分解した場合には、
この宇宙の、現在私たちが知覚している「架空の物理現象」と、
やれ「なんとか界」とか言っている、「架空の霊界的な精神次元」は、
人間の時間の尺度で言えば
たったの1秒以内に消え去ります。
しかし、
「宇宙そのものが消え去ってはならない正当な理由」など、
宇宙のどこにも存在しないのです。
____________________________
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