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2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1437]
■
禅書道日記その171●最近の作品●
by:
鈴木崩残
2010/11/17(Wed)07:43:27
最近の「書」の作品
●本日、17日中までには、数日前にご注文を戴いた方のは、
ほぼ到着すると思いますので、掲載しました。
あまり早く掲載すると、注文された方にとっては、
書が到着する楽しみがなくなってしまうものですから。
感想は、のちほどになると思います。
■なお、自我の分割率判定を含むご注文だけではなく、
「普通の禅書」のご注文も、お待ちしております。
私としては、どちらも書く姿勢として、ほどんど変わりありませんし、
希釈率の判定に関しても、
特に、私の心身のことは心配されないでください。
ちゃんと、自己管理していますから。
それと、希釈率の判定の時に、皆さんから何か「悪いもの」を
受け取っているという意味ではありませんので、勘違いしないでください。
確かに、依頼者への同調率は、
いつも書を書く時よりもダイレクトで深くなりますが、
塩を浴びてリセットするのは、何か悪い気を受けたからとかではなくて、
自分自身が、次の人の自我の判定に向き合うのに、必要な儀式なのです。
悪いものではなくて、良いものも、悪いものも、受け取っているかも
しれません。
しかし、仮にそれが皆様から戴いた「良いもの」だったとしても、
次の人の書を書くときには、
それは、私にとっては、持ち越してはならないものなのです。
たとえ、どんなに良いものであったとしても。
常に、ゼロからスタートしなければならないのが、私の禅書なのです。
それは、書家が、書を書く前に、手を清めて、清楚な衣服に着替えるのと
大差ありません。
私はそれを、外見でやらず、「内面的に」やっているだけのことです。
他の精神世界体系との、
アプローチの違い
■自我の希釈率に関して、個別に皆さんに語ったDVDの中で、
たとえば、私はその人に不足しているものが何かということを
あまり言いません。
中には、とても詳しく書の依頼者の方に何かを語る場合もありますが、
それは、原則として、その人が、それを出来ると私が感じた場合にだけ、
示唆をします。
つまり、相手が出来もしないことを、勝手にアドバイスするのが
カウンセラーや占い師ですが、
私は、相手の自我の分割状態を見た上で、
その人に無理のない実現可能な示唆しかしないようにしています。
ですから、原則としては、
何かが足りない、あるいは何かが余計である、
という具体的な事を、私は最近、語ることが少なくなりました。
(昔は、相手が分かろうが、分かるまいが、出来ようが出来まいが、
なんでもかんでも言っていましたが、
相手の人の自我の希釈率を考慮するようになってからは、それを止めました。)
■以前の私でしたら、他人の中にある何かの問題を解決しようとするときに、
必ず、具体的に何が不足しているのか、あるいは余計なのか、
ということを探ることに、全力を注いできました。
たとえば、恋愛というものの中に問題のある人の場合でしたら、
恋愛というものを構成する要素のうち、何が不足しているのかを
具体的に解明して、本人に伝えることをしようとしてきました。
■これがたとえば古臭い、カビの生えたような瞑想体系での
相談でしたら、たとえば、本人の中の五元素の何が不足しているのか、
バランスを取るには、男性原理と女性原理をどういう調整をすればいいのか、
あるいは、12または13あるチャクラのうち、どの機能が
低下したり、機能不全に陥っているのか、など、具体的に
特定することに、終始したと思います。
■ところが、仮に、五元素から、地が欠落している人、または、
火が欠落しているといった場合、
そもそも、それが欠落し、しかも、いくら本人が努力をしても
修繕できない根本原因に、自我の分割という問題が関係していることが
私の観察では、明白になっています。
■たとえば、自我が3/4自我の人の場合、
どうしても、本人が一生かかっても解決できない1/4の要素が
そこに残ってしまうのです。
そればかりは、努力によってどうにか出来るものではありません。
努力によってどうにかなるのは、3/4を全面的に燃焼できるか
それとも、無駄にして、不完全燃焼に終わるかという問題だけです。
与えられた枠の中で、それを最大限に生かせるか生かせないか
というところにおいては、人の努力が及ぶことが出来ます。
しかし、生まれつき、何割か欠落している自我であれば、
それ以上には解決したり実現は出来ません。
しかも、「自我復元法」以外の方法で、
自我をこの世界で何かから補給することは不可能です。
それが分割されたり、解体されるのは、生死の境界線にある世界で
行われることですから、皆さんの側からその境界線の世界に、
コンタクトするしか方法はありません。
●もしも自我が復元できれば、
何が具体的な問題それ自体であるのかを他人からのアドバイスではなく
本人が必ず自覚できますし、解決する力も本人がもつことになります。
ですから、自我が復元されていなければ、
具体的な問題や、具体的に欠落しているものが、
いくら明確な形で、他人からの指摘や、自分で分析できても、
肝心の「解決する行為」が出来ないのです。
●何年もの間、私は、人間の当たり前の「自我の自立」と、
その先にある「自我の崩落」という現象の問題に関わってきましたが、
今となっては、どうやったら精神的に自立できるという
個別の「具体的な方法の助言」など、どうでもいいことで、
まずは、自我が復元できなければ、自立など出来ませんし、
逆に、自我の復元がされれば、自立は、ごく自然に当たり前のこととなる、
というだけの話なのです。
個々の問題を解決しようとしたり、
個々に、問題が具体的に何であるのかを見つけて解決しようとする
すべてのセラピー、占い、霊能者の助言は、
それは、かつての私の認識も含めて、
こうしたものが、ことごとく見落としてきた根本的な「誤認」が、
「人間の自我や意識には、基本的には、損傷はない、
だから、どんな人にも可能性はある、という、
根本的な事実誤認」だったわけです。
「可能性は、誰にでもある」、などという、
宇宙の現実からほど遠い、そんなチープな、
「気休めにもならない自己暗示」によって、
何かが解決できるはずなどあり得ません。
●つまり、解決すべき問題は、「個々の問題」ではなく、
欠落した自我そのものの復元から始めるべきだったのです。
●逆に言えば、そもそも全自我が、人間に与えられた資質として、
全く当たり前だった時代には、
お互いに、それぞれが得意な分野の仕事や能力を「分業」して、
相互協力する事はあり得ましたが、
他人が他人に助言する事など、そんなことは、全く不要なことでした。
誰もが、自分のことぐらい、自分でわかっていましたし、
ことに(肉体面ではなく)心理的な側面に限れば、
生きている全員が、自分の問題ぐらいは、自分一人で、解決できていたのです。
*********
●もし私の言うことが信じられないのであれば、
もう何百年も繰り返された、古くて無駄な既存の方法に頼ってください。
それは、高額の費用を払っては、霊能者やセラピストや
宗教団体に依存したり、あるいはアカデミックな心理療法でもかまいません。
お金が尽きるまで、無駄なことを、やり続けるといいです。
むろん、その過程で、あなたは、「ちょっとは進歩した」
「前より出来るようになった」「問題が解決した」という夢を見ることは
出来ます。
ただし、それは今回言ったように、あなたがあなたの持つ限界までの
力をそれまでは発揮できていなかったという事にすぎません。
それが少し発揮できるようになったというだけのことです。
●しかし、それでもなお、絶対に超えられない壁が立ちはだかります。
なぜ、こんなに努力してるのに、こんなに考えて、悩み、
これだけお金を出して、いろんな講座に出て、
いろんな宗教に関わって、いろんな心理的な治療をしても、
どうして、こんなにも、成果がないのか?
冷めてみれば、教祖や講師が、何をどう、おだてようが、
本当のところは、ちっとも解決などしてないじゃないか?
そう痛切に思うときが来るまでは、あなたは、
無駄なことを、とことんし続けてください。
それにまだ飽きていない人、飽き飽きしていない人たちから、
幻想を取り上げるつもりは、私にはありません。
●しかし、もしも、自分というものが根本的に不完全な感覚がして、
何をしても、それ以上には、どうにもならないと感じたときには、
今一度、「自我が希釈されてしまっている」という状況について考察し、
その視点で、世の中やあなたの周囲の人々を観察し、
そして、もしも決心がついたら、
生きている間の最大の優先目的を、「自我の復元」に向けてください。
●それは、生きている間にも、むろん役立ちますが、
何よりもそれが役立つのは、あなたが死んだ後です。
●
_______________________________
最後に、一言
●私がこの世界で、最も醜く、愚かであると定義し、
私が大嫌いな人たちが存在する。
それは、インドの和尚という人に群がった、
サニヤシンと呼ばれる人種です。
なぜ、彼らを私が徹底的に「猿」のように見下すのか、
ひとつ、こんな話からしてみようか。
●和尚は、あるとき、こう語った。(原文どおりではないが)
「哲学者たちは、この世界にどんな意味があるのか、
神には、どんな目的があるのか、を問い続けてきた。
しかし、目的のある世界など、私はまっぴらごめんだ。
なぜならば、もしも神が目的を持っていたら、
すべては、その目的の為になされることとなるからだ。
何かの目的の為の手段だったらば、それは、もはや、生ではない。
だから、この世界に目的はない。それはただの戯れだ。」
●ところが、この言葉から、どんなに愚かな「二の句」が
生まれてしまったか、皆さんはご存知だろうか?
彼らサニヤシンたちは、何ひとつの思慮深さも持つことなく、
何ひとつも、現実を見ることもなく、
何ひとつも、哲学することもなく、
その軽率な口を開いて、こう言う。
「そうさ、和尚の、ゆーとおり、この世界は遊びなのさ。ははは。」
●それに対して、私はこう言う。
「おい、そこの猿。
では、戦闘地域で、奇形として生まれ、
目がつぶれ、被爆し、手足を失った子供たちに、
お前、その、へらへらした、アホウヅラで、
君のその手足のない状態は、目的のない、神の戯れなんだ、
と、その血だらけの子供たちに、言ってみろ。
年間、3万人もの人たちが自殺をしているこの国で、
家を失って公園で暮らしている人たちに、
その、ヘラヘラしたアホウづらで、生は遊びだと、言ってみろ。
毎日、夫から殴られ続けて、泣き叫ぶ妻と子供の前で、
なーに、この世界は、目的のない戯れなのさ、と、
そのヘラヘラした、アホウな猿ヅラ下げて、言ってみろ。」
●たった一人の賢者が、うかつに言ってしまった「戯れ」という嘘。
それが、かくも馬鹿げた愚かな人たちを生んだのである。
この世界は、断じて、目的のない戯れなどではない。
むしろ、人間という作物から、薬品原料を搾り出すためならば、
どれだけの人々や、どれだけの子供たちが苦しもうが、
一切、おかまいなしだ。
そういう、「現実直視」によって、この世界を見れば、
この世界は、地球に限らず、どこもかしこも、
戯れどころか、生存欲という目的によって、
成立している「完璧な地獄」だと分かるだろう。
●この世界を、
本当に美しい戯れであると、
そのように嘘なく見ることの出来る人というのは、
実際には、この世界にも、この宇宙にも、
一切、何の希望も持たなくなった、完璧な、「絶望者」だけである。
なぜならば、「宇宙が神の戯れである」などという、
そんな、嘘っぱちの、大義名分がまかり通ったらば、
愚かな人々は、何ひとつも実存的な理解も体験もなく、
軽率に、それを口にするだろう。
しかもその上、そこには、「宇宙は遊びである」という
もうご立派な「目的」がレッテル張りされ、
遊びとして認識しない者や、遊びとして扱わない者は、
間違っているか、または悪として、定義されてしまうわけである。
●すなわち、どのような形であってさえ、
人間の思考の中に、希望、期待、そして神の目的なるものを
植えつけるものは、
「私が定義するところの神聖」に対する「裏切り」でしかないのだ。
●考えてもみるがいい。
希望や夢や、宇宙の目的なるもの、あるいは「戯れ」という
固定観念をもった人々の顔の、なんと醜いことか。
一方で、本当に、絶望しきった人々の顔を見てみなさい。
本当に絶望しきった人々は、もうそれ以上、
何の美も、何の夢も、何の未来も、何の観念も、何の期待も、
何の見返りも、何の満足も、生すら、望みはしない。
彼らが望むのは、彼ら永久の死、または宇宙の永久の死だけだ。
そこまで絶望しきった彼らだからこそ、
この世界を最も醜い状態にした、価値観と、生の目的と、
生への執着と、死への執着とを、
もとろとも、手放す瞬間がやってくる。
だから、
すべての希望と、すべての価値観が、すべての醜悪さを生み出す。
一方で、
例外なく、存在するもの、すべてに絶望しきった人たちだけが、
本当に、唯一、
価値と無価値を共に超越した次元の、
その一歩手前に、位置している人たちだ。
この存在世界を、「戯れ」だとか、「魂の進化の為」だとか、
「神が創った聖なる世界」だとか、軽率に言っている人たちの
その顔のなんと「醜い」ことかを、よく見てみなさい。
一方で、自分で自分の命すらをも絶とうとしている人たちの、
その絶望しきった瞳の奥には、
あとたったの一歩で、自分の中の全ての苦を滅ぼせるだけの、
「無欲さ」が輝いている。
彼らは、宇宙にも、神にも、彼ら自身にも、
もう、何ひとつも、期待など、持ってはいない。
その絶対的なまでの、希望のなさの、なんと無垢なことか。
ただ、本人は絶望に、うしひしがれているために、
その本人自身の輝きを、自分では見られないのであるが。
だから、この世界に、この宇宙には、
絶望ほど、美しい「橋」は存在しない。
むろん、それは「橋」にすぎない。
しかし、
それ以外の橋から、原初の意識へ至ることは、不可能だ。
ただし、
希望も、絶望も、ろくに実感していない者が、
「絶望がいいんだ」となってしまえば、それはまた一つの
愚かな宗教でしかない。
苦を苦とも思ってもいない者が、森羅万象が苦だなどと、
ブッダの言葉を模倣したところで、
あなたは、ただのカルト教団の猿でしかない。
●そして、もしも死を選ぶならば、
心のどこかで「何かに助けを求める死」では駄目だ。
「死ねば、楽になれるという、救いを求めての死」は、全く論外だ。
そうではなくて、
一切の救いを欲せず、
一切の助けを欲せず、
苦からの開放を一切欲せず、
ただ、死になさい。
もっと、正しく言うならぱ、
死に、とことん「打ち負かされなさい」。
なぜならば、
あなたが、本当に、正しく死ぬということすらも、
それは、「あなた」によっては、不可能なことなのだから。
●では、あなたは、どうやったら、
死に、完璧なまでに、打ちのめされるか、知っているだろうか?
それは、あなたが完全に生き切った時だけだ。
だからこそ、自我を原型自我に戻して、
その自我を、完全に生きなさい。
決して、安易に、悟りなど求めてはならないし、
憧れてもならない。
今のあなたが、憧れている悟りなど、
見るも無残なほど、安っぽい、あなた自身の作り物でしかないのだから。
むしろ、悟りとは、180度、正反対の方向へとシフトしなさい。
それこそが、真の、神秘性の持つ、パラドックスなのだから。
常に、「それ」は、「ありそうなところにはない」。
それが、
「全くあそりそうにないところ」に、常に「それ」は在る。
秘儀とは、太古の時代から、常に、そのようなものなのだ。
●
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