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2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1440]
■
禅書道日記その174●書についての「おたより」
by:
鈴木崩残
2010/11/23(Tue)07:21:19
【おたより】
【その1】
崩残 様
書と希釈率判定、ありがとうございました。
自我を回復できる!
可能性は0ではない!
それがわかって 本当にうれしいです。
とにかく 道がみつかりました。
生きてていいんだ! そんな気がするほどです。
まず、書の感想から
「日輪」
明るく、力強く、何かの風格を感じさせます。
あの書そのもので、ぴったりです。
書を見ながら、責任感をひしひしと感じました。
「充実」
「ちょっと、まだ、キビシイなー。」です。
形になりづらいのを、崩残さんの工夫で、どうにか形にしてもらいました。
方向性は間違ってない、とはいうものの、まだまだ観念的になっているようです。
「空葉」
全く判読できませんでした。書の雰囲気も、お札の暗号みたいですね。
この数日 散歩に出て「空葉」をながめています。
頭にグルグルと混乱していた言葉が消え、偏っていた圧感が分散され、
ならされる感じです。
「言葉」が「空葉」になっていくようです。
何か大事な感覚。
解釈つけずにおきたいです。
希釈率判定。
1/8→1/7。
僅かでも「回復」を確認できました。
生前にあっちの世界で決められてしまったことを自分で変えられる。
生れつきなっかた足を自分で生やせるようなもんです。
とんでもないことですが、事実でした。
はっきりと現実に現れた変化がありました。
体重が増えたことです。
この4年間、体重は減り続け、43キロまで落ち、すっかり老婆のようになっていました。
食べても食べても減っていました。
それが10月頃から増え始め、今は50キロまで回復しました。
そして快便です!
体という一番の現実が変化しました。
子供の頃に「大人になりたい!」と強く願っていたことを思い出しました。
その願いを叶えたいです。
崩残さんのおっしゃる通り、
「もう いいや。」とやめ、「もう いやだ。」とやめる。
人生全て気分しだい。その時の気分だけが私の人生でした。ガキ臭い生きざまです。
でも 取組み続けます。どんな気分でもやることをやる。
それが大人というものでしょう。
自我なしに人生なしです。
まずは1/4への回復が目標です。
現実の事実を確認しつつです。
1/6か 1/7か周囲の人の状況で判断してほしい、ということでしたが、
1/7でしょう。親が「親だから」という理由だけで私と付き合おうとしてくるので。
最後に
崩残さんの筆先からスルスルと書が流れ出てくるのを
見るのが快感です。気持ちよい電気ショックが体を流れます。
その心地よさに何度もDVDを見ました。
意外な副産物(?)でした。
長くなりましたが、最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。
何かご報告できることがあったら、またお知らせしたいと思います。
本当に、ありがとうございました。
●何かの目に見える変化が出たことは、本当に喜ばしい事です。
むろん、それが自我が僅かにでも復元された結果なのかどうかは、
私には判定できない場合もあります。
この方には、「かなり状況は厳しい」ということを、率直に伝えました。
ただし、伝えるだけではなく、突破口になり得る方向については、
詳しく話をしました。
むろんその中には、何が今まで良くなかったのかといった、
もしかすると、聴く側にとっては厳しい言葉もあったと思います。
しかし、それにへこむことなく、
復元作業をして戴けるのは本当嬉しいことです。
■余談ですが、
私はこの書の企画に、DVDをつけることをして本当に良かったと
常に思います。
皆さんが、もしも書を、普通に、誰かに注文したら、
裏打ちをした半紙の作品か、掛け軸みたいなもの一作品と、
請求書が届くだけです。
●しかし私の作品は、それが生み出されるまでの無様な格闘の様子も、
私が悩む様子も、捨てられてゆく失敗作も、すべてを記録しています。
普通、そのような、いわば「作り手の恥部」を見せる書道家はいません。
そして、私自身の発想や、貧相な技量では、書くことは決して出来ないのに、
依頼者の人が、それを注文したからこそ書ける文字、ばかりです。
また、私が出口を見つけたり、違う文字を組み合わせた瞬間に、
そこから、急に筆が生き返るように動くことが無数にあります。
その文字が、今まさに出来上がる、
「二度とない瞬間」をDVDに記録できて、それを、
作品に付属するものとして、依頼者の人たちに届けることが出来て、
本当に、それは正しかったと、自分でも思います。
____________________________
【その2】
あらためて、崩残さんの書を見入るにつけ、
これだけの作品に対して、皆さんにも見てもらいたい、という感想では
なんとも、物足りないと感じるものがあり、
以前に書いていた感想と織り交ぜて、お送りさせていただきたいと思います。
無無心の書への、私が一番的確だと観ずる、感想の表現は、
「・」 でありました。
これに、いろいろな表現を継ぎ足してしまうのはどうかと思い、
あまり言葉では表現しないほうがいいとなったわけですが、
自分なりに分析してみて、思ったことを付け加えておきたいと思います。
それは、無無心の書には、
筆の動きにまつわる「時間の経過」が感じられないということでした。
まるで 真剣の居合い抜きのごとく、
さやから抜いた刀が、抜いた瞬間には、元のさやに収まっている。
気づいたら、眼前に、「無無心の書」があった。
そのような感じです。
なぜ、そのように感じるのか、というのが
なかなか上手に表現できませんでしたが、
添付されているyoutube動画や、崩残さんのコメントを読んで、
はっきりしてくるものがありました。
それは 崩残さんのコメントにある、
なにかを表現するといった作為がないというところです。
無無心の書ですから、それは当然のことであったわけですが
何らかの意図が徹底して無いがゆえに、
そこに、書の描かれた時間の経過を感じなかった。
そのように思いました。
どんな媒体であれ 何かを表現しようとするときには、
そこには、当然、自分の意識の働きかけがありますから、
意識の動きとともに、そこに筆の動きを追っていく、時間の流れを感じます。
これが、依頼者の意識へ同調しながらの禅書かと思われますが、
しかし「無無心の書」は、やはり、おっしゃるように、
まったく別物のアートです。
ダイレクトに接続されているなにか「・」
ですので、これら、無無心の書を拝見しますと
「・」〈ブラックアウト〉という表現が、今の私にとってもっとも適切に観じます。
そもそも 真のアートとは何であるのか?
それを書という表現手法で、追窮していくと、どんなものになるのか。
この「無無心の書」が、その「ひとつの」答えかと思います。
(今回の無無心の書は、崩残さんの、気まぐれメニューということで、
書の創作時のDVDが添付されていなかったのは、
結果的には、自分にとってよかったです。
無無心の書の創作時の有りようを、
自分なりに 想像して感受することができたものですから。
●居合いと、似ているのは事実です。
私は居合いはしませんが、
手裏剣術は、投げる距離にもよりますが、たったの1秒か2秒で、
明確に、駄目なものは駄目であるという結果が出ます。
他の武術の型の演武とは違って、何かのごまかしが、全くききません。
刺さらなかった剣は、本当に無残に、惨めに、恥ずかしい失態となって
地面に落ちるか、だらしなく、標的から垂れ下がります。
失敗したときに、これほど惨めで、恥である失敗というものは、
剣術の「試し切り」の失敗や、
空手の瓦割りの失敗などでは及ばないような「屈辱」でもあります。
●書も、それと似ていまして、
書かれる時間は、たったの数秒間ですが、
その直後に、駄目なものは駄目と、すぐにその結果が自分につき返されます。
この極端に短い時間の創造行為という点が、鍵なのです。
絵画や、長い時間をかけて洗練してゆく工芸品の製造と違う点は、
そのフィードバックのあまりの速さです。
●注文されたことのある皆さんは、よくご存知のように、
私は、すべての書を成功して書けるわけではありません。
それどころか、毎回、清書の段階になってからも、
100枚近い枚数を、多くの失敗をしながら書くわけです。
何をそこで失敗したのかは、
常に毎回、私自身に対して、明確つき返されます。
ですから、雑念や余計な作為を、
次に筆をおくときには切り落とすという方向へ、調整しながら、
意識を持っていくわけです。
この作業は、
一般的な書道家でも、同じことをしようとしていると思います。
ただ、彼らが究極的に目指しているもののエッセンスだけは、
私は、最初からすべて持っていたということです。
私に足りないのは、少しの技術だけです。
ただし、多くの技術は私には必要ありません。
私は、いわゆる書家でもなく、書道家でも全くないからです。
もしも私が、いわゆる「俗に言う」ところの、
書の持つ「技巧」に走ってしまったり、
また、それに頼って、そこそこ見栄えの良い文字など書いてしまったら、
それは、無心の書や、私の定義する禅書からは、かけ離れてしまうからです。
ですから、表現するのに、最低限度必要となる、
書の要素以上のものを、私は意図して、わざと、学ばないようにしています。
書くということに、「小慣れたくない」のです。
だから私は臨書などしませんし、
習字としての練習など、ただの一度もしたことはありません。
私の作風は、この一年半で、
歳月とともに、確かに、少しずつ変わっていっていますが、
それは、皆さんの書を書く中で、自然に、変化していったものです。
また、同じ漢字を、何度も何度も書いているのに、
その漢字の草書体などすらも、毎回、毎回、私は忘れてしまいます。
いちいち辞書を見ないと、字を思い出せないのです。
私に必要な、最低の最低の限界の、必要最小限の書の技法とは
私自身が見て、
依頼者の方にとってのカウンセリング書や、無無心の書を形成するのに、
「不適切な線でさえなければ良い」のです。
それは、書(書法や書道)のルールが決めるのものではなくて、
私の中の、絶対的なルールがあり、それが決めるのです。
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【独り「清水寺」遊び】
●毎年、年末になると、清水寺で、その年を表す「一文字」の書を、
坊さんが書いていますよね。
去年は「新」だったようですが、
私が考える今年の文字は、これです。
あれを、ちょっとパロって、昨夜、遊びで書いてみました。
左の文字は普通に書いて、右のは、清水寺の書みたいに、
垂直に立てた紙に書いたように、わざと墨を垂らして、演出してみました。
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■やはり、これは、外せないですね。
なんといっても、「島」の一文字。
尖閣諸島問題に、大揺れに揺れた、今年の日本列島でしたから。
まー、実際の清水寺での「書」は何になるか知りませんが、
「島」は、いい線いっていると思いますよ。
■そして、第二候補は、「裁く」の「裁」。
今年から、裁判員制度が導入されたということで、
いちおう、押さえに、これも書いておきました。
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