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●梅の間へようこそ●
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2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1444]
■
禅書道日記その178●「自我復元」についての質問その他。
by:
鈴木崩残
2010/12/11(Sat)10:02:23
おたよりと、質疑応答
●普遍性を持つ質問といいますか、これは書いてもいいだろうという
内容だったので、以下に簡単にですが、答えておきます。
また、基本的には、誰しもが、持つ質問だと思いますので。
【お酒を飲んだ日にはやらないほうがいいですか?】
●死人禅行法では、期間中、アルコールは完全にアウトですが、
「自我復元作業」では、「酔いが完全に抜けている」かぎりにおいては、
または「お酒を飲まなかった日」に行うのは構いません。
なんでもそうですが、そもそも、精密な作業をするときに、
お酒を飲んでいてよいわけがありません。
酒が入った状態で、あなたは、仕事場で仕事をしたり、
野球選手がバッターボックスに立つでしょうか?
会社で企画会議をするときに、
あるいは、車を運転するときに、アルコールがOKなんて、
この「普通の社会の中」にすら、ありません。
ましてや、瞑想とか行法という、
>最も「精密な精神の運転」をするときに、
どうして、酒が入っていて良いのか悪いのかなどと考えるのか、
私には、全く理解できません。
皆さんにとって、瞑想とはそんなに安っぽいものなのでしょうか?
セックスも同じです。酒が入った状態でのセックスなど、もってのほかです。
一体、どんだけセックスを、甘くみて、舐めて、
安っぽく考えているのでしょうか?
こういう問題は、瞑想とか以前の、「常識」です。
【他の瞑想法をしているのですが併用して良いですか?】
●これは、やっていても構いません。
「自我復元法」は、あなたが、他にどのような瞑想をやっていても、
それをやめる必要は全くありません。
DVDの中でも話をしましたが、他の体系はむろし、
「自我復元」の状態の「試金石」にすら使えます。
つまり、自我が本当に復元に向かうほどに、一般的な今まで存在した
魔術、瞑想体系を、皆さんは、それまでよりも、
ちゃんと出来るようになるというのが、私の論理です。
ですから、みなさんが継続的に行っているそれぞれの方法は、
自我復元を始めてから、そこに変化が出る人がいるはずです。
●ただし、自我復元法と併用する「他の瞑想法」は、
「一種類」に限定してください。
よく、あれこれと、瞑想法を梯子する人がいますが、
それで今日まで、弊害が出ずに、なんともなかったとしたら、
それはひとえに、自我が相当に希釈されていたということです。
つまりは、自分が思っているような効果も弊害も実は何もなく、
(本人がどう思おうが)、毒にも薬にもならなかったものだということです。
●瞑想法というのは、「本来」は全自我の人たちの為に
作られたものであり、本来は、非常に効果が強くて、
結果として、副作用や、弊害が出て「当たり前」なのです。
「それ以下の粗雑品」を私は瞑想などと呼びたくありません。
それ以下のものは、「ただのリラックス法」であり、
「無意味なこの世界だが、気楽になって、あまり考えすぎず、
さぁー、元気に生きて、君も、働け、人生を楽しめ」と
そういう、「世にも軽薄なこと」を言っているのと同じです。
ニコニコと、終始楽しく出来ている瞑想ごっこなど、
そこで、その結果に喜んでいる貴方などは、ひとえに、
「あなた以上に、一歩も前進してない」という事を、
自分であなたが「自白」しているのと、全く同じです。
精神が本当に拡張するときの最大の前兆は、苦痛または抵抗です。
それを、どうして、何の痛みもリスクもないと、
そんな身勝手なことを妄想するのか、
これまた、私には、到底理解できません。
「力の拡張」と「意識の変容」を取り違えている人が多すぎます。
「力の拡張」とは、現在のあなたから一歩も変化せずに、
ただ、良くも悪くも、あなたが単に、「増量すること」に過ぎません。
しかし「意識の変容」とは、見る視点自体が変化してしまうことです。
それにともなって、前の「視点」は、死なざるを得ません。
「本当の変化」とはそういうものを意味します。
それは単なる「延長」ではないのです。
●さて、話を戻しますが、従って、
対立するような抗生物質を、同時に飲んではならないのと同じで、
瞑想方法は、一時期に「一種類」にすべきです。
その一種類を少なくとも「3ヶ月」から、最長で「2年」続けて、
効果がなかったら、次を試すというのが当たり前の「筋」です。
決して、ちゃんぽん、などやってはなりません。
それは本当の意味での瞑想を知らない、ド素人のやることです。
あるいは、あなたのやっている方法が、
そもそも、全自我の人々がまだ多かった、古代のものではなくて、
近代になってから、アレンジして作られた「その体系や方法」が、
「希釈自我の指導者」によって、捏造されたり、歪曲されたものであり、
それが、ほとんど効果のないものであるという場合には、
確かに、やっても、特に何も弊害はなく、
よって、自己暗示以上の「効能もないものである」ということです。
●ですから、
「自我復元」と他の瞑想一種類でしたら、バッティングしませんが、
「自我復元」と「死人禅」を「併用」している人は、
他の瞑想法はやらないで下さい。
むろん、他の瞑想をやっている人は、死人禅は行わないで下さい。
あるいは、他の何かの瞑想を「二つ」以上やっている人は、
最低、3カ月間は、「どれか一つだけ」に絞ってください。
そもそも、そんな事は、当たり前のことです。
併用しても良いと、認定されていないかぎりは、
二種類以上の薬を飲んだら、
あなたは、「どの薬が効いたのか?」すら、自己確認も出来ません。
そんな状態は、まったくもってして、
「だらしない人間」は、瞑想などやる資格すらない、
としか言いようがありません。
自分の精神に起きることに、
最低限の「真面目さ」を持って取り組む人は、
どっちが効果があったのかすらも自分で確認ができない、という、
「そんな、だらしないやり方」を、決して好みません。
それでは「効けば何でもいいや」という、ただのアホウのジャンクです。
そんなにも、自分の「主体性」を大事にしたくない、のでしたら、
「自主・主体性」に興味がない人なのでしょうから、
そういう人は、自我など、復元しなくていいです。
●それに、常識的に「経済的」に考えても、
自分に効き目のあった方法が「一体どれなのかを特定する」のが、
ごく普通の神経を持つ人のやる事です。
効果のないものに、いつまでもお金をつぎ込むのは、
経済的にも愚かすぎます。
ですから、どれが効いているのかも、分からないままに、
あっちこっちの瞑想やセラピーを、「つまみ食い」するなど、
そんなにも、低濃度の自我の希釈率の人がいたとしたら、
無明庵の体系には、一切近づかないでください。
>●自我を復元しなかったら、どんなことであれ、何も始まらない。
それが、無明庵の結論です。
自我を復元しなかったら、ちゃんとした瞑想もスタート地点にすら立てない。
自我を復元しなかったら、ちゃんとしたセックスも恋愛も、始まらない。
自我を復元しなかったら、焦ってどこかに就職などしても何も始まらない。
自我を復元しなかったら、ネットでおしゃべりなどしていても、
メールで誰かとコミュニケーションを取っていても、何も始まらない。
自我を復元しなかったら、機能不全家族の問題の解決すら始まらない。
自我を復元しなかったら、親や家族からの自立など、何も始まらない。
このように、自我を復元しなかったら、
あなたが今までに何十年生きてきたとしても、
そしてその中で、何を経験し、何を知ったとしても、
そもそも、あなたが本来は持っていたはずの「生」、
あるいはあなたが本来は、「持つ権利」を持っていた、
「全自我の生」すらも、まだ始まっていないのです。
全面的な「生」すらまだ始まっていない者が、
どうして、本来は、死の為、あるいは生死の境界線に浸入する為に作られた、
古今東西の、いろいろな瞑想など、まともに出来るというのでしょうか?
■「自我復元法」というのは、
他人も含んだ「社会の万事解決法」なのではなく、
「自分のこと」ぐらいは自分で万事解決出来るという、
その最低限の資質を準備することです。
普通は、自分ひとりが、主導権をもって、
当たり前に出来なくてはならない自己管理、精神管理、肉体管理、
それを当たり前に出来る「元の状態」に戻すことです。
そういう意味では、「あなた個人の問題」について限定すれば、
解決の最大の糸口となることは間違いありません。
そして、今、もしも、それを地球でやれば、あなたは、
周囲と比較した時に、「相対的な意味」では、
多少は特別な人になるかもれませんが、
それは、特別なのではなくて、「それが元々は当たり前だった」という事を
認識してください。
現在の地球の、希釈自我の蔓延という状態が、
そもそも「極度に病的」であり「極度の異常事態」なのですから。
抗うつ剤は、完全なアウト
●今さら、梅の間で、もう繰り返す気もしませんが、
一切の、抗うつ剤は、無明庵では、その種類、理由に関係なく、
全面的に「禁止」しています。
もしも医者に処方されていたら、たとえ、死んでも、減量して、
やめてください。
ただし、日本の医師の指示する「減量ペースが速すぎる」ために
リバウンドする危険性が指摘されていますので、
もしも減量して止める決意のある人は、
本当に信頼できる医師だけの言うことを聞いてください。
信頼できる医師とは、次から次へと別の薬を出さない医師であり、
また、「薬をやめたい」と言ったあなたに、
ちゃんと、親身に協力してくれる医師のことです。
一方、精神科のヤブ医者とは「どんどん違う薬ばかりを薦める奴」と
「薬以外の解決法を探らないし、それに興味も持たないヤブ」です。
●私は基本的に、抗うつ剤を飲んでいる人からの相談などに
応じる気は一切ありません。
それは、1/8の希釈自我などよりも、もっと低い状態にあるからです。
1/8自我の人さえも、その1/8をなんとか必死にフルに
自力で生きている人がいるというのに、
薬物など摂取していたら、それ以下の状態と等しくなります。
あなたは、薬やアルコールで、ふらふらしているあなた自身、
あるいは、薬に頼って、かろうじて、不安を感じないでいられるあなたを、
「これが私の本来の姿だ」などと、他人に言えるというのでしょうか?
それと同じことです。
●薬物などで治療している人には、最も重要で、最低限必要な、
「自我復元」の作業すら続けて出来ないと思います。
また、もしも本当に自我が復元されてゆけば、
薬などに依存している自分が、どれだけ馬鹿で惨めなことをしているのか、
気づかないはずがないのです。
●脳に「明確な障害」が、スキャンで発見でもされないかぎりは、
いわゆる「精神を病む」というその原因は、
薬などで治ったりするわけがありません。
そもそも、医学によって、
本当の「原因」が特定も出来ていないものに対して、どうして
その薬によって、ただ、気分が楽になるから、改善されたからといって、
そんなものを投与し続けるのでしょうか?
●脳内物質説だって、いい加減なものです。
原因が、別のところにあるというのに、
なんでもかんでも脳内物質の不足で片付けようとする医師は、
結局は、「偽物の擬似結晶」を飲ませてレセプターをブロックしたり、
脳内物質を補充したりして、
そんな暴力的な方法で、一体何が解決するというのでしょうか?
一生、大量の薬を持ち歩く、病人を、
故意に、明確な悪意から「製造」しているだけです。
●彼らのやっていることは、実質的には、
廃人か、良くても、一生薬に依存する麻薬中毒患者を量産して、
製薬会社が儲ける手段にすぎないと断言出来るほど、
「抗うつ剤という商品ビジネス」は、有害です。
定義も明確ではないような、
「かなり適当な病名」を、どんどん作り出して分類しては、
「それには、これが効く」といって、あなたに抗うつ剤を渡す、
効き目が薄くなってきて、駄目なら、次のを渡す。
そしてあなたは、一生を台無しにします。
●さらに言うならば
精神科の医者は、外科や内科の医者よりも、
誤診の責任を取る必要がありませんから、それに付けこみます。
外科や内科であれば、レントゲンやCTスキャンや、
血液検査その他、あなたの病状についての「物理的な証拠」があります。
そうなれば誤診したり、誤った処置をした場合には、
それは刑事告訴をするときの証拠となります。
●しかしですよ。
精神科の医師は、あなたに、
一体何の「物質的な診断結果」の根拠をもって、
病名をつけたのでしょうか?
心療内科や精神科を訪れる、「ほとんどの人」の脳や血液には
異常など発見されていないはずです。
ところがですよ、
医者が貴方に言う「形式的なアンケート」のような質問に答えると、
まるで、週刊誌の付録の「イエスノーの質問」の迷路のように、
質問に答えていき、最後のページをめくると、あなたは、
「うつ病ですね」とか、
「パニック障害ですね」とかレッテルを貼られていて、
「薬を渡される」という、とんでもない詐欺です。
もしも単に、診断をするだけでしたら、それはまだ許されます。
それはある意味で、悪くいうと、占いと同じレベルです。
占い師は、その結果を聞いてあなたが行う行動にまでは責任を持ちませんから。
ですから、単に他者を「診断すること」は、
それ自体は、たとえ誤診であったとしても、
「薬を処方する事」ほどには、大きな問題になりません。
しかし問題なのは、物理的な効果を持つ「薬」というものをそこで、
渡してしまうことです。
●しかも、こうして出された診断書について、
精神科の医師は何の責任も負いません。
なにしろ、「物的証拠がなく、問診で出す結果」なのですから。
その結果、「薬を出しておきましょうか?」と医師はあなたや
あなたの保護者や家族に、質問をします。
つまり、そこで「はい、お願いします」といったら、
「薬を欲しい」と、「あなたが言った」という形になります。
「この薬を飲んでください」とは医師は言わないかもしれません。
言ったら最後、何かあったときの責任を医師は追わねばならないからです。
そうやって、あなたは、自己責任で許諾したという形で、
精神科の医師には
「その後何が起きても、責任はなくなる形」で、薬漬けになります。
●これが、同じ医師でも、内科や外科と違って、
病名をつけた根拠と責任と、薬の処方について、
精神科が、完全に責任逃れを出来る罠です。
よく考えても見てください。
言葉をやりとりした問診だけで、物理的検査もせずに、
あなたを「胃潰瘍です」とか「肺炎です」なんていう医師が
どこにいますか?
しかも、ただ言うだけならともかく、物理的な手術をしたり、
薬を処方する医師などいません。
ところがいるんですよ。物理的証拠もなく、物理的な薬の処方を
する人たちが、たった一種類だけ。
それが精神科の医師です。
彼らが仮に、総合病院で、あなたを「別の科」にまわして、
血液検査や脳波や、脳の断面を撮影しても、
本当にそれが外傷性の疾患や、遺伝的な異変でないかぎりは、
彼らが、あなたを「うつ病」だとか「何何障害です」と診断した、
確かな「科学的根拠」など、「どこにもない」のです。
●今、もしも、抗うつ剤や、向精神薬を
言われたままに飲んでいる人がいたら、
ご自分が、私がここに書いた、当たり前の疑問を、
何も考えずに、ご自分が、どんだけ馬鹿なことをしているのか、
早く、自覚してください。
____________
●さて、こうした精神医学業界の問題点について、
まだ日本語訳をされていない本がありますが、
日本のどこかの出版社は、次の著者の本を出版した方がいいと思います。
↓
http://www.amazon.co.jp/dp/0312113668/ref=ntt_at_ep_dpi_7
この、ピーター・ブレギン医師については、ほとんど
日本語のネット上には、情報がないのですが、
唯一、下記のサイトに、少しだけ関連記事がありました。
↓
http://www.choicetheory.net/kcc/mental-health.html
_______________________________
おたより
●最初の方は、原文も、かなり長いのですが、これでも一部削りました。
1/2自我よりも「以上」の自我の人の特徴が(いろいろな意味で)
よく出ている文章だったので、掲載しました。
「単に無駄に長い文」というのを書く人も、たまにいますが、
この方のは、無駄に長いのではありません。
また、「単に、簡素で短い文」を書く人もいますが、
大抵の場合には、説明不足であったり、余計な事を考えての結果か、
あるいは、何も個性的な文言が浮かばずに「短いだけ」
ということもあります。
長文と短文の、そのどちらがいい、ということではなくて、
どちらであっても、「良い文はよくて、変な文は変」なのです。
>ごく僅かですが、黄色文字の部分が私の言葉です。
このお二人に書いた「書」については、
少し前の、下記の投稿にビデオがあります。
↓
[1441]■ 禅書道日記その175●最近の作品のビデオ●。
*********
崩残さんへ
感想が遅くなり 申し訳ありません。
書の創作過程におきましても とても楽しんでくださっておられたので、
早く感想をフィードバック差し上げたかったのですが 遅くなりました。
炭火焼からの映像スタートは粋ですね。
崩残さん 砂手さんは とてもリーズナブルに
美食を堪能されているイメージが勝手にあります。
わたしが 心から目指すところです。
・本志(元の注文は「本質」)
本質を見る目はあるので 特に 本質 という字は必要ない。
本質だと 漠然と 抽象的すぎる。という崩残さんの判断で、
結果 本志という 字をいただいたわけですが
これは おそらくは 本質を見極めていったその先において
どのようにそれを 現実の人生における行動「志」にからめていくか
というところかと思います。
志というのを 自分の人生において
何が何でもやりぬける対象をもつ と定義するのであれば
自分には 志が ありません。
志がある ふりをしていた時期はありますが
自分で明確に自覚できていません。
このあとの「線」とも絡んできますが
もっと 自らの志を掘り下げて 現実に行動として
あらわしていく 実行部分についての示唆かと思います。
本質の「本」という字の書き順を変えたがっているという
くだりについてですが
本質を歪めている ということにつながりますでしょうか。
>それは私にも分かりません。
・線
線の創作過程を拝見させていただき 楽しませていただいたと同時に
自分なりに 多くのメッセージを受け取らさせていただきました。
もともと この「線」を注文させていただいたのは
書で 一番端的に 何かが 顕れやすいものは なんだろうか。
というテーマに基づくものでした。
ちょうど 無無心の書を注文させていただいたころには
次回の注文のひとつは 「線」で いこうと思っていました。
そして 予想通り 予想しないものが出てまいりました。
「線」のお題ひとつだけに対して 数々の書のバリエーションからみて
何種類もの書を 書いていただいたかのように感じます。
・「線」前半 〜 わたしのエネルギーパターンとしての「線」
まずは私自身の表現していただいた 線の書につきまして。
とても興味深く思います。
上がって。どーんと下がって。最後にぐっと上がる。
卑近な例ですが 学生時代の 私の試験勉強そのものです。
はじめがんばる。そして 中だるみによるモチベーションダウン。
でも もう試験間近だからって そこで 最後につじつまを合わせようとする。
その動き自体を自分で自覚しつつ 最後の追い込みのときは
いつも 何で途中サボったのかと後悔します。
(困ったことに それを楽しんでもいます。だから変わらないのです)
いいかどうかは別としまして
わたしの人生のバロメーターになる可能性もあります。
(とらわれることなく ありのままに生きたいと思います)
どこかで 人と待ち合わせるときも 同じパターンをとるときがあります。
はじめは余裕を見せて 準備をして 大丈夫だと思ったら
間に合わない時間になって 最後 何とか間に合わせる。
だったら もっと計画的に動けばいいのに と自問します。
今回の書の感想作成についても 同じパターンかもしれません。
崩残さんが 書を とても楽しんで下さっていたので
早く感想を送らないと と思って
すぐに原稿のアウトラインを作り始めましたが
途中で止まり 練り直し いままた最後に急がなきゃと 書いている次第です。
・「線」後半 〜 線につきまして
純粋に 崩残さんのアートとして 素晴らしく
なかでも 特に その創作過程そのものが 生きるアートとして
自分にとって必要なメッセージを観じます。
わたしなりの解釈ですが
空中で引いた線にいては その結果どのような 紋様になるのかわかりません。
まずは 引いてみる。
そこに顕れてくるなにか。
現実とのかかわりにおいて 思いもかけず 現実化すること。
それを 素直に謙虚に受け止める。
自分で 自分のことを 自由に生きている と思っていたりするそのこと自体が
とても不自由な枠にとらわれている と観じました。
もっと自由に というより
もっとありのままに という感じです。
創作過程そのものが 生きるアートと書きましたが
崩残さんの 書創作時の スピード テンポを見て感じましたのは
なにかしらの アイディアが閃いてから
実際に紙上に表現するまでのタイムラグの短さです。
考えて どうしようと いうことではなく
次々と 書に顕現されていきます。
頭で考え込んで 線を引く前に 行動を取りやめる。
実生活において このようなことがいくつもあるように思います。
しかし これでは なんとつまらないことでしょう。
自分にとって納得いく結果になるかもしれませんし
ならないかもしれませんが
それでも まずは 軽やかに 筆を振る。
この「軽やかに」というのが味噌だと思っています。
まず 筆を走らせる。働きかける。
そこに出てくる何かを 現実の中において味わう姿勢。
これは 自分にはとても必要な要素です。
先ほどの「本志」との絡みでいきますと
この人生のテンポが「本志」へと近づいていくことになると観じます。
この線のバリエーションは 見るたびに 気づきに変化が出ます。
・自我 意識1
はじめに 書を見て どういうわけか 「苺」に見えまして。
なんで 苺なんだろう。と。
そのあとに「竜」に見えてきました。
誤封入かもしれない とさえ思いました。
いずれにしましても 何がどうなって 苺 もしくは 竜 になったのか
と思いながら DVDを拝見させていただきましたが
意識の「意」が「竜」になるということですね。
これは わたしが 中日ドラゴンズのファンだから
(熱狂的にではなく 普通のファンです)
ということではないと思うのですが
前に 注文させていただいたときの書で「龍」が「竜」になったときがありました。
部屋に 竜が飾ってあるので 自分の意識下に刷り込まれたのか
それとも 崩残さんがおっしゃるように 竜神にご縁があるのかもしれません。
竜神が 実際に何かしらの世界に存在するのかどうか
現在 自分でも 調べているところです。
(もし崩残さんの把握している中で 竜神につきまして
なにかご存知のことがあれば ご教示いただけるとありがたいです)
>特にないです。ただ彼らには「種類」があるということしか。
こちら「竜」の書につきまして 多くの無の落款があるので興味深く感じます。
竜神とのかかわり というところで
音楽 ダンスとの相性が良いとのコメントがありましたが
実のところ 中学生よりフルートという楽器で音楽をたしなんでおりました。
中学生 高校生 大学生 そして大学卒業後も、
社会人オーケストラに所属しておりましたので
現役期間を合計すれば15年ほどになるかと思います。
和 というところでいきますと 尺八とのコラボレーションや
通常のPOPライブ等のお手伝いなどもやっておりました。
知人につきましても 歌や楽器で音楽を表現する仕事をしている方が多いです。
ちなみに 現実にはなっていませんが 社会人になって習いごとをするのであれば
社交ダンスと決めておりました。
「合う女性」につきましては なまめかしい動きですね(笑)
たしかに 魅力的です。
気づいたのは 自分は
身体の柔らかい(柔軟運動を得意とする)女性に惹かれるということです。
これも 崩残さんのおっしゃっている曲線美 と符合する点です。
ほかに気づいたのは 意識の 識が書かれた 書が ほとんどありませんでしたので
これもなにかのメッセージかもしれません。
意 と 識 のもつ 意味合いをそれぞれ 調べてみます。
・自我 意識2 直線と曲線について
直線的な表現 と 曲線的な表現 を使い分けていると思います。
たとえばでいきますと、
限りなく冗談ぽい ときと すこぶる真面目なときです。
使い分けると言いましても なにか 作為的に演技しているつもりはなく
ある程度 この2点間に 落差があったほうが
周りのかたがたに楽しんでいただけるだろう、ということで使い分けております。
笑いを取るときでも この2点間の落差を
いかにナチュラルに表現できるかを理想としています。
男性性 と 女性性 という言い方もできます。
どちらかに偏ることないようにしようとしており、
そのギャップを上手に表現に取り入れていきたいと感じています。
この 直線と 曲線の融合が まだ うまくいっていないというのは
崩残さんのおっしゃるとおり
以前の禅書では見られなかった直線の資質不足かと思います。
プライベートでの使い分けというのは 多少なりともできているつもりですが
たとえば 仕事ではなかなか難しいものがあります。
お客の意を汲む というのが曲線であれば
自分の意をお客に通す(わがままをお押し付けるという意味ではなく)というのを
直線とイメージしますと
この曲線 と 直線の使い分けのバランスにおいて
直線的な要求が苦手というところがあります。
特に この資本主義社会で生きていますと いい意味での直線的に
相手に対する圧力があることが必要不可欠ですが
ちょっと真面目すぎるといいますか 冗談で笑いを取りながら
同時にお客と対等の関係を 直線的資質をもって築いていくのが
苦手かもわかりません。
かつて 「NO」と言えない日本人
という石原慎太郎のベストセラーがありましたが
「NO」と言える外国人が優れているとも 思わないのですが
自分の意を通す際の潔さ。直線が足りないと感じます。
ほかには
プライベートにおきまして
一部の相手に関しては お誘いを断るのが上手ではありません。
お会いしてもあまり意味はないとわかっている場合は
結果 その方と距離をとることで あまりお誘いを受けないようにする
回避策をとることがあります。
もっとはっきりと 堂々と言えばいいのにと思うわけです。
ただ、それだと相手が気に病んでしまうのではとか 余計な心配をしたりします。
それが 余計だと思うのですが このあたりは
自分でもしっくりきていない部分です。
距離をとって 調整しようとするだけでなく もっと素のままありのまま。
自分をさらけ出せばいいと思います。
崩残さんのおっしゃっている 曲線 と 直線の融合というテーマは
自我復元と並行して行うことにより はじめて効果をもつものだと思います。
・自我復元に関しまして
自我復元前が2分の1
現在が3分の2
ということでありました。
「かなり 変わった性格の人」
人によっては 受けとり方がいろいろあるかと思いますがが
私にとっては 素晴らしい ほめ言葉を預かり うれしく思っています。
もっと もっと変わってみようとさえ思っております。
今回 自我の判定を依頼しましたのは
もう あまり時間に余裕がない という感覚に基づくものでした。
自我復元に取り組むにしても ここらで一度 現状を把握しておかないといけない
と感じたからです。
希釈自我の存在につきましては 以前のゾンビ化する人々
梅の間の投稿などにより その概要について読み込んで
自分なりに思索 まわりの状況等の観察を行ってきました。
そして 希釈自我の存在に 強い実感があります。
なぜかと言いますと 希釈自我の存在以外の説明が
自分の想像する範囲内おいて まったくできない
と 同時に、自分の中の 実生活での問題点。
たとえば 相手への 明確なYES NOの意思表示も踏まえて
心理学や コミュニケーション方法 などではない
もっと根源的な問題を感じるからです。
知識が足りないのではない。
経験が足りないのではない。
では なにが足りないのか という部分において
これ以上 明快で 腑に落ちる原因は 現在の私にはありません。
2分の1 より 3分の2に 復元されていたとのことですが
全自我に近づくほど 復元が困難になるなどの問題が出ない限り
早い時期に 全自我に復元できると思っています。
今現時点における 人生の全てにおいての最優先事項だからです。
話が変わるのですが
実は 先月 私の住んでいるマンションで飛び降りがあり
なんのご縁か 第一発見者は わたしでありました。
>以下中略
・空間認識について
特に30歳くらいまでのころは、自分の見えている世界と相対する前に
自分のなかで バラバラになっている身体感覚や
自分の方向性を整理しようとしていました。
特に 27−28くらいまでは 胸の圧迫感を 強く感じることが多くあり
明確な個体感と 言いようのない孤独感を感じるとともに
表現のしようのない 世界に対する 違和感 と 分離感 にさいなまれておりました。
この分離感をなんとかしようとして
意識を前面方向に持ち 誰かと 何かと 融合しようとするのですが
まったくできずに
苦しくて 苦しくて 悲しくて 涙が出そうになることがたびたびありました。
自分には 愛がないのか 思いやりがないのか 協調性がないのか。
なぜもっと 無邪気に人生を楽しめないのか。
色々と自問しておりました。
掘り下げてみると なにか具体的理由があるわけではなく
もっと 根源的な何かが原因だと直観するものがありました。
この孤独感は 人様とどれだけ親しく接しても 癒されるものではなく
どれだけ やさしく 大切に 自分のことを 考えてくれる人が
そばにいてくれたとしても 解決できないものと感ぜられたのです。
その状況をなんとか打破しようといろいろ 試みました。
たとえば 自分が 透明人間になっているのをイメージしてみたりですとか
あるいは 自分が空間に解けて込んでいくようなイメージですとか。
ほかには 哲学 宗教 心理学 もろもろの思考方法などです。
しかし 社会の中で生きるための方法論 や
生きるためのハウツーにそれらの知識を使えることはあっても
自己と相対する世界との違和感に関しては まったく無力でした。
そんな種々の試みをしていた ある日のことです。
それは 誰かの 何気ない一言だったのですが
私は 電流が走るように この一言に釘付けになりました。
その一言とは
「自分を外から ながめているね」
おそらく この人は 私に
少し自意識過剰なのではないか、というような意味で言ったのだと思います。
しかし わたしには それだけの解釈ではなく なにかとてつもない
ヒントをもらったように感じたのです。
それは考えてもみれば
そもそも 自分を外から眺めることなど できるのだろうか。
ということです。
体外離脱をして 外から自分の身体を眺めることは できるかもしれませんが
そういう問題ではなく 自分の観察主体そのものを 外から眺めることなど
絶対にできない。何に意識を同化しようと それだけは変わらない。
と思ったのです。
もしかしたら、自分の感じている分離感 孤独感は
本来不可能な 自分そのものを外から意識化しようするクセに
原因があるのではないかと考えました。
意識の向かう方向性そのものが真逆に落とし込まれていた。
ということです。
それから 少しずつですが 自分にとって なにかの根本的な認識が
変更され 自分の実生活の意識が変わっていくのを感じました。
(一気に瞬間で変わったというわけではありません)
自分を外から眺めるという意識のときは
広大な大宇宙の中における点のような存在として 自分を感じ取っていましたが
新しい(なつかしいという感じでもあります)感覚というのは、
自分から 当たり前すぎるほどに 子供ころのように
世界をそのまま見るという感覚です。
自分の観察主体と それをとりまく3次元空間が
光の球体(半球体かもしれません)のように 意識化され始めたという感じです。
(では 先天的全盲の人は この認識は完全に不可能なのか と考えることがあります)
別の言い方ですと、
自分がこの広大な3次元空間内をうろうろと動き回っているという感じではなく
まるで 映画館のいすに座って スクリーンを見ているような感じ
という表現になります。
映画館では椅子と スクリーンに距離がありますが
五感を含め 不確定要素もふんだんに織り込まれた
超リアルなバーチャルリアリティシステムに組み入れられている感じです。
この空間認識では 前に歩いてゆけば もちろん前に進むのですが
それは自分が前に進んでいるというより
まわりの景色が前から後ろに流れていっているというカタチで知覚されます。
また 他者 世界との一体感は前面で感ぜられるのではなく
むしろ背面に感ぜられます。
なぜ このようなことを書いたのかといいますと
気のせいかもわからないのですが 自我復元をはじめてから
より 自分の観察主体の中心 重心に安定感がでてきた気がするからです。
この空間認識とリンクしていたかどうかは断言できませんが
(自分では強い関連を感じます)
現在は 当時 感じていた 強い胸の圧迫を感じることはありません。
流れとしては
10代〜27 28くらいが 胸の圧迫
28 29〜34くらいが 喉の違和感
同時並行として
4年くらい前からは 特に眉間に何かはさまった感じがすることがあり
気持ち悪いため 手でおでこを叩いたり 中指の第2関節で ぐりぐり
と押し付けたりしていました。
かなり強くやるものですから
そこの部分の皮膚が一時的にへこんで元に戻らなかったり
青アザになったり ひどいときは かさぶたになったこともありました。
眉間の違和感は たいてい一両日中に収まります。
今までこの状態になったのは4回ほどです。
・また やるのか
小学校4・5年生のころ お風呂の湯船につかりながら
ふと また やるのか と思ったことがあります。
世界や意識を走査していく上で、
もうやらなくてもいいのではないかという走査を
でも 一応やらなくてはいけないのか というような感覚だったかと思います。
20歳を過ぎて ふとそのことを思い返すにつけ 単純に考えて
転生を繰り返すことについて そのように感じているものだと思っていました。
たしかに そういう要素もあるのかもわかりませんが
いまあらためて思うに 先ほど書きました空間認識が
かわっているのではないかということです。
子供のころの世界との一体感。
それが いつのまに失われていました。
そのままの認識でいけばいいものを
物質さんと他者さんのあいだにどっぷりとはまり込んでいきました。
なぜ 子供のころの世界との一体感を失ったのか。
また 失う必要があったのかということです。
そこに 自分なりに 観察主体の運動を感じ、
そうしなくてはならなかった という感覚はあるのですが
ただ 生まれ変わるのなら もうこの繰り返しはしたくない と思っています。
・追記
最後に いくつか関連したテーマを付して
終わりにさせていただきたいと思います。
・猫につきまして
>中略
崩残さんが 猫の自我というものは 人間のそれに似ている。
と コメントされたときがありました。
もしかしたら なんらかのカタチで 動物の自我と一緒になることも
あってもおかしくはないのかもしれないと思い すこし書かさせていただきました。
ちなみに わたしには 超常現象を感じる能力はありません。
・不思議な偶然1
・不思議な偶然2
>かなり、面白い話でしたが、プライベートな話につき、中略。
・無無心の書
先日の無無心の書につきまして すこし補足で感想を述べさせていただきたいと思います。
購入しました無無心の書は 全部で5枚ですが
そのうち 現在 部屋に飾らせていただいているのは
「逆」(1)と「意識」(5)になります。
かなりの大きさになりますので 全部を飾ることはできず
この2枚をチョイスしています。
「意識」についきましては 今回の禅書でもお話がありましたとおり、
直線的意識をこちらの書より感じるからです。
もっと奔放に おおらかに 真剣に「・」
「逆」につきましては 書の字体そのものを 素晴らしいと思いつつ
では この「逆」という意に 自分の人生にとってどんなテーマを求めるかというのを
自問してきました。
まず 思いましたのは 逆を 自分の意識が世界を走査しているイメージと
掛け合わせました。
崩残さんの文章を読んでいますと かならず 一方方向の着眼にとどまらず
その真逆のイメージも同時にして 事象を統合していく印象を受けるのですが
私は この発想というか 思考に とても美を感じます。
たとえば 無限大 と 無限小 を同時に見ている感じです。
無限大を見ると 同時に 真逆の 無限小を見る。
そのような感覚です。
あとは 私にはどうしても 逆のつくりの部分が
円周率の表記である「パイのに記号」に見えました。
ご存知のとおり 円周率とは永遠に割り切れないらしいですので
その割り切れないものを、しんにょう が包み込んでいくイメージを照らして
実生活に反映させようとしています。
「逆転」につきましては 来年●●が 出馬するのですが
選挙事務所にあったら かなり気合が入りそうだな と勝手に想像しています。
>でも、それって、一回、まず最初に逆境に落ちる、ということですよね(笑)
>それに、間違って「良好な時」になど、飾ったら、逆転して「落選」しそうですよ。
・料理店
できれば 彼女を連れて行きたいと思っています。
>私が今までに気にいったところを紹介させて戴きました。
・おわりに
自分の中の禅書 自我復元のテーマに関連するものについて書かせていただきました。
これだけ書いても まだおそらく あとで物足りなさが残るかとは思いますが
いくら推敲しても時間ばかり経ってしまい きりがありませんので
このあたりで失礼させていただきます。
これからも 世界に類を見ない素晴らしい書を
皆様に顕現されていってください。
*********
>次の方の感想には、私は、はっとさせられました。
>こんなにも、短い、無駄のない、しかも端的な言葉で、
>私が書に乗せて伝えようとしているであろうものを、
>正しく表現できている人は、
>この1年半の間で、今までで、はじめてでした。
>もしも、それが、私からの禅問答だったら、
>一発で正答した、というタイプの人です。
__________________
今、ここで、書かれているようだ
「書かれたもの」ではなく
たぶん、
いやきっと、
崩残さんが、ここにいるのだ
字が、生きてる
__________________
>その通りです。
>私が書いているのは、過去の時間の中ではなく、
>それを、今見ている人の、その、現在の中です。
>なぜならば私が筆を走らせているその瞬間には、
>時間という感覚は、存在しないからです。
>つまり、私の書は、「絵」なのではありません。
>瞬間を捉えた「写真」とも違います。
>それは、プレーヤーにかければ、何度でも音が出るレコードです。
>そこに記録されているのは、動きであり、動いた瞬間です。
>それを、もっと正しく言うと、逆説的ですが、
>そこにあるのは、
>「決して動かないもの」が、「動かない瞬間」です。
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