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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1445]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その179=」●無明庵の16年間の足跡●
by:
鈴木崩残
2010/12/14(Tue)20:14:37
【無明庵の16年の足跡】
>12/15−7:30更新
●この投稿は、数日かけて、少しずつ加筆しますので、たまに更新して
確認してください。
●そもそも、この話を私は、30分か40分程度のビデオで作って、
アップしようかとも思いました。
以前に話をしましたように、文章はそれを見て、
頭の中で各自が自分の主観によって意味をつけ、
その結果、内容が極端に歪曲される可能性があるのに対して、
論じている本人の声を通じたほうが伝わりやすいものがあるからです。
●しばらく、どちらにしようかと様子を見ましたが、
今回は、文で書くことにしました。
■さて、ざっとですが、無明庵の読者の人々は、
次の領域からやってきた人たちで構成されています。
1−精神世界のうち、悟りの事に興味ある人々=50%
2−精神世界全般に興味ある人々=20%
3−機能不全家族の出身者や依存症患者だと自分で思っている人=20%
4−私のセックスの問題の本から入った人たち=5%以下
5−たまたま、他の掲示板などで、知りあった人たち=5%以下
■1997年当時に比べると、
さすがに、随分と、「読者層」の種類が変化をしています。
我々の生は重要性を持つのか?
●何を論じようとするにしても、すべてはここから始まります。
そして私は安易に、人間の人生に意味や重要性があるなどと
決して言うつもりはありません。
そもそも、そんなことをどうして皆さんは疑うこともなく、
信じていたり、あるいは「信じようと」したりするのでしょうか?
私たちが生きている(と感じている)ことについて、
それが重要性を持つかどうかなど、一度たりとも、
明確な証拠によって、証明されたことはありません。
●この点に関して、最も悪質かつ、稚拙かつ、有害なものは、
宗教や精神世界の情報です。
それらは人、または人類が生まれてしまった後になってつけた、
すべて後付けの「理由」に過ぎません。
そして、もしも人間あるいは、人間以外の生物を含む全てに、
大した意味も重要性もないのであれば、あなたは何も真面目くさって
今日、そこで生きている必要もありませんし、
なんなら、あなたが自殺したところで、誰もそれを責めることなど
出来ません。
なにしろ、誰一人として、生命や人間に価値や重要性があるなどと
証明できた人はいないのですから。
いかに、それを叫ぼうが、ただの「主観」です。
●さて、生まれた後になって、いろいろな理由をつけては、
「死なない理由」を人間は捏造します。
しかし現実の事実だけを見れば、我々は何かの価値観によって
死なないのではなくて、「死なないように作られた空腹や痛みや恐怖」
によって死なないようにしているらしい生き物であるに過ぎず、
自主的に、死んではいけないと考えるほどの知性は、何も持っていません。
●まだ言葉も分からない子供が生きようとするのは、
別に、生に意味を見出しているからではなくて、
単なる生物学的なプログラムに過ぎません。
そしてそれは、結局は死ぬまで変わりません。
●全生物や、ことに、皆さんにとっては、身近な「人間の生」に
さして意味や重要性がないのであれば、
別に、食べて、性欲を満たし、生殖し、ちょっとばかり他人を愛して、
愛されて、その程度で、人生は充分ではないですか?
一体、何を大げさな価値観やら宗教など持ち込む必要があるでしょうか?
●しかし、思想がないはずの共産主義や無神論者でさえも、
人間性やモラルや、あげくには、社会的にどうあるべきかということを論じます。
そもそもそんな価値は、人間だけが口にしているだけであり、
むしろ、そのような価値観を製造しないと落ち着かず、
それによって、「何かの為に踊らされる側の立場にある」と考えた方が
ずっと整合性は成立します。
●生まれたあと、あなたには、さまざまな「人生のゴール」と称する
玩具あるいは麻薬が与えられます。
それはいろいろですが、世間的な俗に言う俗っぽい「成功?」から、
創造性やら、あるいは、何かの病理を心や体にもっていると、
それを克服しろと他人や社会から、言われ、挙句には、悟りだなんだと
そんなガラクタまで、鼻の先にブラさげられて、
ただの暇つぶし、または何かに困って、あなたは精神世界に首や足を突っ込みます。
●しかしですよ、そもそもあなたの生などに大した重要性もないのであれば、
そんなことであがく必要は何もなく、
生が嫌になったら、いつでも自殺する権利をあなたは持ちます。
これが確かな人間の生の目的だと反証不可能なほど、疑問の余地が
一切ないほど説明したものなど、申し訳ありませんが、
私の知る宇宙の範囲の中には、たったの一つもありませんでした。
●そうなれば、あなたは何も愛情など欲しがったり、与えたがる
という偽善、あるいは本能的なあがきをする必要もなく、
機能不全家族の、ボロボロのアダルトチルドレンで、けっこう、
トラウマだらけで、ヒッキーで、毎日死にたがっていたりしても、
全然全く構いません。
何しろ、最初から意味ないのですから。
何かに向かおうとか改善しようとなど、どうしてするのでしょうか?
●ところが地球上の人間の、99.999%以上が、
なんと、何の証明も確証もない「目的」に向かって、
だらだらと生き続けます。
挙句には、「生き続けることに意味がある」とか、わけわからんことを
言い出す始末です。
もしも、それを本気で言っているのだったら、
手段を選ばず、生き延びて、殺人でも盗みでもなんでもやれば
いいじゃないですか?
生存こそが最優先の目的であると、本当に信念を持っているのであれば。
●ところが、困ったことに、人間というのは、
どこかしらで、「自分は生の目的を知らないのではないか」
だとしたら、
「私は、間違ったことをしているのではないか」と思い込んだり、
あるいは逆に、
「自分は生の目的について知ったかぶりを出来ているから」
「正しいことをしているのではないか」などと思い込む始末です。
現実には、そのどちらも、結局は確証も保障もないのですがね。
●ですから、今一度、考え直すといいです。
あなたは、自分のことでも他人のことでも、
100%の確証はないままに、
何かが正しいように思え、何かが正しくないように思えている、
そういう生を生きているに過ぎません。
●しかし現実をよく見れば、実はその「正しい/正しくない」の
基準のスケールになっているものの多くが、
論理的な正しさによるものではなくて、
「不快か不快でないか」によっていることが分かります。
●分かりやすくいいますと、
もしもあなたが病気をしたら、やたらに楽しくなる症状が出たら、
その日から、病気は、人類にとって、悪とか、対決するものでは
なくなってしまうでしょう。
トラウマや虐待だってそうです。
殴られると気持ち良い、軽蔑されると心地よいという神経回路が
もしも形成されたら、その日から、それらは戦うべきものでは
なくなってしまいます。
つまり、私がここで言いたいことは、
地球上にある、もっともらしい倫理や宗教などは、
実は、正しいか正しくないかではなくて、そのほとんどは、
「自分が苦痛か、苦痛ではないか」という事を基準にして、
社会的に位置づけられているということです。
●ですから、人間の生に価値があると考えたり、あなたの生が
何かの重要性を持つとか考えてしまったのは、
その前に、そもそも、そういう価値観とは関係のない、
「快・不快」という単純な基準があるわけです。
●本人一人が、この上もなく快であるものも世の中にありますが、
たとえば、それが「最も洗練されたもの」が悟りであり、
それが「最も劣化した汚物」が、薬物中毒です。
どちらも、もしもその夢や快から醒めることがなければ、
本人一人にとっては問題は何も生じませんが、
ただ、周囲の社会や人間との関係の中で、
それは他者に苦痛をもたらす事がある、ということで、社会悪とされます。
●つまり個人のものであれ、集団のものであれ、
人間あるは生物そのものがそうなのですが、
そもそも、「苦痛をどうやって回避するか」ということに、
何万年も明け暮れているのです。
しかし、どうして、そもそも苦痛などを発生するようにしたのでしょうか?
この点に対して少しは知性があるならば、疑問を持ったほうがいいです。
●他の原始的な生物から、私たちに至るまで、もっとも根源的な苦痛とは
「空腹」です。
プランクトンを食べている魚でさえも、プランクトンが多い海へと
移動しようとしてあがきます。
つまり、生物や人間が、そもそも生存する中で、
毎日のように、空腹になり、性欲を感じ、挙句には、
やれ愛に飢えているだのと、もうそれは、不満だらけで、
いつも毎日、何かに不足感を感じている状態、、、
これ自体が、実際には、「既に異常な病気」です。
これだけ「異常なこと」になっているのに、
誰しもが、そんな異常な事態の中で、
人生の価値やら、改善すべきなんたら、かんたらや、
あげくには、生の目的まで、分かったような気になっています。
さて、この話はいったんここまでとして。
人間のスタートラインは同じか?
●皆さんは、人間の個々の人生のスタートラインは、同じで、
そのスタートでは平等だと本気で思ってなどいないですよね?
何しろ、まず最初にある不平等は、遺伝的なものです。
つまり、あなたが親から受け継ぐ、容姿や身体の遺伝的な部品です。
次に、あなたが飢餓が蔓延している地域に生まれれば、
あなたは、わずか数日や、数時間しか生きないかもしれません。
あるいは、たった1年の生、
どんな意味をあなたはそこに偉そうに言うのでしょうか?
●次に、人は、もしかすると、目が見えなかったり耳が聞こえなかったり、
足がなかったり、手がなく生まれるかもしれません。
もしも自然界の法則に従えば、
通常そうした動物は、生きることは出来ずに、死ぬのが自然であり、
それが自然淘汰の原則ですから、
人間社会のように、相互に助け合うというのは、
もしかしたら、とんでもない間違いをあなたはやっているのかもしれません。
●人間というのは、スタートラインは同じなのでしょうか?
たとえ、生まれた環境が違っても、精神だの魂と呼ばれる何かは、
場所や時代や、親に関係なく、平等なのでしょうか?
そして、それに違いが出るのは、
育った家庭のせいだったり、教育のせいだったり、
その地域の環境のせいだったりするのでしょうか?
●つまり生まれたときには、全員が、少なくとも意識とか、
自我とか、そういうものにおいては、平等に同じ資質をもっていて、
あとは、育った環境や本人のせいで、大きな違いが出るのでしょうか?
一見すると説得力がありそうに見えますが、そんなものは、
とんだ嘘です。
●私見では、身体や家庭環境という変数のあるものではなくて、
最も基礎となる、意識、自我、すら、生まれた段階で個々に既に
違います。
というのも、たとえば、
同じ親を持つ家庭環境の中で、子供が6人いたとします。
二人兄弟あたりですと、上下関係から変な差別意識が生まれる場合が
ありますので、まー、6人ぐらいにしておきましょう。
ところがその6人は、全く違う人生を歩みます。
単に方向性や運命が違うだけではなくて、
自我の表れや、才能や、資質、あらゆる面で違ってきます。
ではそれは本人の努力によるものでしょうか?
もしも本人の努力や意志によるものだったら、
どうして、その「努力や意志そのもの」にすら、
既に、バラつきがあるのでしょうか?
同じ親、同じ家庭環境であるというのに。
●また、たとえば、3歳か4歳までに感じたり教育されたりすることが
その子供の一生に影響するという「俗説」あるいは脳科学的な根拠を
疑うこともなく信じている人がいます。
●しかし、私はこの半世紀の間、あるいはもっと長いスパンで見れば、
この千年の歳月の中で、
個々の家庭や、国の事情によって変わったのではなくて、
人間という種全体が、ひどく劣化したと見なしています。
つまり、家庭環境がその直接の原因とは全く思えません。
なぜならば、子供が4歳ぐらいまでの「家庭環境」というのは、
近所の子供を別にすれば、家庭内での親子関係というのは、
それほどには、大きく変わっていないからです。
特に3歳ぐらいまでは、同じ子供同士も含めて、
社会的に他者と接するよりも、兄弟や親と接している時間が長く、
その生育環境というのは、
極度に虐待する親や、極度に過酷な環境でさえなければ、
おおむね、この千年の間に、目だった違いなどないからです。
つまり3歳までの親子関係には、
世界的にみても、時代的にみても、そんなに大きな変化はないということ。
●劇的に、あるいは、急激にこの数百年で変わったのは、
子供が、保育園や幼稚園に入った後の社会環境です。
となれば、3歳か4歳までの環境が子供の一生に影響するという
説は怪しいものになります。
もしも本当に一生に影響するのであれば、
どの子供も大人になったときに、それほど基本的な人間としての
資質に差は出ないはずです。
●ところが現実には、すでに1歳の段階で違いは生じます。
否、私に言わせれば、生まれた瞬間からです。
さて、人間ばかりでなく、動物の世界にもむろん平等などという
幻想はありません。
ことに哺乳類は個体ごとに違いますし、群れになったら昆虫や魚も
群れごとに違います。
●この生まれつきの「不平等性」について、
それを美化して、頑張って生きろと、勝手に他人様の尻を叩く
そういう下品なことをするために生まれたのが、
「でも、でも、きっと人間の中の、何かは、平等なんだ」と
思いたがる悪癖です。
しかし、本当にそんなものがあるのでしょうか?
もしもあるとしたら、それは、
それこそ、喜怒哀楽や、死を回避しようとしたり、
空腹や性欲に苦痛を感じては、それを回避するだけという、
恐ろしく「本能的なプログラムだけ」です。
そういうものしか、「共有できる、平等性」などありません。
従って、自我はスタートラインでは平等だとか、
意識の質は誰もが同じだとか、そんなことを裏付ける証拠は
どこにもありません。
●では、一体、何が最初から個別に違うのでしょうか?
ここで、もしも転生という話を持ち出してしまうと、
いきなり、アホみたいに、何もかも「前世の業」で済ませようとするのが
いわゆる、カルト信者らです。
そのように他人や自分に対して言って納得しておけば、
この、生まれつきの「不平等性」に対する説明にでもなると
彼らは単純に思い込んでいるようです。
まー、とはいえ、世の中の霊能者の99.999%も似たような
単細胞なことを信じているわけですがね。
●しかし私は、生のスタートラインを決めるのは、
前回の生の行いや、その「記録」ではなくて、
そうした経験を通じた「意志による契約の違い」としか認識していません。
つまり、前世で人を殺そうが何もお咎めはなく、
前世なるもので、自殺しようが何もお咎めはなく、
あるいは前世で、どれだけ人を助けようが、
何の高徳もなく、何の見返りもなく、
「行為それ自体」は、次の生には「連鎖しない」というのが私の理論、
あるいは(私の主観における)経験的な知識です。
●何をしようがどう生きようが、それをご丁寧に、
次の生に連鎖したり、因果関係を持つなどということは、
私の視点からは見えません。
そうではなくて、もしも我々が違う生を何度も生きているとしたら、
その生の経験の結果として、「次は何を選択するか」という
その選択に違いがあるのみです。
前回の生で、何万もの人を殺して、それがもう一度やりたいほど
面白かったのでしたら、次は何十万も殺せる環境に生まれればいいのです。
何も、罪滅ぼしに、次は十万の人々を助けなければならないとか、
そんな、チープで安っぽい演歌みたいな宇宙など、私は見たことがありません。
私が知る宇宙の中の生とは、
まさに、「汝の欲するところをなせ」のみです。
●ようは、一つの生の結果として、「次はどうしたいか」ということ、
それがその次のあなたの生を決定する「契約内容」を決めさせるのであって、
そこに、何かや誰かが、あなたがどこかの正しい方向やら
進化という幻想やら、間違いを正すために、いちいあなたを
罰したり、褒めたり、報酬を与える
そんなことは、あり得ません。
宇宙や、そこに住む「人間以外」の存在たちは、
そこまで「ド暇」じゃないですよ。
皆さんは、いくらなんでも、もう少し、頭を冷やしたほうがいいです。
●生の選択に関しては、
欲深くなれる人と、そうでない人がいるのみです。
望みをはっきりと出来る人と、そうでない人があるのみです。
たとえば、希釈自我という「容器」を選んでしまったとしたら、
それは、悪い意味で、欲がなかっただけということです。
本当に、美味しい味を知らずか、あるいは忘れてしまって、
妥協して、粗悪品で手を打った、それがあなたが望んだことだったに
過ぎません。
●つまり、個人が、あくまでも明確な意志を維持して、
より貪欲に生の多角的な経験を求めるというのが、
本来は、自我あるいは自我を持たなくても生命に付与された
一つの娯楽(あるいは悪趣味な拷問・または労働条件)でした。
結局のところ、私に言わせれば、生から生の中間にある死とは、
ほとんどの人にとっては、「再契約」の為の空間です。
どう生きたかということは、変なモラルや、
宗教的な価値観で、あなたに「点数」をつける誰かがいるわけではなく、
また向かうべき「進化の方向」なるものがあるわけでもありません。
(あったとしても、それは、
その集団や種族内部だけで、可塑的に作られたもの。)
●そうではなくて、
>死後の領域とは、単に、あなたが前の生の経験を通じて、
>次は何をしたいのか、何をしたくないのか、
>それを「決定する場所」であるに過ぎません。
むろんそれを決定するのは、生の期間をどう生きたか、感じたかにより
無限に近いほどの個人差が出ます。
>ただし、そこには正しい選択や間違った選択などないのです。
>問題は、明確な選択を出来るかどうかだけです。
●しかし、ここで希釈自我、自我の分割という大問題が発生したわけです。
人間以外の何者かによって、勝手に希釈されてしまった自我は、
その「次の生の選択権」に必要な、主体性を伴う意識を、
極端に減衰させたのです。
続く
____________________________
●ちなみに、生存していて、事象を経験する側の私達が、
何をどう勝手に重要であると思ったり、価値や意味をつけても、
私達を作物として認識している側からすれば、
そこに善悪など存在しません。
私達を製品原料として収穫する側からすれば、人間が愛情や
楽しさを感情として発散しようが、憎悪や悲しみを発散しようが、
どちらも製品成分として仕分けされるだけで、どちらが良いか
などという問題はありません。
ただ、経験している側の私達がそれを苦痛と感じるか快と感じるか
だけの話です。
収穫する側の彼らは、そのどちらからも製品(薬品)を作り上げます。
宇宙の持つ根源的依存症
●さて、実に奇妙な話なのですが、
生命のほとんどが、実は「依存症」によって成立していることは
明白です。
たとえば、みなさんが最も自然で当たり前だと思って疑うこともしない、
食という現象。
食べなければ、空腹という形で苦しくなることを当たり前のことだと
信じて疑わないのですが、果たしてそんなに自然なことでしょうか?
私はそうは思いません。
生命を設計する立場にいる者(知性)であれば、
何も今日、我々が地球で見るような食のシステムや、
あるいは、弱肉強食のシステムは、必要ありません。
どうして、動物たちは、毎日、いちいち、他の生物に噛み付いて
殺して血肉を食べる必要などあるのでしょうか?
むろん、違う食物連鎖システムを持つ生物もいますが、大半は、
弱肉強食という奇妙なシステムによって作られています。
草食動物でさえも、植物を殺すわけですから。
●このシステムが当たり前だと思っているとしたら、
相当に感覚がずれていると私は思います。
むしろ、弱肉強食それ自体が重要なのではなくて、
収穫者、あるいは人間の設計者の側からすれば、
それによって得られる効果、つまり、恐怖や闘争といった感情を
増産したいがために作ったシステムと見たほうがいいです。
●さて、もしもこの宇宙を依存症という目で観ますと、
第一次的依存症は、「生存への依存症」であり、
これは、宇宙全部に蔓延していることになります。
それは、宇宙のどの次元であっても同じ依存症にかかっていることに
なります。
逆に言えば存在しなくてもいいもの、あるいは、
存在しても存在しなくてもいいもの、に対して、
「存在しつづけることが必要だ」と考えた時点で、
すでにそれを考えた者は、生存依存症、あるいは存在依存症に
陥っているということです。
それは、たとえ、我々のような食を摂らない次元の生物であっても、
あるいは、どれだけ高次な世界の住人であっても変わりありません。
生存するのに、かなりの苦労と苦心をする立場の生物であっても、
そうでなくて楽々と生存していても、どちらでも、
生存していること、存在していることに、
価値観の比重が傾いた時点で、「生存依存症」です。
さて、
第二次的依存症は、よくご存知の空腹を生ずる食の依存症というやつです。
第三次的依存症は、人間または知的生物にのみ固有のもので、
これは、思考しないでいると、妄想が暴走するという病理、
つまり、「思考依存症」です。
そしてこれ以下の、第四次的依存症が、
一般には、「依存症」と呼ばれることになります。
「一般的依存症」については、ウィキの「依存症」の項目を見れば、
たんまりと出てきます。
●つまり、宇宙それ自体を、「生存依存症」と見る視点に立てば、
それ以下の各種の依存症は、単にレベルが違うものであるにすぎず、
「それなしには、苦痛を生じたり、落ち着けなくなる」という、
広義な意味では、すべて依存症に陥っていると言えます。
ただ、冒頭にも言いましたように、依存症に陥ると、
いつのまにか、それが当たり前であったり、あげくには正しいこと
とすら思い込む悪癖を、我々は持ちます。
この場合の我々というのは、地球やこの次元の人間だけではありません。
そして、これは無明庵の本には既に書かれていることですが、
とりわけ地球の人類というのは、
新しい、「飢餓中枢」や「新しく作られた苦痛」をよく感じるように
さまざまな改良を施されたわけです。
昆虫たちは「寂しさ」などほとんど感じません。
一方で、哺乳類になり、さらには人間に至っては、
寂しいという感情を発生するわけですが、
そのどこが「高度」なのでしょうか?
それは高度???なんでしょうか?
いえいえ、高度なのではなくて、脆弱で、痛みやすく、
その結果として、食に飢えるという事でさえ、大変な毎日なのに、
その上、それ以外に、毎日のように、食以外の問題にも
「心が飢え続ける」ただの「不安感情と苦痛」の「製造機」が、
「人間」や「人間社会」であるに過ぎません。
無明庵の足跡
●では、この宇宙に生まれ、この区画に生まれ、
この銀河系に生まれ、この太陽系に生まれ、この惑星に生まれた
この私達は、ここに、一体、どうすればいいのか?
それが結局のところは、唯一の問題です。
ただ実はそのどうすればいいのかという問題には、
集団的にどうすればいいかという価値など存在しません。
「被造物」あるいは「被験者」「または製品原料」である我々の立場からすれば、
可能なかぎり、身体的な苦痛や、葛藤や、心理苦がない状態で
生存したいと思うのは、当然のことでしょう。
一方で、製造者の立場に立てば、
人間により負担のかかる苦痛を与えて、
我々という製品の味を「甘くしたい」と思うのは当然でしょう。
それは人間がそのような農法で、トマトを甘くしようとするのと
同じです。
あるいは音楽を聴かせて、餌を工夫して、牛肉を美味しくしようとするのと
全く同じことです。
我々が経験することが苦痛であれ、快感であれ、
工場、あるいはこの惑星という畑のオーナーは、
ようは、人間という製品に味が出ればなんでもいいのです。
●さて、無明庵がサイトを開設したのは、1997年です。
むろん、庵そのものは、それ以前から存在していましたが。
私も記憶が曖昧ですが、1997年からの7年間、
おおよそ、2002年か2003年までは、
無明庵が扱ってきた問題は、意識の変化(平たく言えば悟りの問題)と、
もうひとつは、性のシステム化です。
この性のシステムの完成というのは、もともとは、
瞑想者のみならず、社会にとって、それが正常な快楽をもたらすものに
修正されなかったらば、社会や家族や、個人に、
もっとも「歪んだ」精神状態を作り、
結果として、
瞑想などしようとしても、性欲が完全に失われる「老い」が来るまでは
一生それに無意識的に振り回されるとの認識からです。
そしてそれは事実、多くの人々が、思考さえも一時的にとめられない
ということぐらいに、普遍的な病理として私には思えました。
ちなみに、世の中の性犯罪の多くは男性が引き起こすものですが、
それは刑事事件になる暴力的な性犯罪を引き起こすのが
男性であるという意味に過ぎず、
性に飢えて、性という世界を、間接的にゆがめている点では
男女両方に差はありません。
不注意に、思慮もなく、ただの欲求不満の性欲からとか、
もっと優しい男性に甘えたいから、という理由で、
男性を挑発したり、セックスに誘った時点で、
女性もまた、性の混乱に加担している点では「同罪」です。
●そこで、1997年から、おそらくは2005年あたりまで、
「梅の間掲示板」は、セックスの問題だけに特化した掲示板でした。
その過去ログは、今もこの掲示板のログにあります。
一方で、現在は更新を中止している「竹の間掲示板」では、
2001年か2002年ごろまでの7年か8年間は、
悟りの問題を主に中心にして話を進めてきたのですが、
やがて、「機能不全家族」「アダルトチルドレン」「依存症」などの
問題に論点を絞る話題が増えました。
●これも実は、元々は、瞑想者が、それ以前に問題をかかえていて
全く瞑想になどなっていないという問題が、そのそもそもの発端でした。
つまり、性の問題の解決も、機能不全家族の問題も、
そもそもは、それ自体を研究することが私の目的ではなくて、
それがあるかぎり、瞑想をしているフリをしている人たちは、
決して、その先には進めないという「必然的な障壁」を、
どうにかしなければならない、という事がその作業の発端でした。
●そして2008年ぐらいまでの7年間には、竹の間には、
膨大な量の「機能不全家族」に関する記事があります。
ただ、当初、私はその問題解決の方法の基礎には、
「誰もが、そこから這い上がる事が可能な意識の中心を持つ」
という考え方があり、それによって、やっていました。
ですから、読者の皆さんが、
死人禅の行法を続けつつ、その効果によって、
各自にとっての優先されるべき問題を浮き彫りにして、
生活上の問題に対しては、精神世界の理屈で逃げずに、
まっこうから直面すれば、なんとか解決できる道はあると、考えていました。
●ところが、過去30年、あるいは過去半世紀の、
精神医学やセラピーがやってきたことを見れば、
彼らが全く何ひとつも解決できなかったに等しいことが明白になります。
実際に薬物を使わずに、カウンセリングや家族や周囲の協力によって
完治できたトラウマや、精神の歪みなど、
ごくごく一部の「ある意味では、幸運すぎる異例」とも言える事例のみであり、
そこから、立ち直れたのは、その子供やその人が、
それこそ、もともと1/2自我以上だったからだろうとしか
言いようのない事例の方が遥かに多いのです。
つまり劣化が起きたのは、
各家庭の教育や親の子供への態度によってではなくて、
人類全体の、自我の「基礎体力」のようなものに劣化が起きているのです。
●そもそも「癒されること」と「完治すること」は全くの別問題です。
私が世間にある「癒し」という言葉を、
「卑しいもの」として拒否する理由はそれです。
もともと、薬の目的、特に人類史上「最も古い薬の効能と目的」とは、
「麻酔=痛みの一時的な緩和」です。
その間に、自然に回復することを待つか、外科的な処置をする
それが医療の目的でした。
もともとは、まず患者の痛みを取る、それが医療の根源であったので、
その意味では、
「麻酔」に類する薬物で、痛みを緩和するのは悪くないのですが、
問題は、それはあくまでも、完治の為の最も初歩の手段であるにすぎない
ということです。
従って、癒しとか、痛みの緩和は、次段階の治癒を含んでいなかったら、
ただの甘やかしと、薬物中毒患者を生み出すだけです。
●そして、数年間、私は、ネット上でいろいろな人たちの
機能不全を観察し続け、実生活の中でも何例も、直接にそうした
問題を抱える人たちと、接して、おそらくは結果のレベルだけで見れば、
ネット上では、実際に私が直接の手助けは出来ませんでしたが、
特に、現実の生活の中では、一級のセラピストや医師と同じ結果を出してきました。
ただ、問題だったのは、各事例に共通する原則もあれば、
共通しない原則もあり、
問題の根本を見つけるのでさえも、数ヶ月から数年かかることも
あったことです。
●特に、私が霊的な視点を全く持ち込まずに、
この世界の理屈だけで、カウンセリングをしてしまうときに感じた
限界は、「トラウマの連鎖」です。
両親、または両親のどちらかが、精神的、あるいは心理的病理を持っていたから、
その子供であるあなたが、それに感染したり、
それに影響されたのは当たり前のことですが、
しかしですよ、実際にその原因を調べようとすると、
私は常に、皆さん(現実に私に接した人たち)の両親の両親を観察しなければならず、
さらには、多くの場合には、
「何代も前のその人の家族の職種、生活環境」や、
「何代か前の家族全員の性質」を、
調査できる範囲で調べないとなりませんでした。
むろんそのすべてを調査することは不可能ですし、
生き残っている人の側の「勝手な言い分や嘘」も多くあります。
何が真実なのかは、タイムスリップでもして、
その人たちの家族の先祖が何をしていたのかでも見るしかありませんが、
そんなことは不可能です。
●結局のところ、あなたの親の人格を作ったのは、あなたの祖父母であり、
その祖父母もまた、特定の生活環境や幼少期を持っていたわけです。
そうした連鎖から、アダルトチルドレンや、トラウマの問題が
延々と、「連鎖し続けている」ために、
どこでどうやってその連鎖を断ち切るかとなった場合には、
たとえば、皆さんのうち、
もしもそうした問題を抱えている人がいたら、
実際には、あなた一人に対してではなくて、
私はあなたの家族全員を説得したり、カウンセリングしなければなりません。
これは一般的な普通のセラピストでさえ、本当は同じなのです。
「その家族全体をどうにかしなければ、どうにもならない」というのが、
まともなセラピストたちが行き着く「結論」です。
だから、ただのグループカウンセリングではなくて、
「家族カウンセリング」が必要になってしまうのです。
●そして、どうにもならない「最悪の事態」での唯一の「一時避難」が、
その家族から、「離れること」でした。
これだけは、なんとか、ぎりぎりで「普遍性」を持つ手法でした。
問題が起きている環境からいったん離れて、一人になる、
これ以上に人の中に自立的な精神を取り戻す方法はありませんが、
ただし、誰も指導することなく、不注意にそれ(孤立生活)をすれば、
親との依存関係を、
今度は「家族とは関係のない他者や異性」に、無自覚にぶつけはじめます。
だから、私は一時、次のような決まり文句を言うようになりました。
「そういう御託や文句は、私にではなくて、あなたの親に言いなさい」です。
●ですから仮になんとか、あなたが親から独立して、一人住まいをして、
生活費もちゃんと自活できたとしても、
自分と家族の間にあった問題に向き合えなければ、
結局は、異性やセックスや、ギャンブルや、精神世界や、
ゲームやネットに逃避し続けて、
心理的な麻薬を打ち続けているのと同じ状態に陥ります。
●問題があった家庭出身の人が、自活と自立しようとするのは、
その自活それ自体が、最終目的なのではなくて、
また安易に、親と和解すればいいという問題ではなく、
また、「もうこれで親とは、おさらばだ、ざまーみろ」
で済む問題などではなく、
「あなたは、隔離病棟を得られた」ということにすぎないのです。
そこでは、「自分一人で自分を治療しなければならない」のです。
●しかし、この、当たり前の方法にすらも「限界」がありました。
有料購読という期間
●2005年か2006年ごろでしたか、
一度だけ、無明庵のサイトに「有料購読」という敷居を設けたことが
ありました。
もともと、それをしたかった最大の理由は、
不特定多数ではなく、限定された特定の人たちだけと交流することで、
よりマニアックなことを私が表現したくなったからです。
常に、閉鎖的で、狭い空間でしか、生まれてこないものがあるからです。
その時期には、個人個人で、私が良いと思った数人の人たちからは
個々の相談を受けたこともありましたし、
そうでない購読者の人には、なるべく表では私が話さないような
話をするようにしました。
ただ、気楽な世間話も多く、すべてが「秘教的」だったなどという
ことはありませんでした。
ただ、少なくもと、限られた人たちだけがそこにいたことで、
私が見つけようとしている、問題の原因が、炙り出されました。
その結果が、「宗教に汚染された地球人」というCD本です。
あの草稿の原動力となったものは、
有料購読をしていただいた皆さんのおかげで出来たものとすら言えます。
そして、無明庵の歴史の中で、始めて「自我の分割」という
現象の概念の説明が登場しました。
●もしもAC問題や、機能不全家族の解決について、
当時の無明庵がどう立ち向かおうとしていたのかを知りたければ、
「悟りなき悟り」というCD本を読めば分かります。
その前半部は「瞑想する以前の基礎工事」について書かれていますから。
そして、「虚無の微笑」の後半部でも、私は単に、
まだ、悟りの問題しか語っていませんでした。
しかし、事は「宗教に汚染された地球人」から急展開しました。
無明庵の足跡を簡単に言ってしまえば、次のような時期に分かれます。
1−悟りの問題に特化していた時期。
【意識の問題】
2−その為の瞑想を妨げる、性の問題解決に特化していた時期。
【身体と感覚の問題】
3−それをさらに妨げる機能不全家族の問題解決を模索していた時期。
【記憶の問題】
4−宇宙の中で、その全体構造から観た場合の、
地球と地球の人々の位置と立場について特化していた時期。
【我々の住む環境としての、地球の過去と未来の問題】
5−そして現在、自我復元という問題に特化している時期。
【分割自我の復元の問題】
つまり、気がついてみれば、とても長い歳月はかかりましたし、
あくまでも結果論ですが、かなり、構造的で、論理的に、
「意識、自我、記憶、身体」の問題を、それぞれそれに特化して、
ひとつずつ、年数をかけて、丁寧に順々に処理してきたわけです。
_____
禅書道と自我復元
●実は、裏話なのですが、
一体、私が、いつ、何をきっかけに、「復元法」を思いついたのか
自分でも思い出せません。
私は、たいがいのことは、記憶を辿れば、そのきっかけを思いだすことは
出来るのですが、復元法ばかりは、その発端を思い出せないのです。
どこかの他所の宇宙や次元の誰かと、相談をした記憶もないですし、
そうした世界の誰かが、私に助言をくれた、という記憶もありません。
あまりにも記憶が曖昧であるので、同居人の砂手にも、
「いつごろ、私は復元方法について、生活の中で言い出したか?」と
質問したのですが、明確なきっかけは、分かりませんでした。
確かに、一ヶ月ぐらい、毎日のように、来る日も来る日も、
復元方法を模索して、探していた時期はあるのですが、
何をきっかけに、突破口が見つかったのかを思い出せないのです。
●書を書く場面を収録した、DVDの「無心の禅書」の10巻の時点では、
自我の分割は、死んだあとでしか、修復したり合成できないものとして、
結論していましたので、
改善方法もないのに、自我の希釈率を調べることなど、受け付けません
と、きっぱりとあのDVDの中で私は言いました。
●しかし、修復の方法が見つかったことから、
私は、分割率の判定を受け付けるようになりました。
といっても、注文された方たちは、よくご存知のように、
その作業の場面になると、
今まで禅書を楽しく書いていた私とは一変します。
禅書は、楽しく雑談をしながらか、皆さんに調和する字に
仕上げてゆく工程ですから、それはある意味で楽しいものでした。
●しかし、自我判定の場面では、私は、黙ってしまいます。
たぶん、多くの人たちのDVDの中で、私は、黙ってしまい、
黙々と、いろいろな数字や円グラフを紙に書いては、
「難しい。これは、判断が難しい!」と、唸っていると思います。
可能なかぎり、正確に出したいものですから、
四分の一とか、八分の一といった、ざっくりとした区分けではなくて、
今では、結果として、
5/6自我から、1/10自我まで、
細分化された区分けが、その判定結果にはあります。
●しかも、その判定をしてるのが、なんとただの筆です。
ただの自動書記ですよ。
自分でやっていて、たまに引いて見ると、苦笑してしまいます。
そんなもの(自動書記)を信じること自体、
私自身も、そして依頼する皆さんも、
ある意味では、異常で、電波なことだと、私自身ですら思います。
しかし、私は本気ですし、大真面目です。
そして、皆さんも本気です。
●しかもその上、判定結果を踏まえて行う、「復元作業」が、
これまた、今までの私の論調からは、かけ離れて、
非論理的ですらあり、「電波すぎる」ものです。(ここでは詳しく言いませんが)
ところが、その結果たるや、16年も、いろいろなことをして、
いろいろな人と接して、限界まで努力と気力を投じて、
困っている人の心理的な苦痛を、どうにかしたいと思ってきた方法の、
そのどれよりも、根本的で、基礎的な解決に向かっているのですから、
私自身が、面食らってしまいますよ。
●それまでの無明庵の方法論、つまりは、
瞑想だの、カウンセリングだの、あるいは整合性のあるメソッド、
または、世間的にも、ある程度、その価値が認められていたり、
効果がありそうに世間の人たち思っていた、いろいろな方法が、
すべて、実質的解決法としては「壊滅状態」であったのにも関わらず、
この、現在の精神世界という分野では、
最も、信頼の置けない「自我の分割」という、奇異すぎる概念と、
最も、信用などできないように思えるトンデモない経路を使う「復元法」、
それが、この約半世紀の人生の中で、
精神世界やオカルトや、魔術、瞑想、その世界のほとんどすべてを
見てきた私の目には、
今までの中で、「最も目に見える効果」があった、
人間の「変化法」だったのです。
実に、皮肉なものです。
また、生命経験というのは、つくづく何が起きるか分からないものです。
●ただし、むろん、私は今でも、人々には瞑想も重要だと思いますし、
セックスもちゃんと皆さん経験すべきだと思いますし、
家族との問題やトラウマは、解決すべきだと思います。
ただ、それを、解決する資質としての知性や記憶、
自主性を死守できる「自我」や、
さらには瞑想に必要になる「意識」は、
あなたが「生まれたあと」になって、なんらかの理由で失ったものではなくて、
生まれた最初のスタートラインで、既にトラブルと問題を抱えていた、
というのが事実です。
ですから、80年の人生で、どれだけの努力をして、奮起しようが、
どうにも解決できない問題が、貴方の中には残り続けた、ということです。
●ですから、何を標的として、人間の生を生きたり、
あるいは、この次の生では、地球の人間の生を選択しないのであれ、
あるいは、どこか他所の天体で、悟りを目指すにしろ、
あるいは、この地上で、感覚と欲望を、むさぼるにしても、
どれも、ひとつも間違ってはいません。
ただ、そのどれを皆さんがするためにも、
自我が原型の状態でなかったら、すべては中途半端に終わります。
そして、そのような状態で、もしも、「次の生」があるのであれば、
その生は、もっとも惨めな中途半端なものに希釈される危険性を
孕んでいるということを、私は警告しているのみです。
●無明庵という場所は、修験道の寺や、出家僧しか受け入れない寺を
別にすれば、
そもそも、精神世界の中で、もっとも排他的な場所でした。
言われたことが、出来ないなら、来るな。
経験できないならば、信じるな。
分からないならば、早く去れ。
そして、
そんな貴方のことは、私たちの、知ったことではない。
というのが、2008年まで一環したスタンスでした。
また、本来、「その道」は、そうであってしかるべきものでした。
●実際、悟りということを問題にするならば、
その点は、今も何も変わっていません。
その段階の手前に来ている自我の人など、この世界には、ほとんどいません。
●しかし、それ以外の、性の問題や、心理苦、そして
さまざまな、無駄な努力と、不毛な成果については、
それは、私は「あなた個人の責任だけではない」と断言しています。
むろん、希釈自我を、生まれる前に、乗り物として選択した本人に、
責任は全くない(責任ゼロだ)、というつもりはありませんが、
ただし、そんなものを画策して、準備して、
それをあなたに売った方は、あなたのよりも100倍も悪質です。
●それに、それ(いったん分割されてしまった自我)が、
その後、どれほど危険なものであるかについては、誰一人として、
警告もしなかったり、注意書きもも書かなかったのですから、
その希釈された乗り物を、人々が選択してしまったのは、
「無理もないこと」なのです。
私ですら、もしも知らなかったり、運が悪かったら、
分割された自我を生まれるときに、選んでしまっても、
何も不思議ではありませんでした。
たまたま私は、目的が明確に決まっていたので、
生まれるにあたって、
「どうでもいいこと」などは、何もなかったのです。
●生存する「時代」をどこにするか、
この日本という「場所」を選ぶこと、
私が接するべきだった、「日本人」という人たち。
今回は、「男性」というこの肉体を選んだこと、
何人のどういうタイプ別の女性と、
その後、本を書くために何を目的として付き合うか、
経験したことを、文章として書くという性質、
母親が書道家だったという環境、
基本的には、悟りという分野の抱えた問題点について修正すること。
そして、ちょっとした娯楽として、
人間たちの素敵な笑顔や、笑う顔を、もう一度だけ見たかったこと。
●それらのすべてが、
私には「これは、こんなもんで、まー、いいです」という
契約内容ではなく、細部に至るまで、その契約は、はっきりとしていました。
そして、選んだ乗り物は、
ある意味では、生きている期間、最も苦しむことになるリスクのある、
全自我の器でした。
●というより、全自我「以外」のものなど、
自我の形態として、私は知りもしませんでした。
つまり、地球で、自我が希釈されている人たちが蔓延していたことなど、
つい最近まで、知りませんでした。
地球には、連続的ではなくて、「定期的に」何度か生まれた記憶がありますが、
こんな、不正行為の現象を、目の当たりにしたのは、始めてでした。
私は、今回の自分の生を、
とても「個人的な動機」による、私個人の旅行だと思い込んでいましたが、
この自我の分割という「事件」を調査するために、
誰かから送り込まれたのかもしれないと、少しですが思えてしまいます。
ただし、もしもそうだったらば、
もっと早期に、20代か30代のころの私が
発見していてもいいはずですから、
やはり、それは、「偶然に出くわした、犯罪現場」だったようです。
●そして、今、私が言えるのは一言だけです。
どこかにいる、誰かが、人間の自我を、分割などしたために、
1−【せっかくの、スリリングな、自我体験ツアーを、台無しにしやがった】
2−【人が悟れる可能性すらも、台無しにしやがった】
3−それに加えて、地球の薬品を買っている側のクライアントは、
その品質の低下に、どこかしら疑念を持っているでしょうから、
【地球の管轄よりも大きな組織に、訴えてやたい】
さらには、いったん、人口を現在の20分の一に減らしてから、
現在の、死後の世界のある「精製工場のプラント」を止めて、
今後、全自我以外の器は、地球では、作れないようにしたい。
ただし、これらは、具体的な方法が、今は分からない。
もしも、こんなことが本当に出来たら、現在私が予測している、
300年後の地球の未来は、完全に変わってしまう。
現在の予測では、希釈自我はそのまま残留していまうからです】
ということで・・・
●今回の、長い話は終わりです。
今の私には、無明庵の初期にそうであったような、
「切り捨てるべき人々」など存在しません。
ただし、準備も整ってもいないのに、
悟りたいとか、今に至ってまでも、
そういうことに憧れている人だけは、私は、今でも切り捨てます。
それ以外の人たちは、たとえそれが、ゾンビであっても、
1/8自我であっても、
私がそれらの人々を切り捨てるべき理由などありません。
ただ、唯一、切り捨てるとしたら、
>「自我復元」を、出来ない人、やらない人、興味のない人、否定する人、
>これらの人たちのみは、私は、拒絶し、切り捨てます。
ただし、私は自我分割の論理を理解しろとか、信じろなどと言いません。
そんなことを、本気で信じられるほどに、
霊的な感性と知性のある人など、ごく稀にしかいません。
ですから、存分に「分割自我・希釈自我」の存在を疑っていて、結構です。
嘘だと思っていて全く構いません。
どうせ、それは、あなたが、今も、
本気で信じきっている、神仏やら、世の中の不可思議現象と、
大差のない「トンデモ」な対象なのですから。
どっちがトンデモな、怪しい話なのか?といったら、
私に言わせれば、宗教や精神世界が、あなたたちに言った、
霊的法則や、魂の進化という嘘や、創造神話のほうが、
よっぽど馬鹿馬鹿しくて、稚拙な内容です。
もっとも、そんなものを皆さんが信じるから、
既存宗教もカルトと同じで、信者や自称教祖らの精神構造自体は、
対して変わりないな、と私は言うのです。
ですから、私の言う「自我分割理論」には、
疑念を持っておおいけっこうです。
●ただし、生というものに対して、やる気がまだあるならば、
復元を、やりなさい、と私は言うのみです。
概念や、事実として、それを信じることなど必要ありません。
とにかく、やりたい人は、やりなさいと言うのみです。
そもそも、今まで、一体いくつの「保障の全くないもの」を
あなたは、信じてお金や、時間をつぎこんで来たのでしょうか?
どうせ、やるならば、同じように、とても怪しく、
全く、クレイジーな、無明庵のこの「自我復元」方法を、
あなたの人生のリストに、ひとつぐらい加えておけばいいのです。
それで効果がなければ、「効果なかった」と判断して、
他の所に、どんどん行ってください。
私としても、復元に現在向かっていると思われる、人たちとだけ、
メールなどで情報交換をしたいですから。
実際に、私が見ますと、復元が始まっている人たちがいます。
その人たちとの情報交換は、
私にとっては、時間の無駄にはなりません。
そして、自我判定でなくても、
注文された文字の禅書を書くことは、
今の私にとっては時間の無駄にはなりません。
●ですから、「希釈自我」の「論理背景」など、信じなくてもいいですから、
まずは、「やる」ことです。
これでは、困ったことに、
まるで、そこらの宗教の文言と変わりないのですが、
まー、「自我復元だけ」に関しては、よしとしておきます。
宗教の場合には、「信じろ」が先ですが、
私の場合には、
「経験できるかどうか、まず、やってみろ」が先です。
自我の原型への復元を抜きにしては、
何ひとつも、まともな形では、始まらないし、
何ひとつも、すっきりした形では、終わりもしないからです。
確かに、今の私にとっても、
価値とか意味とか重大性のあることなど、どこの世界にも存在しません。
ただ、一点、私が否定しないのは、
人がそれぞれに個別に持つ、不満と苦痛、
それらを解消して自由に生きる権利ぐらいは、
私達、人間にだってある、と私は思っているいうことです。
それが、宇宙の中で、正しいのかどうかなど知りません。
ただ、私は、生物や人間が、「私の納得できない状態や理由によって」
無駄に苦しむのだけは、
私は、単純に、ただそれが、「気に入らない」のです。
私がこの世界に見に来たのは、「笑顔」なんですから。
そしてその為に、私がやらねばならなかったことは、
どうやって幸福になるか、といった安易な方法論ではなくて、
そもそも、なぜ不幸な感覚や苦が、ここの人間に生まれたか、
ということに関する、論理的な解明の作業でした。
ですから、私は、その「人間の笑顔」を見るために、
安易な笑顔を与えるコメディアンの道ではなくて、
この、現在の探求の道を選んだのです。
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