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Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1453]
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●無明庵日記「猫の足跡=その192=」●正月雑話
by:
鈴木崩残
2011/01/02(Sun)11:22:07
マツコ・リラックス
という言葉が、うちでは流行っている。いや、そんだけなんですが。
さて、このタイトルとは全く関係ない話をしますが、
正月にはどんな重要性があるかという事を論じる場合には、
二つの視点が必要です。
ひとつは天文学としての正月、もう一つは「社会現象」としての正月です。
物理学的に見れば、現在の正月は、なんらの「特異日」でもありませんので、
意味はゼロです。
むしろ、自分に何かの変化を起こしたいのであれば、
ご自分の誕生日の前後を狙ったほうがいいです。
そこが、皆さん個人の一年のスパイラルの始点ですから。
つまり、生まれたときと同じ位置にいるということ。
ただし、私の場合には、実は生年月日よりも、受胎日に注目している。
もしも胎児を母親と一体となった同一の個体と見れば、
生年月日を根拠とする、古今東西の占術は、有効性を持ちますが、
私はそれだけではなくて、受胎日を重視しています。
それが細胞分裂の起点だからです。
ただし現代の医学では、何月何日の何時に、卵子が受胎したのかを逆算したり、
リアルタイムで観測することは難しい。
人工授精ならば、それが出来るでしょうが。
●それで、話を元に戻しますが、
現在の新暦の正月というのは、天文学的な意味を持ちませんが、
私が重視するのは「社会的な正月」です。
これと同じことはお盆も同じです。
どういうわけか、日本では、お盆が仏教臭い風習となり、
正月は神道臭い風習になりましたが、
どちらにも共通するのは、この二つの時期に、
人が大量に、日本国内を「移動すること」です。
●移動した結果として、人口密度に差が出ます。
私は昔よく、私個人ではなくて、社会的な願いを通す場合には、
必ずこの二つの時期に、どこかへ行って、何かをするということを
しました。
ようは、その二つの時期は、東京や都心部は「隙だらけ」なんですよ。
帰郷する人たちが出てゆくから。
●それと、人口密度に変化があること以外に、
正月の場合には、大量の人々が、神社に行く。
いくら軽薄なパワスポブームの時代とは言え、
これだけ大量の人が、各地の神社に行くというのは年に一度だけ。
それがもたらす国民的な儀式が、この国のひとつの安定を作っていることは
間違いありません。
しかも、全国にある、その全部の神社がそうであるわけではないですが、
神社をぶっ立てた「位置」というのが、それなりに根拠があるので、
その点では、西洋人が、無根拠に街中に立てた教会に行くクリスマスとは
「大違い」です。
●ところで、話が脱線しますが、私は寺が大嫌いです。
あれほど、粘着的で、エロ爺や、むっつりスケベの僧侶ばかりがいて、
しかも「気」も悪く、しかも立てた位置もろくでもないものはありません。
●昔、たまにですが、霊感の強い女性友達を伴って、
いくつかの寺に行ったことがあるのですが、
ほとんどの女性がこう言っていました。
「坊主の近づき方が、気持ち悪い」
「粘着的な液体のようなドス黒いオーラがまとわりつく」
この原因は非常に簡単なことです。
ひとつは「歪んだ禁欲」と「偽善」の末路です。
もうひとつは、寺が無能で、まともな供養も出来ないくせに、
怨霊を集める傾向があることです。
●また、風水的に見れば、むろん、神社と一体になった仏教寺院や、
国宝級の寺や、ある程度は、「要所」に位置している寺もありますが、
神社の場合には、どんなに荒廃した山の中の神社でも、
ぎりぎりで、一定の「清浄さ」を保っています。
昔、ほとんど氏子たちにも見捨てられて、管理されなくなったような、
地方の神社を訪れたことがありましたが、
それでも、一定の「神域」としての機能を維持していました。
私が神社に対して感じることは、その見かけのオンボロさや、
規模にかかわらず、常にそこの空間の「清浄さ」です。
私が昔からよく言う、神社にいる魑魅魍魎は、
本殿を守るための護衛ですから、こちらが手を出さないかぎりは
害悪のあるものではありません。
しかし、寺に巣くっているのは、はっきり言って悪霊の類です。
●どうしてそのような結果になるのかは、
この二つの宗派の起源に関係します。
もともと仏教とは、言うまでもなく、
仏陀がそうであったように、終始、「個人的な探求」であり、
徹底的に本来は、偶像を排除すべきものであり、
また、本来それが目指すところは、「無欲」「無所有」です。
つまり、無明庵で言うところの「減算」であって、
それは願望実現ではなく、願望自体の死滅を目指します。
また、先祖供養をするのが目的でもなく、
檀家の墓守をするのが目的でもなく、
ただひたすら、瞑想や座禅にのみ、重点を置き、
政治や庶民と関わるべき分野ではありませんでした。
●ところが、仏陀の死後300年もたたないうちに、
曲解と堕落が起こりました。
しかも、仏教ではなくてヒンドゥー教の多神仏が混合されすぎています。
そうして、現代に至っては、
仏教僧の持つべきであった本来の姿勢など、見る影もありません。
●一方で、神社の場合には、そもそも起源が、
人間と同じような「喜怒哀楽」を持ち、
かなりセコイ話や嫉妬話もよく出てくる、神々の「神話」にあります。
従って、そこでは、人間の持つ私利私欲や欲望は否定されていません。
だからこそ、神社は毎日のように、
人々の、しょうもないような願望を聞き入れるだけの懐の深さもあります。
そして、それを「俗」とか「邪悪」であるとは、神道は言いません。
その結果、人間の持つ「欲望を肯定する地点」から始まっているのが
神道であるために、パラドキシカルなことに、
神社の方が清浄な気配を常に保っています。
それは神社の持つ朱色の色や、神殿や狛犬や鳥居の配置や、
その建築様式だけに起因するものではなく、
その「起源」に起因しています。
●一方で、堕落した仏教寺院が「セールス」ポイントにしたものは、
「極楽」という名の詐欺商法です。
死んだあとに行けると称する極楽を説くということは、
その反対側には、「地獄」という強迫観念を必要とします。
または、カルト教団のように、やれカルマだの強迫観念を
信者に植え付けるわけです。
(これについては、最近書いたように、
実際には、あなたが清算すべきカルマなど存在しません。)
●極楽という実体のない商品を思想的なビジネスにしようとした仏教は、
地獄に類する世界に「依存」することになりました。
その結果として、仏陀から数百年もしないうちに堕落した仏教は、
常に、悪霊、悪運、亡霊、亡者、怨念など、地獄を連想させる要素に
無自覚のうちに「依存」しているわけです。
●一方で、神道は、人間の苦を前提とするのではなくて、
元々存在した神話の物語の世界を前提としています。
日本神話は、ギリシャ神話などと比較や対応されることも多いように、
その様相は、極めて人間的ですらあります。
その、生と欲望の世界への肯定性故に、それは反対物の苦に依存しません。
なんでもそうですが、
「不自然に否定したもの」からは、人間は、必ず逆襲されます。
●私が何度も言うように、仏陀が苦を見つめなければならなかったのは、
彼が充分な快楽を経験しつくしたあとであり、
彼を、さかさまして叩いても、世俗的な欲望など、微塵も出なくなった
その「後」のことです。
そうなったときには、本来そうであったような、
厭世的で、排他的で、個人的で、他の何にも関心を持たないという
形での探求はその真の意味を持ちます。
仏教とは、もともとが、そういうものであり、
この世界で、充分に喜怒哀楽と快楽をむさぼった者だけが、
その入門を許されるべき領域でした。
しかも、それは、何かを基準として、社会的、または
宇宙的に正しいものでもなく、
または、倫理的に優れたものなどでは全くなく、
存在の中で、誰も救えない極度の精神病に陥った者が、
「自分で自分をそこから救い出す為の方法」であったのみです。
●その点では、私はこの地球には、真の意味での仏教寺院など
もはや、存在していないと思っていますし、
建築や国宝として意味以外には、必要すらないと思っています。
あとは、墓地管理者・法事屋・葬儀屋として寺のみです。
私の心情は、常にこうです。
あなたが、それが街中であれ、洞窟であれ、
今、歩いている、そこ、
今、座っている、そこ、
そこだけが真の仏教寺院であると。
●しかしそこに至るまでに、
あなたの欲望をすべて炙り出して、
それを完全に生き切る必要があります。
そうでなければ、本当に惨めで、中途半端で、偽善的で、
無知な「悟ったフリ」程度しか出来ない愚か者になるだけなのですから。
しかしその生きるということの根底の基盤すら、
まず「全自我」に戻らないことには何も始まらないのです。
*********
●ところで、話は最初の話題に戻りますが、
天文的に見れば、自分の誕生日以外に重要な日といえば、
秋分や、春分の日、その他の「物理的にも特異な性質を持つ日」だけです。
私は「虹のオーガズム」という本の中で、
「セックスをしてはならない日」をいくつか指摘しました。
しかしそのセックスをしてはならない日に、
正月の前後の数日は含まれていません。
むしろ、毎月やってくる、
新月と満月とその前後日は、セックスや自慰行為を避けるべきです。
●私にとって、セックスとは社会的な現象の一部ではありません。
したがって、自然の運行や、とくにそれは気候と関係しますので、
荒れた天候の日には行ってはなりません。
とにかく、両者の心身に、ほとんど全くストレスがなく、
気候も穏やかで、風雨がなく、
あらゆる意味で、「平穏な日」がセックスにとって、もっとも理想的な日です。
もしも中国の房中術の言っていることに忠実に従うと、
一年の間にセックスを出来る日は、数日しかなくなってしまうという
矛盾があることから、セックスを避けるべき日について、
同書「虹のオーガズム」の中の「82から82ページ」で書きました。
私が実際に膨大な時間とパートナーとの性実験を行って、
検証した結果、割り出したあの「セックスをしてはならない日」は、
実際に、注意すべき日です。
*********
●さて、一方で、現代歴の正月は、既に言ったように、
それは、自然と人間との間には何も干渉を起こさない「社会的」な
現象です。
しかし、自然現象の一部ではない、社会的な現象であるからこそ、
逆に、あなたの「社会との関係性」は、
正月とお盆という、二つの時期に、変更したり分析することが可能になります。
ですから、これから、カレンダーどおりの、1月中(1/末日まで)に、
あなたが、自分に対して、何をするかということは、
この一年全体影響します。
ですから、梅の間を見ている人たちも、
この1月中の時期に、自我復元をするかしないかが、
今年のあなたのすべてを決定すると言っても過言ではありません。
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