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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1463]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その201=」●
by:
鈴木崩残
2011/01/21(Fri)07:14:44
現在の無明庵
●ここのところ、自我復元に関して、メールによる個別の報告の中で、
少し、嬉しいことがあります。
それは、「死人禅の行法」が、以前には通しで出来なかったり、
上手く行かなかったものが、スムーズに行くようになって、
少し驚いている様子が伝わってくることです。
●それは当然のことで、もともと、死人禅の行法それ自体が、
全自我の人が行う事しか、想定をしていませんでしたので。
その点で言えば、自我復元を行うことによって、
それまで、出来なかったものが出来るようになるのは、
何も「死人禅の行法だけ」ではありません。
他の体系の瞑想その他の技法も、自我の体積が復元されるに従って、
「以前には、どうしてこんなことが出来なかったのだろう」と、
不思議に思うほど、スムーズになってゆくはずです。
●そのような意味では、自我復元法は、他の体系ともバッティングはしませんが、
ただし、何度も言うように、もしも自我復元法と死人禅を併用する場合に限っては、
他の瞑想法を行ってはなりません。
何度も言いますが、これは二種類の異なる薬を同時に服用するのと
似たことになり、あなたの精神状態を害します。
(正しく言うと害するというよりも、どちらが効果を発揮しているのか
分からなくなり、判断を混乱させます。)
●次に、無明庵サイトの(自然葬や手裏剣術などを除く)、
ほとんどのすべての、主要な精神世界系のコンテンツが、
そもそも、全自我である人だけに語る形で作られています。
1997年にサイトが開設された当時、
もっとも最初にそのコンテンツにあったものは、「自殺論」です。
■当サイトのメインサイトのメニュー
↓
http://www.mumyouan.com/
1997年当時は、またそれについて語ることすら、世間からは、
忌み嫌われていた「自殺」という問題に対して、いろいろな角度から
考察したのが、その始まりです。
奇遇なことに、不況という現実も重なって、
日本人の自殺率が、急激に増加したのは、その直後の年代からでした。
ただし、当時、無明庵が問題提起をしていた「自殺」とは、
あくまでも、全自我の人が最終的に陥る、哲学上の疑問に発するものであって、
いわゆる、生活苦や、精神科にお世話になっている人の自殺のことでは
ありませんでした。
今でも、ここには↓、自殺を考察した膨大な量の文章がありますが、
http://www.mumyouan.com/d/js-i.html
それらはすべて、自殺とは何かということを哲学する為のものであって、
現代の自殺問題とは別問題でした。
現代の自殺問題については、ウィキなどを見た方が、
客観的なデータが役立ちますので、ウィキで、「自殺」を検索すると
良いと思います。
意外に、自殺について、皆さんが知らない統計結果や、
誤解されている通説があることに気づくはずです。
(たとえば、日照時間の少なさと自殺との相関関係はない、など)
現状の「自殺」というテーマについては、
日本のウィキペディアの記述は、かなり質の良いもので、
ちょっとした、自殺についての良い「雑学」になりますので、
一読をお勧めします。
自殺の動機のランキング、
自殺の方法のランキング、
自殺の都道府県別のランキング、
自殺の季節別のランキング、
自殺の年齢別のランキング。
など、読むと、ついつい引き込まれる面白い内容です。
●そして、今の現代社会で問題になっているのは、
無明庵が開設当時に、問題にしたような、洞察や問題提起とは、
大きく、かけ離れたもので、
明らかに「希釈自我」がするタイプの自殺にすぎません。
無明庵では、哲学的に行き詰った人格の行う以外の自殺などには、
一切価値をおいていません。
生活苦、ひきこもり、ただの鬱、社会や他人が嫌、とか、
そんなものは、無明庵で自殺を論じる場合には、基本的に「論外」としています。
●そもそも全自我の人は、そう簡単には、自殺はしませんので。
ただしそれは彼らが別に精神的に強いとか、ポジティブだからでは
ありません。
全自我の人は、全面的に自己に向き合っていますので、
そう簡単に、自己や自我や、自己の生存といったものを、
捨てるほど、安直な考えには陥りません。
するとしても「かなりの考察を経た結論」としてしか行いません。
また、生に執着していようが、執着していまいがにも関係なく、
全自我の人たちが自殺をしない理由は、
「それでは自分に納得がいかない」からです。
何かの明確な決着をつけずに、自殺をするということはなく、
いろいろな苦悶と、膨大な洞察と、自己実現をした、
その決着の果てにのみ、それを行います。
●ところで、人々が自殺をしやすくなる環境条件は三つあります。
1−自分が死ぬことが、集団にとって何かの役に立つと思う場合。
(戦争時や革命時に起きやすい)
2−死んだ後も、魂は何かの形で生きるだろうと、漠然と信じる人が増えた場合。
(悪い例では、カルト教団の集団自殺などで起きやすいが、
一般的に見ても、これは自殺率を増加します。)
3−生存し続ける事に、全く希望や目的が持てない状況。
●現代では、1というような狂信的な状況はありませんし、
自分が死ねば、国や組織の未来にとって役立つなどという考えは
激減したので、現代は、2と3が混ざった形での増加が考えられます。
従って、ウィキにある「自殺」に関する下記の記述は誤りである。
↓
米国自殺学会のエドウィン・S・シュナイドマン(en:Edwin Shneidman)は
「魂と来世という思想を捨て去ることが出来たとき、
その時初めて、人間にとって自殺が可能になった」観念の変化が、
反映していると指摘する。
来世や魂の不死といったことを信じたとき、
死は単なる終わりではなく別の形で「生き続ける」という存在の形態を
移したものに過ぎなくなるからである。
近現代へ至る死生観の変化には、科学技術の発展により、
宗教的思考が説得力を持たなくなったことが背景にある。
●現実には、そうではありません。
宗教的な教義で、自殺すると地獄へ行く、あるいは自殺が悪である、
とでも、教え込まれていないかぎりは、
唯物論者の方が、むしろ自殺を恐れます。
なぜならば、死後は「自分は、完全に無になり、何もない」、
という想定がされているのですから。
それは、下手に死後の世界を信じるよりも、
ある意味では、死に対して実感を持って向き合うことに役立ちます。
ただし、唯物論者の困った問題は、
自己を否定できても、残る社会を否定できないことです。
つまり、死んで自分が終わるのであれば、何かを残さねば、
という妄想に囚われる場合もあるわけです。
いずれにしても、
「死後の世界での存続を、漠然と信じている人たち」の方が、
自殺率は高くなるだろうと私は判断しています。
___________
無明庵の「今と昔」
●さて、話が大きく脱線しましたが、
自殺の問題にしても、悟りの問題にしても、
無明庵が2007年ごろまで扱っていたのは、すべて、
読者の人たちの中に、
全自我の人がわずかに混じっているという「想定」での話でした。
あるいは、今は、分からずとも、何世か先には理解するであろうという
希望的な観測でのものでした。
しかし、自我に欠損があることが判明した以上は、
現在、最優先する課題は、自我復元しかありません。
●また、実際、自我が原型に戻れば、
改めて、無明庵の本やサイトが、何について語っていたのかということを
初めて正しく理解できるようになります。
無明庵の場合には、特に、他の「悟りを安売りしようとする」ような、
精神世界の分野とは完全に孤立して、
徹底的に、厳格に、もう絶対に誤解や曲解を許さないように、
悟りの問題を扱ってきましたが、
無明庵の言ってきた事に限らずとも、
皆さんが、精神世界や体系や、宗教というものを、
正しく評価できるようになったり、
または、
正しく批判できるようになるのも、結局は、自我を復元した「後」に
なってからのことです。
そうすれば、少なくとも、皆さん個人が、
関わるべき精神世界と、かかわるべきではない精神世界というものが、
今のようなカオスの状態ではなく、すっきりと区別できるはずです。
●全自我でない人の最大の欠点は、自分に必要なものとそうでないものを
「誤認し続ける」という特徴です。
その人たちは、本当にその時に本人に必要なものには、全く無頓着で、
必要ではないものに夢中になるという悪癖を持っています。
ですから、その人たちがしてしまう最大の無駄は、
「時間と労力の無駄」です。
少なくとも、この時間と労力の無駄だけは、
私は、皆さんにしてほしくありませんので、
自我復元をお勧めしているわけです。
●そもそも、俗に言う精神世界に関する情報という分野は、
皆さんの「実生活」に、本当に必要なものではありません。
このことは、私は、以前にも言いましたが、
本当に、宗教や精神世界が、あなたの人生に「絶対的に必要になった」
ということがあるのかどうか、自問してみてください。
何もかも、自分に出来ることを、やりつくしたその結末に、
精神世界しか出口(または入り口が)なかった、
などという人は、私は、ほとんど見たことがありません。
そして、私が知ったり、現在までに出合った「全自我」の人たちの
ほとんどは精神世界などに、興味すら持っていませんでした。
持っていても、ちょっとした娯楽か世間話という程度のものです。
しかし、全自我の人たちは、いわば、彼らの生き様そのものが、
既に、ある種の精神性を帯びています。
ことさら、精神世界やら、宗教やら、精神論など語らずとも、
彼らの日々の在り方それ自体が、充分に精神的なものでした。
●一方で、普通のことを、普通に生きられないからといって、
精神世界のチープな「釣り餌」である
「あなたも、これで幸福になれます」に、
食いついてしまった不幸な人たちが、大勢います。
●私に言わせれば、現代の、チープな瞑想とか、セラピーワークショップ
ではなく、
本当の意味での、過去の瞑想や魔術体系のすべては、
もともとが、全自我の人が行うことしか想定していません。
その場合には、過去の、あらゆる真性の体系がそうであったように、
「苦しむことにもなるが、いいか?」と、必ず注意するものです。
ですから、もしもあなたが、チープな瞑想ワークの広告やサイトを
見たときに、
「大きなリスクがある可能性」を記載していないような組織やサイトは、
全部、無視していいです。
リスクのない瞑想や、体系などありえないのですから、
「誰にでも出来ます」「誰でも安全に出来ます」は嘘です。
(自我復元法は、その中でも、奇跡的なことにリスクはありませんが、
誰にでも出来るとは、断言できません。)
さて、もともとの古代の「瞑想体系」とは、
ごく普通に生きることが、充分に出来ていた人たちが、
その果てに、どうしても、どうにもならない限界を、
「切羽詰った実感」として確認した時にのみ行うべきものです。
また、精神世界の本を読みあさるような「道楽」としてではなくて、
実生活を生き切ったが、それでもなお、それがどうしても、必要である、
となった場合にだけ、効力を発揮すべきものでした。
●しかし、現在の精神世界マニアというのは、そういう人たちではありません。
実際、漫画でも読むかのような、お気楽な状態から、
本来は、その人たちが接してはならない情報や、
接する時期ではない情報に接してしまいます。
(これは、勃起だけはするが、まだ射精も始まっていない子供が、
セックスの情報に接するのに似ていますので、曲解が生じて当然です)
●どういう物事であっても、「順序を経てから」、
やっと理解したり、正しく、評価や批判を出来るものがあります。
原則として、全自我の以前に、
人が宗教体系について下すどのような判断も、
すべて曲解と嘘だらけであると思ってください。
***************************
●ところで、私は、自我復元法だけに関しては、
あらゆる分野の人たちにも、迷うことなく、推奨しますが、
梅の間では、「どうでもいいこと」についても、多く語ります。
たとえば、パワースポットのことについてもそうですし、
その他の話題についても、どうでもいいことを多く語ります。
それは、読者の皆さんの多くが、分割自我の状態にあるからです。
しかし、実生活の中で、私が「全自我」の人たちに接する場合には、
語ることは、非常に限定されてきます。
●もしも全自我の人が、その生の喜怒哀楽と願望実現をし続けて、
充分に生きて、その果てに、もしも私に、何かを尋ねてきた場合、
その場合には、私は非常に慎重に、言葉を選び、
その人にとっては、どの分野を入り口とすればいいのかの選択に、
相当に、慎重になります。
人によっては、ある分野が適していて、他の分野は適さない
ということもよくあります。
●いわんや、全自我の人たちに対して、私が悟りの問題を話すことなど、
ほとんどありません。
それが真に、間違いなく必要である人というは、
本当に、稀なほど、「ごく僅か」だからです。
普通の「全自我」の人たちに対しては、私は、悟りの問題など、
微塵も語りません。
それは、彼らが、今、生きている全自我を、とても尊重しているからであり、
また、もしも現在の限界を超えたいと彼らが思った場合にも、
悟りという分野以外の別の道は、いくつもあるからです。
●一方で、こう言っては、無明庵の愛読者の方には、
大変に失礼な言い方になることを、重々知った上で、言いますが、
私は、相手に対して、前述したような尊敬とか尊重を、
読者の皆さんには、持っていません。
それも当然で、それを持つほどの親密な接点も皆さんとありませんし、
何よりも、ここを読んでいるのは、「多様な人たち」です。
いろいろな段階の人たちがいますから、いろいろなその段階別に応じて、
全自我の人にとっては、どうでもいいことでも、語らねばならない
問題もあるわけです。
●もしも、全自我の人に対して持つような敬意と慎重さが私にあれば、
梅の間は、現在のような状態にはなっていません。
全自我ではない人たちが持ってしまう興味や、誤解や曲解といったものを
多少なりとも、修正するために、いろいろな話題を混ぜています。
また既に言ったように、
そもそも、私は、全自我の人たちに対しては、
その人に必要かどうかの状態を、まず見ますので、
悟りの問題などは、私は、安易には語りません。
つまり、本当に「分かる人」には、逆に私は言葉が少なくなります。
言い方は悪いですが、
「どうせ、分からないのだから」と思う人たちに対しては、
私は、言葉や話題が多くなります。
しかし、世の中とは、あるいは人の心情とは、
実際、そういうものなのです。
●物事を理解できる相手に対してほど、
人が慎重になるのは、当たり前の事なのです。
また、言われたことを、率直に実行する生徒を想像してみてください。
その人たちにだけは、決して、間違いを教えてはならないのです。
しかし、はなから、理解できない人たちには、間違いも正しさも、
どっちも、利益にならないどころか、「害にすらなりません」。
はなから、どうせ実行もしないだろうと分かっている生徒には、
正しい方法も、間違った方法も、結局やらないのですから、
教える意味がありません。
しかし、もしも、間違ったことを伝えたときに、
それが最も害になり、相手に迷惑をかけてしまうのは、
「理解力を持つ人」と「実行力を持つ人」なのです。
だから、私は全自我の人に接する時には、
そうでない人に接するときの5倍は言葉や話題を選びます。
●世間によくいるような、精神世界の人たちは、
会う人たちに、あちこちで、瞑想やら、精神世界やら、オカルトやら、
そんなものを話題にしたり、自慢話にしたり、
成功体験を軽々しく語ったりして、他人に薦めたり、布教までしていますが、
私はそんなこと、したことありません。
むろん、普通の世間話でしたら、友とは、腹を割って話もしますが、
こと、自分の持つ哲学的見解や、瞑想の問題については、
私は、非常に慎重になります。
●特に、相手が、自分の親友であったり、親しい人であったり、
何よりも、全自我や、それに近い位置にいる人には、
決して、安易に、精神世界に近づくことを薦めませんし、
私は、会話の中で、話題にすらしませんし、
仮に、どうしても話題にしなければならないときには、
その人たちの現状をよく踏まえて、
その人の今の生き方を邪魔しないように、
必要最低限の言葉だけにしています。
●「人間の、こころ」というものについては、
次の原則を、よく覚えておくといいです。
人は、「大切でない人」に対しては、なんでもベラベラ話します。
しかし、本当に大切な人に対しては、
その人の人生に対して、尊敬の念を持ちますので、
なんでも、ベラベラ話したりなどしません。
そのことをよく考え、自覚して、ネットで他人に接することです。
あなたのことを、大切に思っていない人ほど、
どうでもいい事を、あなたにベラベラ話すのだ、という「その現実」を。
_____________________________
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