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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
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より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1477]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その215=」●「桜の間」増設のお知らせ●
by:
鈴木崩残
2011/03/05(Sat)07:05:46
>3/6-11:30 文中に「緑色の文字」で、追加しました。
___________
【増築のおしらせ】
★「桜の間」というボードを増設しましたので、
ブックマークにチェック下さい。
↓
http://www.mumyouan.com/k/sakuranoma.html
松竹梅の各掲示板の上部の右端にも、
「桜の間」へのリンクが張られていますので、
各自で、「お気に入り」に入れてください。
___________
ここのところ、気を張った原稿ばかり投稿していましたが、
自我復元に関しては、新設の「桜の間」に移動しますので、
ここ「梅の間」は、
また、気楽な雑談や、書についての投稿を出来るようになりました。
(ここのところ、冗談の一つも書けないような雰囲気にしてしまい、
微量ですがストレスが溜まってしまいました。)
曲解によって「自分の足を切る者」
●もう充分に、私から皆さんに警告した事の繰り返しになりますが、
この過去約千年の間は、人類にとっては、
「自我そのもの」が、様々な「問題」を生じていたのではなく、
その「自我が不完全」な状態にあった事が重大な問題でした。
それなのに、
不完全な自我を、完全な自我であるかのように扱うことは、
次のような愚行を生み出しました。
あなたが「全自我を充分に経験し尽くすよりも前に」、
もしも、『自我を落とすことが重要だ』などと考えたとしたらば、
それは、次のように喩えることが出来ます。
↓
多くの人々が、普通に、二本足で歩いているとします。
一方で、あなたは生まれつき、片方の足しかなかったとします。
あなたは、自分以外の人たちが、飛び跳ねて、すたすたと歩き、
時には、すばやく走る様子を見ます。
するとあなたは、自分にも同じことが出来るはずだと思って、
同じことをしようとしますが、上手く出来ません。
また、「こんなに自分は、努力しているのに、どうして出来ないのだ」と、
あなたは、自分に対しても、苛立ちを感じます。
そんなときに、あなたは「次のような文言」を本で読んでしまったとします。
『自我を落とすことが最も重要だ。
自我という足を斬り落とした人は、静かに座り、もう動かない。
彼らは、聖者のようにそこに留まり、静まるが、
世間の人たちは、まだ自我という足で走り続ける』
そこで、あなたは、自分に存在していた、その片足を切り落とします。
そして、あなたも両足のない人間のように、地面に座ります。
さて、あなたと本物の覚者との違いは何でしょうか?
聖者も、あなたも、共に足を無くして、地面に座っていることには
違いはなかったとします。
そこにおいて、本物の聖者と、あなたの違いは何だと思いますか?
答えは、簡単です。
本物の覚者というものは、
それ以前に、二本の足で、全速力で走り続け、
両足が持つあらゆる可能性に挑戦し、
そして、その両足が壊れて、もぎ取れてしまったか、
または、もう二度と必要がなくなって、切り落とした人たちです。
一方で、あなたは自分が足を切り落としたことに自慢げになり、
「どや顔」でヘラヘラしたり、静かに座れるフリを偽装していますが、
あなたは、多くの世間の人たちが、飛んだり撥ねたり、
恋人と一緒にスキップしたり、楽しげにしているのを見て、
内心では、あなたは、
実は、「自由自在に走れなかった自分」を自己正当化して、
その自分の心を慰めるために、
自分に残っていた、大切な足までをも、
その一部を傷つけたり、切り落としてしまったのです。
だから、本物の覚者と、エセ聖者の区別は、簡単です。
普通のことを経験しつくして、
自我という両足を限界まで味わい尽くした者は、
本当にそこに、座ることが出来ますが、
冴えない自分や、自分が間違っているのは「自我というもののせいだ」、
「だから、自我さえ落とせば、万事解決で、
俺様も、偉くなれるんだ。俺様も、永久の安心を得られるんだ」、
とか、とんだ勘違いをしてしまい、
自己正当化のために、せっかくあった1本の足(自我)すらも、
切り落としてしまったような「エセ聖者」は、
いつまで経っても、「人並みに、走りたい、飛び跳ねたい」という
欲望が、その本音には、永久に残り続けます。
しかし、その時には、もう手遅れです。
こうしてあなたは、顔が歪んだ醜い「座る人」となり、
ただの偽善者に落ちぶれます。
これこそが、
ラマナマハリシ、クリシュナムルティー、ラジニーシといった近代の瞑想者たちが、
世界中に知られるようになった、1960年以後から、今日まで約半世紀、
皆さんが勝手な誤解をして、
精神世界を「汚染」し続けたことの実態です。
世界全体と、宇宙を見回して、「現実認識」をしっかりとするよりも、
思慮に欠ける「夢物語」に、軽薄な姿勢で憧れてしまったことが、
この結末の原因です。
ですから、あらゆる種類の瞑想本や指導者たちが、
皆さんに「誰でも悟れる」「誰でもわかる」「誰もが本質はブッダだ」
と言い続けたこの半世紀の中で、
唯一、「無明庵」だけは、『それは、今の人類には、困難すぎる』と
警鐘を鳴らし続けてきたのです。
その違いは、単純に言えば、「現実認識」と「危機管理意識」の違いです。
無明庵では、
必要以上に、悟りの問題の「困難さ」を誇張したのでもなければ、
必要以上に、悟りの問題に「厳しい敷居」を作ったのでもありません。
否、むしろ、逆に、
間違った認識の元に、極端なまでに「必要以上に」、
>いろいろな指導者が悟りを「安売りしようとした事」、
>そして、その宣伝文句に釣られて、
>それを「安く買おうとしてしまった貴方」の方が、
今日の、目も当てられないような、詐欺瞑想ビジネスを作った原因です。
__________________________________________________
●こうした愚行と時間の無駄と混乱を、
もう二度と起こさないために、
「自我復元」という方法が存在します。
「太古の時代」は「別の話」としても、この過去約3500年に限れば、
人間が抱えたり、生み出した多くの問題は、
「自我にあったのではなく」、その自我に欠損が生じていたことに
よるからです。
自我は、障害物や、業などといった「悪者だったのではなく」、
「自我が、不当に、不完全な状態にされていた事」こそが、問題だったのです。
自我復元というのは、もしも、あなた、愚かにも、
自分の足の一部を切り落としてしまったのだとしたらば、
>その足が生えてくるように出来る可能性を包含しています。
出来そこないの
「ポンコツの自我」だけを、
「エゴ」と呼ぶ。
●かつて、和尚ラジニーシは、こう言った。
「常識では、死は、生の後にやってくる。
しかし、瞑想ではその順番は逆だ。
まず最初に死がある。生はその後だ。」
●ところが、約半世紀が過ぎてみれば、
「時代遅れ」になっていたが故に、誤っていたこの論理は、
もう一度、ひっくり返す必要が出てきたのである。
『まず、十全な生だ。
次にやっと十全な死だ。
その後に、ようやく、
全くそれまでとは異なる生死の次元だ。』
_____________
●そもそも、自我とエゴの区別すら、人々には分かっていない。
エゴは「醜い」。エゴは愚かしい。
よく、ラジニーシが講話の題材にした、エゴの様子は、あれは
「醜いエゴ」の様子だ。
無明庵発行の、「ひきつりながら読む精神世界」という本の中には、
「荘子と猿のボスとの対話」が出てくる。
あの猿は、まさに「エゴ」の代弁者だ。
●しかし「自我」そのものは、愚かしくもなく、醜くもない。
自我とエゴは、イコールではない。
自我とエゴは「違う性質」のものだ。
なぜならば、自我が進化し得る、その最高形態とは「知性」だ。
●たとえば、禅宗の「二祖」は、壁を向いたまま、振り向かない達磨に対して、
自らの腕を切り落して、達磨に教えを願い出た。
その行為自体は、明らかに「自我」にしか、なし得ないことだ。
腕を切ろうが、足を切ろうが、そんなことで、
達磨に「助けてくれ」と言うこと自体が、
悟りとは、ほど遠い「迷い」であり、
いかにそれが「真剣な、命をかけた態度」であったとしても、
まさに、「貪欲な欲望」に過ぎないものであり、
まさに、それは「自我の産物」だ。
しかし、その自我の産物は、「愚かでもなく」「醜くもない」。
それは、
知性が限界まで己を問い詰めた結果の、
自我と知性の限界からなされた行為だ。
これこそが、「エゴと自我の違い」だ。
「エゴ」とは、「希釈自我」こそが作り出した、
「愚かさそのもの」を意味する。
エゴとは、すなわち、「ポンコツの自我」のことだ。
一方で、「原型自我」とは、むろん、悟りではないが、
それが「全自我」でありさえすれば、
それは、悟りの扉の手前まで、限りなく接近した、
成熟した「知性」にすらなり得るものだ。
否、「悟りの扉」という言い方は、あまりにも間違った表現だ。
実際には、それは、自我が自殺をする事になる「断崖絶壁」の地である。
●さて、過去の長い時間、どれほどの覚者や賢者たちが、
「なぜ、この人たちには、これが、分からないのだろう」と、
何万もの「伝えようとする努力」をしたにも関わらず、
時代を経るごとに、それは理解されなくなっていった。
(真偽は怪しいが、)伝説によれば、ブッダが最初に説法した時、
数人の相手は、その彼の言葉を聴いて、瞬時に、それを理解できたと伝えられている。
真偽はともかくとして、そういう時代が、
かつての、全自我の時代だったのだろう。
しかし、今では、たとえ、どれだけの「悟り人」が存在しようが、
それが伝達される可能性は、
一人の覚者につき、どんなによくても、50年に一人だろう。
●ただし、分割自我理論が、本物の導師に理解されることで、
今後は、「本物の導師」たちにとっては、
まず、相手や弟子が、「全自我」であることを、大前提とし、
そこまで、まず本人が、自分を成長させた者でなければ、
「決して法を伝えまい」とする。
そういう動きが、ごく一部の本物の導師たちに出てくることは間違いないだろう。
ただし今、言ったこの「お話」というのは、地球の歴史を、
「300年単位」のスパンで、長い目で見た場合の話である。
当面は、真性の「悟り人」など、地球には、そう簡単には現れません。
少なくとも、まず、あと約100年は、待つ必要があります。
「それ」がほとんど現れない最大の理由は、
当面、「その必要がないから」です。
________________________________
●ところで、私はずっと前に、この自我の劣化という、
主体性の劣化の原因を、単純に、人口が増えた為ではないかと
推測したことがありました。
つまり、ごく単純に、水槽の魚が増えすぎたり、檻の中の鼠が
増えすぎれば、それだけで、ストレスや狂気が増えるという理論です。
つまり、人口増加の「その責任が、一方的に人間の側にあり」、
人口が増えるに従って、自我が自動的に希釈されてゆく、
という、極端に「唯物的な考え方」を、あえて、試みたこともありました。
しかし、この論理には矛盾があります。
もしも、人口の増加と自我の劣化が単純に比例していたとすると、
現在、地球人の平均的な自我は、
地球の「全員が」、1/12自我とか1/9自我などに、平均的に希釈されている
のが自然だからです。
ところが、地域や、何よりも「個人」によって、この自我率には、
非常に大きな「ばらつき」があります。
未だに、同じ一つの国の中にさえ、
全自我の人たちは存在し、一方では、1/16自我の人たちもいます。
●このことから、自我の分割や希釈は、
単純な人口増加によって起きたものではなく、
また「平均化された」「質の劣化」なのではなく、
>個別に、その生の「契約時」に起きた事故や、
>不正な契約や、何かの不備によって、生じたものであると確信しました。
それが、今日、分割自我理論が、ここまで体系化された理由です。
●
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