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「分割自我復元」
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[250]
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★分割自我復元★その250 ■ 『後天性全自我の方より』アンケートの回答 ■
by:
鈴木崩残
2013/07/29(Mon)05:36:42
後天性全自我の方からの回答
●このひとつ前の投稿のアンケートに、早速の、ご回答を戴きました。
******************
崩残様
桜の間アンケートについての回答です。
>>1/無明庵サイトの、主に、どの掲示板のどういう投稿や、
>>主に、どのホームのコンテンツを、何年ごろから読み始めましたか?
読み始めは2005年です。
最初は松の間の手裏剣術に関してでした。
すぐに隣の竹の間に精神世界系の話題があることを知り、
そちらにも興味が移りました。
>>2/自我復元が出た2010年6月以前に、
>>当サイトの中の、主に、どういう分野の内容に、
>>読む価値を見出したり、御自分が考えたり行動する上の参考にしましたか?
まず、手裏剣の分野の研究を見て、何かを研究する場合、
どう要素を抽出し、検証し、文章化していくかが参考になりました。
次に、インターネットというものを使い、自分の考えを不特定多数の人からも、
目に見える形で文章化することにも興味を持ちました。
当時、頭の中ではまとまっていると思えることが、
実際文章にすると、ちんぷんかんぷんで、
他人に伝えるどころか、自分にも伝わらない。
これを、どうにかしたいとも思い始めており、
そこで、自己顕示欲を満たしながらも、思考の文章化の練習もできる場所として、
ブログや掲示板が有用かもしれないと考えたのは、
性と死のホームページを見始めてからでした。
これは、私が2008年から自身のブログを書き始めたきっかけにもなっており、
その他の研究目的のブログを作ったきっかけでもあります。
その他には「竹の間自推投稿集」の中、オカルトの分野などで、
現実世界に変化を起こす為の意識付けと利用方法なども参考にしました。
神社の使い方などです。
>>3/無明庵とは別に、それまでに人生の中で、主な関心のあった分野は
>>(精神世界も含め、それ以外も)何でしたか?
雑誌「ムー」の記事となるような精神世界、オカルトの分野。
「秘伝」などに登場する武術や身体操法の分野。
サバイバル術を含むミリタリー関連の分野。
コンピューター関連の分野。
他にもありますが、過去に体験した自分のブームも検証すると、
この4分野に特に関心があります。
>>4/自我復元以後、御自身において最も変ったことは何ですか?
「嫌だ」と思う回数が激増しました。
以前は、生活していく為だからしょうがないや、
人から嫌われないようにする為にはしょうがないという考えで、
この感情は簡単に希釈できましたが、今はできませんし、する気もありません。
この「嫌だ」を通す為の環境作りが、生活の中心として機能していますが、
まだまだ不十分です。
>>5/自我復元をする前の、御自分の無明庵からの情報や投稿への
>>関わり方は、自我復元のプロセスまたは完了後から見て、
>>何が、取り組む姿勢や、読み方において最も間違っていたと思いますか?
私の場合、復元前を振り返り、
取り組み姿勢として間違っていたと思えるのは、
掲示板の情報を、
・自身にとって、今、必要なもの、
・今後、必要とするもの、
・今も今後も、必要でないもので関わるべきではないもの、
これらを分別なく収集していたことです。
収集した情報の読み方と使い道も問題で、
具体的に手を下そうとしない、未対応、未解決の不平不満ごと、
それを持っている自身を正当化する為として利用していました。
また、何かの拍子に、正当化した自身が揺らいだ時には、
一時避難する場所としても使い、
そこで自身を揺るがした相手に反撃するための武装としても、利用していました。
時には、願望実現法サークル内で、掲示板からの情報を利用し、
持論では到底満たす事の出来ない、自己顕示欲を満たす為にも、
利用したことがあります。
情報を、正確に機能させることには関心がなく、
不満のある状況にいる自分に、情報をねじ曲げてでも当てはめ、
「そうだ、掲示板にある理由と僕も同じことで悩んでいる。」
と思いこめるようにする為に使っていました。
掲示版の内容と自身を擦り合わせると、
情報と同じような状態にいる自分のしていることは、正しいはずだ。
または、人より優れているはずだ。
時には、他人は僕に一目置くはずだ。
という問題解決や不平不満の解決が、
その先にあるはずだと考えていたからです。
このように、自己の正当化のみに掲示板の情報を使っており、
本心では納得行かない状況を作り出している、根源の自己そのものを、
「間違っていると仮定する方向」から行う検証が抜け落ちていますが、
抜け落ちた状態でも、過去にこの方法で対応できたり、
解決できた事柄が記憶にとても多くありましたので、
見て見ぬフリをし抜け落させた要素は、
これまで通りに見なくても大丈夫だという、
決めつけと過信もしていました。
実際には対応も解決もできていなかったと思います。
しかし、失敗したり、他人から見下されたり、焦ったりはしたくなく、
その為に、どうしても
「自分はできたと思いたかった。」ので、
結果がどうあろうとも、検証抜きで自己評価は。
「自分はできた。」ことにしようと、必死に正当化に励んでいました。
その情報が使える、使えないよりも、
数を集めることが優先されてました。
数が多ければ多いほど、
その中に自身を正当化させやすい情報が見けやすくなると考え、
また、情報を探している最中に興味が惹かれる情報を見つけた時などは、
今取り組むべき問題から、目を逸らせることもできるので、
正当化の為だけでなく、
「問題に取り組まなくてよい理由探し」としても、
せっせと収集をしていたことが間違いでした。
これでは、目的にそぐわない行動をしてる時でも、
それに気が付こうとせず、突き進んでしまいます。
その他、順調に復元が進んでいる人に対しての嫉妬から、
嫉妬している自分を見ない様にするために、
嫉妬した投稿の内容を参考にしないようにするなど、
結果的には、自分で自分の足を引っ張っていることもありました。
以上となります。
続く
_________
■内容がアンケートと混在していまいますが、
トラウマ・ACに関する報告です。
三人兄妹の「末っ子」の立場の事例
●「五円玉事件」のあの方からです。
鈴木崩残 様
もう少し掘れてきたところがあって、
今日は、そのことを書きます。
兄のことです。
先週、兄からメールが入っていて、
母の容体がよくなくて、状況的に厳しくなっていると書かれていました。
母は、現在施設に入っていて、入院をしたり、
また施設に戻ったりの生活をしています。
普通のご家庭なら、「あら、お母さまが大変なのですね」、
となるのだと思うのですが、
もう私は、これだけで重たくて、へしゃげてしまうのでした。
私が母と最後に話したのは、今年の2月の中旬でした。
病院の退院が決まり、施設の入居へと移行するときでした。
その頃、母はしつように私に電話をかけてきて、
「今度はいつ帰ってくるか?」と聞くのでした。
私は、その頃、もうその母の「いつ帰ってくるか?」が
「お前は、私のシモベでいるよね?
ずっといるよね? だからすぐ帰って来るよね?」
の、確認の声にしか、聞こえてこなくなっていました。
私は、もうこの秋・冬で4回も帰省しているし、
「もう、そんなに帰れない」、と母に告げました。
でも、母は「そりゃ、娘には会いたいよ。」と言ってくる。
私はなんか、感情こみあげてきて、
「だから帰れないって言ってるでしょ!
それに、お母さんも施設に入ることに決めたのだったら、
そこでどういう風に生きていくか、自分で考えたらどうなの?
私に頼るのではなくて。
そして、今までの自分の家族、一体どうだったか考えたらどうなの?」
ということを言い、
それから口論になったのですが、どういう言い合いになったか、
あまり思い出せません。
でも、私が何か言って、おそらく、
「だから帰れないって言ってるでしょ!」みたいなことを言った後、
母は、黙りこくってしまいました。
私は、いつもの手だよ・・と思いました。
母は、困った状況になると、黙りこくって、
相手が口火を切って手を差し伸べてくるのを待つのでした。
でも、自分、その時は、母にそんな癖があったことも忘れていました。
もう、長く一緒に住んでいなかったし、
たまに帰省しても1泊ぐらいしか私がしないためでした。
でも、私はその母の癖をどこかで覚えていて、
ここでいつも通りに手を差し伸べてはいけないと思い、
私も黙って応戦していました。
ものすごく長い沈黙が続いて、時間は計ってないですが、
ほんとに長い沈黙で、私も嫌になって、
たまに携帯をテーブルに置いて耳を離したりして、
それでも沈黙続いて、そして、ブツンと切れました。
母の方から切りました。
その2日後、母は真夜中に、私の携帯に電話をかけてきていました。
でも、3コールぐらいで、母の方から切っていました。
多分、また応戦になるのが、嫌だったのだと思います。
***
今回の兄からのメールで、今まで母のことを掘ってきたこと、
そしてその様相とが、どさっと体の上に落っこちてきたような、
そんな感じになったのでした。
あと、もう一つ聞こえるのが、兄の心の声でした。
母の容体を伝える兄の短い文面から、私はこんな声を聞いてしまう。
「お前が、お母さんを殺した。
お前が、お母さんを殺した。
お母さんの精神的ケアをするのは、お前の役目だろ?
お前が帰ってこないから、お母さんはこんなに弱ったじゃないか。
それに、こっちはお母さんの介護で、大変なんだ。
お前、少しは手伝えよ。」
私は調教されたせいもあるかもしれませんが、
母が、何を望んでいるか、子どもの頃からわかる子どもでした。
なので、母が入院をした時とか、学校の帰りに病院に寄ったりして、
よく世話をしていました。
母にとっても、思い通りに私が動くので、安心だったのだと思います。
そして、小学3年生の頃、
父と母が大喧嘩をして、茶碗とご飯を父がぶん投げて、
床に散らばっているのも、私が一緒に母と片付けたりして、
何か、そういう役回りを自分でもやってきてしまった。
バラバラな家族を、自分がパイプになって繋げなきゃという意識が働いていました。
誰から言われたわけでもないのに。
天音さんは、
「自分が働かなきゃ、家族の生活ができなくなる。」と思っていた。
と、ブログにも書いていらっしゃいました。
私は、「私が精神面でこの家族を支えなきゃ、バラバラになってしまう。」
と、思っていました。
私は、どうも、そういうタイプのACだったようです。
そのことをずっと考えながら、
もう一度、幼少時代のことを思い出していました。
***
私は、兄と姉がものすごい大喧嘩をした日を覚えている。
それは、一日で済むものではなくて、なんか、三日ぐらいかかっていた。
***
その喧嘩の内容は、「部屋の取り合い」でした。
私は赤ん坊のころ、南向きの六畳の部屋に、
兄と姉の机が確かに並んであったことを記憶していて、
その「南向きの六畳」に、母と私、祖父が入り、
兄と姉が「東向きの4畳」か「北向きの4畳」に
それぞれ分かれて入ることにしたのだと思う。
私も幼いので、記憶、確かではないところもあるかもしれませんが、
姉は、その「北向きの部屋」に入るのを、ものすごく嫌がっていた。
それは、私にもわかる。
薄暗くて、窓もなぜかその部屋だけスリガラスで、冬、ものすごく寒い。
押入れがあって、父の本棚、タンス、母の鏡台、ミシン、
なんかいろんなものが置いてあって、ものすごく狭い。
どう考えても、子どもが良く成長するように、配慮された部屋ではなかった。
兄と姉の喧嘩は声を張り上げるようにして続いていて、
母がその仲裁に入るような恰好になっていた。
でも、多分、母も、兄を「東向きの部屋」に入れたかったのだと思う。
ちょうどその頃、兄は中学1年生で、
それもあって部屋を分けたのかもしれませんが、
日の当たるいい環境で、勉強してもらって、
いい高校に行ってもらいたかったのだろうと思う。
なんか、多分、母のそういう策略があって、それもあって、
姉は抵抗をし続けたんではないかと思う。
私はそのあと、北向きの部屋に、姉の机が設置してあるのを見て、
「お姉ちゃん、負けちゃったんだ・・」と思った記憶がある。
そして、この大喧嘩の後、兄と姉は、一切、口をきかなくなった。
この後、永遠に、仲直りはなかったのです。
***
おそらく、あの北向きの部屋は、
父と母の寝室に使っていたのではないかと思う。
母の鏡台、母のミシン、父の書棚、
タンスの上には父がスポーツ大会で優勝して取ってきたトロフィーがいっぱい。
どう考えても、夫婦の部屋だ。
最初から子供部屋だったはずがない。
そして、兄と姉の決裂があってから、
家族で一緒にご飯を食べることがなくなった。
朝も、夜も、バラバラ。
それまでは、台所のテーブルで一緒に食べていた記憶がある。
私専用の、肌色の背の高いイスがあって、
兄か姉か、または母に「よいしょ」と乗っけてもらっていた記憶がある。
兄はテレビを見ながらご飯を食べたり、
姉は、ご飯いらないと言ったり。
家の中で、顔を合わせないようにしていた。
そして、もう一つ、思い出した。
ある時期について、思い出していた時、
またもや、自分の胸が痙攣する感覚があった。
それは、なにかと言うと、「ふすまの音」でした。
ちきさんも、ブログで似たようなことを書いていらっしゃいました。
ちきさんは、お父様のパーンと閉める音だったようですが、
私は、兄と、姉のふすまを閉める「パーン!という音」でした。
これは、連日のようにというか、ずっとあった。
これは、誰かに聞こえるために、こうやって閉めるのです。
兄の場合は、姉。
姉の場合は、兄、そしてその肩を持つ母、末っ子でチヤホヤされる私。
そのふすまの音はこう言っている。
兄のふすま:「お前(姉のこと)なんか、いない方がよっぽどマシ!」
姉のふすま:「みんな、私のことを、のけ者にして!!」
私は、このふすまの音がすごく嫌だった。
そして、そのふすまの音がパーン!とし終わると、
それぞれの部屋から大音量の音楽、ラジオの音が聴こえだす。
それは、1日も休まず、365日、ずっと続いた。
兄が大学で、家を出るまで。
でも、兄が出て行ってからも、私を嫌がって、
姉はパーン!とふすまを閉め続けた。
結局、穏やかにふすまが閉められた日は、一日もなかったということです。
私は子どもの頃から、姉のことが嫌いだったと思っていた。
実際、バカにされたりで、好きではなかったと思うのですが、
思い出してきて、私の中にも一つの作用が働いて、
「そう思う」ようになっていたのではないかと考えはじめました。
私は、多分幼稚園が終わる5歳くらいまで、
「飛行機」と言って、兄とか姉が、下に寝っころがって膝を曲げ、
その膝の上に私が乗って、手で支えてもらい、
ぐらんぐらんと揺らしてもらうという遊びをよくしてもらっていた。
それは、兄の部屋でやってもらっていた記憶と、
姉の部屋でやってもらっていた記憶がある。
私は、姉の部屋で、姉にその遊びをしてもらっている時、落ち着かなかった。
私はその大好きな飛行機遊びをしてもらっていても、
心から楽しんでいなかった。
それは多分、兄の目があったからではないかと思う。
「へー。お前、そっちに付くの。」みたいな。
それ、直接言われた経験はないですが、
多分、私の中では、母と兄は「セット」になっていた。
なので、母と兄に敵対している姉と遊ぶことは、
実質、私から母が「遠ざかる」ことを意味していた。
だから私は落ち着かなかったのだと思う。
そして、その感覚を、私は「姉のこと、嫌い。」という風に、
すり替えてしまったのではないかとも思う。
そして、それが発展して、
兄と一緒に姉を嘲るようになってしまったのではないかと思う。
父が単身赴任でいなくなってから、
家は無法地帯と化してしまった気がする。
もしも父がいたら、何か大きく変わったかと言えば、
全く期待できないですけれど。
どっちであっても、
結局は、無法地帯のままだった可能性が高いですが、
兄が、あそこまで、のさばらなかったかもしれない、とも思う。
すっかり、家は、兄の天下統一、
(母は、その兄にお仕えする女中さん)となっていた。
先日、掲載された桜の間の「三人兄弟の場合」の投稿を読んで、
私は考えていました。
私の家では、
「お兄さんだから***しなさい。」
「末っ子なんだから***しなさい。」
というセリフが、一度も出てきたことがない。
私の記憶する限りでは、このような自分の役割りを示す言葉を、
父からも母からも聞いたことがない。
つまりは、父も母も、子育てをしていなかった。
父も母も、三人の兄弟を、
結局は選別・排除・調教にしか使っていなかった。
兄と姉との大喧嘩は、兄と姉との問題だと思っていたけれど、
自分の中にも、この地点から傷が入っていたのではないかと思います。
毎日聞かされた、怒りに満ちた「ふすまの音」。
兄の出す、大音量の音楽。
顔を合わせない兄弟が、家の中にいること。
そして、どっち側かに付くと、落ち着かない自分が生まれること。
そして、どうしても、母の領域についていたい自分。
こんな状態で、家の中で育って、
外に出て近所の子とままごと遊びをしていると、
母から呼び出しを受ける。
「ちゃんと、自分を主張しなさい。人の言いなりになっていてはダメ。」
母に叱られて、またままごと遊びに戻る。
私は、母の視線が気になって、遊びどころではない。
私はこうやって、人の承認ばかりを気にする人間になっていったのか。
何だか、360度、365日、そんな日々しかなかったようにも思える。
母は、多分、私が姉と同じように、
「いじめられる子」になってしまうことを恐れていたのだと思う。
過剰にそのことを恐れて、
なるべく早いうちに自己主張させるようにしないと、と思って、
私を呼びつけたに違いない。
その「いじめられる子」を育て上げたのは、あなた、母自身だったのに。
そして、自分は、「自分はどうしたいか?」なんて、
全く考えない人間になってしまった。
常に見捨てられない側につき、
相手の望むニーズに応えながら生きて行く。
それが、私のライフスタイルになってしまった。
私は、やはり、がらんどうです。
私は、この家族によって、
一つの神話を信じ込まされて生きてきたような気がする。
「姉は、悪い人物だ。
実際、万引きもしたし、家出も何回かした。
借金も沢山した。
兄宅には、包丁持って押しかけるとまで言い放った」
これらは、すべて本当のことではあるのですが。
しかも、母も兄も、姉のことは
「あの子は、子どもの頃から、扱いの難しい子だった。」と言う。
確かに、そういう要素も多分に含んでいたと思うけれど、
もう一つに、この神話を、誰かが作り上げた可能性もある。
それは、自分に有利に働くためだ。
そして、その神話を家族で共有し、自分の身を守るためだ。
この神話は、父、母、兄、そして私も加担して作られた。
父は、この神話を世間体のために利用した。
「あの子だけ、元々の性質が問題で、うまく子育てできなかった。
ほかの二人は、普通に育ったのですから、
自分の育て方に問題があったわけではないのですよ。
わかってくれますよね?」
母は、自分の生きる理由に利用した。
「あの子には、私がこうやって、お金を送ってあげないと、
何もできないのよ。
それに、また借金作らせちゃったら、問題になるじゃない。
私がいないと・・・。」
兄は、母をぶん盗るために利用した。
「あんな悪人に、母親をまかせられるか!
俺が家を建てて、一緒に住む。
もう、これでお前(姉)の出る隙はないさ。
やっぱりお前は、いない方がよっぽどマシなのさ!」
私は、言い訳に利用しました。
「私は小さい頃から姉のことが嫌いです。
姉の体は、ツンとする嫌なにおいがします。
いつも上から目線だし、だから、近づかないんです。」
私の家族は、家族の一人を悪者にするという意味での、
「一神教」だったことは確か、かもしれない。
***
兄にからむ、私の幼少の頃の記憶を、一つ書きます。
3輪車に乗り始めた頃で、多分、私が2〜3歳です。
私は、何かイベントがあったのか、
オレンジ色の風船を一つもらってきていました。
それは、当時まだ珍しかったメタンガスで膨らませたもので、
私は、ふうっと浮いたままのその風船がすっかり気に入っていました。
いつもの風船とぜんぜん違うからでした。
私はそのオレンジ色の風船を3輪車につけて漕いでみたくなりました。
それで、多分、兄にねだってか、
母に言って、兄に付けてもらうようにしたのかは思い出せないですが、
とにかく、兄に、3輪車にその風船をつけてもらいました。
兄が、3輪車のどの部分にその風船の紐を括りつけたのかは思い出せないのですが、
兄は「早く漕ぐと、はずれるからな。」と注意しました。
私は、風船を取り付けてもらったことが嬉しくて、
さっそく3輪車をこぎだして、そしてやっぱりぐんぐん漕ぎたくなって、
庭をぐぐぐっと進んでいきました。
でも、そのぐぐっと漕いだ何歩目かで、風船の紐がはずれてしまって、
オレンジ色の風船は、あっという間に空に上がって行ってしまいました。
ほんとにそれはあっという間で、雲のすき間に入っていくように、
そしてあっという間に見えなくなってしまいました。
私はもう、あんな風船、2度と手に入らないと思っていたので、
3輪車で道路に出て、漕いで追いかけようとしていました。
でも、もうどこに行ったか、わからない。
私はどうしていいかわからなくて、わああっと泣きました。
本当にあの風船とあっという間にお別れになってしまって、
どうしていいかわからない。
場所がわかったら追いかけて行くのに、空に昇ってしまって、
もうほんとにどうしていいかわからない。
そして、今、ここにあったのに、いなくなってしまって、
それが、とても悲しい。
でも、兄は、
「だから、早く漕ぐなって言っただろ!!」と言って怒るのでした。
また、その怒られたことで、私はさらにわああっと泣く。
多分、兄に怒られたのが、この時、初めてだったのではないかと思う。
もしかすると、父にもそんなに強く怒られたことがなかったかもしれず、
ほとんど、私は免疫を備えていなかった。
私はただもう、泣きじゃくった記憶がある。
風船が飛んで行ってしまったの、自分のせいだと思うと、ものすごく悲しい。
兄も、私を怒るのではなくて、
「残念だったね」とか、「また風船もらえるといいね」とか、
そういうこと、言って欲しかった。
なんか、風船の悲しみと、怒られた恐怖心とが交錯してしまって、
飛んで行った風船の悲しみを、なんか、すくい取れないでいます。
でも、早く漕いだと言っても、
そんな3輪車で猛スピードが出るはずもなく、
兄が一体どういう括り付け方をしたのか、その辺も少し微妙なのですが。
私は、このことを思い出した時、
父が怒るツボと、兄が怒るツボで、違いがあるように思えました。
父はひたすら、世間体を気にして、
そこに自分の「恥」が発生すると怒りました。
私が幼稚園の頃、近所の人が家にお菓子を持ってきていて、
きれいで、かわいくて、そして美味しいお菓子に私は夢中になり、
どんどんお代わりをして食べた。
父は、お客さんがいる間は、にこやかにしていましたが、
帰った後、豹変して私を怒鳴りました。
「こんな、恥ずかしい子供は、見たこともない!」
父からすれば、こんなお菓子を人前でお代わりするなんて、
躾がなってない。
そして、子どもに普段お菓子を与えていないと思われたとして、
その「恥」に火がついて、私を怒鳴ったのでした。
兄の場合は、「だから言っただろ!」形式なのでした。
つまりは「俺の言うことをきかないと、こんな目にあうんだぞ!」的な
怒り方になる。
これは、成分だけ取り出すと、母とよく似ているのでした。
5円玉だけ渡して、「なんにも、買えなかっただろ?」というのと、
やり方は違うけれど、似ている。
母のやり口は捻じ曲がっていて、汚いですが、
兄のやり口は、そこに恐怖心を持たせる。
私は、この「恐怖心」、なんとなく、今も抱えている気がする。
今回、兄からのメールを受け取って、ふさぎ込んだのも、
ここに原因があるかなと思う。
兄が、母との同居を言い出したのは、唐突でした。
今から6年前ぐらいですが。
当時、母は、実家のそばの病院に入院していました。
その病状は、それほどひどいものではなくて、
1ヶ月ほどの入院で自宅へ戻れるものでした。
私は、当時は、どうして兄が唐突に両親と同居すると言いだしたのか、
よく考えませんでした。
でも、今、よくよく思い出してみると、
もしかすると、姉のことが絡んでいたのかなとも思う。
姉は、この母が入院していた1ヶ月の間、
実家近くのアパートから、しょっちゅう母の面倒をみにきていたのでした。
そのことは、母もよく話していて、
「あのときは、***ちゃんに、ものすごく世話になった。」と言っていた。
私は何となく、兄が、
「このままでは家の実権を、姉に取られると思ったのではないか」と、
考えるようになりました。
兄は、何でも先回りして、相手に何も言わせないというか、罪悪感を持たせる。
そういうやり方をしてくる。
両親、特に母親を自分の自宅にかこってしまえば、
他の兄弟は、自分には歯向かえなくなる。
そういうことも絡んでいたのかなとも思う。
そして、私が2〜3歳のころに起きた、兄・姉の大喧嘩は、
結局今も続いているということなのでした。
その大喧嘩の巻き添えを、幼いころから食っているのは、この私でした。
今回の、兄からのメールが来て、そして、ふせって考えて、出た結論は、
とにかく、この家族がねつ造した「神話」教からは、脱会するということ。
そして、いまだに続いている兄と姉のふすま閉め合戦には、
もう、参加しないこと。もう、参加しなくていいこと。
そして、もう一つ、思いました。
子どもの頃からの兄と私の関係は、
なんだかそのまま恋愛の「ひな形」になっているのではないかということ。
そういう意味で、父が単身赴任で自宅にいなかったために、
その分、兄の影響が、私に巣食ったかなとも思う。
兄は、一見、私を可愛がったように見えるけれど、
(他人から見れば、おそらくそう見えた)、
実際は、「恐怖」で操っていた。
お前、裏切るわけ、ないよな。
お前、俺の言うことに逆らわないよな。
お前、あの秘密は、誰にも言わないよな。
お前、俺の趣味、例えば音楽の趣味、わかるよな。
お前、俺の買い物、つきあうよな。時間がオーバーしてもつきあうよな。
***
今日は、ここまでにします。
何となく、父の方は、単純というか、処理がしやすい気がするのですが、
母方の方、特にその母の影響(養分)をもろに吸い取った兄は、
面倒な気がしてしまう。
もう少し、掘り進めていきます。
_______________________________
★
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