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[252]
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★分割自我復元★その252 ■ 『自我と無自我のハザマ君』 と■「自我復元ブログ一覧表」■
by:
鈴木崩残
2013/07/31(Wed)05:20:48
トラウマ・AC・調教により作られた
「仮(偽)人格」→「原主体」→「意識」
【まずは、動画から】
■「梅の間」の「AC掘り出し用の動画」を、
より効果的に改良した、トラウマ発掘用の動画です。
前半部は、撮影した時の「生の音」のままです。
後半のスロー映像にだけ、私が作ったCDからの効果音を入れてあります。
固体にされた二酸化炭素であるドライアイスが、
「気化」する映像と、その泡の音である、という点が私の狙いです。
http://www.youtube.com/watch?v=GICQI-AhyQ4
映像としては、↑の「梅の間」にある動画の方がいいのですが、
「音」としては、今回の方が、私は好きです。
この動画の音を、部屋に流していると、
本当にドライアイスが、今部屋の中で泡を出しているようなリアルな音です。
↓
*********
●私は、復元ブログを書いている人の記事に目を通すときに、
微笑むこともあれば、感動することもあり、涙することもあります。
むろん、呆れたり、頭を抱えることもあります。
しかし、私の意識に、時々、グサっと刺さる事を書く、という点では、
マディアさんの言葉に、だんとつにその力があります。
力というより「質」です。
今回は、この投稿の中に、その言葉がありました。
↓
http://jigafukugen1987.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
>・「自分の首を絞めている観念」について
>私は「なんでもないかもしれない」自分が怖くて、
>妄想で、上塗りに上塗りを重ねた自分しか見ようとしなかった。
中略
>けど、よく見つめた先に、「なんでもない自分」がいたとしても、
>だから何だっていうの?
>どうして、「何者か」になる必要があったんだろう。
*********
●正直言いますと、
自我復元法を作り出したときに、それは、「こうした意識の領域」を、
副産物として、引き連れてくるとは思いませんでした。
ただ、この2年ほど、何人かの報告を見ていて、
たまに、このピュアな鉱脈にまで、
手が届きそうになっている傾向がある人が、ごく「稀に」いました。
しかし、この事を語ると、自我復元のメインからは逸れるので、
あまり深くは、気にしないようにしていました。
●しかし、マディアさんのこの言葉で、私の中では揺り動かされるものがあったと同時に、
あらためて、「トラウマ人格とは何か」、と同時に「原主体とは何か」、
ということが、明確化しました。
話が、あちこちに飛ぶと思いますが、
皆さん個人に、関心のない話が出てきても、
少し、我慢してお付き合いください。
*********
●マディアさんの言葉をさらに引用します。
>異常だ。
>常に自分を肯定し続けなきゃいられない、精神状態。
>それこそが、へんなフィルターになっていた元凶。
>それをやめてみて、見えてきたものは、
>何もかも、「そのまま」だったんだっていうこと。
>別に、否定する事も、無理に肯定することもない。
>ただ、そこに事実や、事象がある。
*********
●それこそ、古くからの無明庵の読者の人たちは、
このマディアさんの言葉は、
どこかで聞いたことのある言葉であるはずです。
それは「禅の真髄」です。
あるいは、老子・荘子の根幹部分にかかわる部位です。
●全く精神世界とは無縁のマディアさんが、
誰からの借り物でもない、自らの自我復元の体験の中から、
こともなげに、この言葉を「紡ぎ出した」のはなぜか?
それが、今回の話のメインです。
*********
●人間は、自らの中に、何かを「やりたい」と欲し、
それを実行し、結果を見て、そして休息をし、
また次の衝動に移行します。
何かを「したい」と欲し、ただそれを行い、
満足して、もうしなくていいと、感じます。
基本的には、これは「食」の原理と同じです。
食べたい→食べる→食べた→食べないでいい。
●ただこれだけのシンプルな事です。
だから、何かをやりたいと思って、それをただ、やった、
そういう人の中には、
記憶の中に、「やりたくて、やった。」これしかないのです。
●しかし「AC人格」「トラウマ人格」が行う、または行ったと称する
歪んだ「自己実現」では、次のような本人の主張がここに加わります。
それは、
「私が」「やったんだ」、
「私の」「個性」だ、
「私の」「主義」だ、
「私の」「信じる道」だ、
「私の」「決めた事」だ
「私は」「苦労した、努力した」
「私は」 以下、云々・・・・
です。
前者とは、「力点」が違います。
前者は、”自分が「やったこと」”
つまりは、「事実や現象」を語っているだけですが、
後者は、”「自分が」、やったこと”つまり、「自分」に力点があります。
●ただし、私は何もここで、
「無我論」を持ち出そうとしているのではありません。
そうではなくて、
なぜ前者は、「事実」だけを見ているのに、
後者は、「私」の方を重視するか?です。
そうなってしまう最大の原因は、
これまでに長く、深く、多く、自我復元のテーマの一つとして、
「桜の間」で語ってきた、
>「トラウマ・AC・調教」が作り出してしまった「仮人格」によって、
>「自己実現」をしようとする事の害悪に由来するのです。
*********
●よく考えてみてください。
トラウマを受けた人、AC人格だけで生きるようになった人、
そして、傷を受けた記憶もなく、親に調教されたり、または、
親や家族全体の「影響」を受けて、どこかが歪んでしまった人、
この人たち、つまり皆さんに共通することは、
「自分」というもの、
「私」というもの、
これが、「ないがしろ」にされ続けた、ということです。
●親によって、または本人の思い込みによって、
「ないがしろ」にされたのは、
「私」であり、「自分」というもの「それ自体」です。
むろん、最初のうちは「部分的な否定」だったかもしれません。
たとえば、親の言うことを、よく聞く子、
親を楽しませる「チュー」をする子、
親に無抵抗でいる子、
親に手間のかからない子、
こうした子でいる時には、親から「良し」とされるか、
または、子供自身が自分で「よし」と思った事でしょう。
●しかし、親や周囲の意にそぐわない場合、
または、本人が、それでいいと思わない場合には、
その自分は、親から、または自分の中で、「ダメ」が発生します。
これが積み重なってゆくと、
自分の中の「何何は、よし」「何何はダメ」が形成されてゆきます。
自分の中で、その、「よし・だめ」を分別することは、
「その事、それ自体」は、悪いことではないのですが、
多くの場合には、その「よし・だめ」の基準それ自体が、
親の刷り込みによったり、
または、本人が「状況打破のために、我慢をして、あがいた結果の人格」が
判断していることがほとんどです。
●そして、問題なのは、
「ダメ」が、親から、または自分の中で、何度も繰り返されると、
とうとう、「何がダメで、何は良い」という分別の状態だけには留まらず、
>この『私』そのものがダメなんだ・・・・
という「全面的な自己否定」になります。
この「自己否定」とは、部分的に自分が突っ張っていられる間は、
なんとか、押さえ込めますが、
幼少期に自己否定の「根」があった場合には、
どう転んでも、必ず押してしまうほど大きな、
「自己否定スイッチ」を、背中に抱えて生きてゆくことになります。
ふだんは、気づかないで、突っ張っているつもりでも、
「あー、疲れた」と、仰向けになって休もうとしたら、
それだけで、その背中のスイッチが押されてしまい、
「この私」なんか、「いないほうがいい、いなくなってしまいたい」、
という、自己否定の「お経」を延々と唱え始める、
その背中の「大きなボタン」が押されます。
●そして、「ダメ出し」が、他者または自分の中で起きるたびに、
このボタンが作動する頻度が増してゆき、
しまいには、「何が、どう、ダメか?」を考える余裕もなくなり、
「この私それ自体が、ダメなんだ。生きている意味がない」となり、
自己の「全否定」にそれが近づいてゆき、
自傷行為または、自殺の衝動となります。
なにしろ、その「悩ましい、その自分それ自体」を消し去るのに、
もっともてっとり早く、安上がりで、簡単な解決法が、
自殺であるように見えてしまうからです。
●そして、この自傷行為と、その先にある自殺未遂を、
実行をした場合、も、実行をしなかった場合も、いずれの場合も、
「自分なんか・・・いないほうがいい」は、
死ぬまで、ずっとその人の心に、残り続けます。
*********
●さて、ここで皆さんに、よく考えて欲しいことがあります。
普通に考えれば、人が何かを、成し遂げたとき、
それが他人にどう評価されるか、評価されないかに関係なく、
成し遂げたときに、
どうして、
「自分が、それをやったんだ」、
「自分が、それを考えたんだ」、
「自分は、他人の事なんか関心ない」、
などと、わざわざ言う必要があるのでしょうか?
●その原因は、それだけ、その人の中の、
『私』『自己』が、それまでの人生の中で、
『存在してもいい』と、『認められなかった』ということです。
親から、「あなたは、存在していていいのです」とは、認められず、
また、自らの中で「私は、存在していていい」と思えなかった、
そういう経験が、多い人ほど、
『自己のだ』『私のだ』『私は、こうなんだ』の、
『私』を強調しています。
●親や、周囲や、自分自身によって、
部分的な、自分の性格や、自分の言動の否定に留まらず、
『「私」そのものが、いなくてもいい』と、
「自己存在それ自体の否定」にまで、否定感が食い込んでしまったらば、
逆に、その人が、いつも強調して、毎日のように、必死に、主張する様子は、
その人が何をブログに書いていても、
何を自分の手で作っていても、
将来、何になろうとしていても、
何を、たった今、やっていても、
それは、
その人の意見でもなく、
その人の作品でもなく、
その人の主義でもなく、
その人の趣味でもなく、
そこで、叫ばれている事は、たった一言です。
『私は、存在してもいいですよね!?』
『私が、存在してもいいという事を、否定する人がいたら、殺してやりたい』
『私のセンスと直感が、無明庵を発見したんだ』
これだけです。
これらの人たちの、すべての力点は、文頭の「私」にのみあります。
●この、「トラウマ・AC人格」は、何が言いたいのかというと、
『子供のころに、私は、部分否定され、
のちに、自分でも、全否定するようになりました。
そんなの嫌ですから、誰か、私が生きていてもいいと、
私に、言ってください。』
という「自己存在の意味」「自己存在の価値」を、
自分で捏造しようとしたり、他人からお墨付きを得ようとします。
こんなことを動機とした、
どんな形の、結婚も、同居も、恋愛も、
仕事も、創作活動も、人助けも、修行と称する行為も、
本人にとって、または周囲にとって、上手くいくはずがないのです。
●その人の、偽人格が言いたいのは、
「私のことを見てください」
「私の存在を認めてください」
「私が死ななくてもいいと、言ってください」
たった、これだけだからです。
●余談ですが、これは昔の話であり、
今の私は、決して次のような事は言いませんが、
かつて、昔、私の耳には、
この「私の存在それ自体まで、否定をしないでください」は、
人間たちから発する、思考と感情の雑音の中でも、
最も聞くに堪えない、最も醜い、不潔で、耳障りなノイズでした。
*********
●しかし今は違います。
実際、自我復元で、その主権を取り戻そうとしているのは、
その皆さんの中の「自己」であり「自我」であり、
「私という意識」だからです。
●しかし、自我復元の過程で、
特に、ここ最近になって、私が皆さんに取り戻すように言っているのは、
否定された「自己存在そのもの」、
または自らの手で否定してしまった「私という尊厳」に対して、
>『否定 を 否定 するため』に育ってしまったほうの「私」ではない、
ということです。
その「自己否定を否定しようとする人格」のことを、
「仮人格」とか「偽人格」と暫定的に名づけておきます。
「トラウマ・AC人格」という言い方でもいいです。
とにかく、それは、「無傷だった原主体」ではありません。
●そして、これほどまでに、
「自我の復元をしてください」
「自己を取り戻してください」
「あなたは、あなたでいなさい」と、
「自我復元のプロセス」では、言われ続けているにも関わらず、
>あなたが取り戻すのは、「AC人格の持つ自己意識」ではないのです。
●他人の誰かから「存在して、生きていてもいいですよ」などと言われなくとも、
それ自体の力によって、歴然と「既に、存在している自己」、それを全自我といい、
「先天性全自我」の人にとっては、「自分がいてもいい」のは、
宗教やら他人に関係なく、「自分でそう決めたこと」という認識が、
生まれた時から、全く当たり前の事なのですから、
いちいち「自己確認」の為にする活動や創作などは、要らないのです。
●一方で、後天的な「自我復元」の過程で、
「原主体」に接近したり、またはその影響が始まっている人は、
それまでよりも、とても「個性的」になります。
また、とてもはっきりと「主張」を始めます。
しかし、
「自己」主張は減ります。
なぜならば、もうかつてのトラウマ・AC人格のときのように、
「私は、まだ、生きて、いても、いいんですよね?
お母さん、お父さん、または、神様でも宇宙人でも、なんでもいいから、
誰でもいいので、私にも、生きている意味があると、そう言ってください」
とは、「トラウマ・AC人格」が、叫んでいないからです。
●では、「原主体」とは何なのか?
>汚染されていない原主体とは、
>誰からも否定されたこともなく、
>誰からも、肯定されたこともなく、
>誰からも、肯定をされる必要もなく、
>何も出来なくても、何者でもなくても、
>最初から自己存在感を保障しているもの。
かつて、地球上の全ての人々が、
契約によって、保障されていた「乗り物」の最大の「機能」とは、
この「自己存在感覚」でした。
「100%の明晰な自己存在感覚」こそが、
原型自我の時代に、この惑星で、新しく経験できる事を、
保障されていた感覚なのです。
>この重要かつ、「もっとも基本的な認識機能」が、
>自我の分割・希釈によって損なわれてしまったために、
>希釈された人は、「自己存在感覚」そのものに、
>常に、確信を持てなくなるといった、不安が蔓延したわけです。
>そうなると、他者からの「存在否定」に対する「免疫力・抵抗力・自己保存力」が、
>自我率と平行して、どんどん脆弱になりますから、
>昨今、当掲示板で話題にしているような、
>「トラウマ」「AC」「調教」の影響を受けてしまうのです。
●私は、それを安直に、人の「高次自我」であるなどとは言いませんが、
それに「関連をする」、「同一の直線上」にあることは確かです。
それは純粋な意識とは、決して同じものではありません。
しかし、全く違うものとも言えません。
なぜならば、最も「純粋化」された「自我」は、
同じく、最も「純粋化」された「意識」に、共鳴をするということだけは、
ひとつの「法則」だからです。
高度な発達をした自我と欲望は、
高度に発達をした無我や無欲に「共鳴」をします。
この場合の、「高度な発達」とは、
「臨界点に至るような、徹底的なまでの加熱をした」という意味です。
●そのことを、短く、全く無駄のない、
リアリティーのある状態で、書き記したマディアさんの言葉が、
今回、私のある意識の部分を、カツンと、打ち鳴らしました。
「アート」
この言葉、日本語では、「芸術」とでも、訳せばいいのだろうか?
それにしても、アートとは、何とも、軽い言葉です。
絵画、音楽、舞踊、文学、芸能、芸術、そして芸当、
いずれも、「人間様」なる者たちや、
あるいは、一部の、「異星人さま」なる者たちが、
大げさに、やっきになって作り出している道楽を「アート」と呼びます。
●次のリンク先は、「ややこしい話」なので、
こんなものは、最後に読めばいいですが、
いちおう、「語源」のあれこれについての解説なので、リンクしておきます。
↓
http://www.soumei.org/artist-information/art.html
↑
読みたくても、これは、「あとまわし」にしてください。
*********
そして、話は、突然に、ここで、飛躍します。
●全自我に復元した方から次のようなメールを戴きました。
(メールの中のごく一部です。)
・ひとりめ
自己最短打剣数での成功動画を見ました。
わかりやすかったです。
>私が成功させたのではなくて、成功が「起きました」
という表現はピッタリですね。
死人禅をしだしてから、日常生活でも、突然ふと自分が消えるというか、
無心というか、短時間ですがそういった状況になることが、度々あります。
自分のそういった状況に気づくこと自体が全自我になって、
意識が高くなった証拠だと思います。
******
・ふたりめ
アンケートの回答として、掲載された自分の文章を改めて読んで、
随分酷く関わっていたのだなあと思いました。
特に、「情報を正確に機能させることには、関心がなく」などは、
自分の文なのに、自分でもカチンときて、
思わず、「そんな人はこの掲示板を見ないでください。」と言ってしまいます。
しかし、酷い内容でも、
今回の文章は、まさしく私の姿であり、
私のしてきたことだという実感もあります。
そこで見えてきたのは、
「他人からどう思われるか?」ということに関して、
私が足を引っ張られやすいことです。
今回のように、自身の間違いを抽出する状況では、
他人は不要な場合もあるのですが、
復元前は、「こんなこと書いたら崩残さんから怒られるだろう。」
とか、まずは考え、
目的は「間違いの抽出のはず」なのに、他人の目線を意識するが為に、
他人から、怒られたり、嫌われない為の文章を書こうとする行為にすりかわって、
本来の行為の足を引っ張っていたとも考えました。
自分の問題の意識化作業さえも、他人の影響を受けていることを、
「正常」だと思い疑わない。
この、間違いが、あたりまえとして、居座っている状態、
それを承諾していた状態が、過去の自分の状態です。
これは、私が二度と陥ってはならない状態であり、
今後も監視の必要があります。
○7間距離からの無心剣成功の動画見ました!
まるで、風景の一部に崩残さんがなっているようにも見え、
強烈な存在感があるというわけではなく、
むしろ、無心剣の時の気配は、
より、主張が少なくなっていくように見えました。
時々、風景から崩残さんが浮き出してきますが、
無心に入る動作と供に、また、風景に溶けていきます。
手裏剣の軌跡を眺めていると、
時間の流れの先で、通常ではありえない結果を出す、というより、
ありえない結果は、先に存在しており、
それが後から具現化されていくようです。
現象と結果の乖離が無くなることで、
結果的にイメージした事が具現化されていくように見えました。
何か奇跡的な事をするには、
「おっしゃ!やるぞー!」という風に、気合を入れ続け、
持っているものを全開にして行うので、
気配が強く出るものだと、考えていましたが、
動画からは、「まったく逆の気配」を感じることが興味深いです。
(以下の黄色の文字部分は、この方に私が返信したもの)
> そして、体が動いてゆくのを意識しつつも、
>それを一切邪魔せずにそれに身を委ね、
>他人事として傍観するという状態も絶対条件の一つである事を痛感しました。
私の場合、傍観の座標が「頭の中(内部)」にあることが多く、
これは精度が甘い為だと思いました。
気が付けば下から上を見ているので、やはり、甘い。
そもそも、集中している自分が見えてしまっている時は、
失敗していると判断しています。
体の動きを意識していると、
きっかけを基点にし、ピクンと反応から動きだすことが多いので、
練習の必要があります。
>「成功画像」を撮ろうという魂胆ではなく、
>「無心に入れているかどうかの記録、チェックの為の映像」として、
>撮影する心構えが必要ですね。
私の場合も成功に近づいた時は、成功画像を撮ろうとしなかった時です。
魂胆や期待があると、関連した思考の乱入が増えるように思えます。
たとえ同じ結果に向かうとしても、
心構えで具現化の効率が変わるのが興味深いです。
*********
●重要なのは、「ふたりめ」の方のコメントです。
無心だから凄いのだろうとか、
無心だから意識が高いとか、どうのこうのが重要なのではなく、
この方が、このように、動画の情景を、
「詩的にすら描写」できているところが、注目に価します。
この方の場合には、アーチェリーで、無心剣と類似することを
これまでに実験されてきたので、
なおさら、私と共有できる「共通の感覚」が多少あります。
●ちなみに、「芸」というキーワードで言えば、
私が手裏剣術で、やっている、ああしたことは、
武芸でも武術でもなく、
「的当ての遊びである」という点から、『芸当(げいとう)』と呼び、
まさに「当てる」という字を、当てはめるのがいいと思いました。
ただし、「私」が、「当てている」のではなくて、
『勝手に、当たっている』のです。
そして、ここが、今回の話に戻る「帰路」となります。
*********
●松の間にある、今回の「無心剣」の動画を、
私が、最も見てほしいと思う人は、「マディアさん」です。
この投稿の「最初の動画」
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1152
●前述したリンク先の、
「アートとは何か」という薀蓄タラタラ」の解説の中の一文に、
「天岩戸の前で、裸踊りをした有名な女性の神話」が出てきますが、
あの解説によれば、私は、どうやら、手裏剣や書を書くときに、
毎回、トランス状態で、裸踊りをしている事になるらしい。
●マディアさんにとっての、最高のアートとは、
「原主体」が乱舞し、AC人格が、ひっこんでいる場合だと思います。
以前に、そういう状態で、気楽に、湧き上がるように、
作品を創られたという話を聞きましたので。
●そして、
私にとっての、アート、つまり「芸当」が生まれる瞬間とは、
「私」が「いない」ときに限ります。
あの動画の中では、ふたりめの方が言った通り、
「私」が、現れたり、消えたりしています。
「私」が現れるときというのは、
むろん、その「私」とは、AC人格ではありませんが、
それでも、その「私」は、次のような、余計なことを言っています。
「刺さったら、いい画像をアップできるよな」
「刺さったら、またひとつ記録の更新ができるな」
「前にも出来たんだから、今度だって、出来るはず」
「いやいや、余計な事を考えている場合じゃない。
そうだ、無心になればいいんだった」
「いかん、いかん、体の力が抜けていない」
「今の投げ方は、少し良かったか」
「今のは、ダメだったな」
「風が、気持ちいいな」
「車の音が、うるさいな」
「なんか、後ろを人が通っているし、落ち着かない」
「鳥が、元気に鳴いているな」
「右の方にいた猫が、今、歩いていったね」
「・・何も考えなくなってきたな」
「・・・・うむ、いい感じだな・・・・」
「私ったら、的の方向を、全然、見てないじゃんか・・・」
「体の感覚が、、消えてきた・・・・」
・・・・「 」
えーっと、
・・・・・・・「 」
今、何をしているんだっけ?
あ、ーーーっと、・・・
・・・・「 」
・・・・・・・・「 」
・・・体が、あれ、あれーーー、動いてゆく・・・・
・・・・「 」
「パキン。」
「ん??」
「ん?・・ん???」
「刺さった? もしかして?? 刺さったのか?? おっ、穴に入った」
と、ここで、余計な思考が、戻ってきます。
*********
そして、この日の私は、ビデオの中でこういっています。
>『・・・んなこと、考えていたら、入りました』
●実は、「確率的には、限りなく不可能」なことをしたのですが、
私が、他の動画に比べて、「たいして喜んでいないこと」が、
その口調やトーンから分かると思います。
私の、今までの、過去のこの手の動画では、
「やった、やった」とか、
もう疲れ果ててしまい、「うー、やっとできました・・」とか、
言ったあとに「嬉しい」「よかった、よかった」という言葉が、
やたらに連呼されて入っているものもあります。
●これまでに、
・こうした固定したディスクの穴に刺したり、
・ディスクが、さらに糸で吊るされて、動いて回っていたり、
・ろうそくを倒さずに、炎だけを消したり、
・刺さっている剣の後ろに、もう一本の剣を刺したりと、
15回以上、いろいろなことをしてきましたが、
しかし、今回の動画では、私は、
「成功して、嬉しいな」とも、ほとんど言っていません。
小声で「よかった、よかった」とは言っていますし、
「やったね」と最後に一言だけ、強くはっきりと言っていますが、
今までよりも、感情は入っていません。
単に、
「短い時間で、出来ました」と、「事実と現象」を言っているだけです。
他の動画では、「なんとか成功させたい」という雑念が多すぎた例もあり、
そのせいで、成功したときには、その反動で、はしゃいでいるものもあります。
しかし、今回のは、最初から最後まで、私の声や口調のトーンが、
一定していると思います。
それは、撮影前から、無心の状態に入りつつあったので、
私の、思考や口調がフラットになるという影響を与えています。
そこが、この動画では、とても重要です。
●確かに、最初は、
自分や、視聴者を、喜ばせるために始めたこうした芸当だったのかもしれませんが、
今回のような、中立的な意識状態で行ったときには、
私の中には、成功しても、それほど大きな喜びはなく、
むしろ、一環して、最初から最後まで、淡々と状況説明をしているだけです。
■蛇足ですが、今までに成功した時の、さまざまなシーンもそうなのですが、
成功した時は、必ず私の体の動きが、
失敗している時よりもコンパクトです。動きが小さめになります
一切の「不要な余計な動作」は、それは失敗に繋がるので、
成功した時は、必要最低限の動作で、投げていることが多いことに、
今年になって気づきました。
これをアートに喩えますと、
必要以上の、線や色を、足さないこと、
必要最低限の音数で、曲を構成することなどに繋がってきます。
*********
●ここでマディアさんに伝えたいことは、
「自分が喜びを感じたい」と思ってやる動機のアートは、
少なくとも、私個人にとっては、アートではない、ということです。
これは、あくまでも、私見であり、私のアート観に過ぎませんが、
・アートは、「自己確認」の為のものではありません。
・アートは、世間で、まことしやかに言われるような、
「自己表現」の為のツールではありません。
・むろん、アートは「他人のため、世のため」のものでもありません。
・アートは、「それを喜ぶ主体」すらも必要しません。
アートは、
・「アートそれ自体(つまり生命)が、どうしたいのか」、
ということの「通路」に、自分がなることです。
その通路になり得るのは、「原主体」だけです。
「原主体」は、自らが、したいことは、むろん主張して言いますが、
そこに、他者が、「圧力や、賞賛を加えない限り」は、
それが、「たった独りで、存在している時」には、
苦しいとも、嬉しいとも言いませんし、
良いとか、悪いとかも言いません。
おそらくは、「楽しみたい」「喜びたい」「笑いたい」とすらも、言いません。
それは、「何かになりたい」とも言いません。
「あの時の自分」を取り戻したい、とも言いません。
そもそも、それは、
「私」、とすら言いません。
あなたは、きっと、そういうアート(つまりは自然)を鳴らす「笛」、
「中空の竹」で「在り」得る人だと、私は感じています。
そういう人に「なる」のではなくて、「なろうとするのでもなく」
そういう、「なんでもない人」で、「在る」ということ。
********* ********* *********
復元ブログの動向
☆「お姫ちゃん」さんが、性のトラウマや未解決の問題に取り組みはじめました。
☆「あたらし」さんが2〜3歳の記憶を掘り出しています。
☆「アビ」さんが、無明庵に辿り着くまでのシリーズを終え、不満を掘り始めました。
☆「天音」さんがセクハラにあったのですが、あれだとちょっと、
わかりづらいので、私が送ったメールからの引用で、少し補足します。
↓
あまねさま
>> 家に帰ってからは、大泣きでした。
>>「私はまた、私のことを、守ろうとしなかった。」と、思いました。
全然、そんなことないですよ。
だって、ちゃんと、振り切ったじゃないですか?
ちゃんと、守ったじゃないですか?
だから、守ろうとしなかった、なんて思うことはないです。
もしも、自己嫌悪しているとしたら、下記の部分かもしれません。
>>あの時と、同じ触られかたで、嫌だったのですが、
>>それを表に出すことがどうしても出来ませんでした。
それは、今は、まだ無理です。あんな嫌なことを過去に経験していたら、
そこで、すぐに「嫌悪感」を相手に対して、表に出す事は普通でも出来ません。
しかし、それをちゃんと相手に対してメールで表に出したのですから、立派です。
しかもですよ、・・・・その場で、凜として断わることが出来ても、
相手は酔っ払いだから、せっかく勇気を出して言ってたことも覚えていないでしょうし、
また、あまねさんが、無理をして、何か言っても、
その言葉がしどろもどろになってしまっていたら、
逆に、あとで、「もうちょっと、言い方があったのに」と、自己嫌悪にもなりかねません。
結果としては、表にすぐに出さないで、メールアドレスを会社の別の人に聞いたことが、
(他の社員にも自分の失態を知られるのではないか)という相手への強い威嚇にもなりましたし。
だから、すぐにその場で、表に出せなかった自分を、「今回は」、責めないでください。
しかも、こういうのって、どこで、「これはセクハラだ」と腹を決めて断るのか、
普通の場合でも、とても難しいのです。
たとえば、・・・・
天音さんが、逆に「同じことをされている女性」を飲み方などで見た場合、
そこには、二つの可能性があるからです。
1/ひとつは、女性が絶対に嫌がっていると分かる場合。
しかし、このときも、セクハラしている男性が怖いと、
同じ男性でさえ、「やめなさい」と言いにくい雰囲気があると思います。
2/そして、他人の、こういう場面を、傍から見ている側が、もうひとつ、困る問題は、
分けに入ると、「せっかくの恋愛のご縁を邪魔をしてしまわないか?」 という戸惑いです。
また、「セクハラに見えるが、女性の方も、まんざらではないのではないか」、
とかいう見え方をする場合もあり、周囲の人が、気を使って、
そういう、めんどくさい「憶測」をしないとならない場合があるからです。
さらには、他人が見ている街中で、世話になっている上司に恥をかかせることにならないか、
などと、いろいろな迷いが錯綜します。
いずれにしても、今回のケースでは、
明確に「ダメ、やめて、気持ち悪い、怖い、悲しい」というのが本心ですから、
メールしたのは良かったと思います。
「やめてください」と、すぐにその場で感情を出すだけが、解決法ではありません。
●また、さらに言うと、天音さんが、そこで、ものすごく冷静に、
熟女のように、「あなた、それは、おやめなさい」と相手に言ったとしても、
それで、天音さんは、自分は成長したと思うでしょうか?
それで、自我復元の効果だと思うでしょうか?
私はそう思いません。それでは感情をなくしたのと同じですし、
今の等身大の天音さんらしさも失います。
今は、まだ、そういう事を怖がっても、無理のないことですし、
また、その時に、思考停止してしまったり、
昔のクセで、反射的に、
「相手を誤解させるような、または、相手を逆撫でしないようにと、
何でもないような、平気な顔をしてしまった」としても、
それは、しかたないことです。
つまずきながら、「まだまだダメだな、あたしは」とがんばっている、
というその天音さんが、今は、天音さんらしいのです。
だから、今回のように、じっくり落ち着いてからの対応で、逆に、良かったのです。
たいへん、よくできました。◎◎◎◎
崩残
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