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Title
手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
他に類を見ないほど多く掲載されています。
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[1220]
■
手裏剣術講座 【直打法手裏剣術は武術ではない/その常識的考察】
by:
鈴木崩残
2015/06/23(Tue)06:04:44
>同日 14:00 更新=「ドッジボール」について本文の一部を訂正。
>6/24 8:40 更新=本文の一部を訂正し、文末に「総括」を追加しました。
>7/3 15:00 「剣術の為の手裏剣術」の動画を説明追加の上、削除しました。
手裏剣術を見た人々は、
どういう「思い込み」に陥ったか?
■これは、この過去、約20年間に起きたことです。
ここで言う「直打法手裏剣術」とは、
2間、3間、4間、あるいは5間以上の距離から
標的に直打法で棒手裏剣を上手く刺す技法のことをいい、
その他の「投擲」「車剣」などは含みません。
いわゆる見ていて「おお、刺さっているよ、かっこいいな」と見えるようなものです。
◆直打法手裏剣術は
「他のスポーツに応用できるかもしれない」
と「思い込んだ」者
【原因】甲野氏が桑田選手と関わったことからこの誤謬が生まれた。
【現実】古くは、王貞治氏選手が武術を参考にしたように、
古武術そのものはスポーツに応用はできても、
「直打法手裏剣術」をスポーツに応用できた試しはない。
◆直打法手裏剣術は「武術」だと「思い込んだ」者
【原因】ごくごくマイナーで、信憑性もなく誤字も多い藤田西湖の本や、
信憑性のない忍術書や伝書に書いてあったことを鵜呑みにした。
【現実】直打法での「攻撃効率」が「確実性に欠ける事」からも、
本当に生死をかけるような局面で使用することはまずない。
生き残りをかけた武術として使用する場合には、直打法ではなく
「素早い投げつけ」「打ちつけ」こそが優先となるのは当然である。
◆直打法手裏剣術は「武道」だと「思い込んだ」者
【原因】幸いに、これは今のところ発生していない。
【現実】いまだかつて、道着を着て、一礼してから、
竹や木の手裏剣を投げ合うなどというものが、
剣道や空手の試合のように行われたことは近代ではない。
その事実に鑑みても、
そもそも「物体を相手に当てる」という競技は、
近代の「競技武道」としても存在しない。
物を相手に投げて当てるという行為は、
世界的に見ても、メジャーなスポーツ競技にすらなっていない。
遊びとしての雪合戦、過去の石合戦、トマトを投げるお祭り、
こうした遊び以上のものとしては、認識されていない。
言い換えると、競技にするほどの「品格もない」ということは明白である。
調べてみたところ「1991年に日本ドッジボール協会(JDBA)」
というのが設立されたようであるが、おもしろくなさそうである。
一方で、弓道、アーチェリー、吹き矢などが、
「一定の品格」を保ったまま、武道や、競技になりえたのは
「相手に向けて放つのではない」からなのである。
◆直打法手裏剣術は
「剣術と併用していたはずだ」と「思い込んだ」者
【原因】これも本を読んだだけで、現実をよく考えもしない馬鹿者が始めたこと。
【現実】そもそも剣術だけでは対処できないような山賊に襲われた時に
手裏剣をまず投げてから攻撃する、といった記述を鵜呑みにするのであれば、
それは「直打法」である必要がなく「印地」のような行為で十分である。
余談ながら、山賊に投げつけた手裏剣を、あとで草むらの中を
一生懸命に探す姿を想像すると、きわめて滑稽な有様である。
(いくら、投げ捨てる物だとは言っても、旅も先が長いのでしたら、
携帯している在庫数が気になるでしょうから)
そもそも直打法手裏剣それ自体が武術でもなく、武道でもなく、
「ただの投げる行為」または「技巧的行為」に過ぎないのである。
不意打ちで、相手に手裏剣を使ってから斬って勝つ方法はないか?
などと考え出すのは、決まって「剣術」側の者である。
しかも剣術だけでは、めっぽう弱い
(その時の対戦相手と「相対的に」弱いという意味)。
弱いからこそ「併用する武器」を考えるというのは、
人間の行動の動機としては、実にわかりやすい。
しかも「本当の意味での実戦性」を考えるのであれば、直打法である必要はない、
にも関わらず、直打法で手裏剣や刀を投げたがるのは、
それこそが「見世物芸根性」以外の何ものでもない。
◆直打法手裏剣術は「侍の技だ」と「思い込んだ」者
【原因】これも本に書いてあることを鵜呑みにしただけのこと。
しかし、本にそう書かれたのには原因がある。
それは、相手に奇襲的に「物を投げつける」という行為や、
「セコい隠し武器」にすぎない手裏剣というものを、
「ボクも古武術の仲間に入りたい!」とばかりに、
誇張して偉く見せようとした過去の時代の人物がいたということ。
この点では「日本の手裏剣術」というものは、あとから自分たちの
先祖は凄かったのだと、いろいろな嘘を書いた「忍術書」と、
かなり類似するような、根本的な「劣等感」を抱えていると見られる。
つまり特段、武芸に含めるべき価値もないもの(ただの物投げ)を、
無理やり、あとから武芸に、含めさせたのである。
【現実】甲野氏が、これまた本から引用して言ったような、空腹の武士が、
森で「手裏剣で小動物を射止めること」は、きわめて困難であり、
石を投げた方がずっと良いが、それでも困難である。
あるいは、そんなに手裏剣が出来るならば、旅の途中の村や宿場で、
手裏剣で大道芸でもやって飯代を稼げば良かろう。
それでも飯にありつけないならば、そもそも、
「食する事の出来る野草を覚えておけ」というのが武士の心得である。
また戦いに使う(使ったんだ)という意味で「侍の武器」だ、
とか言い出した馬鹿もいるようだが、
まず「先を取るために手裏剣を使う」などという行為は、
落ち武者の行為ではあっても、江戸時代の正規の「侍」ではない。
なお幕末には、手裏剣といった効率の悪いものとは異なる、
別の隠し武器や、小銃が使われた可能性のほうが遥かに高い。
また、直打法とは別の意味の投擲である「手裏剣に 打つ」
という行為は、茶碗を投げる等の事として当たり前にあることであるが、
ただしそれらは「直打法」で打つ(着実に刺す)のとは全く異なる。
***************************
確 定 事 実
●「反転打や、投げつけ、打ちつけ」の行為ではない「直打法」は、
とりわけ「曲芸的(技巧的)要素」が非常に強く、距離にもよるが難易度もある。
かつまた、現代の「弓道」のように、それは、
対戦型の武術からは「全く独立して、分離された分野」である。
故に、弓道のように標的に刺すだけに留めれば品格も保たれるのである。
そもそも「相手に物を投げ当てて勝つ競技」などは、
むろん日本の競技武道にはなく、オリンピック競技にもない。
「投擲競技」には、槍、ハンマー、砲丸、円盤、各種の球技などあるが、
しかし、「人間を相手にした投擲(ぶつけ合い競技)」などは、
スポーツ的な価値すらもほとんど認められていない。
あったのは過去の時代の石合戦や、雪合戦やトマト投げ。
近年では「日本ドッジボール協会」なるものがあるが、
下記のように「暴力的だから学校では禁止すべきだ」などの「賛否」がある。
↓
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20150603-00042696-r25
すなわち、普通の「常識」で考えれば分かるように、
標的ではなく、「人間に対して、物を投げて当てる」という行為は、
世界的にも「遊び」「ゲーム」以上の事とは考えられておらず、
とてもではないが、「武術・武道」などと言えるものではない。
「追い詰められた者の行為」ぐらいに考えられているだけなのである。
■まったくの蛇足であるが、今回、これを書いていて
前回の投稿の「学校の体育」で、なぜドッジボールが
「どこか屈辱的」な感じがするのかが分かった。
私見だが、そもそも、同意の上での遊ぶ雪合戦でもないのに、
他人に物を投げつけるという事はスポーツとしての健全性に欠ける。
だからこそあの独特イヤな感じは、
「人に対して物を投げてぶつける行為」が持つ「イヤらしさ」なのでした。
しかもそれは、多数に囲まれた中で投げつれられるのだ。
******************
「剣術の稽古用に変則的な加工」をした手裏剣術はあり得ても
それは「武術手裏剣術」にはなり得ない
この「動画」は削除しました。削除した理由は、
こういう説明にかつこけて「自分が手裏剣術をやる理由」にするような
愚かな馬鹿者が出てこないためです。
「そもそも手裏剣の稽古はしないほうが、剣術の為にはいい」、
という意見を、一人ではなく何人かの剣術家の師範から私も聞きました。
たとえ、かなりの上級者であっても、
下手に手を出すと剣術の動作が狂うそうです。
■ずっと以前に紹介した剣術師範のコメントでも、
「剣術の為に、剣術と同一の身体動作で打つには、
2間程度から、半分ほどの、ゆるい力で打剣をし、
剣の刺さり方で刃筋の確認をするのみ」
と明確に書いてあるのですから。
それを、勝手に3間や4間から、8割以上の力で投げれば、
剣術的動作どころの話ではなくなるのは当然です。
というわけで、
剣術と関係なく、「手裏剣術だけを純粋に行ずる志のある者」以外には、
投剣術というものを、これ以上は汚されたくないので削除しました。
●そもそも、剣術が上手くなりたければ、「剣術を一生懸命やればいい」のです。
私の動画が、手裏剣術をすることの「言い訳」に悪用されないために、
「剣術の為の手裏剣」の説明と動画を削除しました。
何しろ、これは「手裏剣術の為の稽古」「ではない」ので、やっても、
「武術的な手裏剣術」すらも、まったく上達しないのですから。
古流の何何流の「らしい」から、正しそうだとか、そういう
>「権威付け」や、くだらない「理由」にしがみついて、
「剣術との接点がありそうだから俺は手裏剣をやっているんだ」
と嘯くような、腐った性根の輩が出ないように、との配慮からの削除です。
◆ただし、今後、
生徒さんが、身体を故障しかねない間違った打法を教え込まれないために、
「打剣運動として明確に間違っている部分」だけは指摘しておきました。
↑
最悪なのは、飛んでゆく剣のほとんどが、捻じ曲がっていることです。
これは、上段に構えた手首が、捻じれまくって投げるせいです。
***************************
■なお、知新流関連の「打法」に関する記述をネットで検索すると、
明らかに「左と右」の誤字が、いくつも目立つ。(それも複数である)
ただし、この「左右」の誤字以外については、特に矛盾した文章は見られない。
つまり内容そのものは間違いは少ないであろうと思われる。
●この「誤字」の理由について考えられることは、
ひとつは、元の手書きの原稿に「草書体」が混じっていたので
活版屋の人が誤読したという可能性を考えたが、
草書体の「右」と「左」の文字は、あきらかに区別がつきます。
よって残る可能性は、
1/もしも元の原稿を書いた者が藤田氏自身であった場合には、
彼の文字があまりにも汚くて、それを見て、誤植した可能性である。
2/ただし、藤田氏自身が文字校正を怠った責任の方が当然大きい。
3/あるいは、藤田氏自身が、手裏剣術については
本に書いたほどのことは、本当は知らなかったという事である。
つまり、本当は手裏剣には暗かった、ということも十分に考えられる。
何しろ、彼は、ホラ吹きなので。
*********
●胡散臭い忍者話のあとですので、
お口直しに、とても素敵な動画を見つけましたので、どうぞ。
少し前に「立ち姿」についてコメントしましたが、
その「立ち姿」がいいのです。
ただしそれは、
この人の姿勢が良かったり、体型がほっそりしているからではなくて、
その「気配」です。
必要以上に力んだところが何もなく、
それでいて、本当に楽しそうに、工夫に没頭しているこの気配です。
澄んでいます。
言葉に遊ぶことなく、理屈っぽくなく、
良い意味での「理系剣術家」といった雰囲気があります。
*********★*********
★今回の私の投稿は、総じて言えば、
本来であれば、武芸者自身が真剣に自問しなければならないところの
「そもそも、手裏剣術とは何か?」を私が代行して回答したものである。
冒頭に書いた人々の「思い込み」の「原因と現実」が、まさにそれである。
そして結果として「手裏剣の全体構造」は後述するような分岐図となる。
■「手裏剣術とは何ぞや」の「答え」のその根幹は、
下記の「3つの枝」に分岐しているが
これらを自身で、よくよく自問し、考察した上で、
明確に「区別して」実践できている者がいない。
多くの者は、勝手に「こうあって欲しい」という、
最初に用意してあった願望を投影しているだけである。
****★****
1/「武術としての手裏剣術」とは、
単に、物体を「手裏剣に 打つ」行為の事である。
それは刺す事ではなく「より速く打ち当てる事」を目指している。
2/「直打法手裏剣術」とは曲芸または「技巧性が優先する世界」である。
よって手裏剣だけを畳や木に打ち込むのみに留める事により
その品格が維持される。
3/「剣術的手裏剣術」とはあくまでも「剣術の稽古の為」のものであり、
手裏剣術(前述の1と2)の為のものでは全くない。
以上の「3区分」を混同したり、無自覚的に合成をしてはならない。
深い思慮もなく合成すれば、必ずその3つのどれもが「中途半端」なまま、
いびつなシロモノが出来上がる。
今回私が動画の中で間違いを指摘した「者」はそれに該当する。
最初から、1、2、3の「どれを目指すのか」が明確になっておらず、
口先や文章では「1を目指しているのだ」と言いながら、
現実には、区分されるべき「2と3」までもが「ごちゃまぜ」となり、
言っている事とやっている事が異なっていたのである。
「言と動」の不一致の原因は、武の世界やら人格形成などよりも、
「遥か以前の問題」として、世界で共通に批判されるものである。
その原因の多くは「自己への自覚の足りなさ」であり、
「自己分析のなさ」に常に起因する。
さらには、慢性的なアルコールの摂取は、
感覚・感情・思考を麻痺・鈍化・劣化させる。
その鈍化は、アルコールを摂取していない時の、
感覚・感情・思考の劣化にも現れてくる。
その結果、武芸者であれば、なおさらに、常に日々怠ってはならない、
「自己分析力」を失ってしまう、 という事も付け加えておく。
以上である。
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