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Title
手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
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[879]
■
手裏剣が他分野に影響しないという事。
by:
崩残
2007/02/27(Tue)04:54:02
●常連さんの方から、メールがきましたので、簡単に説明しておきます。
おそらく、皆さんも、「武術、スポーツ、芸能、その他」が、
手裏剣術の方法論に影響する、ということまではわかっても、
「その逆」については、もんもんと、考えがまとまらない人が多いはずです。
つまり、心のどこかで、先入観や、こうあってほしいという期待感によって、
手裏剣術、広義な意味での「投剣術」を、何か精神や肉体に利するものが
あるもので「あって欲しい」と漠然と、考えてしまう悪癖があるというこです。
●まずこの手裏剣や投剣が、何に役立つかということは、
「厳密には」ゼロではありませんが、限りなくゼロに近いと思っていた方が、
誇大妄想に人生の足を取られないで済みます。
厳密にはゼロではないというのは、「主観的には」人は、
手裏剣をやっていて、利するものがあることも「個人的にはあるだろう」
ということです。
ただし、それは「客観的な事実」として認識されたものではありません。
>●「客観的事実」とは、手裏剣術をやった人間とそうでない人間の間に、
>能力テストや機械で観測できるほどの「明確な差が出た場合」のみです。
たとえばの一例ですが、何十人もの手裏剣を何年かやった格闘家の選手と、
何十人もの、手裏剣をやっていない選手が試合をした場合に、
統計的に優位な数値(これは統計の専門の人なら分かるはずです)が
出たとなった場合に、
はじめて、それは、利するものがあったと「認めてもいい可能性」が出てくるわけです。
たとえば、客観的な事実として、手裏剣経験者が、
他の武術が、やたらに強くなるとかです。
しかし、そうした計測や統計分析もしないままで、
「手裏剣は精神的にも利する」とか「精妙な身体づくり役に立つ」
などという事を、軽々しく公然と言うことは、
「あるある大辞典」と同じほど、いいかげんな主張だということです。
なんらのデータもなしに、しかも一部のデータではなくて、
人を使う実験に関していえば、
データというのは、最低50人、理想的には300人の統計をとらねばなりません。
それなしに、何かを客観的事実として語ることは難しいのです。
●一例にすぎませんが、かつて桑田投手が甲野氏から何かを学び、
彼なり消化し、それによってある一定期間の復帰をプロ野球で果たした事実。
しかし、それは甲野氏の「身体理論全体」を彼が取り入れたことによる結果
ではあっても、
その甲野理論の「全体の一部」であった手裏剣術とは、
なんら明確と言えるほどの「直接的な関係性」はありません。
●たとえば、一般論として暴走しやすいのは、
「手裏剣は精神集中に役立つ」という広告文言。
こんなものは、ダーツでも同じですし、将棋や囲碁でも同じですし、
ビリヤードでも同じですし、セックスでも同じですし、
珠算の暗算でも同じです。
脳にアルファー波が出たぐらいのことでは、それが精神に良く
影響するなどと、とても言えたシロモノではありません。
あやしい能力開発グッズや、ぼったくりセミナーと一緒にしてはいけません。
●手裏剣においては、特筆すべき身体的効果も、精神的効果も、
現時点では、全く立証されておらず、
あっても、せいぜい、それは「個人的な主観」の主張に過ぎません。
精神面で言えば、残念ながらというか当然というべきか、
手裏剣術や投剣術を行っている人が、
>一般的な、それを行っていない人たちよりも、
>人格的に優れているとか、集中力があるとか、病気をしないとか、
>そんなことは、ただの一度もありませんでした。
ちょうど、武術家がそうであるように、何を修業したところで、
思いっきり、狂った人は、狂ったままですし、頭の変な人はそのままです。
実際、新旧流派を問わず、手裏剣術の分野の人々もそうでした。
武術の分野と同様に、
手裏剣術が、その人の精神に何かの力になっている形跡は、
まったくありません。
これは武術にかぎらず、「芸能や学問」でも同じです。
何かの科学を勉強したり、理系をやってきた人間が、
頭が良いというわけでは全くないように、あるいはむしろ普通の人より
「思いっきり頭の悪い馬鹿」がいたりするように、
>何も、特定の「分野」というものが、
>人間に、何かを「保証するのではない」ということを覚えておくことです。
何かの「分野それ自体」が人の役に立つのではなくて、
>その人が元々持つ、「自分の生への生きる態度」、
>それが全てを決定するということです。
これを分かっていないような武術家が、
「自分の存在意味」に、あさましく、しがみつこうとして、
やたらに「武道は人格形成になる」などと大嘘を吐くわけです。
そんな偉そうな、人格形成論を鼻息荒く吐く前に、
家族やカミさんや子供と、
その人が「どう向き合って家庭を形成できているか」、
そっちの方がよっぽど、重要なことです。
●人は、すぐに権威とか、伝統とか、何か歴史らしきものがある
そうしたものに属すれば、自分に利するものがあると勘違いをします。
大の大人がです。
しかし、幼少のころからのさまざまなトラウマの問題もからんできて、
その結果として、それに取り組む態度そのものが幼稚であれば、
いくら、何を偉そうに言ったところで、
その人は、いまだ、10歳前後の子供の精神のままなのですよ。
その事例というのは、武道のみならず、
特にそれが多いのが明確な結果で競うことが出来ない「宗教」の世界です。
「豚に真珠」という言葉がありますが、
元々の人生観が変であれば、どれだけ価値のある知識や、
>何を与えられたり、何をやったところで、
>それは、「その人の持っている悪癖を拡大する結果」にしかなりません。
●そういうわけですから、手裏剣をやっている人たちに、
「共通した何かの愚かさ」も見出せませんでしたが、
「共通した何かの優れた面」も、私は見出せませんでした。
>ようするに、武道やスポーツは、
>人格形成、ダイエット、集中力、
>そんなものとは、全く「関係ない」ということです。
それを、長い時間を要する「客観的な心理的、身体的な分析」の構築もなしに、
「手裏剣は●●に効果がある」と言い出すと、
「あるある大辞典なみの、虚偽になる」ということです。
___________________________________________________________
●だから、現在の科学的分析、たまは心理学的分析において、
突出した客観的効果が、手裏剣術に見出されていない現在においては、
私は、それは「現時点では、まだ何も見出されてない」と断言します。
ただし、逆に、他の分野で学んだ身体や、あるいは心の領域が、
「手裏剣という形になったとき」に出やすい傾向、これはあります。
私の海外の剣友の中には、本職が「画家」の人もいますが、
その人の投げる剣は、まさにその人の描く「静かな絵」のようです。
また他の人は、数字を扱う本業をしていたりしますが、
その人の投げる剣は、いかにも「数学的」です。
スポーツをやっている人もいますが、その人の投げ方は、
そのスポーツの特徴がみなぎっています。
このように、ひとたび、手裏剣が「表現手段」となったときには、
そこには個性が現れます。
ただし、これも特筆すべきことではなくて、
絵を描かせれば、その人の内面が現れる、
文を書かせれば、その人の内面が現れる、
音楽を作らせたら、その人の内面が現れる、といった、
>他の分野での検証法と、なんら変わりない程度のものです。
●ちなみに、では、私は手裏剣において、何を表現しているのか、
それを理解している人は、たまにきちんといますよ。
全く手裏剣をしたことのない人ですらも。
ある書店の方は、「中級手裏剣術」の著書のことを、
私の別書の「性の異端書のシリーズ」と全く同じスタンスである
と評しました。
その人は本当によく「本」というものを理解している人でした。
つまり、私が手裏剣を通してやっていること、そこで表現されているものとは、
著書「性のレシピ」「虹のオーガズム」「性恋愛教本」で、
>徹底的に、女性が到達できる快感の限界を、あそこまで探求し続けた、
>そのセックス研究に対して私がとった態度と、
>全く同じことを「中級手裏剣術」の本や、この掲示板において行っているわけです。
つまり、私が手裏剣術において表現しているものとは、
技法のマニュアル化です。
全く同じことが、
私の禅的な書である「悟りなき悟り」においてもなされたことです。
「男女のセックスの奥義」を極めるにあたって、
私がどのようなプロセスと実験をしてきたか、そのことは、
さすがに動画では、紹介できませんが(笑)、
手裏剣ならば、その私の未熟な初歩的なプロセスから、
それが完成されてゆくまでを、リアルタイムでお伝えすることが出来ます。
その中で、どう考え、テストし、また悩み、考え、
結論を出しては、また結論を疑い、
そうした私の作業における、私の個性のひとつひとつが、
私が、手裏剣において「表現していること」そのものです。
●しかしもうひとつの課題である、
「禅手裏剣」が本当に表現されるまでは、あと何年もかかる、
ということは私は無冥流の「DVD」の最後に述べました。
ですから、そのプロセスについては、まだまだここでは
発表できません。
●そのように、かつては、血塗られた歴史をもっていた手裏剣というものを、
私は、「その人の人生の表現手段」のひとつであるとして、
この時代に新しい再定義をしました。
ただし、それが「個性の表現手段」でありえるためには、
手裏剣とは「こうでなくてはならない」、
といった、全ての過去の因習、型、考え方というものを離脱する必要があります。
過去からの蓄積の中に、学ぶべき基礎はあったとしても、
クラシックだけが音楽ではなく、
写実主義だけが絵画ではないように、
表現手段としての手裏剣術にも、「枠」はなく、
そこであなたの個性が何を表現しようが、自由であるということです。
そういう意味では、ちょっと他流のことになりますが、
スポーツ手裏剣のような団体というのには、私は好感が持てます。
それはポリシーがきわめて明確だからです。
完全に安全な道具を使い、子供も楽しむことが出来ること。
そして、楽しみながら、今の子供に欠けている遊びながらの運動が出来ることです。
その「遊び心」が、その手裏剣の中には、「表現されている」わけです。
私は、いつの日か、行われるであろう、
「S1フェスティバル」には、ぜひ、スポーツ手裏剣の方も
招きたいと思っています。
なぜならば、それはまた、長い手裏剣の歴史が生み出した、
ひとつの枝分かれした分野の到達点であり、
たとえ金属の手裏剣を使わなくとも、新しいホビーの手裏剣として
「明確な位置づけ」があるからです。
>オーディオや家電の展示会のように、
>そのブースでは、そのブースの「売り」というものがあるからです。
一方で、特定流派にかぎらずとも、
現代の合金や、新素材を使って、強靭な手裏剣を研究している人たちもいるでしょうから、
鋼板を打ち抜きたい人は、けたたましく音を出して、
鉄板を打ち抜いていればよいのです。
訪れた人は、「あ、あれは、あそこでやっているな」と分かるでしょう。
一方で、遠投を見せたい人は、それをやるスペースを持ち、
多彩な変化打ちをするラルフ氏には、彼のためのブースがあり、
ナイフ投げをする人たちには、そのための美女の標的があり、
剣術と一緒に披露したい人には、そのための道具を用意し、
忍術の姿で登場する人たちには、その人たちのため専用のブースがあり、
軽量剣のスピードや命中率を披露した人たちには、そのためのブースを
用意し、
そして、私が、最も未来への希望を託している「自分流の人たち」には、
それぞれの人がやりやすい環境や道具を用意する。
そういうことが、私の思い描く、ワールドフェスティバル、
すなわち、成績を競うための大会ではなくて、
神聖なる「 祭 事 」です。
目に見えぬ、精霊たちへの奉納行為、
神聖さとは、決して見かけの伝統的な形式にあるのではなく、
>それを見た人間ではない、この世の者ではない存在たちが、
>「本当に喜ぶかどうか」、という、
>その祭場の、ヴィジョンと動機の「純粋さ」にこそあります。
そうでない形式的な神事など、
いかに正装して、形式どおりに行ったところで、そのすべては、
「汚(ケガ)れ」と「汚(ケガ)し」に過ぎません。
>多くの人たちが、欲望や見栄から開放されて、
>「童心」に還って、投剣を楽しむ姿、
>これに勝る、神々が喜ぶ「奉納」と「結界」はありません。
人間同士や、あるいは無数の自然や他の生物を無意味に趣味で殺戮し
ここまで、地球を破壊してきた人類が、
自然の精霊たちに対して、少しでも「詫びる気」があるならば、
武道だの、殺人技だの、過去の歴史における「愚鈍さの極み」を
もってくるのではなく。
子供が無心、無垢に、童心で遊ぶ姿と、
やれ武術だ、武道だ、殺人技の上達だと、鼻息荒く言う者たち、
一体このどちらが、神々の心を喜ばせるかを、想うことです。
だから、
その時にやってくるであろう神々の前に、
皆さんの「童心」を持ってきてください。
かつて、古い時代に、愚かな、「憎しみと闘争心」から、
血塗られた手裏剣や武術というものを、
今のこの時代に、「その同じ道具」を使って、それを、
「楽しさに満ちた、喜びの投剣」として「浄化」さたれものとして
「再奉納」することでしか、
私たちが、この地球という惑星と、その生物たちにしてしまった
暴力を詫びる方法など、
ないのですから。
だから、その会場へは、
「童心という、最高の技なき技」
無垢な「童心」という「捧げ物」を、持ってきてください。
●
********* ********* *********
私の中には、ワールドスローイングフェスティバルの会場における、
挨拶の草稿というものは、既に出来上がっています。
それは以下の通りです。
もしも、そのときに、私が既にこの世に存在しなければ、
誰かが、この文言を、会場で、「北の空に向かって」宣言するといいでしょう。
そうすれば、私が組んだプログラムは、
あちらの世界でボタンが押され、「起動」されます。
★★★
「本日、ここにお集まりの皆様、
そして、何よりも、ここにお集まりの、沢山の神々と精霊の皆様へ。
私達は、かつて、このような武器によって
(ここで右手に持った、手裏剣を掲げる)、
互いに殺し合いをしてきました。
そして今では、この手裏剣のような形をした大きなミサイルによって、
多くの人間と、何よりも自然を、無意味に破壊し続けてきました。
またこの手裏剣のような形のオモチャに乗って、
勝手に他の惑星や衛星に行っては、他人の土地に勝手に旗を立ててきました。
そして、このナイフの形が大きくなった剣や刀によって、
(ここで右手の手裏剣を上げたままで、左手に持ったナイフを掲げる)
自分たちの利権のために、無意味に、沢山の人々を殺し、
身勝手な娯楽のために動物たちをも、必要以上に殺すことまでしてきました。
そうした数え切れない、私達の愚かな行為の結果を、
私たちは、本当に申し訳なく思う。
それが地球にもたらした被害(とばっちり)に謝罪をする意味をこめて、
私達は、かつては、殺戮の為に使用したこの手裏剣の形を、
現代のミサイルや兵器が使われることなく消え去ることを願い、
そしてそれらの兵器に対する浄化の願いと、この剣の形を重ねあわせ、
私達は、この飛行する剣を、殺戮のシンボルとしてではなく、
私達の、喜びと、楽しさと、童心の表現の象徴として、
ここに、再奉納させて戴きます。」
(最後に、掲げた両手の手裏剣とナイフを、聖火の中に入れる。
この聖火は、簡単な炉のようなものでよい。
とにかく聖火となり得るものなら。
開催期間は、その火を絶やさないこと。
何かの理由で消えても、さほどの支障はないので心配せずに、
そのときは、再点火すればよい。
閉会後は、融けた灰と金属塊を、
開催地の任意の場所の、地中1m以下の場所に埋めること。
決して、特定の宗派の神社などに奉納してはならない。
必ず、その土地の地霊に捧げること。)
閉会の挨拶は、ただ一言でよい。
「ここに、閉会します。
遠くから集まってきた、
沢山の人たちと、精霊たちに、ありがとう。」
●
★
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