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「分割自我復元」
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[121]
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★分割自我復元★その120 ●「近況」●
by:
鈴木崩残
2012/09/23(Sun)07:01:36
『書けない新刊』
●更新しませんでしたが、まだ、しぶとく生きております。
隣の「梅の間」も、このあとで更新しておきます。
(何ヶ月かぶりに、ブリジットが遊びに来てくれたのでいい写真が撮れましたので。)
ところで、新刊が全く書けません。
コピー用紙の紙切れに、メモはとってあるのですが、どうも書く気がしない。
これには理由があります。
以下、ちょっと読者の人とやりとりした文の中からの抜粋です。
私個人の「由来」に関しては、事の発端は、数十億年どころではなく、
数百億年もの過去から、その物語は始まりますが、
この銀河系に定着してからの物語は、そう多くのエピソードがあるわけではありません。
しかし、まだ、ぜんぜん書けません。
私は何でも頭の中にあること、思っていることは、かまわずに書いてきましたし、
内容も、特段にぶっ飛んでいるとは全く思いません。
別に言葉すれば、さらりとしたもので、誰が読んだところで、
心踊るようなドラマチックな内容ではありません。
ただ、どうも、宇宙については、
あることだけは「書けない」ように、プロテクトされているようです。
むろんそんなものは、私は、無視して書くつもりですが、
口で、しゃべったり、書こうとすると、何かがそれを阻止する、
というのは、生まれて初めて経験しました。
言葉にすると「全く大したことのない」宇宙の原始的な様相の説明なのですが、
ある事件についてだけは、口にしたり、文にしてほしくはない立場の
「何か」がいるようです。
砂手にも、口頭で、物語を最初からしゃべろうとしましたが、
どうしても、口が動かずに、一週間以上、経過し、
先日、ようやく、あらすじを口で話しました。
たとえば、それを口にしたり文にすることが、
誰かにとっての都合のよしあしがあるのではなく、
私個人が、私のそれを掘り起こすことで、私の寿命を短くする、
だから、ストッパーがかかっているのかとも、いちおう、疑ったのですが、
その形跡はありませんでした。
宇宙については、ある「特定のこと」には、堀り起こしてほしくないという
「思考」がどこかに残留しているようです。
実は、宇宙それ自体が、現実を見たくないほどに、
トラウマっているのかもしれません。
●話の最初の冒頭は、おそらくこうなります。
私のいた世界に、異常な揺れが起きた。
揺れたのは地面ではないので、これを地震というのは変である。
むしろ天が揺れたという意味で、天震、いや、むしろ、「空震」と言える。
その時、空間そのものが「揺れ、捩れ、乱れ、歪んだ」。
「また、あそこで」、何かが起きたらしい事は察しがついたが、
それを詳しく調べるために、あまり私が好きではない、
「あの気持ちの悪い穴の下の世界」に、今回も、降下する事を決めた。」
___________________
●さて、話は一気に、「こちら側の世界」のことですが、
「公認の自我復元ブログ」は、時々チェックすると良いでしょう。
皆さんも、更新は、決して頻繁ではありませんので、
追いついてゆけないほどの動きではないです。
自我復元をしようかどうしようか迷っている人は、
この桜の間の過去ログを読むなり、ブログを書いている人達の言葉を読んで、
各自で、判断してください。
『無明庵公認の自我復元ブログ』へのリンクはこの記事にあります。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S118
●いわゆる巷にあるブログのように、自分が考えていることを
何でもかんでも、中毒的に書きなぐるのが目的ではないのが、
自我復元ブログの特徴です。
話題を広げることなく、あくまでも自我復元の影響であると思われるものを
現実の主客の変化との「関係性」を確認しながらメモするのが、
自我復元の目的だからです。
自我復元に間接的に関係していても、あまり話題にせず、
直接的に関係しているものだけを
記録として遺すのが主要な目的です。
●ひとつひとつのブログに、私が、ごく短い「寸評」といいますか、
どこが面白いのか、というその方の個性について、書こうかとも思ったのですが、
特に必要はないようです。
特筆すべきことがあるとすれば、皆さんも、見ているように、ひとつだけ、
「更新を停止したブログ」があることです。
これについては、今後、「他の人達」にも関係することなので、
ごく簡単にですが、状況を解説しておきます。
関係のない家族や異性には話すな
●読者の人の中にも、夫婦むつまじく、自我復元をしている人たちもいますし、
また、夫婦でなくても、恋人同士だったり、同居人だったりして、
自我復元をしている人達もいます。
むろん、事例の数としては、そう多くないです。
ただし、その場合には、そもそも、夫婦の両方が、うちのサイトを
大昔から愛読していたり、たまに巡回していたという、
その二人には、「共通の出発点」があります。
したがって、夫婦間、カップル間で、見解に相違はあっても、
少なくとも「話の前提」ぐらいは、共有しています。
●ところが、次のようなケースが、面倒で厄介なトラブルになります。
自分ひとりは自我復元をしてきた。
ある時、全くそれについて知らない家族や恋人に、自我復元を薦めた。
それを、その人達が「薦めた動機」には、二種類あります。
最大の動機は、
「自分が変化を続ける以上、それについてこられるように、
同居している相手や、付き合っている相手の自我率も変わらなければ、
この先、関係が続くか、保障できないので、薦める」
これは、ある意味では、かなり「自分勝手な考え方」です。
自分と相手に誤差が拡大するのを避けたがるのは、
「心情的」には、むろん私も理解できます。
●たとえば、それまで、毎週、週末に夫婦二人でテニスを楽しんでいたカップルがいて、
それまでは、お互いに楽しくプレイが出来ていたものが、
片方が、専門のトレーニングを受けたとか、あるいは筋力をあげるような事をした。
こうなると、そのテニスは対等にはできなくなりますので、
相手の人に次のように言う結果となります。
「あなたも、一緒にトレーニングしましょう。
そうすれば、お互いにレベルアップしながら楽しめます。
しかし、あなたが、私のスピードついてこられなくなったら、
私もあなたも、両方がせっかくのテニスが、面白くなくなります。」
簡単に言えばこういうことです。
●しかし、ここでこの「薦め」の動機になっているのは、
相手のことを考えてではなく、
「自分が現在の環境や関係を保持したい」という「保身」からです。
理屈の上では、相手もレベルアップすればいいのは確かですが、
それは、相手に「強制」できるものではありません。
●もしも、両方がこの無明庵の読者なのであれば、言うだけ言ってみて、
やらなかったら、ほっておけばいいのです。
たとえ、家族でも、他人のことにかまっている時間の余裕などないのです。
●しかし、相手が、「このサイトの読者ではない」、となると、
おそらく、ほとんどの場合には、復元の薦めは、無駄に終わります。
他人に勧める二番目の理由としては、
試験的に誰かに勧めて、「様子を見る」というものもあります。
しかし、これは過去に一度しか事例はなく、これも失敗に終わりました。
失敗に終わる最大で唯一の原因は、
無明庵のサイトを「知っていたか、いなかったか」も、大きいのですが、
それと同じぐらい大きな失敗理由は、
そもそも、その人達は、
自分に痛い問題があることに、全く無関心で、
自分のことを、ほっぽらかして来た人だという点です。
ほとんどの人が、大なり小なり、
自身に問題があるのを感じているのは当たり前ですが、
「もう、これは自分を掘らないと駄目だ」
「何か手を打たないと、取り返しがつかないぐらい駄目になる」
という危機感を持てないほど、鈍感であるか、または、現実逃避をし続けていた場合。
これが自我復元を他人から薦められても、失敗する大きな原因です。
●そして、自我復元をしない側は、自業自得ですから、どうでもいいのですが、
問題は、進めた側が、不当に相手から責められるという形で、
家庭内、夫婦間で、自我復元をめぐって、
ぎくしゃくした空気や、トラブルが起きるケースです。
たとえば、今回「更新を停止」したブログの方の場合には、
「旦那さんが、ブログを見ていたこと」が原因です。
しかし、そもそも、旦那さんにアドレスを教えた時点で間違いです。
何のために、自分自身の問題であるものを、
それを「理解する基盤と背景を持たない人」に、見せたりしたのでしょうか?
「私は、こんなふうに変わろうと努力しているんです」と
旦那さんに見せたいのでしょうか?
「これは、結果として、あなたの為にもなるんです」と旦那さんに
説得したいのでしょうか?
それによって、夫婦間で、
「ボクたちは、何でも隠さないんだ」という「仲良し夫婦ごっこ」でも、
しているつもりに、自己陶酔出来るのでしょうか?
●そもそも、どうして、
理解する背景、そして実行する経験基盤を持たない人に、
たとえ家族や夫婦だからといって、
自分個人の変化への努力の大切な記録を見せるのでしょうか?
ブログは公開ですから、見るのが全くの第三者ならば、
何も問題はありませんが、実際の世界で、物理的、人間的な
「利害関係」を持つ人にだけは、ご自身のブログは絶対に教えてはなりません。
●もしも、そのようなことをすれば、
その結果、起きることは、極めて「容易に」察しがつきます。
まず、相手は、そもそも自我復元について、全く何も知りません。
全く何も知らないにも関わらず、
「自我率」という事にだけ、「浅はかな勝手なイメージ」をしてしまいます。
これは、たとえば、無明庵で定義するところの「ゾンビとは何か」、
ということを全く理解しないままに、自分がゾンビとして、
貴方に見られていないかを、気にして、あなたにつっかかったり、
干渉してくるようなものです。
「お前、俺のことを、ゾンビだと見下しているだろう」とかです。
ところがゾンビというのは、映画に出てくるあれではなく、
中身の人格が腐りきっているとか、しぶとくて死なないという意味以上に、
「無意識」「痛みの感覚が麻痺している」ということが主要な比喩なのです。
その自分に対する、あまりの無自覚さと、他人や自分を痛めつけても、
それが分からない無神経さ、鈍感さを称して「ゾンビ」といいます。
そこまで、感情と屁理屈だけで、今まで、なんとか、世間体を誤魔化して、
どんよりとして生きてきた人は、
必然的に、そのゾンビ性は、今に、はじまったことではなく、
これまでにも、周囲にも、迷惑な存在となってきたはずです。
●同じように、「自我率」というものには、
かなり複雑な定義や位置づけがあります。
自我復元をこれから開始する、開始しているという前提ならば、
自我率が、低いから悪い、高いから良い、とは単純には言えません。
むろん、自我復元を全くする気のない人、関心もない人、
知りもしない者にとっては、その自我率は、死ぬまで変わりません。
自我復元以外の、現在世界中にある、どの方法で、どう努力しても
自我率は変わりません。
そのために、自我率を復元させている側と、していな側では、
どうしても、現実認識に、大きな差が出てきます。
●考え方とか、理想とか以前に、現実認識自体が変化するということは、
自我復元をやってきた人ならば、即座に納得が出来るはずです。
現実認識とともに、自己認識も変わりますので、
自己認識と「対を成す」他者認識も、当然、合わせ鏡のように変わります。
ここまで変わるからこそ、自我復元というのは、比類なき方法なのです。
●さて、恋人や夫婦や同居人同士の片方が自我復元をしており、
もう片方が知らないだけならば、全く問題はないのですが、
やってもいない人間が、相手が自我復元をしていると知った場合、
次のようなことが起きます。
たとえば、分かりやすい例は、それが「夫婦」だった場合で、
特に、「妻が自我復元をしている」。
夫は、「していない」「あまり関心がない」。
しかし、夫は、「自我復元とかいうもの」を、
妻がしていることだけは、知っている。
それだけならばいいですが、
最近、妻がそれによって、少し変わってきた。
その変化は、どうも自分の威厳の維持や、
妻との、今までの関係維持にとっては、都合が悪い変化も含むようだ。
このように、もしも旦那が誤認によって、認識した場合には、
簡単に言ってしまうと、そこで揺さぶりがかけられるのは、
旦那の「プライド」です。
もはや、理論的な理性や、物事の道理や、相手に対する尊重など、
吹っ飛んでしまうのです。
●たとえば、誰でも最もわかりやす例えは話をしますと、
妻が最近、腰にくびれが欲しくて、教室に通って、
シェイプアップの為のレッスンを始めた。
その結果、妻の身体のスタイルがよくなった。
こうなると、妻は旦那にとっても魅力的な女性になりますが、
それと同時に、他の男性の目にとっても、魅力的になります。
よって、夫としては、
ひやひやしてしまうという幼稚で矛盾した心理が働きます。
>自分の妻が、キレイになるのは、俺様も嬉しいさ。セックスだって盛り上がるしな。
>けどな、それで、妻が他の男に言い寄られたら、俺は嫌だ。
>そんなふうに、嫉妬する自分自身を見るのが、何よりも嫌なんだよ。
これが、その状況での「夫の本音」なのですが、
だったらば、自分の腰周りが太ったことに「不満のある妻」は、
自分で嫌な自分の体型を、シェープアップをする権利も持たず、
おなかがデブのまま、魅力のない女性として、夫のために家庭だけを守れ、
と、夫はそのように妻に強要したがっている、ということになります。
●これを回避するには、結局は、
旦那さんも、そのメタボの腹を一緒にへこませることに、
妻とともに、努力をすれば、それが最も理想的です。
しかし、世の中、そうはならないものなのです。
たかが、やせる教室ですら、夫婦で共同で通えないのですから、
ここに、人生観それ自体に影響する「カルチャーセンター」などに、
自分の妻が関わるとなると、その夫の「精神不安」は尋常なものではなくなります。
●「自我復元」の事例に特化すれば、そのプロセスは、次のようになりす。
まず、夫にとって、全く何のことかも、正しくは定義が分からない、
「自我率」の「高低」という考え方によって、
自分が、「妻から、見下げられるのではないか」という、懐疑心を持ちます。
これは、むろん、「心情的には」理解できます。
これが、たとえば、血液型とか、星座の違いでしたらば、
自分の妻が、いくら、「あなたとは星座が違うから」といっても、
星座は、種類があるだけで「平等」が原則(実はそうではないのですが)ですから、
格差の意識はそこに生まれません。
ただし、そうはいっても、占星術では「相性」という問題が生じますので、
たとえば、自分と自分の妻よりも、もっと妻と相性のいいホロスコープの男性が、
妻の「パート先にいた」という話を、妻から旦那が聞いたら、
それは、ただの星座の話から、一気に、
「星占いなんか、俺は信じない。
そんなものを、お前も、いつまでも信じるな。
だったら、その男のところへ行け」と旦那はキレて妻に言い出します。
●ところが、「自我率」は、血液型や生まれの星座のような、
「種類の違い」ではなくて、「キャパシティーの違い」です。
体力の違いともいえますし、
電圧の違いともいえますし、
容量の違いともいえます。
とうぜんそれに伴い、現実にどう対処するかの理解力も変わり、
そうなれば、いろいろな面で「価値観」が夫婦間でズレてきます。
●ここで注意をしなければならないのは、
自我復元は、宗教とは全く違うという点です。
宗教よりも、より、「スポーツ」に近いです。
宗教というのは、考え方そのものを、そう考えるように無理に強要したり、
すりこみます。
この点では、今までこの桜の間で事例が書いてある、
「毒親の子供への洗脳とトラウマ作り」のほうが、
よっぽどカルト宗教そのものです。
一方で、自我復元は、思想や考え方など、何も教えません。
むろん、自我復元が生まれた背景に理論と、神話的な話はありますが、
そんなものは、原則として、信じる必要は全くありません。
それは、貴方が、今日、一日を生きてゆくのには、
地球が太陽の周りを回っていることを信じる必要がないのと同じです。
天動説や地動説が、その事実が問題になるのは、
その物理現象が、直接的に、研究や実験や、
ビジネスや、私たちの生活そのものに影響する分野のみです。
●ですので、私は、皆さんに、こう考えろ、ああ考えろとはいいません。
「自分の頭で考えろ」といいます。
そのための、「命題」を書くことはありますけど。
たとえば、
「おいおい、あんた、そんな軽薄なことを、本気で信じているのか?」
などの疑問や批判を、うちの掲示板に書き連ねる事などです。
●しかし、自我復元は、「自分で考えられる基礎体力」を
元の数値に戻すことだけが目的であり、その途中で、
トラウマ問題が発覚した場合には、それを解決するというぐらいにしかなく、
そもそも、他人の「考え方」にまで、干渉することはありません。
出来るだけ、「その人の個性的な考え方」が、どんどんと生まれるほうが、
自我復元は、成功していることになります。
●そういう意味では、自分の家族(特に配偶者が)自我復元に興味を持ち、
それを行うということは、
たとえば、「うちの妻が、三島由紀夫の作品のファンになった」とか、
「太宰治のファンクラブに入会して、文学ツアーに熱をあげている。」
というのとは、わけが違います。
むしろ、「トレーニングクラブに通って、体力と柔軟性をつけている。」
という体育界系のワークに近いものです。
●自我復元の結果、それまでよりも、悪い判断、間違った判断を
人生でしているという事例を、私はこの2年間にただの一度も見ていません。
むろん、完全に正しい選択が出来ているわけではないにしても、
自我復元前のその人と比較すれば、状況判断能力は、雲泥の差です。
つまり、何かが改悪されるということは、皆無である点では、
開発者の私自身が、その報告内容に驚いています。
もっとも、副作用なし、改悪なし、ということが確実であるからこそ、
この自我復元に対して、私は保証を出来ているわけですが。
効果が曖昧なものほど、私が大嫌いで、軽蔑するものはないからです。
●さて、家庭内で生ずる問題について、続けますが、
自我復元でなくとも、他の巷の「何かの教室」であっても、
子供っぽい精神年齢の男性が「簡単に陥ってしまう」のは、
>「この夫である俺の言うことよりも、他の誰かが言うことに
> 妻が従ったり、信頼を置くのは、俺様は許せない。
> 妻は、俺の言うことだけ、信じていればいいんだ」
と、こうなると、どっちがカルトで狂信的かとなると、
夫の自己過信の方が、よほどカルト教祖に近い状態であることは明白です。
●なぜならば、たとえば、自分の妻が、英語教室に通ったとします。
旦那は、英語にまったく興味がないとします。
しかし、英語教室の先生の言うとおりに、妻が勉強する姿に、
夫は、嫉妬したり、やきもきするでしょうか?
いいえ、しません。
もしも、その英語教室の先生がイケメンだと、旦那の内心は、乱されるでしょうが、
ただの英語教室ならば、
妻の語学力が上がることは、いずれ自分の仕事の取引でも役立つかもしれない、
という意味で、夫は妻を応援すらするかもしれません。
●つまり、利害関係としては、妻の英語教室通いは、旦那にも、おいしいわけです。
ところが、これが英語教室ではなく、
男女がいる、スイミングスクールになると、旦那の心は穏やかではありません。
何が穏やかではなくなるかというと、
そこのスイミングスクールのインストラクターが60歳をすぎた、
ヨボヨボのじいさん、または、ばーさんであっても、
旦那の心は休まりません。
なぜならば、
>自分の妻が、そのスクールに通っている、多世代の、全くの他人に、
>肌の露出度の多い姿を見せるからです。
この、自分の妻の水着姿は、あまり他の男には見せたくない、という
旦那の身勝手な心情は、たとえば、
「カウンセリングに通う妻」という図式で「形を変えて」起きます。
つまり、
>自分には、心の中を、そこまで露出させないのに、
>他人には、心の中を見せるのか?と、
旦那は、自分の能力の限界という現実を見ることに、嫌悪感を感じるわけです。
●もしも自分の妻が、「カウンセリングの先生だと、安心して話せる」
とでも家庭内で言おうものならば、
稚拙な場合の旦那は、
>「俺よりも、居場所として、ほっとできるかよ」、
と幼稚な態度をしはじめます。
●ただし、この場合、自分の妻が、自殺未遂を何度もして、
夫が、精神的にも参っているから、カウンセリングに
「旦那が連れて行った」、ということなのであれば、
旦那は、むしろカウンセラーに感謝します。
しかし、妻が自主的に自分でカウンセラーを探して、
自分の意志で相談をした、となると、
旦那は、妻の「舵取り」を出来なくなっています。
●こうした、状況では、
夫婦間に何が起きているかは、明々白々です。
特に、夫の側の心の中は、明白に露見します。
>「自分の妻が、
> その人生観において、
> 自分よりも信頼を置く誰かを持ち、
> 俺様の言うことよりも、その先生や本の言うことを信じるのは、
> 俺の、この、ちっちゃなプライドが許せない」
という、根拠のない自尊心と、もうひとつは、
自分には妻を納得させたり、ひきつける魅力がないという「劣等感」です。
こうなると、夫というものは、次の態度のうち、どちらか、または
両方の態度を妻に対して、向け始めます。
ひとつは、
>「家庭内で、旦那の方が妻よりも有利である点を、あげつらって、
>妻に主張しはじめます。」
その典型的な例が、
>「俺はお前たちのために、毎日、疲れるまで働いているんだ」
>「だから、俺が決める権利を持つ。俺が金を出しているんだ」
などなど、よくあるゾンビ状態です。
世帯主が、妻や子供を扶養するのは、結婚における最低限の義務であって、
偉ぶるような話ではありません。
●もうひとつの夫が取る態度は、
>「理解ある夫を演じようする」というものです。
>「それは、君の自由だよ。俺様は、こんなふうに寛大だから、
> そりゃそうさ、君の自由をボクは侵害しないのさ。なっ、俺って凄いだろう。」
世の中では、前者のように、妻に対して「本音から嫌味を言う者」と、
後者の、「理解ある夫であるかのように振舞う」ことで自尊心を保つ、
この二種類があります。
>後者は、より偽善的で、
>前者は、より暴力的です。
どちらも、ただの子供のような病気です。
つまり、「嫉妬」と「劣等感」に支配されていることを意味します。
●「自我率」というわけのわからない基準で、妻の頭の中で、
夫が仕分けされたり、ランクづけさていることを、夫が知ったらば、
それが、少々不愉快であろうことは、私も心情的には察しますが、
ただし、自分の妻が、
>「自分で決めて」「自分のために」行おうとする、
>ダイエット、シェイプアップ、スイミング、カウンセリング、
これらの教室や、その教科システムにどのような要素があろうが、
その自分に対する不満を解決しようとしている妻に対して、
それを妨害する権利は夫にはないことは、言うまでもないことですが、
自分の知らない分野だから、
自分の手に負えない分野だから、
自分の妻が、自分の説教よりも耳を傾けるから、
>そして、それによって、妻が自分から心が離れるかもしれないから、
となってしまい、
>嫉妬心や、懐疑心や、劣等感や、そして何よりも「不安」から、
>「自我復元を敵視する」
のも間違いですし、
>「妻と、歩調が揃わなくなると寂しいから、自我復元に付き合う」
このどちらも、全くの間違いです。
●これを、どんな馬鹿な人でも分かるように、言いますと、
「芸術」という分野が、世の中にはあります。
文学、絵画、音楽、彫刻や造形、舞踊、その他沢山あります。
では、どこかの誰かが、この「芸術」というものを、
「他人と付き合うため」とか、
「他人との関係を維持するため」とか、
「他人から、振り向かれなくなるのが嫌だから」とか、
「相手に馬鹿にされたくないから」とか、
そんな動機で、芸術にかかわっている人を見たら、
まともな神経をしている人間ならば、ドン引きします。
アートというのは、他の何かの道具に悪用するものではありません。
芸術や、研究というのは、それ自体を追求するために行うものです。
だから、自我復元も同じです。
自我復元や芸術や研究は、
一人の「個人」として、それに向き合うべきもので、
「他人に自分を合わせるため」に行うものではありません。
●ですから、もしも、そういう間違った心情に、夫がもしも陥ったら、
夫の方が、自分のその、妻や、子供や、会社の同僚から「かまってほしい症候群」の、
原因となったトラウマを掘って、炙り出したほうがいいです。
子供を、がんじがらめに束縛してきた親に育てられたらば、
その人間は、必ず、自分の妻や、最悪の場合は、子供に、同じことをする
「毒親ゾンビ」になります。
しかも、その時に台詞は、まるで四流ドラマのように、いつも同じです。
「夫婦なんだから」
「好きあって一緒になったんだから」
「家族なんだから」
「お前は妻なんだから」
「お前子供なんだから」
「あんたは旦那なんだから(妻の側からの場合)
そうなやって、いろいろなことが、原因として積み重なって、
なっている「現状」の姿、現状の形というものは、
その無数の原因の結果が、
たまたま、家族の形となったり、たまたま同居の形であるのです。
その「形」になるには、多様の原因と要因があるのに、もしも、
その「形」、形式、親権や、立場、プライドなどを死守するためだけに、
「家族だから、当然だろう」
「夫婦だから理解しあうのは当然だろう」
といった主張しはじめてしまったら、それは現実逃避になります。
もしも、お互いに、理解しあえなかったら、
「同居人 兼 セックスのお相手」としてだけ契約しますが、
「趣味や、人生観までは、お互いに同居など、いたしません」という、
「精神的な同居」に関する契約書を書き直したほうがいいです。
●法律的にも、経済的協力は、夫婦二人にも課せられますし、
また、性交渉の有無も、夫婦が離縁する原因となりますが、
ただし、「理想の一致・思想の一致・人生観の一致」までは、
法律的に夫婦足りえる条件には、一切なっていません。
性格の不一致も、離縁原因にはなりますが、
そもそも、性格が不一致でも、過度に相手に干渉さえしなければ、
「同居、子育て、家計の維持」は、可能ですので、問題はありません。
●よって、自我復元によって、家族のうちの誰かが、
人生観が変ろうが、必ずしも、それによって、家庭が壊れるわけでもなく、
場合によっては、関係性は改善される事例もあります。
ただし、改善になるかどうかは、
その家庭にいる人達の「元々の性質」に起因するケースが大です。
●結局のところ、結論を言えば、
ひとつの家庭の中にあっては、
自我復元を、他の家族に、無理に薦めることなど、大きなお世話であり、
他の家族が、自我復元をしている人について干渉するのは、大きなお世話であり、
なんで、そんなプライベートな事までを、
「もともとは他人である人間」と、共有したり、
理解した顔をしなくてはならないのでしょうか?
家庭内での実務に影響がなく、深刻な実害がないのであれば、
どっちの側も、そこまで侵害するのは相手に対して「余計なお世話」です。
そんなものよりも、多くの夫や妻が、
自宅で飲んだくれている酒や、向精神薬のほうが、
よっぽど、家族と家庭にとって「実害」と破壊性があります。
_____
●備考:
日本というこの国の中には、思い起こしてみると、
夫婦円満な家庭に関する史実の記録がほとんどなく、
現代の周辺環境にも実際にモデルケースとなるような理想的な
夫婦や家庭を見る機会が無いようです。
日本の歴史に出てくる夫婦像というのは、どこか不幸で家庭や家族は辛くて厳しく、
その中で『立派に我慢しましたとさ』ということが美談になってしまっている。
夫婦問題になると、駆け落ちして自殺したとか、
嫉妬から殺されたとか、
更には、日本神話の中でさえも、男女間のトラブルが題材にされていることも多い。
この点においては、ギリシャ神話もかなりエグい感情模様がある。
特に日本の場合、武家の妻は主人の出世に尽くしたかどうか、とか、
殿様の妻は、世継ぎを産めたかどうか、とかが問題になっている。
では、一方で、家族や夫婦の美談はどこにあるのかというと、
それらはすべて、童話に押し付けられており、
現代では、漫画やテレビドラマや映画や歌謡曲や演歌などの
仮想の世界に追いやられている。
つまり、現実には、理想となる夫婦や家族があまり存在してこなかったのが
日本の特徴の一つであると言える。
更には、女性の労働がいいか悪いかは別として、
(というのも、アメリカの女性解放運動はそもそも税収が2倍になるから促進した、
という歴史があるらしいので)
日本の場合には、女性の自立という概念が長年無く、
男尊女卑は当たり前のこととされてきた傾向がある。
ただし、江戸時代の泰平の時期は旦那を尻に敷く強いおかみさんの居たイメージもあり、
必ずしも、一家庭においては、男尊女卑ではないのだが、
社会制度としては、男尊女卑であったし、明治以降は戦争などを原因として
江戸時代よりもむしろ女性や子供を軽視する社会であったように思われる。
その例のひとつが、学校教育であり、その教育現場を過大に神聖化したのも家庭であり、
そのなれの果てが以前に書いた、学校給食の軍国主義的地獄であった。
冗談はさておき、このように理想像となる夫婦や家族像をフィクションではなく、
現実のものとして自分の目で見たことがなければ、どういう家庭を作ったらいいのか
わかるはずが無いのである。
蛇足ながら、幸せな夫婦が全く居ないのか、という問題だが、
幸せな夫婦の話をあまり聞かない原因の一つに、
日本の社交辞令として、自分の幸せを他人にあけっぴろげにひけらかす
という風潮が無いことがあげられる。
たとえば、少し不幸そうな来客が来たときには、相手を気遣って、
「どこも色々あるよの、うちだって、色々あります。」と言っておいた方が、
その客に対して、角が立たない、という要因もある。
そのために日本社会では「私たちハッピー」という姿をあまり見かけない、
という一面はある、かもしれない。
しかし、では本当の意味で夫婦が常に理解し合えてるか、
子供と親が正直に自分の感情や意思を表明しているか、となると、
皆さんが自分で掘った家庭のトラウマやAC問題を振り返れば
そもそもこれだけ、自我が希釈された社会で、確かに幸福な家庭、
いやもっと言えば、不幸に直面したときに、
それを家族で解決できる力など、
そもそも今の人類は持ち合せていないのである。
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- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -