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[178]
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★分割自我復元★その178■スピリチュアル系の汚染物質■
by:
鈴木崩残
2013/02/23(Sat)19:32:29
異なる核種の「毒」に汚染された人
●今回の話は、少し面倒です。
毒親からの「毒」と同時に、それとは異なる、別の核種の毒にも被曝している人、
というのを最近、私は気にしています。
むろん、親子関係を洗い出すことが何よりも優先すべき掘り方ですが、
その親子関係の毒から派生して、別の核種に変質した毒があるからです。
●その人達に一様に見られる傾向は、
「トラウマが、完全にはまだ掘りきれない」
「トラウマが掘れない」
「トラウマを掘る気もない」
この3つのどれかです。
そして、親からの毒と同時に、その人達は、もう一つ加わった、
二重の毒に犯されてきたと私は考えています。
この問題は、その人達だけの問題ではないので、
個別のメールではなくて、ひとつの記事にしておきます。
「受け入れる」「手放す」という嘘
●皆さんは、精神世界の中でも、とりわけ、
「受け入れる」とか「手放す」という事を標榜するアホウ集団に
出くわしたことがあると思います。
出くわさないほうがおかしいぐらいに、これは世の中に蔓延しています。
ヘマをすると、宗教が入り込んではならないセラピーやカウンセリングの
現場にすら、その毒は、流れ込んでいる場合があります。
●他人または、自分を「受け入れる」、
もうひとつは、他人または何かを「手放す」、
これが、
たとえば、自我復元の結果として、自然にその人の中に起きた人たちは、
沢山います。
しかし、世に徘徊している、エセスピリチュアル瞑想団体や、組織というのは、
この「受け入れる」「手放す」、
つまり、要約すれば「許す」ということを、
「しなければ駄目だ」「出来ない自分は落第だ」という、
ローテンションの強迫観念にしているケースが多いです。
更には、言うに事欠いて、
「しなければならない」や、「自分は駄目だ」とか思う自分も
「手放しなさい」とか「受け入れなさい」とか、
言葉遊びに終始する馬鹿な指導者も沢山います。
●そして、これは毒親から盛られたものではなく、
成人してから、各種の宗教や、瞑想団体で、盛られた毒です。
私は、これに該当する人を、現在5名ほど観察していますが、
この人達は、仮にそれが宗教や瞑想に関係あっても、関係なくても、
次のような決定的な欠陥を持っています。
それは、
彼らの自己信頼は、本人ではなく、
他人の自己信頼のパターンの模倣である
ということです。
これは、どういう事かと言いますと、
「自己信頼」と言うのは、本来はその人自身が自分で得るものであり、
その自己信頼は、その人独自のものであって、他者と比較は出来ません。
たとえば、マディアさんが現在持っている、自己肯定感は、
本人が、ついに勝ち取ったものです。
さかなさんが、至った「私の価値は、私が決める」は、
本人の中から湧き出した、まぎれもない本人のもの、
つまり、これらは、本当の本人の「自己信頼」です。
●ところが、変な瞑想団体や、宗教組織や、あるいは宗教色がなくても、
自己啓発セミナーや、政治団体や、研究会や、あるいは文学、音楽、
その種類や規模の違いはあれ、なんでもそうですが、
その「組織や団体」や「その世界の信念体系」が持っていて、
その世界が「これで、あなたは合格です」と押し付ける、
「自己信頼の基準」、つまり「合格ライン」というものがあります。
●たとえば、馬鹿まる出しで分かりやすいのは、やはり瞑想組織です。
和尚のところも例外ではありませんし、
チベット瞑想なんたからかんたらや、
詐欺まがいの、欧米化した瞑想組織も、むろん例外ではありません。
そもそも、「自己信頼」、つまり自分に対する「これで自分は大丈夫だ」
という実感の基準、敷居、価値観というものは、
自分が独自に得るものです。
それは自我が行う自己管理なのであって、
そこに、他人が作った「合格ライン」などあってはなりません。
しかし、瞑想組織に至り、あげくには、その組織で、
中途半端なインストラクターになったり、先生などと呼ばれてしまった者、
あるいは、しょぼい瞑想センターのリーダーや、
自営業のセラピストや、冴えないマッサージ師に成り下がった人達。
この人達に共通するのは、
それまで属していた、組織や教義が押し付けた、
「他人や組織が評価する、自己信頼」以外の自己評価を、
自分で出来ないことです。
●その結果、本当は、心底からは納得もしていないような、
瞑想体験や、トラウマ解消と称する経験について、
「手放したフリ」や「受け入れたフリ」をしなければ、
その組織では認められず、昇格も出来ず、
つぎ込んだお金がや労力が無駄になる、と思い込んだ人達です。
これの極端な例は、カルト宗教や、カルト自己啓発セミナーですが、
「毒性」は弱いものの、放射性物質と同じで、
長い時間をかけた、「低線量の内部被曝」の方が、ずっと有害で、
その人を蝕んでいます。
●私が、その数人の人達からのメールや報告を見て、
いつも感じるのは、私から見れば、
自己検証が甘く、自己評価が甘く、「がさつ」である点です。
大したことのない経験を、大げさな変化と誤認して、感じてしまい、
理解がまだ及んでいないのに、
すぐに、「あっ、理解できた」と思い込み、
「理解できて、すっと、楽になりました」と、すぐに言う悪い癖があり、
とにかく、自分に対する評価に、
粗暴さ、雑さ、乱暴さ、背伸び、というものがあまりにも目立ちます。
●他人の批判をしていても始まりませんし、批判が目的ではなく、
原因解明が目的ですから、
「どうして、その人達がそうなってしまったのか」を見ると、
それは、家族関係の中で盛られた毒とは別に、
それに加えて、もうひとつの「毒」が盛られているからです。
●それは、「他者の価値観」「他者の評価」に従った「自己信頼」しか
知らないという点です。
これが、スピリチュアル系に特有の事ではなく、
根深い家庭環境に、よくあるという点では、
これは、宗教や瞑想に汚染されなかった人たちにも、他人事ではありません。
たとえば、受験戦争や勉強の中で、
その中での「合格基準」に依存してきた人達は、沢山います。
そして、頑張って良い成績を取ったのに、親がそれを評価してくれなかった、
という絶望感を味わった人も沢山います。
●そこにあるのは、「自分の価値を自分が決める」のではなくて、
「こうなったら、あなたは合格ですよ」というパターンを、
どこか他所の精神世界カルトの中で、自分に染み付かせることを
許してしまったという事に起因します。
勉強が出来るのが良い、というのは、
もっとも無価値で、下世話な合格点ですが、
これが、リングを変えた、スピリチュアル系の中での「受験戦争」では、
「受け入れたら合格」
「手放したら合格」
「そうやって、晴れてあなたは、インストラクター、資格取得者」
「だから、そら、おい、もっと金よこせ」の被害者となるわけです。
●そういう空気の中にいたら、
「瞑想とは、自分を見つめる事である」と標榜するくせに、
見つめているのは、自分ではなくて、自分が納得もしていないのに、
その組織や教義が決めた、「よしあし」の基準に従ったフリをして、
「合格点を取れる良い生徒になること」でしかありません。
しかし、これを無自覚のうちに、繰り返しやってきた人、
つまり、他者が作った「自己信頼」を自分の自己信頼の基準にしか出来ない、
そういう状態にまだある人達がいます。
●名指しで言いますと、根路理さんは、それです。
彼女の場合には、その他人の作った基準は、宗教や瞑想ではなく、
「詩の世界では、何何でなければならない」
「詩の世界では、何何は駄目」が、まだ抜けていないのです。
それは、詩という世界のカルト教義そのものです。
それは、詩の世界のルールでは合格でも、
ここのトラウマ掘りでは通用しません。
●現在の「解説」という形式のブログは、
おそらくは、それこそ、分析の対象となっている、
「優越感」「劣等感」「他人とは違うことをしようとする」
これらが醜いことを重々自覚をした上で、
あえて、醜い自分をさらけ出して、それを自分に突きつける、
という実験「なのであろう」とは推測しますが、
そもそも、他人と違うスタイルでの「自分の過去の愚かさの自覚」
という手段を取ろうとする事の中には、
やはり、本当の自己肯定によるものではない、
他者の価値観や合格ラインが紛れ込みます。
精神世界でなくても、
「過去に失恋をした時の、相手の異性の価値観」などは、
大きく影響するものの一つです。
●もうひとつ言うと「ひとつ前」の投稿で、
報告の一部を掲載した方も、同じです。
むろん、根路理さんも、もう一人の方も、
これまでに、時間をかけて多くのトラウマを掘ってきたのは事実です。
しかし、毒親以外が盛った「毒」である、
精神世界での他者の価値観、異性や組織という他者が出す合格ライン、
これには、まだ、一部が洗脳されたままなのです。
親の洗脳ではなく、他者の価値による洗脳です。
●復元ブログは、書いていませんが、もうお一人、
全く同じ「他者の毒」が抜けていない人がいます。
その人は、一時期は瞑想組織のインストラクターもしていたようですが、
無明庵の記事を読んで、そこを脱したと思っている現在でさえも、
依然として、他人が作った「自己信頼の枠組み」に依存するしかない、
という状態にあります。
しかし、残念なことに、無明庵では、その枠組みは、
今までその人達が、自分や周囲を、「出来ました」と誤魔化せてきた
枠組みとは、相当に違います。
●無明庵での枠組みは、何よりも、正直さや、独自性や、真剣さを尊重するのですが、
具体的には、どういうのが良いとは、私は例を挙げません。
たまに、自我復元ブロガーの特定の人の記事を、
私が、心から賞賛することはありますが、
さりとて、それを「他人が模倣」などしても、合格にはなりません。
また、「誰の模倣もしないぞ」「私は私だ」、という姿勢を示したら合格かといえば、
そういう「ハッタリ」や「虚勢」は、無明庵では通用しません。
本当にそうなのかどうなのか? しか、私は見ません。
●私のところでは、真に迫ったもの以外は、すべて排除しますし、
また、本人がまだ無自覚に、親や他人の敷いた路線を、
自らの価値や、点数を決める指針にしてしまっている場合には、
それを修正する方法を生み出す為に私は奮闘します。
盛られた自己否定だけではなく、
「自己肯定」の根拠にも気をつけろ
今、トラウマが、まだもう少し掘れ切っていない人、
または、掘るのが進まなくなっている人たちは、
親子関係のトラウマ掘りは、何よりも重大な課題ですが、
それを掘ろうとしたり、実際に少し掘れたりしても、
なおも、掘れていないという人達は、
分野が、親からの押し付けられた「良い子」の「合格ライン」であれ、
瞑想組織が押し付けた「合格ライン」であれ、
過去に付き合った異性が押し付けた「合格ライン」であれ、
特定の業界や、特定の文化や芸術の分野が押し付けた「合格ライン」であれ、
そこで、親からの毒とは別の、
自己肯定の、価値基準、評価基準の毒を盛られていないか、
その毒が、まだ排泄されていないかを、よく観察するといいです。
●親からの毒の多くの目的は、子供に「自己否定」をさせることです。
ところが、そうやって、親から毒を食らって、
自己否定癖がついた貴方を、次に待ち受けているのが、
「自己肯定できるようになる」と宣伝をしている、
エセ・スピリチュアル・ビジネスです。
そして、その組織の教義が決めた通りの、
「許し」「受け入れ」「手放し」を出来たように振舞わないと、
あなたは、親からも認められず、
そこからの救いを求めた「瞑想組織」にも認められず、
また、付き合った異性からも認められず、
最後は、無明庵からも認められず、
それはその人にとっては、
耐え難い、さらなる自己否定になるに違いありません。
●しかし、私がここでやっている人間の修理とは、
その人には、それぞれの、「自己信頼」の形があり、
それについては、私は、公式化した合格ラインを決めていないということです。
むろん、自我判定は、私の独断でします。
しかし、報告の内容は、変化の様相は、人それぞれに、さまざまであり、
どういう状態が、トラウマが掘れたか掘れないか、
どういう状態が、親から否定された感情を、否定しなくなったか、
それについての「桜の間」における事例は、
あくまでも、自我復元という「実験者たちの個別の記録」であって、
人によっては、他者の見解が、とても、助けになる場合もあれば、
全く今は、関係ない場合もあります。
●個性とか、オンリーワンというのは、あくまでも、
自分が復元してゆく自我に誠実である事によって生じ、
また、トラウマ等を解消していった、
その「結果として」出てくるものであって、
もしも「ナンバーワンではなくオンリーワン」だの「個性的であれ」、
というもの自体に、「型にはまった、合格ライン」を作ってしまったらば、
その標榜と、目的自体が、
別の毒を持つ「合格ライン=自己肯定基準」となってしまうのです。
●ですから、トラウマ掘りが、
最後まで進まないで、どこかで止まっている人は、
今一度、
家庭の中の評価ルール以外にも、
学校、宗教、趣味の世界、瞑想団体、
これ以外にも、会社や企業や、「その業界」の価値観による評価、
そして、場合によっては、あなたの恋人や異性の価値観に、
あなたが、自己信頼や自己肯定の基準を依存していないか、
もっと、よく分析してください。
●また、「早く私は結果を出さないと駄目だ」と、あなたが自分で自分を
責め立てた原因のほとんどは、
家庭では味わえなかった、安心や、心の平和や、リラックスや、開放感を、
「提供すると称する」、宗教や瞑想や、何かの研究会で、
自分の評価を、本当の自分によってではなくて、
そこにある他人の作った価値観で確認しようとした事に起因しています。
救いや、楽になることを求めて食いついた、その「自己肯定」とは、
本当に、あなた自身が、あなたを肯定できたのか?
依然として、まだどこかの他人が作った自己肯定の合格基準ではないのか?
そこを、どれだけ疑っても、疑い足りないということはありません。
●ついでに言うと、
瞑想組織や、文化的組織、
学校、あるいは、霊的能力開発の会、ディベート研究会、
どういう場所でもいいのですが、
最後まで、落ちこぼれた人の方が、まだマシかもしれません。
その人達は、上手い餌にありつけなかったのですから。
しかし、学校、企業、家庭、伴侶、研究会、宗教団体、瞑想組織、
こうした中で、下手に、間違った形での成功体験を少しでもしてしまった人ほど、
その、チープな造花の「自己肯定感」「自己信頼」に、
その後も、ずっと、自分でも気づかずに、しがみ付いているのです。
そういう意味では、
「下手に、中途半端な、成功体験を持つ人生」は、
「失望と挫折が連続した人生」よりも、
「場合によっては」、始末が悪いです。
「自己否定」というのは「どうせ、私なんか・・・」という呪縛ですが、
「これならば、私でも・・・・」という中にも、
今回書いた
「他人や社会の価値観に依存した、自己肯定」が巣食うことがあります。
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