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[227]
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★分割自我復元★その227■ 金品の流れに思うこと ■
by:
鈴木崩残
2013/06/21(Fri)18:55:40
雑多なお話
●自我復元をしている、皆さまから、戴いているメールは、すべて読んでおります。
私からの返信がなくとも、ご心配しないで下さい。
以下に、少しずつ更新する形で、雑多な話を書くかもしれません。
前回の投稿が内容が重すぎて、しかも実用性が全くありませんでしたので、
今回は、軽い話にします。
・更新されている復元ブログ・
少し書いてみたいことがあります。
●お金の扱いについて、私は私独自の哲学というか主義を持っていますが、
その話を今回は書いてみます。
いわれのないお金を差し上げたり、
あるいは他人様から貰ったお金を、それをくれた人によって分類して、
分けている話など。
ちなみに1980年代というのは、会社のお給料も、
封筒にお札が入っていたんですよね。しかも風格のある聖徳太子。
よく、私は、大切な文はプリントアウトしろと言ってきましたが、
実は、本来はお金も、振込みという数字の印字ではなくて、
最低限でも、お札という印刷物の形で扱うべきだと思っています。
欲をいうと、重くなってもいいから、全部コインの硬貨であってほしい。
それに、なんでまた、利息も溜まらないような今の銀行に、
数字を移動するだけで、いちいち手数料を払わなければならないのか、
という愚痴も話すかもしれません。
だいたい、銀行に資産の根拠となる金塊もないのに
「刷った紙幣を他人に貸して商売する」って、それおかしいだろう・・
という話は、よく知られた話ですが。
★Bookばざーる さんの店長さんの日記(覚書)
http://bookbazar.biz/blog/diary.cgi?no=2829
●これ、凄い話ですよね。
でも、うちのサイトを読んできた人ならば、
「あ、やっぱり、その姉と弟の家は、機能不全家族だ」
と、慣れてしまったかもしれません。
こういう話から推測できる毒親の様相も、皆さんには想像がつくと思います。
●さて、次のブログも更新されています。
マディアさん
http://jigafukugen1987.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
お姫ちゃんさん
http://haripoteko.exblog.jp/i0/
さかなさん
http://love3nyansfukugen.blog.fc2.com/
***************************
その前に、まずは、仕事で疲れが溜まっている方は、
これらのどれか好きなものを聴いて、ゆっくりお休みください。
↓
【焚き火の音 3時間】
http://www.youtube.com/watch?v=tSRPt3QWE4s
【ひぐらしの声 1時間】
http://www.youtube.com/watch?v=2b-m9iZSz2E
【雨音 1時間】
http://www.youtube.com/watch?v=x6hLrN_6dk0
【滝と小鳥 3時間】
http://www.youtube.com/watch?v=AilNwuAPZ2E
___________________________
私が資金提供したくなるレアなケース
●お金、正しくは、「資金」。
私は、この生涯を通じて、他人様に、「いわれのないお金」、
つまり、「受け取る方の側」からしたら、
「いえいえ、そんなことをして戴く理由はありません、
お気持ちだけで嬉しいです」
という形になるようなお金を、他人様に、差し上げたり、
または、差し上げようとしたことは、ほとんどありません。
●第一の理由は、私は全く裕福ではないからです。
むしろ、自称「貧者」の部類に入ります。
ですから、よほどの事がないかぎり、めったに理由のないお金など、
他人様に渡そうとは思いません。
●第二の理由は、私がそうしたいという相手がめったにいないことです。
また、まかり間違うと、「同情心からお金を出したのか」と、
誤解されてしまいかねない、という点でも、とても難しいことです。
●そういう意味でも、お金の工面や、資金提供を申し出るというのは、
何よりも相手の方に失礼なことなので、
めったなことでは、私はそのような衝動にかられることはありません。
自分の側がたとえ、勝手に、その「援助衝動」に駆られても、
相手の人の自主性を尊重するならば、なおさら、軽々しくは口に出来ません。
●ただし自分の側が勝手に、何かに資金援助したくなる、
という「衝動的行為それ自体」は、別に不自然ではありません。
たとえば、どこかの発明家やアーティストその他に惚れこんで、
無償で、資金を提供する人たちもいると思います。
多くの場合は、見返りを見込んでとか、ビジネスとしてそれをするのですが、
中には、そうではないケースもあるでしょう。
入れ込んだ、マイナーな劇団にカンパしたくなる気持ちや、
まだ何かの才能を開花する前の「卵」である状態の人に、
役に立ちたいと思う気持ちから、匿名でお金や物を送る人もいると思います。
かならずしも、相手からの見返りを期待してのことではない、
衝動的なものも多くあります。
たとえば、芸能人のおっかけとかは、
自分が贈ったプレゼントが、そのタレントが所属する事務所で捨てられずに、
お目当ての相手に受け取ってもらえるだけでも、十分に幸せだろうと思います。
●一般的に誰でも、身に覚えがあるのは、男女どちらでも、
惚れこんだ「異性」のため、またはその相手との共同の楽しみのために、
お金をつぎ込むというものですが、
これは、魂胆が、まる見えなので、そもそも「資金提供」とは言いませんね。
あれは、あくまでも「投資」、「先物取引」の世界です。
●話は、少しだけ、脱線しますが、
私が大嫌いな類の資金提供というのがあって、
それは、よく芸能人や、著名人や、政治家が、どこぞかの施設に、
何千万円寄付したとかいう話です。
また、もっと身近なところでは、キャバクラか何かで、
おっさんが、若い娘に、
「これで何か欲しいものを買いなさい」とか言って、札束を渡すというシーン。
あれは最悪です。
それは、「これで何か美味しいものでも食べなさい」と、
まるで相手に「施し」をしているかのような上から目線だからです。
そうではなくて、それならば「物」で提供しろよ、と私は思います。
●つまり、たとえば、どこぞかの著名人または無名人が、孤児院に寄付するならば、
お金ではなくて、その孤児院の事をまず知って、
「何が必要なのか」を観察して、考えて、必要な物を買って、
それを「物」として送れよ、と私は思うのです。
相手にとって何が必要なのか、どんなものが不足しているのか、
相手の人は何が欲しいのか、
そういうことを汲み取るためには、相手について知らなければなりません。
●これはごくごく軽い、異性との「火遊び」ですらも同じです。
相手に「これどうぞ」と、札束を渡すだけの男や女は、ただの馬鹿ですが、
「相手が喜びそうなプレゼントを選ぶ」のであれば、
それは相手のことを観察すること、知るための努力した形跡が
少なくともそこにはあります。
その期待どおりに相手が喜ぶかどうかは、その時々のケースで違いますが。
●それで、話がやっと本線に乗りそうですが、
戦車さんのブログで書かれていた「変っている人」というのは、私です。
これまでに書いてきたように、私は、よほどの理由がないと、
他人様に「金子(きんすと読む)」をお渡しさせて戴くことはありませんし、
また、「資金提供させてください」と申し出ることもめったにありません。
何よりも、自分自身がお金がないというのも大きな理由ですが、
前述したように、そもそも、その行為が、
相手に対して失礼になる事が多いという、第一認識があるからです。
特に、主体性を持って生きている人に、
「いわれのないお金」を受け取って戴くというのは、大変な難関なのです。
●世の中には、依存型で、他人がくれるものは、ほいほいと受け取る人が多いですし、
また逆に「他人からの施しは、断固として断ることが人間としての美徳だ」
と、極端に走って、勘違いをしている人もいます。
実は、どちらもバランスを欠いています。
そうは言っても、やはり「金品の授受」は、
うかつには、やってはならないことであることには変りありません。
●主体性のある人は、
出来るだけ自分でやるべきだ、
他人様には、借りを作りたくない、
他人様に迷惑をかけたくない、
そう思っているのが常ですから、
その「うかつに、借りを作りたくない」と思っている人に、
たとえ悪意からでなくても、
「形」として恩を売ったような失礼な雰囲気を作ってはなりません。
恩というのは、不注意に他人から受けてはならないものであると同時に、
不注意に、他人に売ったような形になってもならないもので、
複雑な運命の織り成すこの世界の状況の中では、
扱うのがとても難しいものなのです。
●しかし、それでも、私が、そうしたくなったり、
実際にそうする場合には、訳があります。
たとえば、今回、「自家製のなめこの佃煮」に忍ばせて、
冷蔵庫の資金を提供させて戴いたのですが、
いきなり送るのも失礼なので、事前に「資金提供させていただけますか?」
と、なるべく相手の人に、お伺いを立てるようにしています。
私がそうする動機の「ひとつ」は、
むろん、第一に、それは私の「勝手な、わがまま」な動機からなのですから、
相手の人が、受け取ってくれるだけでも、それで十分であり、
受け取っていただけたことに、逆に私が感謝しなければなりません。
(これは以前に「相手に感謝されたり、褒められる必要はない」、
という趣旨の原稿でも、この桜の間にも書きました。)
しかし、もしも、それによって、相手の人が逆に恐縮してしまったり、
変に恩義に感じてしまったらば、
それは、私も相手も率直には喜べない結果となります。
だから、他人様に資金提供する、カンパするという行為は、
実は、おっそろしく、デリケートで難しいことなのです。
●それでも、私が、そうするには理由があります。
戦車さんの人格からしても、「はい、戴いておきます」と、
何でもかんでも受け取る人ではないことは分かります。
いわれのない金子(きんすと読む)に関しては、特にそうです。
「いいえ、それは戴けません。戴く道理がありません」となるのが普通です。
しかし例外的に、そうしなればならないと私が判断する場合があります。
それは、
>ある特定の何かが、
>その人にとって、
>その時、その瞬間に、早急に必要だ、
>と、私が状況判断をしたか、または直感的に確信した場合
唯一、このときだけには、私は、自分に無理なく出来る範囲内で、
資金提供を申し出ます。
むろん、その何かを買うためのお金は、
相手の人は、ちゃんとご自分の預金があるかもしれません。
親族から借りることも出来るかもしれません。
自分自身で、ちゃんと稼いで買うことも出来るでしょう。
しかし、そうであっても、
何かを買うことを、その人が、「躊躇をしている場合」があります。
私から見れば、
絶対に、その時、その瞬間に、その人には必要だと思っているものなのですが、
その相手の人の個人的な事情や、躊躇から、その必要なものを購入するのが、
「少し遅れそうだ」というケースがあります。
●実は、戦車さんの場合、あのヒラー事件があったときに、
私から見て、どうしても、あの状況では「絶対に必要」となる、
「ある武器(あくまでも、たとえですから、武器ではありません)」を
戦車さんが手にしないとならない、と判断したので、
「これで、***を、買ってください」と、「寸志」をお送りさせて戴きました。
しかも、それを買うお店も、戦車さんのご近所にある、
なかなか気合の入った、経営にポリシーのある店をネットで探して指定しました。
●今回の冷蔵庫は、冷凍庫はついていない、小さなタイプで、
これは、種類を選んだのは私ではなくて、戦車さん自身です。
ただ、「これは冷蔵庫の購入に使ってください」、とは私から伝えました。
私から見て、早く準備した方がいい、
でも、相手の人は、何かの理由で、それを少し延期している、
そういうときに、たとえば、
「あなたは、***を、早く、購入した方がいいですよ」なんて、
あかの他人から、言えるわけがないじゃないですか?
その人自身がお金を出すというのに、他人がそこに口を挟んで、
「あなたは、すぐに、***を買うべきです」なんて言えるわけがありません。
●だから、そういうときに、なんとか使える唯一の「押し売り」は、
「このお金は、***を買う為にだけ、使ってください」
と、「用途」を明確にして、それ以外のことには使わないでください、
という条件つきで、金子(きんすと読む)を、
なんとかして受け取っていただくという方法です。
●つまり、私の場合には、相手の方にお金が不足しているから、
私が資金を提供したくなるのではなくて、
>今の「タイミング」を逃したら、まずい。
という思いが発生することがあるのです。
多くの場合、その相手の人は、少し時間があれば、
その資金は自分で調達できる人たちです。
だから、本来は、私などが口を出したり、資金提供などという、
そんなおこがましいことを願い出ること自体が、
失礼極まりないことは重々、承知しています。
しかし、あとですぐに資金調達できるから、様子見するといっても、
「今でないとダメだ」「早くしないとダメだ」「あれがないとダメだ」
というものがあるのです。
その時に、購入のタイミングの為に、一押しする、そういう時にだけ、
私は、「使用の用途」を書いて、寸志を包ませていただくことが、
本当に「ごく稀に」あります。
●ということで、他人様に、いわれのないお金を受け取っていただく
というのは、本当に難しいです。
「このお金、何かに、好きに使ってください」じゃー「ただの馬鹿」のやる事ですから。
むろん、これは「いわれのないお金」のやりとりのケースであって、
仕事をして他人様から貰うお金や、
仕事をしてもらった相手に対して払うお金は、
この話には、全く関係ありません。
*********
●ちなみに、禅書や、自我判定の際に、
「お気持ち料」を加えてくださる方も多いのですが、
それらは、きちんと、一番経費がかかる画用紙や、筆や、
出版物の資材の購入に、使わせて戴いております。
禅書や判定依頼で戴いたお金は、
生活雑貨費には、出来るだけ使わないようにしています。
ですから「同封の、お気持ち料は、博士君のご飯に使ってください」
とか「用途の指定」を書いた一筆箋を入れる必要まではないですよ。
*********
●そして、似たようなケースが昨年に一度だけありました。
私の知人が、ある品を購入したいと思っていたのを知っていましたが、
それは、私たち庶民にとっては、なかなか値が張るものでした。
それで、そのときに、無礼失礼を100も承知で、
「あれを買う資金を、少しお手伝いさせていただけませんか」と、
その方に、申し出ました。
そんなことを言うことが、どれほど、相手の方に対して失礼なことなのかは、
説明する必要もないほどの「大無礼」なのですが、
それでもそうしたくなった理由は、資金提供を出来るタイミングが、
私にとっても、臨時収入と貯蓄があったのが、その時しかなかったことと、
何よりも、重要だったのは、
その品物の購入の「時期」と「タイミング」でした。
その時期を外したら、よくない、と私が勝手に直感したのです。
たとえ僅か数ヶ月であっても、先延ばしするのは、
その品との「縁」とか「運命の流れ」としてよくない、
また、その品が、これ以上遅れずに、
その知人の手元に、「今」ある方が、これからの流れとして良いと。
●それで、
「私の勝手な気持ちで、本当に失礼なことですが、
資金の一部を負担させて戴けませんか」と申し出ました。
この時も、理由を説明するのが難しかったです。
「いつもお世話になっておりますから」、とかいう、そんな
社交辞令的な言い訳が通じるような金額ではなかったからです。
そこで、
「将来、この国の世の中も、どうなるか分からないので、
資金が溜まるのを待つのではなく、なるべく早いほうが」
と、それらしい理由をつけましたが、それも半分以上は実際に真実でした。
そして、その知人の返事は、
「気持ちだけ、ありがたく戴きます」となりました。
●それで、どうなったかと言いますと、
結果的には、その方は、その品を、ご自分で購入しました。
そして、その時に、私にこう言いました
「崩残さんが、カンパを申し出てくれたとき、自分の心が揺れました。
その自分の心の揺れが、自分で許せませんでした」
これを聴いて、ほっとしました。
いえ、自分がお金を出さないで済んだことに、
ほっとしたのではありません。
「購入が間に合って、よかった」、とほっとしたのです。
また、
「ありがたく、他人様の持ちに頼ろうか、と揺れた心を制した」
という、相手の方の言葉にも、「さすがだ」と思いました。
何が「さすがだ」、と思ったかと言いますと、
「ご自分で買う決断をしたこと」は、むろんですが、それに加えて、
その「揺れた気持ちを、ありのままに私に語ってくれた」という、
そのオープンさです。
●人は、いろいろな自分の心の内の心情を、他人には話さない人も多くいます。
逆に、垂れ流すように、
自分の「日ごろの身の上」のことを、べらべら言う人には困ったものですが、
逆に、内に秘めすぎる場合もあります。
しかし、こういう気持ちの揺れや、迷いを、
自らの意識から切り離した「客体として、その動きを観察」し、
しかも、それを言葉にして、相手に伝えることの出来る、その人の才能には、
いつも、私は敬意を感じています。
●コミュニケーションというのは、
「一般的な宇宙の次元」での生活のように、嘘が通用しなかったり、
言葉の壁がなければ、基本的には、隠し事が出ないという、
簡単なものなのですが、
この地球上では、言葉の使い方では、真意が伝わらないこともあり、
また、真意が伝わることもあり、そこにムラがあるのですね。
●私自身が、お金というものに困ったり、その大切さを経験してきただけに、
ポイポイと気楽に、お金のやりとりをしたり、貸し借りをしたりすることは、
絶対にしないのですが、
それだけに、お金はどのように、大切に扱うと良いか、
ということも、この人生の中で知ることが出来ました。
だから、次はその話です。
逆に、お金を「受け取る側」になった場合の、お金の「分類」についてです。
誰から貰ったお金か?が重要
●これは、確か、大昔から「竹の間」でも話題したことですが、
私は、そのお金を、
「誰から受け取ったか」
そして、もしも、情報として分かる場合には、
「どういう経緯のお金か」
「何の仕事をして得たお金なのか」
これに注意しないと、
「悪縁の金銭の影響を食らう」ことがあると、皆さんに注意しました。
特によくないのは、「毒親」からの資金や資産です。
これを「除染」するのは、かなり難しいです。
だから、自分の親が毒親である場合には、
親離れするには、衣食住にまつわる基本資金だけは、
自分で作り出すようにしてくださいと言ってきました。
衣食住の基本とは、引越し代や、旅費や、いろいろな「初期資金」も含みます。
そのごく一部でも毒親に負担させたり、毒親の恩を買った形になると、
トラウマ掘りも出来なくなります。
●この観点を、家族内ではなく他人に向けても同じで、
私は、「変な人間」からの、お金や品物は、
極力、受け取らないようにしています。
そもそも、他人様に何かを渡すときに、
それをする自身の動機や理由について、あまりにも無自覚な人が多いからです。
そのようなことをしていれば、悪意の有無に関わらず、
他者に毒を盛る、という無礼をすることになります。
●そこで、私は、私が一目置く人たちからの、
書や判定料金の支払いは、他の人とは分けてストックしてあります。
自我率だけではなくて、自我率のふさわしい生き方をしている人からの
お支払いは、別格に封筒にいれてあります。
まだ復元があまり軌道に乗っていない人は、それとは分けます。
●または、禅書の注文でも、あまりにも変な人からの支払いのお金は、
大切なことには使わずに、やや優先順位や、重要度の低いことに使います。
自分が評価している方から戴いたお金ほど、
重要なときに、その「お札」を使うように心がけて区分してあります。
●これをすることは、とても大切なことです。
どんな人から貰った、どのように生まれたお金なのか?
これが世の中の動きや、自分の運命を支配するケースがあるからです。
だから、以前にも書きましたが、
自分で作り出したのでもない、他人の資産や、お金を、バカスカ使って、
禅書を頼んでくるような人からの注文は断りましたし、
その場合には、仮に、禅書を書いても、その人の力になる書には、仕上がりません。
むろん、私としては料金を戴けるだけの、きちんとした作品に仕上げますが、
ただし、霊域で、それが作用するかどうかは、
その人が、その支払いを、自分の力でしたかによります。
●そういうわけで、
皆さんも、封筒や財布を、いくつかの重要度に分けて、
良いところ、良い人からやってきたお金のお札や硬貨は、
別にしておいて、大切な時に使う、ということをしてみるといいです。
これは、お金だけではなくて、「物品」でも同じです。
だから、私は、
もともと自我率の高い人からの「お支払いや、プレゼント」や、
または復元して、トラウマ掘れて、
自我率と実力がアップした人からの「お札や、プレゼント」は、
「重要なこと」にしか使わないようにしています。
*********
●それと、「2010年の11月以後」に書かれた禅書は、
特に大切にしてあげてください。
それは、「自我判定という手法」が始まった「以後」の書作品で、
それ以前の禅書作品とは、全く違う、次元のものになっています。
目に見える書としては、その違いは分からないかもしれませんが、
書かれる工程の中に、「自我復元に作用するような要素」が、
自然に入っているからです。
2010年10月以前の禅書作品には、
そうした要素は全く入っていませんでしたから。
あと、匂い袋も、大切にしてあげてください。
あれは、布の色や模様、そして中身の香木の配合の組み合わせは、
同じであるものは、ひとつもなくて、
一人一人の方の現状に合うように配合してありますから。
___________________________
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