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★分割自我復元★その273■「迷惑かけてありがとう」・続編
by:
鈴木崩残
2013/10/17(Thu)10:17:58
迷惑かけて ありがとう の怪
●天音さんのブログに、少し出てきましたが、こういうやりとりでした。
>>前半省略
「めいわく かけて ありがとう」
って、
風 吹いて 葉っぱ舞う
とか、
雨 降って 水たまり
とかと同じですか?
>かなり 違います。
>それでは、別の2例のマネです。
>自然をそのまま言うならば、誰でもできます。
>タコさんが、もっとすごいのは、
>人を題材にしている点です。
崩残様へ
ぬ〜。
結構自信あったのに。
返信ありがとうございました。
わかんなくて気持ち悪いけど、
全然わかんないので、
また考えて出直します。
*********
「解説」
考えたら、ダメなんですよ。
Abyさんは、「迷惑かけてありがとう」を実際に連呼してみた感想を
送ってくれましたが、なんだかなー、という感じでした。
天音さんは、考えて、「何を」分かろうとしているのか、わかりませんが、
クイズを解くような感覚で取り組むと、
大昔、竹の間掲示板でやった、禅問答に対する、
沢山の、トンチンカンな回答者たちのようになってしまいます。
そもそも、これは「実存的」な言葉であって、クイズではありません。
私がたまたま、芭蕉の句と、良寛の句と「同じ香りがある」と書いたものだから、
ほとんどの読者の人たちは、天音さんと同じことを、すぐさま、
うっかり考えてしまったはずです。
「あー、人がいない自然現象とか、無我の意味とかなんだろう」と。
これが、思考や観念に囚われた人が、いつもいつも、やってしまうことです。
しかし、やってしまっても構いません。
今、皆さんは自我復元をしているのですから、それでいいのです。
しかし、一方で、私は言っています。
>タコさんが、もっとすごいのは、人を題材にしている点です。
タコ八郎が使った単語は、すべて、人間に固有のものであって、
自然描写でもなく、自然を表す単語でもありません。
そこで、「迷惑かけて ありがとう」の構造をよく理解した上で、
「同じ構造」になるような言葉を作り出そうとすると、
これが非常に難しいのです。
●天音さんが、
もしも本気で頭を使って「考えて」答えを出したいならば、
意味を解釈したり、こじつけようとする前に、
言葉の「構造」を理解しないとなりません。
前回の投稿に書き記したように、
これは日本語としては
あり得ないものなのです
そこで、では、それが、どれぐらい「あり得ないか」を説明します。
●「迷惑かけてありがとう」これを、
「逆に」ひっくり返した反対の言葉を創作しようとすると、
こうなります。
『大金渡して、ごめんなさい』
『命を助けて、ごめんなさい』
しかし、このいずれも、意味が通ってしまいます。
一番目は、大金を渡したせいで、相手が人生を踏み外した場合です。
二番目は、誰かの命を助けた場合に、他の人が死んでしまったり、
または、助けた相手の人が、実は、死にたいと思っていたのだったり、
死んだほうがずっと良かったのだと思っていたら、
「ごめんなさい」は、成立します。
では、なんとかして、
タコさんの「迷惑かけて ありがとう」と、
「言語的な骨組み」が類似する「構造」の言葉を作り出そうとすると、
こうなります。
『心配かけて ほっとした』
「心配」と「安心」、という全く対立した二つの言葉ですから、
一見すると、これは、ありそうもないこと、あり得ないことに見えます
しかし、これも、
「付き合っている異性に、わざとカマかけて、心配させたらば、
私のことを心配してくれた、ちゃんと、私の事を思っていてくれていたので
だから、・・・・ほっとした」
という流れの解釈が成立してしまうのです。
●そこで、めいっぱい、タコさんが言ったのと同じぐらいに、
不条理な日本語を作ろうとすると、
『足手まといで ありがとう』
『心配かけて ありがとう』
などになります。
つまり・・・・
そもそも、これほどに、「ありえない」日本語を作った、
という、そこが凄いところなのです。
しかも、これには、芭蕉の句も、良寛の句も、そこらの半端な禅語も、
ほとんど太刀打ちが、できません。
無為自然に起きることを、主語なく描写することなど子供にでもできます。
ところが、タコさんは、自然物の名前ではなく、
「人間にのみ固有の」
「迷惑かける」と「ありがとう」を不条理に組みあわせたのです。
既に言いましたように、
自然のことを自然の言葉で言うなら、誰だってできます。
しかしタコさんは、
極めて人間臭く、
いうなれば、「人間の曲がった心」が生み出す、
「迷惑がる心」と「ありがたがる心」によって、
実は、それでもなお「自然現象」を詠っている、という点なのです。
だから、言語的な構造だけを、なんとか模倣しようとすると、
私ですら、
「足手まといで、ありがとう」や「心配かけて ありがとう」ぐらいしか、
ひねり出せないのです。
●これは、クイズではないし、言語学上の難問でもなく、
生き生きとした、不条理な言葉であり、
それが描き出しているものは、
「道(タオ)であり法(ダルマ)」なのです。
いうなれば、
肥溜めで悪臭を放っている大小便の塊から、
世にも美しく、不思議な香りのする花を、
一輪作り出した、かのようなものです。
だから、無理をして、わからなくていいです。
この言葉は、
あり得ない言葉であり、
不条理な言葉であり、
奇跡のような言葉であり、
決して、汚してはならない言葉なのです。
・ちなみに、この「めいわくかけて ありがとう」は、
タコさんが普段から舞台でも言っていたものであり、
「臨終の際の言葉」ではありません。
もしも、意識が朦朧としている中で言ったのだとしたら、
「迷惑かけて・・
・・ごめん・・・今まで・・いろいろしてくれて
・・ありがとう」
の真ん中が、上手く言えず、「モニャ モニャ モニャ」になってしまい、
それを聞いた人が、真ん中を省いて「めいわくかけて ありがとう」
と、聞き間違えた、という推測も成立します。
しかし、この言葉は、タコさんの、普段からの座右の銘だったのです。
*********
禅問答の世界
俳句が出てきたついでと言ってはなんですが、
そんなに、クイズがお好きでしたら、
ひとつ、書いておくので、解いてください。
回答を見ないで解きたい人は、【回答はこの↓下】以後から、画面を
スクロールしないで、がんばってください。
>和尚が、弟子に言った。
"古池や 蛙飛び込む 水の音"
という俳句は、お前でも、知っとるやろ?
どういう意味だとかは、まー、置いておいてだ。
はて、その水の音は、
どんな音や?
弟子は、答えた。
【回答はこの↓下】
【ガッツがあるなら、この下、見るな】
******************
弟子は言った。
アンタが、ごたごた 言うから、聴こえへん!
↑
これは関西弁(京都弁や大阪弁)の「アクセント」で読まないと、味わいがありません。
・野暮すぎる注釈・
「せっかく、私が、その水の音を聴いていた境地にいたのに、
あんたが、御託をならべるから、
やかましくて、聞き取れないじゃないか」
という意味。
あっさりと、和尚を撃沈である。
*********
ただし、これに対して、
「それは、(水の音が聴こえないのは、お前の心の乱れのせいで)、
ワシのせいではないが」
と和尚が反撃することも可能である。
この場合には、
それを聞いた弟子は、
こう鳴き始めるのである。
『チ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 チチチ チ〜〜〜〜』 (注・1)
これでオチがついて、
和尚に呼び出されてしまった芭蕉も、成仏できたというもの。
禅僧の心境にあっては、
万事は、「無音の静」ということである。
俳句には 俳句で やり返せばよい。
******************
●さて、川柳や俳句といえば、
献血を し過ぎて貧血 輸血する
といった、血だらけの、自爆川柳などもある。
あ、そうそう・・・もうひとつ、思いついた。
ニャオー ニャウー ニャオー〜
家猫に なりたい外猫 どこの猫
なんとなく、風情があり、情景が浮かぶような句である。
しかし、これが、
ニャオー ニャウー ニャオー〜
家猫に なりたい外猫 外の猫
となると、哀れさが漂ってくるのである。
外猫は、家猫になりたくてもなれない、というその現実が、
悲しさを漂わせるのである。
そして、
ニャオー ニャウー ニャオー!!〜 =("ω")=
家猫に なりたい外猫 うちの猫
こらー!! 捨てたの お前かぁ!
と、一転して、漫才になってしまうのである。
だから、日本語というのは、面白い。
(注・1)
昭和初期、ある論争が起こった。
芭蕉の句の蝉の種類が何か?ということである。
アブラゼミか、ニイニイゼミかという論争だ。
歌人・斎藤茂吉は、「やかましく鳴くアブラゼミだ」と言い、
漱石門下の評論家・小宮豊隆は、
「いや絶対にチーチーと、か弱く鳴くニイニイゼミだ」と主張し、
それが2年越しの論争になった。
しょうがないので、調査が行われた。
すると、芭蕉が山寺を訪れた7月にはニイニイゼミしかおらず、
茂吉の完敗だった。強情で知られる茂吉が珍しく素直に負けを認めたという。
*********
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