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[387]
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★分割自我復元★その387■ 『自我判定の為の報告例 』
by:
鈴木崩残
2014/08/29(Fri)08:56:04
判定時の報告例
■私の短いコメントは最後に書きます。
*********
崩残様
お世話になっております。
自我復元による変化・効果等の報告がまとまりましたので、
7回目の自我判定をお願い致します。
ようやく、自我判定の依頼ができて、正直、ホッとしています。
と言いますのも、実は、もうちょっと早く判定依頼をお願いする事を
目論んでいたからです。
8月に一週間の盆休みがありましたので、
その期間に、ガッツリと自我判定の報告書を書いて、
判定依頼をしようと思っていました。
ところが、いざ書こうとすると、書けない、書けない。
ほとんど書こうとする気すきませんでした。
今まで、何度も判定依頼をお願いしたことがありますが、
今回ほど、書くことに対して、苦しんだことはありません。
今、思えば、判定依頼を出す時期ではなかったということが、はっきりと分かるのですが。
今回、報告させて頂く変化内容は、今まであった変化とは、大きく違うと認識しています。
個人的な感情としては、ある意味、今まで待ち望んでいた変化とも言え、とても嬉しいものです。
その内容について、以下に報告させて頂きます。
文章の中には、ほとんど独り言であったり、単なる自問自答であったり、
私自身の醜い姿をさらけ出すものであったりして、文章として繋がっていない部分あり、
読みづらい所もあると思いますが、私の変化の記録として、そのまま報告させて頂きます。
中略
カレンダー日数は231日で、ほぼ毎日行っておりました。
昼間の通勤途中の電車の中でも呼びかけを行っておりましたが、
実際の回収は、朝の起床時の1日1回のみ行っていました。
呼びかけから回収までが1セットで1回にカウントし、
また、完全にできなかった日、つまり、
呼びかけ、または、回収のどちらかができていない日を除きますと
延べ回数は、207回でした。
■作業を行った結果、感じたことや変化したこと
いくつか、項目別に書きたいと思います。
●自我復元の報告文を書くにあたって、思った事
この盆休みを使って、自我復元の判定依頼の報告文を書こうと思っていた。
でも、書けない。なぜ、書けない。
「書こう。書こうとするのだが、どうしても書けない。
パソコンの前に向かう事すらできない始末だ。
今までなら、もっと書けたはず。書くネタも十分にあるはず。変化もしているはず。
報告文を書くのがしんどい。面倒くさい。
このような思いが出てきて、
身体がしんどくなったりして、だらだらと寝てしまったり
他の事にかまけてたりしている。
今の自分が、信じられないからだ。信頼できないからだ。
多少の変化はしたし、もうかれこれ、前回の判定から、8か月以上経過するのだから、
多少なりとも変化していることは、間違いない。
また、実際の生活においても、変化している。
でも、確実に自分は変わったと自信満々で、崩残さんに報告できるだろうか。
いや、できない」
今までの自分だったら、喜んで、こんな変化がありました。
私は、このように変化しましたと「ねぇねぇ、崩残さん聞いてよ」ごとく、
自我判定の依頼をし、報告していたと思う。
しかし、それが、いったい何なんだ。実際の自分自身を見れば、
何も変わってなんかいないじゃないか、
ただ、ちょっと変化しただけじゃないか。根本的には何一つ変わっていない。
・身体の弱い自分を受け入れられない自分がいる。それよりか、責めてしまう。
・あれだけ、優先的にやると言った。AC人格列伝さえできていない。
・報告文が書けず、だらだらと寝たり、テレビを観たり、他の事でごまかしている自分がいる。
・このような自分だから、ちっとも自己信頼なんかできない。
・今の自分なんか信じられるわけないだろう。
・こんな不安がまだあり、将来どうしていったらいいかも分からない。
・それよりか、意志がこの上もなく弱い。
・今だに、AC人格満開である。
このように、大きく揺れ動いてしまっている今の自分なんか信じられるわけない。
こんな奴と、この先、やっていったって、この不安や苦しみは、永遠に消えやしない。
何を信じれば良いのだろう。
いや、この今の自分を信じられなければ、いったい何を信じれば良いのだろうか。
そんな信じられるもの、自分以外の他にあろうはずもないではないか。
じゃ、どうすればよいのだろう。何も信じられないではないか。
今の自分をどう信じればよいのだろうか。自分だけが頼りなのだから。
自分自身を信頼してやっていく以外に、方法があるわけない。
どうしたらいいのだろう。正直、八方塞がりのような気がする。
そうだ。「八方塞がりなんだ」
今、分かった。気が付いた。もうこの先、進んでいけないのではないか。
この先、トラウマ掘り、AC人格分析、そして、自我復元を続けていって、
本当に、AC人格解除ができるのだろうか。自信がない。
というか、そんなのできるはずがないのではないかと思ってしまっている自分がいる。
今まで、自我復元等を続けてきて、以前の自分とは、変わったことは間違いない。
以前の過去の自分自身の姿と比べてみても、それは疑いようのない事実である。
特に、職場においては、それが顕著に表れている。
一言で言えば以前とは違う、
「力強い自分、意識がはっきりとした自分」
「今、ここに自分がいると言う事が、はっきりと感じられる」
しかし・・・・
いつまでたっても、不安な自分が消えない。
AC人格についても、ちょっとは冷静に観察できるようになっただけで、
その癖は、現実の生活において、嫌というほど残っている。
このようなわけで、こんな自分に信頼なんてできない。
だから、どこまでいっても、不安な自分は消えず、いつまでたっても
自分を信頼できないのではないかと思ってしまいます。
どこまでいっても、この壁は、ぶち破れないのではないかと思ってしまう。
たとえ、全自我になったとしても。
それは、そうだろう。崩残さんに
「はい、あなたは全自我になりました。もう大丈夫です」
と言われた所で、自分自身が、自分を信頼できていないのだから。
崩残さんに、
「あなたはAC人格を解除できました」
って、言われた所で、自分自身が、自分を信頼できていないのだから。
自分で、今、書きながら、気づいたのだが、そもそも、考え方が間違っていた。
全自我になったから。AC人格解除できたから。自己信頼できるようになった。
それは、おかしいだろう。そんなわけないだろう。よく考えてみろ。
全自我になるということはどういうことか。
それは、元々、自分に備わっていた意識力、思考力等を行使できるようなっただけである。
パソコンで言えば、それは、必要十分なスペックに戻っただけのことである。
また、AC人格解除は、自分というものが信頼できてこそ、
今まで、頼っていた依存していたAC人格とおさらばできるのであって、それが先ではない。
そもそも、考え方が間違っていた。
結局、自己信頼できなければ、何も意味がない。
この地球にいたって、例え無事に地球を脱出できて、
他の宇宙へ行った所で、どのような場所へ行ったところで
今の自分を信じられなければ、頼ることができなければ、何にもない。
何も変わらない。
自己信頼。
確かに、今の自分を頼り、そして信じ切ることができない。
でも、本当に、本当に、完全に100%信じられないのか。
そうではない。信じている部分はある。頼っている部分はある。
・何度かくじけそうになりながらも、頑張って続けてきた自我復元、トラウマ掘り
崩残さんを信じてきたという部分は大いにある。
そして、現実の生活において、実際に変化があった。
それによって、今まで駄目だった自分を自分の人生を取り戻せると確信できた。
それがあって、今まで続けてきた。
これについては、大部分が、自分もまだまだいけるというAC人格、
自分は特別なんだというAC人格等と言えるが。
今の両親は、本当に駄目だと見切りをつけて、親との離別宣言をした。
これをすることは、本当に怖かった。
なぜなら、いざと言う時、金銭的にも親に頼ることができないということを意味するから。
こんな親とは、今後もう関わりたくないという想いも大いにあったが、
こんな親に頼らなくても自分はやっていけるとも思っていた。
自信があったわけではないが、万が一、お金が無くなって生きていけなくなったとしても、
こんな親に頼るくらいなら、死んだ方がまだましという想いもあった。
よく考えれば、いや、よく考えなくとも、頼りない力のない自分であるが、
少しでもちょっとでも、自分のことを信じられたからとも言える。
自我復元も、トラウマ掘りも、親との離別宣言も、
かなりの部分AC人格の力が牽引となっていたことは、否めない。
しかし、それだけではない。
力のない頼りない自分であるが、その自分を信じてきたからこそだと言える。
その小さな小さな声を大事にしよう。
忘れてはいけないと、今、感じています。
本来であれば、まともな親であれば、まともな母親であれば、
その加護の元、小さい子供の頃に、この自己信頼を育んでいたはずです。
しかし、それは、叶わない夢である。
実際は、自己信頼を育てるどころか、毒母親によって、自己不信感を育ててしまった。
最近、新たな記憶を思い出した。嫌な記憶でした。
今までは、この毒母親から虐待を受けた記憶というのが、
幼稚園の頃が、最古のもので、それ以前の記憶を思い出せないでいました。
しかし、あの毒母親ですから、もっと小さい頃に、何もしていないことはないと思い、
続けずっと、記憶を掘り続けていました。
ようやく、思い出しました。やはり、やられていました。
幼稚園に入る前の、たぶん3歳か4歳頃だったと思います。
その頃の実家は、今の家に建て替える前の旧い家だったのですが、
確か、8畳の部屋で、そこに押し入れがあり、そこに布団を入れていたと思います。
布団がみっしりと詰まっていたわけではなく、隙間があり、
そこに何回か閉じ込められてという記憶を思い出しました。
どうして、その押し入れに閉じ込められたのかの理由までは思い出せませんでした。
が、その時、確かに閉じ込められたという映像が蘇ってきました。
また、その他にも、嫌な記憶を思い出しました。
この記憶については、もう本当にぼんやりとしているのですが、何歳頃だろう。
もしかしたら、3歳以前かもしれませんが、ベッドの上か下か分からないが、
私がベッドのような所に寝ていて、
上から布団のようなものを被せられ、そこから出られず、もがいていた、
怖がっていた映像を思い出しました。
母親がやったのか、父親がやったのか、もしくは、運悪く、
私の寝相等が悪くてそうなってしまったのかどうかまでは、分かりません。
ただ、その時に、感じた感情はとても嫌なものでありました。
恐怖と言えば、大層だけれど、何か、パニックている自分の姿がありました。
●話は戻りますが、自己信頼を育てるのではなく、自己不信を育ててしまった。
しかし、これについては、私が選んだ親が間違っていたわけですから。
これは、どうしようもないことであり、これは、どうしようもない事実ですから。
どう悔やんだ所で、もう取り返しがつかないことですから。
今は、まだ、頼りなく弱い自分(いや、実は、そう思い込んでいるだけかもしれない)
だが、大事に大事に育てていきたい。そう思えてきました。
●自己信頼について
今の自分の何が信じられる?
弱い自分、逃げ出したい自分、
それよりも、こんなしんどい事をやりたくない自分
自我復元、トラウマ掘り、AC人格分析・・・
何とか、これらを避けて楽になれないものだろうか。
この苦しみから逃れられないものだろうか。
そう思ってしまう自分がいる。
そして、実際に、それらを避けて、それらから逃げて、
他のことをやって楽しんでいる。
楽にしているようにしているつもりであるが、
実際は・・・・
全然、そんなことない。苦しくて苦しくて仕方ない。
他の事をして一時的に気分が紛れるが、麻痺することができるが、
結局、また苦しむ。
ちっとも楽になんかならない。
むしろ、この逃げている自分自身の姿を見て、自己嫌悪に陥る始末である。
この盆休みも、ただ食べたいものを食べ、
好きなだけ、だらだらと寝ている方が楽に思ったりする。
でも、全然そんなことない。
それらをして、一見、苦しいことから(自我復元、トラウマ掘り等)から、
逃れているような気がするが、心ここにあらずである。
いつも心の奥底では、
「こんなことをしていては駄目だ」
と何度も何度も叫んでいる。
でも、自分自身に向かう事が苦しくて苦しくて仕方ない。
結局、どうしようもなくなって、
今、想いを文章に書いているわけであるが。
いい加減に観念したらどうかと思う。
もう本当に観念したらどうか。何をやっても苦しいのだから。
何をやってもこの苦しみから逃れられないのだから。
楽になろうとして、それから逃げても苦しむ。
いや、逃げていることによって、
むしろ自己嫌悪することになり、苦しみが増大するだけである。
自分自身の過去を振り返っても、この「観念すること」
これが、できていない。
いったい「楽」とは何だろう。
今までの自分は、苦しみから逃れること、逃れないにしても、
苦しんでいないことが楽になることだと思っていた。
本当に、本当に、そうなのだろうか。
苦しみがなくなれば、その後に、楽が残るのだろうか。
今までは、何の疑問もなく、そう思い込んでいた。本当にそうなのだろうか。
よく考えてみた。
冷静に考えてみると、何の根拠もないではないか。
一般的には、
「苦あれば楽もある」
「苦しんだ後には、楽になる」
「楽になる為、今、苦しいけれど頑張る」
確かに、そういう場合もあるだろう。
でも、苦しんだ後にも苦しむかもしれないし、
永遠に、どこまでいっても、苦しみの連続かもしれないかもしれない。
逆に、「楽し過ぎると苦しむことになる」と一般的に言われることが多いような気がするが、
楽の後に楽があるかもしれないし、永遠に楽かもしれない。
この先、どうなるかは分からないというのが、ごく自然なのではないか。
いや、そもそも、楽とか苦とか言うけれど、
これって、これは楽だ、これは苦しいと決めつけられるものだろうか。
それは、永久に、楽なことは、ずっと楽、
苦しいことは、ずっと苦しいと言えるのだろうか。
いや、そんなことはない。
たとえ楽しいことであっても、もし永久に同じことが続けば、嫌になる。
私の場合、休みの日などは、布団の上などでゴロゴロとしているのが、
かなり好きな方であるが、
これさえ、一日中続けていると、腰は痛くなるし、だんだんと苦痛になってくる。
食べ物でも、甘い物が大好きであるが、そんなに食べ続けられるものではない。
お腹もいっぱいになるし、いくら美味しくても、同じものばかり食べ続けると、
もう本当にうんざりしてくる。
余りにも、単純な例えであるが、
時間的経過によっても、状況によっても、これは楽だ、これは苦しいと
単純に決めつけられるものではない。
色々と思う事を書いてきたが、結局、こういうことではないだろうか。
「楽だ」と感じた。
これは、その状況、その瞬間において、そう感じただけ。
「苦しい」と感じた。
その状況、その瞬間において、苦しかっただけで、次の瞬間は分からない。
他の感情、「楽しい」、「悲しい」、「不安だ」、つまり、普段感じている感情、
発している感情、「喜怒哀楽」の感情全ては、
その状況、瞬間だけにおいて成立するだけの事ではないか。
しかし、これはきれいごとであって、
実際は、苦しむ時は、ずっと苦しむ。
そんな簡単な事ではない。
自分で考えながら、分からなくなってきた。
いや、言葉の上で、「苦しい」、「楽だ」と捉えているから、分からなくなるんだ。
「苦しい」、「楽だ」、そんな単純な言葉では言い表せない。
実際は、「苦しいけど楽だ」、「楽だけど苦しい」。
「苦」と「楽」が混在している。
自分に問いかけてみると、
ある部分は苦しいけど、ある部分は楽であるというのが、実際の状態に近い。
また、ある層では苦しいけれど、ある層では楽だとも言える。
もっと具体的に言うと、今、自分の思いについて、文章に書いているが、
もう夜中だし、しんどいし寝たいと思って、苦しんでいる自分がいる一方で、
心の奥底で、何か「ホッとしている」自分もいる。何か楽になっていく自分もある。
もし、「今日はもうしんどいからもう寝よう」と思って、寝ていたら、
その寝ている自分は身体が楽になったと感じているが、
一方で、寝てしまった自分を責めて自己嫌悪に陥り、
後悔して苦しんでいる自分がいたことだろう。
つまり、今とは逆に表面的な自分は楽になっているが、
心の奥底の自分は苦しんでいる、といった状況になっていたことだろうと思う。
ここまでを整理すると、次のようになってしまう。
・「楽」とか「苦」のような喜怒哀楽の感情は、その状況や瞬間だけ、そう感じただけ
・このような感情は、単一ではなく、混在しており、感じる「層」によっても違うこと
このように書くと、余りにも当たり前のことである。
ここで、ふと思ったのであるが、
これらの感情を発しているのは、誰であるかというと、
紛れもなく、今の自分自身である。
自分自身が、「苦しい」、「楽だ」というような感情を発している。
今まで、苦とか楽と感じる感情ばかり意識がいっていたが、問題なのは、
これらの感情を誰が発しているかと言う事が、大事であり、
そこに意識の視点を置く必要があるのではないか。
心の奥底の自分なのか、表面的な自分なのか、
つまり、本心の自分なのか、AC人格の自分なのかを見極める。
発した感情も重要であると感じるが、
その感情は、状況が変われば変わるかもしれないし、
時間が経過すれば変わるかもしれない。
そんな不安定なものに意識の視点を置いていては、
いつまで経っても、それらの感情に振り回され、
翻弄されるだけであることは明白である。
実際、今まで、散々に翻弄され続けてきたではないか。
そうではなく、そこに意識の視点を置くのではなく、
誰が、その感情を出しているのか
これにこそ、意識の重点を置く必要があると感じる。
でも、これって、今までやってきたではないか。
トラウマ掘り、AC人格分析において。
これは、本心の声なのか、AC人格の声なのか、というようなことを
やってきたはず。
でも、甘かったように感じる。雑であったように感じる。
自己信頼ということについて、考えを進めていくことにより、
「誰が、その感情を発しているのか」というようなことに行きついたが、
そもそも、どうしてAC人格を解除したいのかというと、
このAC人格が信用置けないから。
このAC人格と一緒にいては、ずっと苦しまされ不幸のままであるからだ。
両親との離別宣言をしたのも、同様の理由で、こいつら(両親)と関わっていたら
ロクなことがないということが明確になったからである。
AC人格についても、信頼できないことは明確であるわけだから、こんな奴なんかに
自己信頼なんてできるはずもない。
今まで、自分のことが信頼できないと言ってきたが、それ以前に、
その感情を発しているのが誰であるか分かっていなければ、つまり、
今、まさしく、表面に出てきているのが
誰であるか把握できていなければ、自己信頼もへったくれもない。
もし、今、出てきているのが、AC人格であり、そんな信用の置けない奴に対して、
自己信頼できる、自己信頼できないを云々したって、ますます自己不信に陥るだけだ。
誰が、今、自分の表面に出てきているのか。今、誰が、自分を支配しているのか。
AC人格であれば、その時の感情は、ただ毒が流れているだけであるから、ただ流すのみだ。
どうせロクでもないことを考えていたりするのだから、
それに囚われるのは、時間の無駄であり、ますます苦しむだけだ。
まさにAC人格の思うツボになってしまう。
本心からの人格であれば、その時に発した感情は、とことん大事にしていきたい。
子供の頃していたように、楽しい時は、とことん楽しみ、
悲しい時は、十分に悲しみ、苦しい時も、苦しむ。
その時の感情は、まさに自分自身そのものから発したものだから
思う存分に味わっていきたい。
ただ、ここで疑問がある。
AC人格の解除ができていない今の自分に、
今の自分が、AC人格なのか、本心の人格なのか正確に判断できるのだろうか。
当然、できるわけがない。かなり誤認することになるだろう。
しかし、現時点では、このようにやっていくのが、ベストであると感じています。
「間違えれば、またやり直せば良いではないか」と思います。
●生きること、死ぬこと
自分の何となら、生きていけるか。
自分の何となら、死んでも良いか。
自分とは何か。
今の自分が死んで何が残るのだろうか。
死んでしまったら、何も残らないのだろうか。
崩残さんから、または、他の人等から聞かされているから、
死んでも自分という何かが残ると思っていないだろうか。
正直な所、今、死んだとして、いったいどうなるのか、
自分の何が残るのか分からない。
個人的な感覚としては、
実際に死んでも、自分というものが完全に消え去るとは思えない。
でも、これは、希望的観測であって、実際は、どうなるか分からないではないか。
単に、自分自身が「消えたくない」と思っているだけかもしれないではないか。
「消えたいけれど、消えたくない」
余りにも苦しくて、跡形もなく完全に消え去ったら、どんなに楽だろうと思う時がある。
しかし、そう思えば思うほど、
「消えたくない。このまま自分というものが続いてほしい」と思ってしまう部分もある。
仮定の話だが、
このボタンを押せば、跡形もなく完全に消え去ってしまうボタンが、あれば、
どうだろうか。
実際は、土壇場になっても、このボタンを怖くて押せない可能性が高い。
きっと押せないだろう。
でも、自暴自棄になり、自分を見失ったら、どうだろうか。
無意識に押してしまうかもしれない。
自分自身を消滅させるボタン
このボタンを押せば、自分自身が跡形もなく完全に消え去ってしまう。
この地球では、このような装置を作ることは、絶対に不可能である。
でも、何でも自分の思い通りに作り出せる世界があると崩残さんから
聞いたことがある。
もし、その世界に自分がいたら、どうだろうか。
あらゆる事が嫌になって、この自分自身が、跡形もなく完全に消え去ってしまえば、
どんなにか楽だろうと思う事があるかもしれない。
そのように心底、想ったらば、間違いなく作り出すだろう。
しかし、また、思い直して、直ぐにその装置を壊すだろう。
万が一、間違って、そのボタンを押してしまったら、困るからだ。
または、こう思う事もあるだろう。
自分自身が本当に困った時のための物として、作って置いておこうと。
但し、誤って、そのボタンを押してしまわないように、何重もの安全装置をつけるに違いない。
その何重もの安全装置を解除しない限りは、絶対にそのボタンを押せないようにするだろう。
しかし、ここで、ふと思う。
そんな面倒くさい安全装置を作るなら、最初から、
もっと簡単にボタンを押せるようにすれば良いだろうし、
そもそもそのような物を作らなければいいじゃないかと思ってしまう。
結局、死にたくない。消え去りたくないのだから。
苦しくなって、逃げたい、死にたいと一時的に思ったりするが、
自分自身を消滅させる装置を作ろうと思うが、
万が一のために安全装置をつけたりする。
結局、結局のところ、死にたくないのだ。消え去りたくないのだ。
だったら、観念して、
とことん、どこまでも生きようとした方がいいと思ってしまう。
しかし、これでは、答えになっていない。
死にたい、生きたい、そう思う事をずっと繰り返すのだろう。
堂々巡りだ。
自分にとって都合の悪い物だけを消し去りたい。殺したい。
「何かを消し去る。捨て去る。削除する」
正直、これは、ある種の快感である。かなりすっきり感がある。
但し、消え去るのは、自分にとって都合の悪い物だけに限られる。
自分にとって都合が良い物、大事なものは、無くなれば困るからだ。
今、AC人格の解除をしたいと思っているが、
それが自分にとって都合が悪いからだ。有害だからだ。
先日、親と離別宣言をしたのも、自分にとって有害だからだ。
逆を言えば、自分にとって都合がいいものは、消え去ってほしくないし、
むしろ手に入れたい、作り出したいと思っている。
結局、自分自身の都合によって、殺したり生かしたりを常にやっている。
先ほどの話に戻るが、自分自身そのものは、いなくなったら困る。
殺されたら困るわけだから、自分自身そのものを殺したり生かしたりはできない。
ここで、また、ふと思います。
自分自身は、大なり小なり、殺したり生かしたりを常に行っている。
しかし、どこまでいっても、それは、自分自身そのものではない。
それじゃ、この自分自身その者とは、誰なんだという疑問がある。
これは、崩残さんがいつも言われている、
「原主体」というものだろうか。正直、分からない。
自分自身として、分かることは、自分という者が何人もおり、
その複数の自分自身達を、「これは必要、あれはいらない」と振り分けているということだ。
また、ここからは、想像の域を出ないが、
この複数の自分自身達を振り分けている、まったく別の自分自身が、
別の層に存在しているのかもしれない。
もっと想像を拡げていくと、何層にも自分自身という者がいるのかもしれない。
これは、完全に想像の世界になってしまうが、自分自身というものが何層にもいて、
しかも、同じ層でも、複数いたと仮定したとして、自分自身を本当に消し去りたいと
思ったとしても、この全ての自分自身達を殺さない限りは、自分自身を跡形もなく
完全に消し去ることができないのではないか。
もし、無限に何層にも自分自身がいるとすれば、自分自身を殺すことは不可能だし
そう思うこと自体、ナンセンスだと思えてきた。
その無限に何層にもいる自分自身を牛耳っている
大元の自分自身がいると考えることもできるが、
それは、この宇宙がどうなっているのか、
その宇宙の外はどうなっているか想像するようなもので、もうこれは非現実的で、
非常にナンセンスだと思ってきました。
では、今まで、このようなことを考えてきたが、
時間の無駄だったのかというと、そうは思えない。
このように色々考えたことは、有益であったと思います。
ただ、今の段階の私にとっては、もうこれ以上、考える必要がないと感じます。
今、考えることが、一番必要なことは、今、現実に困っていること。
今、苦しんでいること、今、いらないと思っていること。
消し去りたいと思っている自分、このAC人格を消し去りたい。
そのAC人格を消し去った後、何が残るか分からないし、どうなるかも分からない。
ただ、今の自分にとって不都合な、とてつもなく有害なAC人格がいらないということだ。
このAC人格を一つ一つ消し去っていく、
同時に、残しておきたいものもある。
これが消え去ったら困るものもある。それは、何だろう。
・大切に大切に育んでいきたいと思うもの
・そのような自分でいられることが心地いいもの
・安心できるもの、ホッとできるもの
今、夜中に、この文章を書いているが、
中略
このような自分というものがいたことは、とても嬉しく思います。
そして、このような自分である事は、本当に嬉しいですし、
大切に大切に育んでいきたいと思います。
このように自分がちょっと安心できるもの、ちょっとほっとできるもの、
ちょっと嬉しく思えるもの、それを大切に育んでいくことが、自己信頼へと
繋がっていくのではないかと、今は、思えてきました。
最近、自己信頼ということについて、色々と考えてきたが、
どうすれば、自己信頼をできるようになるか、
ようやく答えの一つと思えるようなものが見つかりました。
振り返れば、子供の頃から、母親と一緒にいて、
安心という感覚を感じたことは、ほとんどありませんでした。
本来であれば、母親と一緒にいて、安心という感情を抱く事によって、
自己信頼というものを育くんでいたことでしょう。
しかし、実際は、そうではなかった。
自己信頼を育むどころか、自己不信を育ててしまったのです。
そして、大人になっても、ずっと母親からの愛情に飢え続けていました。
大人になっても、得られるはずもない愛情や安心を求め続けていました。
今までのトラウマ掘り、そして、それに関連する母親の言動や態度を通して
ようやく、この母親に愛情や安心を求めることは、無駄であるということが分かりました。
それで、「この母親そして父親はいらない」ということに行き着いたのでした。
事実として、私は、子供の頃にきちんと育てるべき自己信頼を育んでこなかった。
今、ほとんどまったく自己信頼できないのは、至極、当然のことと言えます。
これから、ちょっとずつでもいいから、自己信頼というものを育んでいきたいと思っています。
同時に、有害で、私の人生の足を引っ張ることになるAC人格も解除していきたい。
崩残さんからは、
「やりたいことをやる」、「やりたくないことをやらない」というよう
なことを
何度もお聞きしてきました。
それで、次のようなことを強く思います。
この自分というものを守り通していく。
信じ頼っていく。
その為に、必要十分な自我、つまり、全自我になること。
そして、邪魔になる、有害であるAC人格のようなものは、いらないということ。
もちろん、有害な両親もである。それ以上でも、それ以下でもない。
自分を信じ切る。信頼すると言うこと。それに全て任せる。委ねること。
大切な大切な自分とともに生きていく、死んでいくということ。
●8月21日の夜に寝てから、どんどん出てきた記録
今日も、いつものように、仕事中、ずっとイライラしていた。
仕事をしていて、イライラしないということは、ほとんどなかった。
私の場合、胸にイライラ感が集中していて、
胸から、イライラ感が全身に拡がっていく感覚である。
その時の状況によって、イライラ感の強度は違うが、ひどい場合には、
ほとんどまったく仕事が手に付かなくなってしまうことになってしまうこともあります。
今日は、仕事中、相当イライラしていて、
もうこれ以上、イライラ感が進むと仕事がほとんどまったくできなくなってしまう
一歩手前といった状況でした。
それでも、仕事には納期があり、それまでに終わらせなければならない為、
イライラしているからといって、
仕事を投げ出すわけにもいかない状況でした。
ですから、もうこれ以上、イライラしないように、
無理やり力づくでこの「イライラ感」を抑え込んで、
ぎりぎりの精神状態で、仕事をしているといった状況でした。
納期が迫っていて時間的な制限もあり、
しかも、物理的な仕事の絶対量からみてもーバーワークの為、
最近は、このようにイライラしていることが、ほとんどでした。
いや、最近どころか、私の人生、このようにイライラすることが非常に多かったです。
今まで、私を、苦しめ不幸にしてきた最も大きな問題の一つと言えます。
・仕事において、イライラして、仕事の能率が悪くなる。
しかも、楽しくなくなる。
・予定していた通りに、物事が運ばず、他人、特に家族に八つ当たりする。
・または、自分自身を責めたり、自己嫌悪に陥る
振り返れば、私が送ってきた人生を一言で言えば、次のように言っても過言ではない。
「自分で物事などを勝手に決めつけ、
その通りにならなければ、勝手にイライラして、苦しむ」
なぜ、そんなにイライラするのだろうか。
自分の思い通りにいかないからである。
しかし、ある程度は、イライラという感情は出ても良いはずです。
今までの人生において、余りにもイライラするということが非常に多かった。
だから、この「イライラ感」に対して、嫌悪感が強すぎるのではないのだろうか。
他の感情と同じように、「悲しみ」、「怒り」などの感情のように、当然ながら、
出ても良いはずではないのだろうか。
このような事を考えながら、答えが出るはずもなく、仕事から帰宅したのが深夜で、
あり身体も非常に疲れていた為、
それ以上は、考えられなくなり、寝床に就きました。
いつもなら、そのまま、眠ってしまうのですが、
今夜は、いつもと様子が違っていました。
寝ては起きて、寝ては起きてを何度も繰り返し、
起きるたびに、思考がどんどん湧いてきて、それをノートにメモしていました。
寝ては起きてメモ書きすることを何度か繰り返していました。
しかも、湧き出てくる思考が、意味のない物ではなく、
今まで解決しなかった、または、答えが出なかったことに対する、
答えになるようなものばかりでした。
今まで、詰まっていたパイプの汚れが一気に解消され、
一気にスムーズに思考というものが流れていくような感覚でした。
このようにして、ノートにメモ書きしたものを、以下に記します。
ほとんど独り言のような自問自答ですから、急に話題が変わったりして、
文章が繋がっていない所もありますが、そのまま載せます。
*********************
生きる、死ぬ。
苦しい、楽。
できる、できない。
イライラする、落ち着いている。
怒っている、悲しんでいる。
私の人生、どちらか一方しかなかった。
まるで振り子のようだ。天秤が上下しているだけ。
上か下しかない。中間がない。
しかし、多くの物事は、このどちらとも決められないものばかりだ。
全て、イライラしているわけではない。
イライラしている部分と落ち着いている部分がある。
イライラしている自分を観察している自分、そのような自分がいる。
だって、イライラしていることが、自覚できているわけだから。
この自分に意識の視点を置いてみたらどうか。
9割以上、イライラしていても、一部は冷静に観ている自分がいる。
今までは、イライラしたら、イライラしている自分が全てだと思って、
その自分ばかりを意識していたが。
イライラしている自分は、イライラしたくてイライラしているのだから、
それを否定したりせず、そのままにしていく以外にない。
自分という子供がイライラしているというような感じで、そのまま受け止め、
認めてあげれば良い。
わずかな、冷静な自分に目を向ければいいのだ。
自分の中に何人も子供がいる。
・いつもイライラしている子供
・いつも落ち着いている子供
・いつも怒っている子供
・いつも不安がっている子供
・いつも苦しんでいる子供
・いつも悲しんでいる子供
・いつも楽しんでいる子供
色々な感情を持った子供がいて、
イライラしている時は、イライラしている子供がいちばん暴れているというか、
勢いが強くなっているだけ。
その時は、その子を否定せず、かと言って、肯定もせず、
そのまま認めてあげる。
だって、今、イライラしたいのだから、その気持ちを察してあげる。
そうしていくことによって、
もし、AC人格からくるイライラ感であれば、それは捨て去るのみ。
消え去っていくものである。
そうではなく、本心からくる、イライラ感であれば、
それは認めてあげて、正しくイライラすれば良い。
どんどん思考が出てくる。
今までは、いくら考えても考えが行き詰って先に進まなかったが、
次から次へと思考が湧いてくる。
今まで、分からなかった答えが出てくる。
「まるで思考が、よどみなく流れているようだ」
今まで、詰まっていたものが、多少なりとも取れたのだろう。
詰まっていたものが、取れたのだろう。
スムーズである。
自我復元のレポートを書く時期でさえ、自分の都合で決めていた。
ゴールデンウイークとか、盆休みとか、正月休みとか、
普段、仕事で家に帰るのが遅く、まとまった休みがないと、
身体が疲れて、できないと思っていたからだ。
しかし、それは、違うだろう。
今までは、それで、うまくいってきたが、これからは無理だろう。
適切な時期、本当に「変わった」と感じた時に、自我復元の判定依頼をするのが、
自然である。
私は、自我復元でさえも、自分の都合で勝手に決めてきたようだ。
自分の思い込みで勝手に決めつけ、それに自分自身を縛り付けて、
勝手に苦しんできた人生であった。
後は、先ほど書いた、両極端しかなかった。
上か下
右か左
真ん中がなかった。中間がなかった。これらも決めつけてきた。
「お前は、プログラムされたように動くロボットになりたいのか。違うだろう」
もう、うんざりだ。
思考が、よどみなく流れている。
血管の中を血液が流れているが、もし、これと同じようだとすれば、
つまり、思考が流れているパイプがあり、そのパイプの中を思考が流れているとすれば、
いちばん障害となっていたパイプの詰まりが取れたようだ。
パイプが歪んで細くなっていたりして、詰まっていた所の汚れが取れたようだ。
自我復元を始めて、もうかれこれ4年近くになると思うが、
何年かかっても取れなかった詰まりが取れたようだ。
汚れが詰まっていて、その部分がスムーズに流れなかったのが、
何年も苦しみ、そして、考えることを通して、
その汚れをちょっとずつでも取っていき、
ようやく、そのこびりついた汚れが、「これでもか、これでもか」という、
思考の流れの圧力によって、動き出してくれたのだろう。
そのような感覚です。
中略
そのまま、いつの間にか眠ってしまって、朝を迎えたのですが、
今朝、起き上がって、ふと、次のように思いました。
「正常な親子関係を自分自身の中に築く」
実際には、私は、このような親子関係を築くことに失敗しました。
その結果として、自己信頼を育むことができず、自己不信を育て上げてしまいました。
あの親なら、そうなってしまったことは致し方のないこと
それに対して、完全なる諦めがついたからこそ、親との離別宣言をしたわけです。
本来であれば、正常な両親の元、子供の頃、特に、母親と一緒にいることによって、
安心感があり、その中で、自分は何をやっても大丈夫だというような
自己信頼というものを育むことができたはずです。
そして、親からされた事と同じように、自分自身の中の子供に対しても、
同じようにしていた。
つまり、親が、自分の全てを受け止めてくれたように、
自分自身の中の子供の事を全て受け止めることができたはずです。
これからは、自分自身が親となって、
自分自身の中の子供の事を受け止めて上げれば良い。
このように思いました。
また、自分の中に何人も子供がいるというように感じましたが、
その子供達に対して、
「兄弟間差別をやっていた」という事に気づきました。
私自身、現実の親から、兄弟間差別を受けてきたわけですが、
自分自身も、同じように自分自身の中の子供達に対してやっていたのです。
つまり、いつもイライラしている子供、
または、いつも不安がっている子供が前面に出たきた時は、
そのような自分自身を責めて、否定していました。
「こんなのは、自分の本当の姿ではない」と思っていました。
反対に、いつも落ち着いている子供、
または、いつも楽しんでいる子供前面に出たきた時は、
そのような自分自身を受け入れ、認めていました。
「これこそ、自分の本当の姿だ」と思っていました。
このように、自分自身の都合によって、
一方の子供は否定し、もう一方の子供は認めていたわけです。
悲しいことに、母親や父親からされてきた事とまったく同じ事をしていました。
親から兄弟間差別を受け続けてきたことによって、苦しんできたわけですが、
それとまったく同じことを自分自身に対して行ってきたわけですから、
これでは、苦しんで当たり前です。
自分という子供、つまり、自分の一部を切り捨ててきたわけですから、
精神が分裂し苦しみ不幸になるのは、当然のことです。
自分自身の子供に対して、本当に申し訳なく思います。
イライラ坊や、今まで、本当に、ごめんなさい。
私は、あなたが前面に出てきて、イライラしている時に、
「なんで、イライラするんだ。落ち着け」
「もうちょっと、冷静になったらどうだ」
「何で、お前は、そうしてイライラしているんだ」
「このイライラを何とかしてくれ、消え去ってくれ」
このように、あなたに対して、卑劣で否定的な言葉を投げかけていました。
本当に本当にごめんなさい。
また、不安がり坊や、今まで、本当に、ごめんなさい。
私は、あなたが前面に出てきて、不安いっぱいになっている時に、
「不安になるな。大丈夫だ。落ち着け」
「こんなにずっと不安なのは、嫌だ」
「何とか不安にならなければいいのに、消え去ってくれないかな」
このように、あなたの事を否定し、あなたの声を聞こうともしなかった。
本当にごめんなさい。
イライラ坊や
不安がり坊や
怒りん坊や
楽しい坊や
冷静な坊や
私の中にいる全ての子供達よ。
あなた達は、全員、私自身そのものであるということに
ようやく気づくことができました。
これからは、一緒に歩んでいこうね。よろしくお願いします。
今、思うのですが、
「正常な親子関係を自分自身の中に築く」
このような事が確立できていない人は、絶対に親になるべきではないと断言できます。
いや、親になるどころか、他人との関係を持ってはいけないと思います。
友人関係、恋愛関係、夫婦関係、全てしかりです。
自分自身の中に、正常な親子関係を築けていない人は、他人を苦しめ不幸にし、
また、自分自身をも苦しめ不幸にしてしまう事は、間違いないからです。
ここまで書いてきて、疲れたので、ちょっと休憩しようと思い、
布団に横になりました。
ちょっとだけ休憩しようと思っていたので、部屋の照明もつけたままでしたが、
そのまま眠ってしまったようです。
たぶん夢を見ていたと思うのですが、
その情景を見て、ハッとして目が覚めました。
情景については、ぼんやりとしか覚えていないのですが、
次のような感じでした。
その情景の中に、自分がいて、
何かの物事に失敗したのか、もしくは、
そこで展開されている出来事に対して、
その自分が、何もできない。
どうすることもできないと言ったような状況で、
途方に暮れているといったような感じでした。
このような情景を見ていたように感じます。
今、目が覚めて、その時の状況を思い返しながら、文章を書いている所です。
目が覚めた直後は、余り気分がいいものではありませんでした。
何か重苦しいような、何かを突き付けられたような感覚がありました。
また、何かを訴えかけられたような感覚もありました。
何なのか気になって仕方ないので、もう一度、思い返してみました。
その時の情景は、どうだったのか、
その情景を見た時に生じた感情は、どうだったのか。
その情景については、もうこれ以上、詳しいことは思い出せないのですが、
ふと思いました。
これは、自分自身の中の子供が何かを言っているのではないか。
自分の中に、いつも何もできない子供、
または、いつも何をやっても駄目な子供がいて、
例えば、アニメのドラえもんの主人公であるのび太のような子供かな。
その子供が、次のように私に言ってきているのではないかと思いました。
「こんな僕でも、受け入れてくれるの?」
「こんな僕でも、認めてくれるの?」
そう思うと、何となく、しっくりときました。
しかし、今の私の感情としては、「ドキッ」としました。
まるで虚を突かれたようです。
自分自身の中の全ての子供を受け入れようと思った後の出来事でしたので、
私の本心から、または、私の中の子供達から、その気持ちは、
「本当なのか?」と問いかけられているように感じました。
私は、ハッとしました。
自分の人生を振り返れば、
「何でもできる自分」
「何もできない自分」
この両極端な自分というものに、振り回され、一喜一憂し、
イライラしたりしなかったり、不安になったりならなかったりしていました。
「何でもできる自分」を感じた時は、大いに喜び、安心していました。
「何もできない自分」を感じた時は、悲しみに暮れ、不安になっていました。
「何でもできる自分」を崇高で理想的な自分として、崇めている一方で、
「何もできない自分」を最も醜く感じ、存在否定までしていました。
日常生活において、仕事を始め、大きな事から小さな事まで、あらゆる物事において、
「できる、できない」、これに囚われてきました。
他人からの評価はもちろんのこと、自己評価においても、
できる自分の姿を見ることができた時は、自分の存在価値があると思い、
できない自分の姿を見た時は、「どうせ俺は何をやっても駄目なんだ」と思い、
自分の存在を否定さえしていました。
今までの私の人生において、
「できる、できない」は自分の存在価値にまで繋がってくるほど、
とてつもなく重要なことでした。
今、この文章を書いているのが、8月24日ですが、
1か月近く前の頃(7月28日)、次のような事をノートに書いていました。
・存在価値
・正しい、間違い
・成功、失敗
・できる、できない
今、思っている。または、考えている。
うまくいって喜んでいる。または、うまくいかないで、がっくりしている。
これはやりたい。または、これはやりたくない。
今、怒っている、または、悲しんでいる。
今、楽しい。または、楽しくない。
このように感じている自分がいる。これが存在価値なのではないか。
・・・
何かが、自分の中で、音を立てて崩れていく。
あれれ、これは何だろう。
今まで決めることによって、安心・安定してきたと思い込んでいた。
そうじゃなかった。
むしろ、決めていくことによって、苦しんだり、不幸になることがほとんどであった。
私は、常に、大なり小なり、決めて、その通りになったら、ホッとしていた。
それは、違うじゃないか。決める必要なんかない。
自分が決めた通りにならないと、困ったり、不安になったり、
イライラしたり、怒ったりしてきた。
これで、幸せになったことなどなかった。
結局、自分が勝手に決めたルールや妄想通りになると、幸せを感じ、
そうでないと不幸を感じていたのだ。
このような自分は、もういらない。
もうお前は死んでいる。
以上のような事をノートに書いていました。
そして、その時、「自分の中で、何かが崩れていく」と感じて、もうその時は、
かなりの部分、AC人格が解除できたのではないかと思うほどでした。
今、思えば、その時に感じたことは、明らかな誤認であったと言えます。
でも、その時を境に、
自分から生じてくるAC人格の挙動を常時、観察するようになってきました。
・今、生じている感情や思考は、AC人格由来なのかどうか。
・今日一日を振り返って、どの程度、AC人格が出ていたか。
このような感じで、より一層、明確に
自分の中のAC人格というものを意識するようになったと思います。
今、改めて、思うのですが、この「存在価値」ということ。
・楽しい、悲しい、不安や怒りなどの喜怒哀楽の感情
・できる、できないと自分自身を評価している
これらを発しているのは、どこの誰なのかということ。
どこの誰なのか分からないが、確かに、これらを発している自分という
何かがいる。
これが、崩残さんが言われる「原主体」なのかどうかは、まったく分かりません。
ただ、こいつは、この私自身は、心の奥底で、こう言っているのを感じます。
「私は、存在したいのだ」
そして、色々な感情や思考を味わいたい。色々な刺激を味わいたいと思っている。
色々な変化を味わいたいと思っている。
だから、今の私が、何かの物事をできようができまいが、成功しようが失敗しようが、
私の存在価値そのものが、上がったり下がったりするものではない。
または、存在価値が、無くなったり無くならなかったりするものでもない。
だって、「私は、存在したいのだ」と思っているのだから。
そう思っていること、その事自体が、私の存在を有らしめているのではないかと感じる。
私の中にいる、イライラ坊や、できない駄目坊やなどのような、
全ての子供達や、息子や娘のような子供ではなく、
時には、恋人であったり、妻であったりするかもしれない。
色々な自分がたくさんいるように感じる。
そして、そのような自分達は、全て自分自身そのものであり、
誰も切り捨てられるものではない。
だって、姿や形を変えた自分が出てきているわけだから、
切り捨てたり、見捨てたりできるものでもない。
何人も自分がいるように感じているが、
結局は、独りの自分しかいないのかもしれないが。
何れにしても、
これからも、この自分という者を守り通していきたい。
●最後に
今の人間関係について、ちょっこと書いておきたいと思います。
人間関係と言っても、親しい友達もいない私の場合、
ほとんど全てが職場の人間関係になりますが。
ここ最近ですが、特に、1、2週間くらい前からですが、
他人に対して、今まで感じたことがないことを感じています。
以下略
******************
●私は、皆さんの書いた報告文でも、それ以外の他の人の一般的な文でも、
ちょうど、刃物に指で触れて、その切れ味を観る、という感覚で観ています。
実際、刃物を研ぐことの多い人は、自分の爪や指で刃に触れて、
その感触を確認します。
これと同じことを、私は今年に入ってからの自我判定でやっています。
●昨年までは、あまり意識しなかったのですが、
今年は、皆さんの文を、刃物の切れ味を見るかのように観ています。
そうなった理由は、今回の報告を下さった方もそうですが、
全自我の、ごくごく手前にいる人たちが何人かいるせいです。
その人たちに「限って」ですが、
気楽な日記のように書いてくる文でさえも、私にとっては、
その切れ味を見る機会になります。
ですから、旧式の判定方法では、全自我に既になっている人と、
それと全自我のほんの手前にいる人には、
「どんなささいな雑談でもいいので、メールをしてください」
と言っているのですが、
実際には、一番大切なデリケートな時期になると、
報告や雑談を書いてこなくなる人が、稀にですが、います。
一種のAC人格のあがきであることは確実でした。
一番重要なときに報告を寄こさず、
たいして重要ではないときに、報告がくるのも、AC人格の特徴の一つでしたから。
●それで、この今回の報告の方の場合、
ものの見事に、私の判定のツボにハマっています。
この方とまったく同じようなことを別の人が書いても、
私は、一蹴するかもしれませんが、この方の文章には、嘘が全くありません。
その嘘のなさは、独特の「切れ味」として感じられ、
視点の変化もまた、切れ味の良さを感じる「刃」になっています。
さりとて、殺気だった刃ではなく、とてもよく滑らかに磨かれた刃です。
●何度か桜の間で言いましたように、
「原主体」というものは、全自我になる前に出たり、ひっこんだりする人もいますし、
旧式の全自我判定では、数値的には全自我になっていることになっていても、
原主体は、いっこうに全く出ていない人もいます。
しかし、今回の方の場合は、完全に、原主体が、主導権を取りました。
●自我率そのものは、判定の結果、あと少しだけ、ほんの少しだけ、
調整が必要なところがあるのみで、
個人的に、もしも、気持ちが急けば、私はこの人には、
全自我の卒業を言いたかったぐらいです。
しかし、僅かなミスもしたくはないことと、
あと少し、時間と経験があるほうが、ご本人も、確信を持てると思い、
次回の判定が最後になると思います。
●実は、この方は、桜の間で、何度か「お騒がせ報告」をしてくださり、
それがまた、自我復元者の人にも沢山フィードバックしたのですが、
たまに、お騒がせ報告をする、復元者の「YN」さんです。
本当に、長く、YNさんの苦しみと努力を見守ってきましたが、
とうとう、「扉」の手前に来ました。
いえ、もう半歩足は入っています。
あとは、最後の迷いを、飛びぬけるのみです。
本当ならば、もう「お疲れ様でした。おめでとう」と私は言いたい気持ちも40%あるのですが、
YNさんにとっては、次回が最後の自我判定になると思いますので、
私も、慎重に判定をしたいと思います。
■
★
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