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[397]
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★分割自我復元★その397■ 「 自我復元の経験と回想録 」
by:
鈴木崩残
2014/10/14(Tue)06:18:31
自我復元者の方との質疑応答
●質疑応答といっても、実習者の方が私に質問したのに対して私が答えているのではなく、
私から逆に、質問をさせていただき、コメントを戴いたものです。
今回はお二人からです。
私の質問のあとに、コメントが入ります。
***************************
●マディア様へ
こういうテーマで、ちょっと書いてほしいと思いました。
「トラウマはすべて掘ったと思う。
記憶も、3歳以下にまで遡り、掘り尽くした。
自分のAC人格癖も、ほぼ監視できる」
そう思っている人が、
しかし、現実生活で、AC人格が依然として、幅をきかせている。
そして、行き詰る。
この道を踏んでしまっている人が、かなりいると思います。
ようは、ふりではなくて、本当に、本気でトラウマを掘り、
心底気づいたとしても、
そこから自己信頼を構築する段階で、どうも、つまづくのです。
私個人は、これに対する助言が上手くできません。
マディアさん自身も、
御自分では、まだその途上にあると感じているかもしれませんが、
途上ではあっても、こうしたジレンマに復元者が停滞したり陥ったとき、
そこで何が必要なのか、
あるいは何を感じない人はだめだろうと思うかなど、
制限なしに、書いていただきたいのです。
いろいろ本音を満載させた、私への私信でもよいですし、
また、見る人に向けて調整した形でブログででもいいです。
*********
崩残 様
>>「トラウマは、記憶はかなり掘った、
>>自分のAC人格癖も、ほぼ監視できる」
>>でも、現実生活で、AC人格が幅をきかせている。
>>そして、行き詰る。
ことに関しての記事、もしくは私信についてですが、
自分の中で何が起こったのか、書くことによって整理したいという、
側面も あるので、書きたいと思います。
ひとまず、この私信にて、私が思うことを書かせてもらい、
崩残先生に「このあたりをもう少し詳しく・・・」という部分があれば、
指摘してもらい、仕上げていく方法がやりやすいかなと思います。
以下、内容に入ります。
>>ようは、ふりではなくて、本当に本気でトラウマを掘り、
>>心底気づいたとしても、
>>そこから自己信頼を構築する段階で、どうも、つまづくのです。
この自己信頼をどうするか?
「どうやって、自己信頼を回復させていくか」、というところが、
現在進行形で私が取り組んでいることです。
全自我になりました、トラウマ堀りが終わりました、
で、
私は自動的に自己信頼が回復するはずだと踏んでいました。
しかし、
待てど暮らせど、イケイケな自分にはならず、
状況は復元前よりずっとマシだけれど、
正直、思考回路は以前とあまり変わらない状態。
それで、どうしたもんかと思い、
毎日ノートに自分の考えていることを書き出していました。
それで、
自分の思考回路が、ループしていることに気がついた。
自分の思考回路と、感情に問題があるのではと。
自分の思考回路と、出てきやすい感情に振り回され続けていたのです。
しかもそれは、子供の頃に身につけた思考回路と感情が、
ただ惰性で続いているだけ。
体に染み付いているだけ、なんです。
つまり、体が勝手に反応するようになってしまっている。
私はこれを矯正する必要があると感じました。
AC解除というのは、自分がおかしな行動をしている、という気づきと、
この条件反射を少しずつ矯正していく作業だと思います。
意図的に、矯正しなければ、
体に染み付いた条件反射は、変わらず、強化されていくだけ。
私は、かなり意図的にこれをやります。
私の思考回路が、必要以上にネガティブで、
私が感じている感情は、
常に不安とか焦りとかマイナスなものでした。
良いことがあっても、
楽しい気分を感じることができない、という感じ。
自分のことを、いつも前向きに考えることができない。
これは、変だなと。
そういうものはあってもいいけど、
そればかり、というのは逆にヘン。
同じ分量くらいのネガティブとポジティブが
ニュートラルなのでは?
と。
私のそのネガティブ癖の原因は、
明らかに育った家庭にあった。
イジケてばかりで、
不満ばかり言う、常に不機嫌な父親。
それに従う母親。
そんな家庭ではたして、
ポジティブな考え方をすること、
楽しい気分を感じることが許されているような雰囲気だったか?と。
つまり、私のネガティブ癖は、
親の影響によるもの、親が私のネガティブな思考回路を形成した、ということ。
そして、その思考回路のままで生きていく、ということは、
私は一生、親にあてがわれた、影響されたままの自分で生きていくということだと。
そういう自分で生きて、死んだとき、
私はきっと後悔するだろうなと思った。
そういう後悔をするのは嫌なので、
徹底的に、自分の思考と感情を矯正しようと思いました。
私が重視しているプロセスは、ここです。
なんとなく、やっていたのでは、
長年強化され続けた惰性(AC癖)に負けてしまう。
だから、ここでかなり強い意志がいる、ということだと思います。
具体的には、
今までと違う思考、違う感情を意図的に自分に仕向けるのです。
最初は、それぐらいの「不自然さ」が伴います。
例えば、
おいしい料理を作れたとき、
今までの私の思考回路では、
「とりあえずOK。大丈夫だった。」となり、かなり淡白な反応でしかない。
そうなってしまうのは、
嬉しい、楽しい、充実感という感情を抑圧して暮らさなければ、
生き延びられなかった子供時代に身につけた思考回路を、今でも使っているから。
もう、抑圧する必要なんてないのに、
そうすることで、自分を不幸せにしているのに、やめられない。
体に染み付いているから。
逆に言えば、体に染み付いているだけ。
ここで、
「美味しい!!よし、コレきた!!サイコ〜☆」
を、意図的に出来るだけ長い間、感じるようにしてみる。
最初の数回は、とても不自然な感じがする。
慣れてないから、自分に禁止してきたから。
「こういう感じ?でいいのかな?」というくらい。
それを繰り返していくと、少しずつ、嬉しい、楽しいの感度が上がってきて、
そのうち自然とそちらの思考回路に移ってくる。
この、新しい思考回路に慣れるまでが勝負。
このようにして、
自分が選び取った思考や感情に少しずつ乗り換える。
トラウマ堀りによって、親の影響を分析できているのなら、
ダイエットや、禁酒や、禁煙とほとんど同じレベルだと思う。
新しい観念に移るまで、ひたすら矯正する反復運動。
子供の頃から、
暴飲暴食、腹十二分目まで食べるのが当たり前の家庭に育った人が、
「うわ〜、もう自分すごいデブすぎてヤバい。 」と思い、
半年くらいかけて食生活を正し、ダイエットしていく話があるけれど、
あれに似ている。
最初の一ヶ月くらいは、
今まで食べていたものを食べたくなり、今までの惰性に流されそうになる。
しかし、
「食事とは、腹十二分目まで食べること」(親のルール)から、
「食事とは、腹八分目まで食べること」(自分のルール)に移ることができれば、
その人はもうデブではなくなるし、
自分が選び取った自分の観念で生きることをし始めるために、
自然と、「自分の人生を生きている」と感じる。
それが、「自己信頼」になっていく。
意図的に新しい観念に乗り換えるということが必要だし、
その難易度自体は、ダイエットや禁酒、禁煙のレベルだということ。
ただ、ダイエットも禁酒も、
「なんとなく」では惰性に流されるのは目に見えているので、
「この自分の状態ではムリ。」という結論がハッキリしている必要がある。
150キロくらいあって、病気も併発しているのに、
「別に困っていることないし。人間関係も良好だし、
自分に好意を寄せているようなひとだっているし〜。 」
と思っているような人にはムリだし、
別に、そのまま生きていっていいんじゃないかと思う。
本当に、その人が幸せなんだったら。
(今回はダイエットを例にしたけど、太った人に対する悪意とかは特にありません。 )
ダイエットや、禁酒が出来る自信がある人だったら、
新しい観念に着替えて、少しずつ自己信頼を取り戻すことが、
きっと出来ると思う。
ひとまず、これで。
以上が、マディアさんからのコメント。
以下は、別の角度からです。
***************************
YN様
最初に自我復元を始めようと思ったきっかけと、
その後まだトラウマ問題が話題にならないころ、
そしてトラウマ問題が問題になったころ、
そしてその後から、現在のYNさんへとつながりますが、
思えば、こうした個人的なメールは、最初は「禅書」からでしたからね。
そこで、自我復元に取り組む、動機とか、姿勢とか、実感とか、
それらは、今日までに、どう変わってきたか、ということを
尋ねてみたいのです。
そうした、「長い時間での自我復元を振り返る」、
という報告は、あまりないものですから、
少しYNさんに尋ねたくなったのです。
私個人から見ていますと、
YNさんは、一番最初とは、まるで「別人」です。
何か別の人間に変化した、という言い方よりも、
より本当の元の状態に近づいたというほうが近いのですが。
***************************
崩残 様
今回は、崩残さんからのメールを受けて、
「自我復元を振り返って」、これについて書かせて頂きます。
自我復元の開始当初まで振り返り、
あんなこともあったな。こんなこともあったなと、色々考えていました。
改めて振り返ってみると、結構、感慨深いものがあります。
今となっては、当たり前のように行ったり、考えたりしていることでも、
振り返ってみれば、当時の自分にとっては、
到底あり得ないようなことを自然と行ったり、
考えたりしている自分の姿が、今、あります。
いちばん大きな変化は何だろうか。
相変わらず、今も、問題だらけで、色々と大変ですが、
一言で言えば、
「自分自身を信頼できるようになったこと」
これに尽きます。
まだ、自我復元が終わったわけではないですが、
最も私が欲しかったもの、望んでいたものが、
ほぼ手に入りつつある。
そのような感覚です。
まだまだ油断できないですが。
そして、この「自己信頼」というものが、
これほど大きな力があり、大切なものであるということを、
日々感じることが多くなってきています。
振り返ると、いくつか大きなターニングポイントがありました。
1.自我復元を始めたこと
2.前の会社を退職して、引っ越したこと
3.車両事故に遭ったこと。そして、四回目の禅書の依頼
4.他者の復元ブログに対して、不満をぶつけたこと
5.親との離別宣言
次に、これらについて、書いていきたいと思います。
1.自我復元を始めたこと
分割自我の復元方法そのものが公開されたのが、
確か、2010年6月頃だったと思います。
私は、直ぐに飛びつきました。
その時の動機としては、
「これで、不甲斐ない自分から脱却できる。
今までの人生をひっくり返せる。凄い自分になれる」
というようなものだったと思います。
それまでの過去においても、自分自身の事が、嫌で嫌でしょうがなく、
また、不安で不安でしょうがなかったので、
色々な宗教等に飛びつき、
その嫌な自分自身を何とかしようとしていました。
と言えば、聞こえはいいですが、
その実は、単に他人より偉くなりたいだけだったように思います。
そして、依存心丸出しで、自主性などほとんど全くなく、
その宗教等の言いなりで、これさえやっていれば、自分は救われる、
偉くなれる、認めてもらえるというような状態でした。
自我復元に飛びついた理由も、
過去に飛びついた宗教等と大して変わりませんでした。
そのような心境で、自我復元作業を行っていましたので、
大して成果が出るわけでもありませんでした。
最初に自我判定をして頂いたのは、2010年12月24日でした。
結果、自我率22%で、自分の予想より、低い数字でしたので、
かなり、ショックを受けたのを覚えています。
今、思えば、笑ってしまうのですが、
当時の自分としては、
「悪くても、30%はあるだろう。いや、40%くらいが妥当だろう」と
本気で思っていました。
思い上がりも甚だしいですが。
今の私から、当時の自分に言ってやりたいです。
「何を言っているんだ。22%あっただけ、まだましだろ。
もっと低くておかしくないだろう。
お前に、自主性などあったか?」
2.前の会社を退職して、引っ越したこと
引き続いて、自我復元作業は、毎日、行っておりましたが、
成果がほとんど感じられませんでした。
当時は、次のように思う事が多かったです。
「自我復元作業をやっても、何も変わらないなあ。
イメージが下手だから、やっぱり向いていないのかなあ」
「他の自我復元実習者の人達は、順調に進んでいるのに、なんでだろう」
「なんで、私だけ進まないんだろう。悔しいな。
いつもこうなるんだ。どうせダメなんだ」
このように、自己否定満開だったり、
それよりも問題なのは、
自我復元の判定結果を学校のテストのように思っていて、
いつも他人と競争していたことです。
いつも他人と比べて、
今、自分はどれくらいの位置にいるといったことを気にしていました。
当時の自分としては、他人より上か下かということが、何よりも重要でした。
それによってしか、自分の価値を認められませんでした。
だから、他人の動向がいつも気になっていて、一喜一憂していました。
そのような状態で、自我復元作業をしていたわけですから、
成果が上がらず、落ち込んだりして、
作業そのものが中断していた時期もありました。
それでも、日常生活では、変化がありました。
2011年2月に前の会社を退職、
そして、忘れもしない3月11日の大震災と、
それに伴う原発事故をきっかけとしての引っ越し。
不純な動機で自我復元の作業を行っていたものの、
それなりの成果は出ていたようです。
しかし、当時の自分としては、
変化が起きているという実感がほとんどまったくありませんでした。
3.車両事故に遭ったこと。そして、四回目の禅書の依頼
自分自身の意識を大きく変えるきっかけになったのが、この事故でした。
それまでは、思うように自我復元が進まず、
毎週、気晴らしに、近くの**に行っていました。
現実の自分から逃げていました。
でも、事故をきっかけに、
「こんなことをしていたら、本当に駄目だ」と思うようになってきました。
事故原因自体は、相手が完全に悪かったのですが、
当時の自分としては、
何かを頭をガツンと叩かれたように感じたからです。
さらに、追い打ちをかけるような出来事がありました。
それは、四回目の禅書の依頼(2012年3月21日)の依頼でした。
この時に、崩残さんから
「他の文字にした方が良い」というようなアドバイスも受けましたが、
聞き入れる耳も持たず、
強引にも、「自我」と「意識」の文字を依頼しました。
当然ながら、崩残さんからお叱りを受けることになりました。
いや、正確には、あきれかえられていたように思います。
当時の自分は、それほどに、頑固で人の話を聞かない人間であったのです。
しかし、その時の崩残さんの言葉によって、ようやく目が覚めました。
実際、それをきっかけに、
自我復元の作業による変化を実感することができ、2012年5月5日に、
ようやく、2回目の自我判定をお願いすることができました。
自我復元の作業を始めてから約2年近く経って、
ようやく、自我復元の作業が進み始めたわけです。
それまでは、変化をなかなか実感できず、
いつやめてもおかしくないくらいの状態だったので、
とても感激したのを覚えています。
それからの自我復元作業は、本当に順調に進みました。
3回目の自我判定(2012年9月24日)で54%、
4回目の自我判定(2013年1月6日)で69%、
5回目の自我判定(2013年6月3日)で82%と、
後半は、少々減速したものの、とんとん拍子でした。
しかし、その後、自我復元の作業が停滞してしまいました。
原因としては、
当時の自分としては、ほとんどトラウマを掘りつくしたと、
思い込んでしまったことでした。
実際は、そうではなく、十分にトラウマが残っていたのですが。
4.他者の復元ブログに対して、不満をぶつけたこと
最終的に、当時のその方のブログに対して、不満があったこと、
正確には、崩残さん対しての不満があったわけですが、
このことに気づくまでは、相当に苦しかったのを覚えています。
一時は、
「このまま自我復元の作業が進まなくなってしまうのではないか。
そして、自我判定依頼をもうできないのではないか」と
思ったこともありました。
そして、順調に自我復元が進んでいる人達が
羨ましくて仕方ありませんでした。
羨ましいどころか、その人達を妬んだり、憎んだりしていいる始末でした。
また、その人達を可愛がったり、ひいきしたりしているように
当時の私に見えてしまった崩残さんにもムカついていました。
当時は、そのような自分がいることをむしろ容認していましたし、
それほど、おかしいとも思っていませんでした。
そして、それらの事が全て、親に起因していることさえ、
思いもしませんでした。
でも、私の中に残っていた、
「絶対にあきらめたくない」という火が消えませんでした。
もがき苦しみながらも、
「今年中には何とかしなければ、どんなに苦しくとも」と思い、
何とかトラウマ掘り、AC人格分析をやったのを思い出します。
その結果の一つとして、崩残さんや、他の自我復元ブロガーの人に対する、
理不尽な醜い思いを持っていたことに気づき、認めることができ、
それが、
親に原因があることに気づくことができたのですが、
他の方を傷つけたことは、本当に申し訳なく思います。
この時に、6回目の自我判定(2014年1月4日)をして頂いたのですが、
自我率は、88%で、自我率そのものは、大きく伸びなかったのですが、
AC人格の分析は、かなり成果があったように思います。
そして、この時に、初めて、「器」の文字の判定をして頂いたのですが、
形が余りにも変で、ショックを受けると同時に
まだまだAC人格が残っており、
この歪みを直さない事には、どうしようもないなと思いました。
5.親との離別宣言
6回目の自我判定を頂いた頃から、
この「器」の歪みを何としなければならないと、ずっと思っていました。
この歪みがある限り、たとえ全自我になったとしても、
余り意味がないとさえ、思う事もありました。
このように、この頃から、
自我率そのものよりも、自我の歪みを直すこと、AC人格の解除が重要であり、
そのような歪みを持った自分自身では、絶対に嫌だと思うようになってきました。
そうは言っても、
どうやってAC人格の解除をしていけば、良いのか分かりませんでした。
とにかく、何度も何度も、自分を見つめ直し、分析し、
自分自身が感じる違和感や不満を、
けっして見逃さないようにしていくしか、道はないと思っていました。
両親とも色々とありました。
父親の入院、借金を返せと言われた事、母親の態度等、
既に報告させて頂いたと思いますが、
それらを通して、
「この親は本当に駄目だな」と心底思えるような出来事がいくつかありました。
このようなこともあり、崩残さんからのアドバイスもあり、
親との離別宣言(2014年7月13日)に至ることができました。
いつかのメールでも書かせて頂いたと思いますが、
この宣言があったからこそ、今の自分があると言えます。
今は、冷戦状態と言うのでしょうか。
親からも連絡が来ず、私からも連絡していないのですが、
この膠着状態がいつまでも続くはずもなく、
いつかは、物理的に親と接触せざるを得ない状況になることは、
間違いないと思います。
もう、そろそろ、親がしびれを切らして、
こちらに連絡してくるのではないかと、
手ぐすねを引いて待っているのですが、一向に連絡してきません。
相変わらず、何を考えているか分からない人達ですが、
これは推測にしか過ぎないのですが、
恐らく、彼らは、
「すっかり変わってしまった息子の姿」を認めたくないのだろうと
感じています。
だから、それを恐れて、連絡してこないのではないかと感じています。
私の方からは、連絡する理由もなく、連絡する気もさらさらないですから、
それまでは、平和な日々を送りたいと思っています。
彼らから、連絡が来ることにより、一時的に平和が乱されるかもしれないですが、
彼らから、どんなことを言われようとも私の心が変わることはないでしょう。
彼らは絶対に変わらないだろうし、分かり合えることもないでしょうから。
この「親との離別宣言」に関して、
ある時、妻から、次のように言われました。
「あの宣言って、単なる妄想だよね。
あれは、理想を述べただけであって、実際は、
親が病気をしたり、困ったりしたら放って置くわけにはいかないよね。
あなたとあなたの両親が今は、元気だから、そう言えるんだよ」
彼女の気持ちは、分かるし、
ある意味、妄想というのは、正しいと思いました。
この宣言については、桜の間に掲載されたと思いますが、
それを読んだ人達の中にも、彼女と同じようなことを思い、
ちょっとムカついた、そんな人が多くいたのかもしれない。
妻に、「あなたは、大げさに言ってしまう所がある」とも言われました。
まあ、色々と彼女が納得できていないことや不満を言われましたが、
それらに対して、私は、まったく腹を立てることもなく、
この宣言をしたことに対して、
改めて、間違っていなかったと思いました。
確かに、あの宣言だけで終わっていたら、
単なる妄想や理想を述べただけに過ぎないと思います。
そのことは、宣言した当時から十分に分かっていました。
この宣言をしたこと自体にも大いに意味がありますが、
これを守り通していくこと、
これをしていかないことには、何の意味もない。
これを実際に、実践し続けていくことに意味があり、
それを続けていくことが、
この宣言に力を与え続け、生かしていくことになると思っています。
実際に、それを今、実践しているからこそ、今の自分があると感じるからです。
また、借金を返したことについても、妻に、次のように言われました。
「どうせ親と縁を切るのだったら、
あの***万円は、返さなくても良かったのではないか」
これに対して、私は、思わず、
「あれは、手切れ金だ」と答えました。
思わず、こう答えたわけですが、
後から考えても、これは、的を得た答えだったと思います。
私自身も、正直な所、「もったいないことをした」と思う事もありました。
実際、今の私の給料の手取りでは、**か月分以上の額になるわけですし、
今の、ぎりぎりの生活ですと、***万円貯めるのに、
どれくらいの期間かかることやらです。
そう考えると、もう本当に、大変な金額であるわけです。
だから、彼女の気持ち、非常によーく分かります。
でも、彼女と同じような気持ちも、少々あるわけですが、
先ほども、「手切れ金」と言ったように、
親との縁を切る為に、このお金は、大きな力を発揮していると感じます。
お金にまったく困っていない父親にとっては、大したことがないですが、
私にとっては、十分すぎるほど、「痛い」金額であるからです。
だからこそ、この宣言に力を与えていると感じます。
◎
このように、いくつかのターニングポイントがあり、
現在の自分に繋がってきていると感じています。
最後に、今の心境について、書きたいと思います。
今も、もちろん、問題は、色々あります。
自己信頼もまだ完全ではないと感じています。
何度か報告しましたが、現実問題として、
今、いちばん問題なのは、****です。
中略
でも、そのように、しんどくて痛い状態であっても、なぜか、メゲないのです。
昔の自分なら、このようなだらだらした自分の姿をみて、
自分自身を責め続けたことでしょう。
今は、それがないです。
ある意味、仕方のないことですから。
しかし、ずっとこのままでいいわけではないですから、
改善するように、色々とやっています。
******
まだ全自我にもなっていない、
まだ「器」に歪みがある今の状態の私が、
このようなことを言っていいかどうか分かりませんが、
次のように感じることが多くなってきています。
「以前は、不幸の中にいて、いつも苦しんでいて、
それがちょっと楽になると、ちょっと幸せを感じていた。
でも、今は、幸せの中にいて、
その中で、苦しみや、痛み、その他の感情を感じている」
以前と変わらず、苦しいことは苦しいし、痛いことは痛いですが、
見る視点が変わってしまったように感じます。
これも、自己信頼があってこそ、そう感じられるのではないかと思います。
では、またメールさせて頂きたいと思います。
以上、YNさんからでした。
***************************
●さて、何人かの皆さんにとっては、この2〜3年の、
自我復元に、必死になって、しがみついて、頑張ってきた人生の時間は、
その前の、20年にも30年間にも匹敵するものだったと思います。
人生の質という点では、
もしかしたら、人生最大の山場だったかもしれません。
ですから、今、諦めかけてしまっている人も、
またも、何をやっても気力が続かない人も、
とにかく、突き進んでください、としか私には言えません。
これまでの人生で、
あなたの人生を、本当にくだらないものにしてしまい、
つまらないプライドにしがみついたまま、
だらだらとした時間で人生を台無しにしたままで過ごすか、
それとも最後の、ここにしかないチャンスに乗るか、
どちらが、自分にとっては大事なのか?という局面です。
他にあるものは、他で間に合わせればいいのです。
しかし自我復元は、私の管理下、研究下、実験下にしかありません。
どんな形でも、これを複製することは不可能です。
しかも、これは未だ、未知の部分が多いものですから、
リアルタイムで皆さんと、共同で今現在も開発途上のものなのです。
他人や歴史がレールを引いた、借り物の考えかたや、瞑想や宗教やセラピーなど
山ほどありますので、そんなものは、そんなにやりたければ、
死んで次にまた地球に生まれて、やればいいのです。
しかし、自我復元に関しては時間が限られます。
いろいろな細かい助言が可能なのは、私の寿命が尽きるまでです。
それ以後は、何でもそうであるように、
あっと言う間に、不正確で、歪曲された情報になってしまうと思います。
もっとも、私が他界した後の時代になっても、そうならないために、
・「分割自我復元」
・「分割自我復元理論」
・「いらない親」
・「バナナを創った宇宙人」
この4つの、最も重要な著作を記録として残しました。
●なので、どうか、自我復元に、一度は着手したことのある誰もが、
たとえ、今は、無自覚なまま、ぼーっとしていて、
あるいは自覚できているんだと、とんだ錯覚をして、
怠惰な生活を続けていたとしても、
何かの大きな出来事によって、きっかけをつかみ、
必ず、復元をやり遂げてくれることを、私は望むばかりです。
自我復元そのものを助けてくれる、
本当に良質の公認の「自我復元ブログ」も、いくつもありますので、
参考にしてください。
●そんな中から、また今回も、Abyさんのブログから引用させて戴きます。
非常に断片的な引用になるので、かならず元の記事を参照ください。
*********
Abyさんのブログよりの抜粋。
↓
「あ、あの時、みんなとうまくやりたかった、
そう思っていたのに言えなかった」
ということだった。
今日の夢のように、わたしは楽しく、みんなとやりたかったのに、そう言えなかった。
そう思えもしなかった。
そう思っていることにも気づいていなかった。
それでわたしは、
どう、その時当たり前のように考えていたかというと、
「まわりと自分は違うんだ。自分はすごいんだ、特別なんだ」
という納得の仕方を、強がって、ではなく、
当然のようにそう思っていた。
対人関係での特徴として、典型的なものがあった。
それは、初対面のときは上手くいくのだけれど、
だんだん時間が経ち、時間がたってくると、
徐々に、だんだん、「バカにされる」という傾向があった。
傾向というより、ほとんど、そうなる。
気づいたことだが、少なくとも、父もわたしの弟も、みんなそうだった。
母と妹は、社会でどうだったかをあまり知らないのでわからないが、
おそらく、同じだったろう、と推測している。
*********
高校の部活時代も、露骨にバカにされていたわけだが、
なぜその時はその自覚がなかったか、というと、
わたしをバカにしてくるやつらをこそ、
「わたしがバカにしている」と思っていたからだ。
まわりのこいつらがおかしい、としか、考えたことがなかった。
だから、そういうのは相対的なものだから、こいつらはバカだから、
わたしのことがバカに見えるのだろう、あわれなやつだ、と、
そこまで言語化して意識的に思っていたわけじゃないけれど、
そう思っていた。
言語化して意識的に思っていたのなら救いはまだあるかもしれないが、
完全無自覚という病気こそ恐ろしいものはない。
わたしはそれを「自然に」やっていた。
*********
「何かがおかしい」と思ってこれまでも生きてきたけれど、
わたしが何かがおかしい、という時、
そこで除外しているのはいつも「自分」だった。
自分はまともなはずなのに、何かがおかしい。
それは、まわりがおかしい、ということが前提にある。
つまり、なんら思索的でも哲学的でも何でもなく、
ただ、「まわりとうまくいかない」という日々の出来事を、
「まわりがおかしい(自分は正しいのに)」
というふうにすることで、納得しよう、と、
自動的にその納得行為を繰り返していただけだった。
*********
この、
「自分以外のまわりはみんなおかしい」
という考え方は、思い返してみると、家族5人とも持っていた。
「わたしたちは、みんなすごいんだよね。正しいだよね」
それで一致団結していた。誰もそれを否定しない。
みんながみんなを褒め称える。
この中にいると、ここは完全に理想の家族に思えた。
みんながお互いを尊重している、そうとしか思えなかった。
40年近く、そう当然のように思っていた。
このカルト具合は凄まじい。
誰も強がっていないのだ。
当然、わたしたちは、わたしたちが正しい。
それが前提にすべての会話がスタートする。
普通に、自分の話、自分はすごいんだ、という話をする。
それは自慢話、という自覚もない。
それは幼い頃、父に対して、「今日、こういうことも出来たんだ」と
習い事や学校から帰るときの報告のように、
全員が全員、当然のように報告し、
お互い、「すごいね」と言い合う関係だった。
学校から帰れば、習い事から帰れば、自宅下の店に寄ると、
その報告をわたしの父が「おー、すごい」と言って持ち上げる。
父親家系の親族が店の中心だったし、
父親家系の親族は商店街でも力を持っていたから、
みんながみんな、「Abyちゃん、すごいね」そればかりだった。
だから、わたしは嬉しいもなにも、そうやって言われるものだと思っていた。
先日から、桜の間の
「不満を隠さない家庭」
http://www.mumyouan.com/k/?S395
の記事がずっとひかかっていたのだが、
このあたりまで自分の家族のこと、自分のことを考えていたとき、
まさに、これだ、と、ようやくピンときた。
誰も、不満を言ったことがないのだ。
自身の不満を言ったことがない。
まわりの愚痴じゃなく、自分の不満や不愉快を口にしている人が、
誰ひとり、いなかったのだ。
それもそうだ、と思うのは、
誰も、自分の不満を「自覚している人」がいなかったからだ。
みんながみんな、自分たちは幸せだ、不満などない、
自分は正しくまわりがおかしい、そういう空気の中で麻痺した感覚が、
どうして、たとえば、
「みんなとうまくやりたい、やりたかったな」などと言えるだろうか?
思いつくことすら、シャットアウトして当然な環境だった。
「自分に不満がある」という、「自覚すら」
完全に欠落していたのだ。
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そして、その
「あなたしかいなんだよ」と言ってくれた人や所の話ばかり、
家族みんながする。
違うんだ。
その前に、ほとんどといってよいほどの、
たくさんの失敗があったはずなんだ。
無視され、仲間はずれにされ、
みんなとうまくやりたかったのに、
気づいたらうまくやれていなかった失敗があって、
それが「嫌だった」はずなのに、
嫌だった、と、誰もそれを言っていない。
わたしももちろんのこと、誰一人、
自身の劣等感に気づいていないのだ。
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つまり、「愚痴を言い合えるグループ」という
特殊なグループがあるわけではなく、
わたしたち以外は、普通に愚痴や不満を言い合える人たちであり、
コミュニケーション障害に陥っていたのは、完全に「わたしたちだけ」であり、
その中でも、
「自分は正しくまわりは間違っていることを延々と主張している」という
幼稚きわまりない振る舞いを、
恥ずかしくもなく、堂々とやっていたのがわたしだった。
「まわりはこんなこともできないんだ。僕にはできるんだ」と。
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自分より下と思っている人には、キレることは(これは他の家族も同じで)なく、
それはつまり、見下している、所詮愚痴を言っている負け組とくらいしか思っていないから、
それはそれでバカにする利用価値を見出していただけで、
当時自分が思っていたような寛容な人間だったわけでもなんでもない。
わたしが思いこんでいた自分の寛容さとは、
「たいていの相手をバカにできる」、
つまり、相手にしないで見下せる、という意味だった。
そういう中で、どうしても、相手にしないわけにいかない対象が、
どこにいっても、それが「上司」だった。
これが驚くことに、家族「5人とも」そうなのだ。
それで、今回、これは100%家族の問題だ、ということに気づけたところがある。
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「この人たちにわかるはずがない」
と完全にあきらめていた。
そしてわたしはこういう自分を「自立した」と思いこんでいた。
つまり、上司像、というか、
「母親たる者は」という投影を、「親に」しなくなったのだ。
逆にいえば、このときに、「親は」、「逃げ切った」のだ。
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こういう、まさにAC、大人子供にさせることの「悪」とは、
「親なのに」という感覚を麻痺させ、親免罪へと持っていくことだ。
「自立」と称して、「親なのにという期待を喪失させる手口」は、
彼らが逃げ切るやり方であり、
理想の家庭だったと、
子どもたちに「思わせ続ける」ことから目覚めさせない
完全犯罪への手口といえる。
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「絶対的な法則探し」のようなものも、何も哲学的でも思索的でもない、
親ではない別のどこかに、
その「母親たる者の像」を見つけるための「レール」「準備」をしていた、
ということにすぎなかったのではないか?
この時、わたしが描いていた絶対的な法則たるものの像とは、
「矛盾がないシステム」というとなんともたいそうなものにきこえるが、
要は、「何でもOK」といってすべてを受容できる考え方、
というのを探していた。
排除することのない考え方。
それは、すべての存在の説明がつく考え方。
30代終わり頃には、何でもOKなAbyさん、
実際、そう言われるようにまでなっていて
(というか、そういう言う人しかまわりに集まらない
カルト化した共依存集団に身をおいていただけ)、
それをわたしは、ひとつのゴールだ、と慢心していた。
最低なことに、自我復元に出会ってからも当分、その慢心からも
目が覚めることはなかった。
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成人してからどのくらいしてからだったか記憶が定かではないが、
ある日、父と話していたとき、父から
「はじめてだ。ボクのことを理解してくれたのが、
お母さん(←父の母親のこと)じゃなくて、息子、Abyだったとは」
と、涙でうるむほどの目でわたしに言っていたけど、
父がわたしにさせたかったのは、
たったこれを言わす、
これを父が母親のかわりに子どもからこの一言をききたい、言わせたい、
ただそのために、わたしは利用された、ということじゃないか・・・?
ちょっと待ってくれよ。
代理復讐などというもっともな名前をつけるのも幼稚な
しかし、これほどに、おぞましい代理復讐はあるだろうか。
どれほどそれが、おぞましい結末を迎えたか、父は知らない。
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最近、といってもここ数日だが、今まで毒親分析してきたことが、
現実の生活のなかで、これがあのことだったんだ、と
今になって謎が解かれていくような感覚を感じている。
掘る手を休めず、ここは格闘を続けたい。
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