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[415]
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★分割自我復元★その415■ 「子供から自信を奪う親」
by:
鈴木崩残
2014/12/29(Mon)07:33:40
報告より
今回も、寄せられた報告からです。
*********
崩残様
報告になります。
小学1、2年の頃、近所に迷惑をかけた出来事があります。
友達と二人で行ったいたずらが原因でした。
中略
そしてその行為が見つかり、その友達の母親と私の母親が謝罪に行った。
親同士でどういう会話がなされたかは分からないが、この事件は母にとって
私の交友関係を破壊しなければいけないという思いを強くさせた。
そして自分の躾が甘いという思いと、
私を他者に委ねたほうが良いという思いが生まれたに違いない。
私の行動を抑えるため頭を悩ませたのだろう。
この行為はイタズラとしては最悪のものだったが、
母は一緒にいた友達のそそのかしによって私が同調したと思っている。
確かに当時、私は意志が弱く自分で何かを決めることができなかった。
だから母はその友達との付き合いをやめさせたかった。
この頃からお人好しで騙されやすい私から友との付き合い方、
友達選び、関係作り、要するにコミュニケーション能力を、
母は破壊し始めた。
この友達とはこの時を境に遊ばなくなったと思う。
「お前はお人好しだ、騙されやすい」
「何をやってもダメだ」
「悪い仲間に影響されやすい」
などと毎日のようにののしられた。
そして私は自分に自信がなくなり、どんなことにも尻込みするようになった。
そして自分を信頼出来なくなり、自分との接点を失い始めた。
自分とのコミュニケーションを取れなくなった。
その直後だったと記憶しているが、
母は私を剣道、少年団、学習塾、そろばん、ピアノ教室へと投げ入れた。
剣道はほとんど体罰だった。
7、8歳でうさぎ跳びで道場を何周もさせられた。
上手くできず、すぐにバテてしまうので脛や踵を木剣で叩かれた。
痛かった。楽しさなど全くない。
気持ちが毎回萎縮していた。毎回泣きたい思いだった。
稽古中、母はずっと見ていた。
もう、耐えられなかった。
胴着の匂いを嗅ぐだけで拒絶反応が出た。
うさぎ跳びすらしっかり出来なかったので、
道場の方から止めさせられたと記憶している。
自分から止めたいとは言えなかった。
こういう母親が怖かった。
こういう躾と小言を繰り出す母親が恐ろしかった。
他の子供たちは淡々と稽古をこなしているかのように思えた。
この事で私は自分を他のみんなと違うように思い始めた。
他人と同じようには自分にはできない、そういう欠陥を自分は抱えていると…。
私はますます人が多く集まる場所が嫌になった。
おそらく幼少時から母親を恐れていたため、
自分から行動を起こすことができなくなっていた。
その行動が母の気に入らないことなら身のすくむ説教を受けるからだ。
褒められたことなどほとんどなかった。
私の行動全ては母の気に入らない行動ばかりだった。
私は最初は、我慢というものが苦手だった。
悪ふざけや欲しい物をねだることを我慢できなかった。
しかしやがて、私は母への恐怖から、我慢を知らず知らずのうちに演じてしまった。
親は自らの力で私を教育し、生きる術を教えること放棄した。
塾や武道や模範的な少年団に入れておけば十分だと考えた。
母に怯え、怒られることに怯え、
どれだけ行動に制限がかかってしまったのか?
自転車でさえ私が乗れるようになったのは小学3年の時だ。
周りの子供たちはもっと小さい頃から乗っていた。
友達と遊園地に行きゴーカート乗りをする時も私は乗らずにずっと見ていた。
雪山にキャンプに出かけた時、
みんながそりに乗って坂を滑り降りている時もずっと横で見ていた。
友達が野球をやっているのを毎回誘ってくれるまでずっと見ていた。
やりたいのにそこに入っていけなかった。
常に心の中には母親の監視があったからだ。
上手く出来なかったらキーキー声の説教が待っている。
そして母に怒られている自分が恥ずかしい。
怒られている姿を他人に見られるのは恥ずかしい。
そんな辱めを受けるくらいならやらない方がいい。
周りと同じことが出来ないのは恥ずかしいことだ。
サッカーでもバスケットでも野球でも、
私が居たい場所はボールが飛んでこないポイントだった。
そこが私というAC人格が生まれたところだ。
少年団も同じだった。
何をやるところなのかさっぱり分からなかった。
みんなと同じことが出来なかったので母からも他人からも怒られた。
私は親への反抗までの10年間でNOと言えずに
自分や周りとのコミュニケーションを失っていった。
周りと同じことが出来ず辱めを受けるなら他者と関わらない方がいい。
楽しいと思えるものがない中で私は模型作りに没頭していった。
母は気に入らない友達と付き合いがなくなるので、
一人で家に篭ることには内心ホッとしたのだろう。
模型を作っていく内に戦争の歴史に興味が湧いた。
その頃から周りは私を「変わり者」扱いした。
この「変わり者」扱いが私には心地良かった。
この「変わり者」に周りは一定の距離を置くようになった。
幼稚なAC人格という落ち着ける場所を見つけたようだった。
この頃から私は母親への反撃を開始した。
この小学生後期に私はクラスの女の子たちと、
学校でもプライベートでもよく遊んだ。
私は好きな女の子が何人もいた。
母親への恫喝と時期が重なったため、
私から母親への「恫喝」の原因を、
母親は、またも「交友関係のせいだ」と考えた可能性がある。
母親が、私の反撃を女の子からの影響と考えたのなら、
私から女の子を取り除くことを望むのは明らかなことだった。
この状態では、私は女に騙され操られるようになると母が思い込んでも
不思議ではなかった。
その母の思いが後々私から女性を遠ざけた。
私は外に出て遊びたかったかった。
もっとイタズラをして少年時代を過ごしたかった。
私から母への恫喝は、結局のところは、
母の私への説教、怒りを、ただアレンジしたものだと思える。
それは本当の自分から湧き出たものではなく、
母の怒りを反射させただけのものだった。
このAC人格は生まれてから感染し続け、10才で発病したのだ。
私は今でも人間関係を恐れている。
反論したいことを言葉に出来ない時は不愉快だ。
その時私は極端なことを言い、防衛線を張る。
私は収入が途絶えることが怖い。
かといって自分に合わない環境、人間関係を我慢できるわけでもない。
我慢すると我慢できないのせめぎ合いが激しくなる。
我慢するも我慢できないも同じAC人格であるのが分かる。
今、私は怖いものでいっぱいだ。
怖いものを我慢してきたからいつまでも怖い。
本当に怖い。
今回は以上になります。
ご一読お願いします。
追伸:
毎日の局面でAC人格の出る場面に注意をしていますが、
気がつくと手遅れということが多いのが現状です。
AC人格を潰すこと、思考の制御、いわゆる注視。
恥ずかしい話ですが、
実はこれらの違いが長年分からないまま今に至っています。
一言頂けたら幸いです。
*********
以下は、私からの返信です。
>> AC人格を潰すこと、
初期のうちは、AC人格がAC人格と戦っている、
という状況になります。
しかし、それを、これもあれもAC人格である、
と看破してゆくことで、異なる層が出てきますので、
たとえ不毛に思ったり、
もうこれ以上は掘るものはないと感じる時が来ても、
諦めないでください。
掘ったと思っても、まだあることが本当に多いのです。
掘れたと思って手を緩めさせれば、AC人格は、無事でいられて、ほっとして、
ざまーみろと、あなた自身に言っているわけです。
「これでもない」は、何も知的探求や、瞑想ごっこでなど使われるべきものではなく
まさに、今やっている、AC人格に対してこそすべきことだったのですから。
「これか、いや、これではない。これも魂胆満々のAC人格だ」
ということを、「剥がれるものがなくなるまで行うこと」になります。
その結果、得るものがなくとも良い、
ただ、せめて、
不要なものは、ぜんぶ見た、という状態まで行くことになります。
>思考の制御、
制御というものはいりません。
それをすれば、別の我慢、
または「既に予定してあるに過ぎない理想」を自分におしつけるだけですから。
また、どういう思考に対するどういう制御が必要だと
ご自分で思われているのかが、この質問では不明です。
ある特定の思考を「なくしたい」のか、それとも、
その思考を「別の方向へと変えたいのか」です。
思考の制御ということのはっきりとした目的や定義が見えません。
>注視。
一日の終わりに、5分か10分でもいいので、
部屋を暗くして、目を閉じて、
「関心地図」を行ってください。
それが、十分すぎるほどの、「本当の意味での注視」です。
*********
実は、AC人格がAC人格を掘っているに過ぎない人、
というのが自我復元者または、ブログを書いている人にもいます。
むしろ、そうではない人を掲げるほうが簡単になります。
しかし、この方への返信として書いたように、
ほとんどの人は、
最初のうちは、AC人格がAC人格を掘っているにすぎない
というスタートライン以外からは、はじめることは出来ないのです。
このことは、おそらく、AC人格を脱した、
あるいは脱しつつある人であれば、私よりもずっと明晰に説明できると思います。
AC人格を脱した人、または脱しつつある人というのは、
マディアさん、Abyさん、朱いはがねさん、
あとは、ブログは書いていない人では、YNさんと、雨樹さんです。
脱しつつあるか、脱した人がこの5名ということです。
それ以外の人は、良いかダメかという二元的なことではなく、
それぞれに濃度が違いますので、良いかダメかという簡単な枠では語れません。
ただいえることは、
「まだ今でさえ、AC人格が、AC人格を相手に奮闘しているだけ」
という点では共通しています。
そうなると、
「だから、結局自分は、自我復元もダメだった」
というところに逃げ込みたいのでしたらば、
逃げ込んで、ウジウジしていて一向にかまいませんが、
既に述べたように、トラウマ堀りとAC人格というものは、
AC人格がAC人格を掘るうちに、
「これもAC人格だったと、心底気づく」ということによって、
先に進むものです。
その格闘には、終わりはありますし、終わりがあるから、
AC人格を脱する人が実際に出てくるのですから。
そもそも、最初から、
AC人格ではないものが掘ることなど出来ないのです。
そのことの自問を、Abyさんも、マディアさんも、
一環して、ずっと厳しく自分に問い続けてきているということが、
ブログから分かるはずです。
朱いはがねさんも、
「これか、いや、まだ違うぞ」と自分と常に格闘しているのです。
「トラウマの記憶だけ」は掘りつくしたかもしれない人たちは、
実は、皆さんが知っているよりも、沢山います。
しかし、「AC人格を掘りつくす」というのは、
職場や対人関係で、徹底して行動に移すことによって、
掘りつくしていない部分を、はっきりとしなければなりません。
ちょっとぐらい、趣味が楽しくなっても、
たかが職場でちょっとしたことが起きたぐらいで、
卑屈になったり、他人を恨むようならば、
そこでまた、さらに掘るのです。
掘って、「万全に準備してから」何かにかかわろうとするのではなく、
失敗しながら、得てゆくものです。
●トラウマの影響を脱することと、
AC人格の影響を脱することは
かなり様相が違います。
トラウマが理解できても、AC人格を理解できていない人が大半です。
しかし結局それは、
トラウマとAC人格との「関連」がまだ見えていないということを意味しています。
トラウマは分かったものの、それが今もあるAC人格と
どう連結しているかが、分かっていないのです。
前述した5名以外は全員がそうです。
*********
そもそも、トラウマを掘ろうと皆さんが決意した理由は何ですか?
誰かのためじゃない、自分のためだ、
そう最初からはっきりと決めていたのは、マディアさんただ一人です。
他の方は、Abyさんも含めて、全員が、
対毒親、対他者、へのリベンジのつもりでやっていたり、
または、何か偉くなれそうだとか、偉ぶれるようになりたいとか、
または、誰かに認められたいとか、
あるいは、自分の正しさをただ、確認して、自画自賛したいとか、
そのことごとくが、「AC人格の持った動機の延長」で始めた自我復元です。
最初から、自分の問題をどうにかする方法とはっきりさせていた人は
私が見るかぎり、一人以外、他にはいません。
●しかし、その間違った出発点からであっても、
途中で、間違っていない路線に、その人自身も知らないうちに、
切り替わっていることがあります。
そうなる理由は、自我復元や、トラウマの記憶堀りで、
問題意識そのものが明確になってくる人たちがいたからです。
しかし、その肝心の、これは自分の問題なのだ、ということが
まだ分かっていない人、自分の問題だといえば、無明庵で認められるからとか、
まだ最初の間違いのままで、今もブログを書いている人もいます。
●最初に自我復元というものを目にして聞いたときに、
「これなら、自分の問題は何とかなるかもしれない」と思ってはじめた人は、
その最初が、実に、甘すぎるのです。
「自分の問題は、はっきりと分かっている。それをどうにかできるのは
この方法かもしれない」
そう思ってはじめたのは、おそらくマディアさんただ一人です。
なんとなく問題があるかもしれない、ではなく。
*********
しかし、その間違った方向のまま何かをすることこそを悪用するのが
普通の宗教やセラピーや瞑想団体です。
あなたが間違った動機のまま続けるほうが、彼らは商売になるからです。
しかし自我復元を、
きちんと、そのカリキュラムどおりにやってゆくならば、
最初に間違った動機、醜い動機で始めたとしても、
トラウマを掘るうちに、その「問題」の本質が必ず見えてきます。
しかし、トラウマを掘っていることが最後まで、
劣等感の反動だったらば、AC人格のままになります。
このあたりは、個別に、
いつ、それが本当の自分問題に変わるかは違いますので、
一概には言えませんし、
今も、沢山の人が、その重要な問題に近づいたり、外れたりしています。
ただ、今のところは、AC人格を脱したか、脱脂つつあるのは、
ブログを書いている人、書いていない人も含めて、
前述した、5名ほどで、あとは全員、AC人格を引きずっているということです。
引きずっていても、まだダメだと私に言われても、
諦めずに、格闘するしかないのです。
自分のためにやっているのですし、
本人が助け出そうとしているのは、本人自身なのですから。
だから、私は、
自我判定の際の、アンケート項目に、
自分の問題点を明確にしているかどうかをチェックする項目を入れてあるのです。
むろん、書いてあっても、偽装の嘘であると見れば、判定はしません。
_________
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