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★分割自我復元★その416■ 【2015年 自我復元新年】
by:
鈴木崩残
2015/01/03(Sat)11:15:33
かっこいい人
●年末から年始にかけて、何も掲示板に書かない、
ということは、おそらくここが始まって以来、初めてのことだと思います。
そうした、あるいはそうなったには理由があります。
昨年一年というのは、それぞれの自我復元者のひとたちにとって、
本当に大きな転機でした。
ある人たちは停滞し、ブログを消して頂いた人、
音信不通のまま、不完全極まりない、中途半端なブログが、
後片付けもされないままの人、
あるいはその方の親しい方から、他界の連絡が来た人、
また、今もブログが残っているが、これからは、どうなるかわからない人、
ブログは書いていないが、大きな進展のあった人、
たくさんの量のトラウマ掘りやAC人格分析を報告してくるものの、
基本的な部分は、ほとんど変わっていない人、
稀にですが、門前払いを食らうほど、ひどい者もいますが、ここでは論外とします。
*********
そうした中で、昨年の後半、半年ほど、一日といえども忘れることなく
私が考え続け、悩み続けたことがあります。
それは、自我復元の方法論にどこかまだ足りないものや
間違っているところはないか?です。
本当にたくさんの人たちが、せっかく、泣きながら、苦しみながら
トラウマとAC人格を掘り当ててきたことは確かです。
中には、それもなく、消えていった人やブログもあります。
しかし、現時点で、私に報告が来る、ここ何年も自我復元をしてきた人たちにとって、
何か壁が立ちはだかり、それが超えられないとしたら、
それは、方法に問題があるとしたら、それは私の責任であり、
そうであるならば、なんとしてでも改善しなくてはならないと
思っていました。
一方で、もう限界であるという思いもありました。
いろいろな制約、毒親の渦巻くこの世界、また社会、
その中を自分の足で歩いてゆくのは、私が考えても本当に困難であり、
大変な労苦をさせてしまうのではないかと。
環境に対する絶望的な諦めもありました。
自我復元がどこまで出来るのか、未知な部分があります。
それは今でもあります。
●何度も何度も、方法に問題点があるかどうかを考え続けました。
それを考えることになった理由は、やはり、停滞する人が生じたからです。
これ以上は、しばらくは、進展は無理であろうと判断したり、
また、どうせ復元ブログを書くのであれば、いつか、
自分の過去の書いたことが恥ずかしくなるぐらいの正常な自覚が出て、
そうした報告が来て、それを見たときに、
また書いてみることを薦めるのがいい、と判断した人たちも何人にもいます。
●一方で、自我復元が、自我率という意味では完了した人のブログも、
ふたつ、消してもらいました。
理由としては、本人が納得できるわけもなく、
もしも納得していたら、本人が完全に麻痺していることになります
●自我復元のひとつの完成点をどこに置くか、これが変わったのも昨年です。
数年前に自我復元を提唱し、実習者の人たちの経緯を見て、
自我率が元に戻った時に、その後に山積みしている問題があったとしても、
それは解決できるものと予測していましたが、
その予測は、トラウマ問題の浮上によって、崩れ去りました。
トラウマとACの問題は、絶対に、回避不可能でした。
ですから、そこが掘れなかった人たちのブログがまず消え去りました。
●しかし、次の障壁が立ち現れたのは、
そのトラウマを、本当に掘ってきた人、AC人格がそれと連動していることを、
はっきりと意識化した人、親の親たちも全部理解した人たちがいました。
むろん、確かに掘っているし、掘れているのです。
そもそも、記憶をたどってトラウマを見つけだすこと自体は、
覚悟と決意があれば、出来ることです。
感情的には、つらいかもしれませんが、皆さんが同様に通ってきた、
絶対に逃げられない問題、誤魔化してはならない問題です。
やらない人と、やった人では、少なくとも、
視点の変化には、もう雲泥の差があります。
やらない人は、話にもなりません。
やった人は、とりあえずは、話は通じる人になります。
●しかし、全自我になったあとに各自がやればよいだろうと
私が思っていた、領域があります。
それは、トラウマ、AC人格を理解したとしても、
古い習慣的思考というソフトは、動き続けるので、
いらないものは捨て、自分で新しくソフトを作ることが必要である
といことは、だいぶ前にも書きました。
●しかし、自我率だけで言えば、ほとんど全自我に近い人、
または全自我の人、そして、それだけではなく、
トラウマもAC人格も、かなりを意識化して理解できたであろう人が、
その「自己変革」の着手に、踏み出すことが出来ない、
という予想外の状態が何件か発生しました。
●よく見ると、そこには、AC人格が明らかにのさばり、
トラウマへの理解が不足しているので、
「掘り足りないだけ」と言い捨ててしまえば、それまでですが、
私が気になり、注視しいたのは、
では、「先に進んでいった人と、その人たちとは何が違うのか?」です。
停滞した所から踏み出せる方法の鍵が何であるかについて、わかれば、
そうした停滞している人の助けになるからです。
●答えは、もう見つけつつあるのですが、私自身まだ確証はありません。
おそらくは、これだろうというものは、目星はつけてあります。
●ただし、それは、トラウマとAC人格を、掘りに掘り尽した人
その段階になって初めて意味を持つ扉の鍵なので、
鍵が何であるかを、言葉でいくら知っても無意味です。
どうせ、AC人格は、それを掘らないことの言い訳や、
自分のだらしなさ、あるいは持論の正当化に使うだけであることは、
わかっていますので。
*********
ここで、それぞれのブログを書いている人たちについて一筆します。
●トラウマ掘りの最中にいる人、重要なトラウマ掘りをしている人、
それは「どんがめ」さんです。
なんとしてでも、続けてください。
●同じく、トラウマ掘りも進行中ですが、
そこからAC人格と「格闘」に入っているのは無干さんです。
諦めないと決意したのですから、絶対にやめないでください。
●黒丸さんは、ブログは消してもらいましたが、
そのことは、本人自身が、当時は、喜んでいても、
完成には遠かったという理由については、十分に理解しているはずですので、
メールでやりとりを継続しています。
しかし、現時点で困難な点があります。
それは、今の主体性では、この先には進めないのです。
AC人格の見極めも、まだ甘いです。
ここで問題になるのが目的意識ですが、常に目的意識がはっきりしませんし、
もっといえば、いまだに目的意識自体がAC人格ともいえます。
●天音さんも同じく、今の主体性では、その先には進めません。
いかに、トラウマを掘ろうが、AC人格を解明しようが、
言動の中にそれが息づいてこない、
または、息づかせるモチベーションを持てないかぎり、進むことは出来ません。
●AC人格には気づいた、しかし、まだ動けない、
という人たちを、ここまでに列挙しました。
動けない理由は、その「今の主体」では、決して本人を救出できないからです。
*********
以下に記述する人は、その境界線にいるか、または踏み出した人です。
●お姫ちゃんは、未知な部分、のりしろの部分がまだわかりません。
AC人格のままの主体であるか、踏み出したか、踏み出すプロセスにあるのか、
まだ輪郭は、はっきりとはしていませんので、微妙です。
●Abyさんは、いよいよ、決意して踏み出したという段階です。
●マディアさんは、常に、その一番大切なものを、
他の人たちに示唆するような、踏み出し方を、全自我になったあとに
してきました。
●そして、今回、私が特筆したいのは、
「朱いはがね」さんです。
AC人格を理解しただけではなく、確実にそれを少しずつ変え、
親の作ったソフトだらけだったものを、削除しては新しいものを
作り始めたという点では、
マディアさん、Abyさんと同様なのですが、
同じく、マディアさん、Abyさんと共通する、ひとつの色調があるのです。
それは、簡単明瞭に、いうと、
「かっこいい奴」になったのです。
今回の、年始の言葉は、本当にかっこいいです。
私はめったに、他人様の中に、かっこいいと思うことはないのですが、
率直に、かっこいいと思います。
●マディアさんも、自我復元以後は、かっこいい人に見えます。
朱いはがねさんは、まさに、ついに、かっこいい人になった人です。
Abyさんは、かっこいい奴に、なりつつある人です。
このかっこいいという印象を生み出すものは、
「潔さ」です。
そして「決断力」
さらにいえば、本当に「自分の言葉」で語り始めた人は、
かっこよく見えるものです。
とにかく、この3名は、
私の中では、かっこよくなったか、なりつつあります。
*********
それ以外の人たちは、まだ「かっこ悪い」のです。
こう書くと凹むかもしれませんが、重要な境界線の問題ですし、
そこには、境界線が確実にあり、
いずれは、今は、まだかっこ悪い人たちも、そこを踏み越えたときに、
私が言っていることの意味が、
率直に「自分のこととして」、わかると思います。
かっこいい人と、かっこ悪い人との違いは、
かっこ悪い人は、「かっこつけようとしている人」なのです。
まったく、かっこつけようとしなくなった、
という点で、前述の3人は、私から見れば、
本当に素敵に「かっこいい」のです。
>かっこ悪い人の最大の特徴は、
>常に、ぬかりなく、かっこつけようとしていることです。
>卑下や謙虚さや、丁寧な言葉すら、みっともなく偽装してまでそれをいます。
>「私は何でも我慢しないし、かっこなんか気にしていない」
>ということ自体を、かっこいいのだと勘違いして主張する者も多くいます。
●また、「はい、私は、ぜんぜん、かっこ悪いと思っています」
そうわざと言うことによって、
結局は、かっこつけている自分を保持している馬鹿者たちを、
世の中を見て、いちいちあげていたら、キリがありません。
しかし、「本当に」、かっこつけることをやめた人、
あるいは、もう、やめようとしている人、
もうそれが出来ないぐらいまで意気消沈した人、
もう自分に嘘をつくことが無理な人には、共通項があります。
それがダメになるまで、打つ手がないまでに、
それを徹底的に経験したということです。
●無干さんが、いくら自分を汚物と自称して、かっこつけるのはやめたい
と言っても、(これから先はむろん未知数ですが)
現時点では、とても、まだまだカッコ悪く、無様ですし、
そのことは、自覚はしているとは思いますが、
それでも、まだ、そんな自分を維持して何とかなる面がある、
と思っているわけです。
形は違いますが、
「そこまであたしは落ちぶれて、かっこ悪くなりたくはない」
ということが原因で、よけいに、かっこ悪いのが天音さんです。
実は、天音さんの中にある「そこまで落ちてはいけない」は
本人の主体的考えではなく、毒母親が勝手に吹き込んだ基準線です。
●また、そもそも、かっこいいということが、よくわかっていないままに
ものをやってしまうのが黒丸さんです。
それゆえに、おそろしくかっこ悪いことも、
誰からも、そう見えるとは知らずに、平気でしてしまうのです。
他にも何にもいます。
ただし、ここまでに名前を挙げた人たちについても、
良いかダメかということではなく、
ある境界線を境にして、そこに近づいている人、
まだ遠い人という、いろいろなコントラストがあります。
またそれはこれから今年に、どんどん変わってゆくと思います。
●まだこれから、かっこよく「なりつつある」Abyさんは
ちょっとおいておいて、
あと「ポテンシャルが未知数」のお姫ちゃんも、ちょっとおいておいて、
また、最初からなんだか一環して、かっこよかったマディアさんも
おいておいて、
とにかく、
朱いはがねさんの、かっこよさには、
正直、感動しました。
マディアさんと共通すること、
それは、
自分で考え、自分で変えようと決意し、自分で行動を起こしたこと、
その一点に尽きます。
そこにいけるかどうかの境界線上、
あるいは、少し歩を進めた人、いろいろです。
●そうやって、私が逆に、皆さんから、
自我復元において、何が決定的に大事であるのかを
逆に、学んでいるというのが現状です。
自我復元というものが、共同研究施設であると、
私が何度も言う理由がそこにあります。
だからといって、創設したことの責任を放棄はしませんが、
研究と実践の成果は、皆さんが切り開くのであって、
ゴールの「形」が明確なのではありません。
確かにゴールはあります。
しかしゴールの「門の形」は「それぞれの人で、形が違う」のです。
●そして、わかった自分のAC人格と、トラウマと向き合うために、
小さなことからまず行動に移して、
いらない要素を壊し、必要な要素を集め、
それを日常の言動で、実際にやっていっている、
と、ここまで聞くと、
「なんだ、自分だって、やってるさ、そんなことぐらい」
と言う、半端な人たちが後を絶たないのですが、
本当の鍵は、もっと違うところにあります。
ただの、「はい、やりました、やってますよ」などという
半端な実行ではありません。
それは、個別に、その人に必要な時節が来たら、
私から、伝えます。
*********
いや、とにかく、朱色のはがねさんは、かっこよかった。
あれを読まなかったら、この新年の投稿は書きませんでした。
かっこいい、ということは、「個性」と同義なのです。
単に、知っている奴とか、正しい奴とか、やさしい奴とか、偉い奴とかは、
ほんとに、私から見れば、クソみたいに、面白くない人たちです。
本当に、無明庵というサイトや書籍を通じて、
私は、やってきた者も、かかわってき者も、
本当に、どこを見ても、クソおもしろくない者ばかり私は見てきました。
だって、「個性」がないんですから。
繊細さもなく、ただ鈍感なだけの人たち。
生きてこなかった人たち。
感情をちっとも大切にしなかった人たち。
*********
感情を抑圧などしたら、
個性や、何かをしたい意思そのものが出てくるわけがないのです。
そうやって、何もしたくなくなったり、
何もしたくなくなったことが楽になったことだと勘違いをした死人。
そんな人ばかりでした。
他人のことを死人という馬鹿も、同じく死人でした。
物事や、他人の心の中を何とも感じなくなった事や、
自分の向けられる批判を、
「へーん、ボクちゃん、あたち大丈夫だもん」
と、現実逃避をしただけのことを、偉くなったと勘違いしているだけの
ほんとうに、ダサくて、愚かで、
かっこ悪くて、つまらなくて、くだらない人たち。
本人だけが、自分は他人よりマシだと思っているだけのKY、
ちっとも自活も自立も出来ていない、ただの阿呆。
この、みすぼらしく、どうにもかっこ悪い人たちというのは、
外見ではなく、「精神的に」という意味です。
まー、そうは言っても、精神的にかっこ悪ければ、
どう着飾ったり、あるいは着飾らないことを自慢しても、
当然に、その見掛け、
特に「表情」が、醜くて、かっこ悪いのですけどね。
●そんな人たちが、多く集まってしまい、
現実逃避のダシにされてしまった、かわいそうな無明庵から、
自我復元を通じて、かっこいい人たちが生まれたことを、
私は、ある種の奇跡だとすら思います。
*********
そして、自我復元と、トラウマの掘り方や、AC人格の見極め方などは、
どれも間違いはなかった、
ということを、私はこの3人の人、
そして、YNさんの報告などからも確信しましたし、
結局は、自我復元、トラウマ掘り、AC人格解明、
そして、実際の言動によって、その解除と構築を行うこと、
これが骨組みとしては、すべてなのですが、
社会や、家庭その他での、実際の行動によって、
余計なものの解除と、新しいその人の構築をしてゆくプロセス、
これについては、
それを決定的なものにする、小さな鍵がありました。
ここに書いた、かっこいい三人は、
私が何も言わになかったのに、その鍵を見つけたか、
これから、いよいよ見つけつつあります。
その鍵を見つけた人が、自分の行動によって生きると決意して
それをはじめたとき、
私の目には、その人は、かっこいい奴に見えるのです。
むろん、そのかっこよさには、性別は関係ありません。
*************
最後に、およそ「かっこいい」とはかけ離れた世界ですが、
何も飾らない猫の、短くも、奇妙なダンスをお楽しみください。
■ここで、もう一度、
簡潔に、毒親、トラウマ、AC人格についてまとめておきます。
1/
毒親とは、子供の「喜怒哀楽」の感情のどれかまたは全部を
阻害するすべての行為を自分の子供にする(した)者である。
2/
子供にとって、まず、したいことや、したくないことがあり、
それを毒親が阻害するのか?となると、答えはNOである。
子供には、
したいことや、したくないことが生命の「最初」にあるわけではない。
最初にそこにあるのは、喜怒哀楽の感情である。
よって、それを阻害された者は、その後も、
そもそも、したいことと、したくないことすらわからなくなってします。
実は、自分が、したいこと、したくないことを、
はっきりと子供に自覚させてゆくのは、まず感情の発達からである。
したいこと、したくないことというのは、観念的なものではなく、
大人になってからわかるものではなく、
ことの最初から、喜怒哀楽の感情経験によって作られている。
3/
よって、したいことがわからない、
嫌なことはあっても、本当にしたくないことすらも本人が、
実はわかっていない、
こうした事態に陥るすべての元凶は、0歳から5歳ぐらいまでの
子供の感情表現への抑圧のみである。
子供の意志を阻害する形になるのは、そのあとである。
4/
喜怒哀楽の正常な経験が、その4つのどれもが、コミュニケーション能力、
言い換えれば、その後の状況判断をするにあたって、
実は、思考よりも優れている。
喜びはむろん、怒りも、哀しみも、楽しさや安心もそれ自体は無害である。
それが「恐怖」に基づく怒り、哀しみ、さらには「快」になったとき、
異常化する。
5/
毒親は、正常な喜怒哀楽ではなく、常に、子供を、
直接、または間接的に、恐れを植え付ける。
それは直接の暴力や恫喝以外にも、
「想像上の恐怖」を植えつけるという点では、
「・・・したら、大変なことになるぞ」という公式に従い、
倫理、道徳、宗教、格言なとで子供を制したり洗脳することも、
その後、その子供が、
自分が発してはいけないと思い込む感情の抑圧をつくり出してしまう。
「親が、いちいち、管理したり、しからなくとも、
子供が自分で自分を抑圧するように仕向ければ、親は楽である」
ということがこの洗脳の動機です。
いけないか、いけなくないかを子供が自分で経験して、自分で判断するよりも前に、
最初から、親に迎合するのが当たり前、
親に逆らってはいけないのが当たり前、ということを、
特に、記憶にもない幼少期からされた場合には、
その子供には、自主的な判断力は何も無いに等しい。
「自主性」と言う言葉を大きくなって、その子供が耳にしたり読めば、
自主性にあこがれたり、自主性があると思い込んだり、
あるいは、ひどい場合には、自主性がないことに無自覚な自分を棚にあげて、
あいつは自主性がないと他者を批判したりすることで、
虚飾のインチキでポンコツな自主的人格を作ってゆくが、
その最大の特徴は、自分の足で立てない、フリしか出来ない、
イライラするとき以外には、真剣にもなれない、
他者からの感情に鈍感な、KYとなる。
(同調圧力に過敏ということではなく、
「正しい意味での状況の空気の読み方」をまったく知らないということ)
この傾向は、トラウマとAC人格を掘れないか、掘る気もなく
言い訳を作っては、掘ることから、逃げ回っている者に圧倒的に多い。
これは自我復元や無明庵には論外な者なので、話題にはしないが、
ただし、一度は、はじめた自我復元を、出来なくなったり、
くだらない理由によって、途中で投げて、やめた人は、
結局のところ、もっとも肝心の「根幹」
(言い換えると自己変革の最大の「秘儀」)から逃げていた、ということになる。
6/
問題意識そのものを、まず本人がどこまで明確化しているかという点は、
ひとつの重要な出発点になる。
が、稀には、自我復元によって、
問題意識そのものが本人の中に生まれて初めて表面化するケースもある。
7/
最初に失ったものが、感情であったからには、
最終的に取り戻すのは、まず感情であって、
自我復元をすれば、「したいことがわかる」ということではない。
したいこととは、本来は、「感情経験の積み重ね」が、
決めることだからである。
自我復元をして、あるいは、自我率のみは全自我になったり、
近くになっていても、やりたいことに真剣に取り組めない
あるいははっきりしないのは、とりもなおさず、
まだ感情が取り戻せていないと見て、間違いない。
一部は取り戻せているケースもあるが、
喜怒哀楽の「4つ全部」がまだ揃っていないと見ていい。
だからこそ、
マディアさんは取り戻し、朱色のはがねさんも、それを取り戻し、
Abyさんは、それを取り戻しつつある、
きわめて、「感情的な部分」が増大したのである。
ただし、いくらトラウマを掘っても、
「悔しい」「悲しい」「みじめ」に終始している人もいれば、
逆に、それこそ楽しくもないのに「大げさに誇張」している人もいれば、
怒りの出し方すらわからず、毒親そっくりの、逃げ腰の、遠回りな、
あるいは陰湿な怒りしか表せない者もいる。
結局は、すべては、
感情をそのまま出しても、
何ら親や周囲から責められるべきではないはずの幼少期において、
大人の社会、大人の保身、見栄、思い込み、なんであれ
大人の都合で、子供の喜怒哀楽を、「それは今は、ダメだ」と
「我慢させた」ことに起因する。
■私はかつて、
やりたいことを我慢させられた人がトラウマを持ち、
やりたくないことをしてしまったことが、AC人格を作った
といった定義をした時期もあるが、
今ならば、はっきりと訂正出来る。
我慢をさせられたのは、子供であったあなたの「意志」じゃない。
我慢を強いられたのは、その意志のずっとずっと前にある「感情」だ。
意志よりも感情の方が、より根源的な位置にあるからである。
*********
★
.
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