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[438]
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★分割自我復元★その438■なぜ人間は自殺をしたいと思うか?■
by:
鈴木崩残
2015/02/22(Sun)09:24:22
>走り書きしたものなので、誤字脱字はご勘弁ください。
自殺は「良いか悪いか」ではなく、
「損か得か」で考える。
無明庵というサイトや書籍に張り付いたり、それが気になった
という人のかなりの部分が、「自殺」をテーマとしている
ということが原因であることは昔から明白でした。
ところが掲示板でも何度も書いたように、
こちらとしては極めて積極的に、考察をして、
真剣に自殺という問題に取り組んできたにもかかわらず、
社会に出ることをクズっているだけの、ただりニートや、
自分で自分のつまらなさを、なんとかしようともせずに、
「死にたい」と「漠然と」思って、引きこもっている、
私が、そういう人たちの代弁や、弁護でもしているかのように錯覚した人達も、
ここの読者の中には含まれます。
ここ10年ほどは、その手の、「口先だけで死にたい」と言っているか、
自分に都合よく自殺を肯定するという「半端者」はかなり減りましたし、
自我復元を始めてからは、さらにその手の読者は減りましたが、
初期の無明庵に接してきた人達は、ひどいものでした。
ほぼ全員が、自殺を出来なかっただけである(実は本当はする決意もなかった)
そういう本人の「いい訳」の為に私の書籍を勘違いしたようです。
その人達の多くは、探求者でもなく、
また、本当に困って助けを求めているという真剣さもなく、
親兄弟から、軽蔑的に扱われて馬鹿にされたので、
誰かに相手にしてもらいたい、単に無明庵に構ってほしかっただけ、
つまりは、その多くは、AC人格だったのですから。
ただそこに、うちでは「自殺の動機」を否定はしていないという、
たったそれだけのことで、
本人との何か共通項があると「勘違い」をしたようです。
*********
さて、それはそれとして、今回は、
では、「自殺」をしたいと思う事にはどういう原因があるのか、
という部分を、良いとか悪いではなくて、
きちんと見てゆくことにします。
なぜ自殺をしないか、
または、するか。
>■【負け組み呼ばわりされたくないから自殺しないタイプ】
多くの人が自殺をしたいと思いつつも、
それを「躊躇」したり、「延期」している一つの理由に、
「敗北感が不快だから」というものがあります。
しかも、これはすごく悔しいというものではなく、
なんとなく「自殺をすると負けたような気がするから」
「周囲から、やっぱりあいつは弱いダメなヤツだった」
と「後ろ指を指されたくないから」、
と、死んだ後のことまで心配しているという点で、
この人達は追い詰められているわけではありません。
そもそも、悔しいという気持ちが本物であれば、
出来るところまでやろうとして自殺をしようとは思いませんし。
この「なんとなく敗北感」=屈辱感という、
曖昧なものが、その人の背中を押さないだけということがよくあり、
これをもってしては、
自殺をしないで踏みとどまっているその人の状態が良いとか
とても褒められた状態ではないと、私個人は考えています。
>■「自殺を切り札にして、親兄弟や、他人にかまってほしい」
次に、子供のような精神状態にある大人がよくやるのが、
「ダダこね」です。
これは、自殺を「するする詐欺」と同じですから、
口で何度も言いますが、さっさと自殺せずに、「もったいぶる」のみです。
なぜならば、この人達の目的は、親兄弟に軽視された恨みから、
自殺をほのめかしたり、
場合によっては「回りくどい自殺の方法を考えたり」しており、
単に、かまってくれなかった恨みをアピールするためのものです。
ゆえに、他者に迷惑をかけたり、心配させて、他者の目を自分に向けさせる、
という事こそが目的ですから、
この場合には死んでしまったら、その者の目的は果たされませんので、
自殺を肯定したフリをして偉ぶったり、美化しても、
このタイプは、かなり老いぼれても、決してふんぎりのついた自殺をできません。
>■「拷問のような日々から開放されたいから自殺する」
本当に、日々、虐待を受けたり、奴隷のように労働をさせられている場合です。
「人生には、これこれの目的がある」と、
どこかの間抜け坊主や神父から説教されようが、
その毎日の拷問のような生活を続ける以外にないのであれば、
「こんな生は、私には到底受け入れることは出来ません」
という意志表明として自殺する。
これは「十分な正当性を持つ」と私は考えています。
>■「死にたくはない。しかし逃げ場がなかったから自殺した」
前者と似たケースではあるものの、本当は死にたくないのに自殺した、
という人たちがここに含まれます。これは事実上自殺ではありません。
敵兵に追い詰められて、辱められるぐらいならば死ぬほうがマシだと
断崖から海に身を投じたり、あるいはビル火災で熱さに耐え切れずに
死ぬと分かっていても、飛び降りるなどです。
この人達は、定義上は、自殺ではありません。「事故死」です。
>■「自殺した方が得だ、と思って行う自殺」
カルト集団が集団自殺した事例が有名ですが、
その人たちは、死ねば、今よりも良い世界が自分を迎えてくれるに違いない、
という積極的な妄想または想像によって自殺します。
この事例は実際には、きわめて稀で、カルト教団の集団自殺の場合には
その「望ましい世界」とセットになっているのが、
「もうすぐ世の終わりがくる」という恐怖の植え付けですから、
「晴れ晴れしく、さわやかな気持ち」で、自殺したとは思えません。
つまり、真に積極的な自殺とも言えません。
もっと積極的に、
「この死に方ならば、死んで褒められるだろう」と、などと
死んだ後のご褒美を期待し、妄想するような、
「俗欲心に満ちた」自殺法の典型は、
「即身仏」のような儀式ぐらいのものです。
あとは、政治的な抗議のための自殺もこれに含まれます。
これらは「絶望からの自殺」ではなく、
希望を託しているのかもしれません。
******************
■総じて言えば、
何かつらいこと、悲しいこと、不安なこと、
それが、その人の「耐えられる範囲を超えたとき」、
人は「自殺をしたい」または「自殺をした方がいいかもしれない」
という思いを持つわけですが、
この場合、
「死ねば、少なくとも、
今、自分を不安にさせるこの環境からは開放される”かもしれない”」と、
本人は、期待をしており、
そこまで、現状がチャラになって楽にはならないかもしれないが、
少なくとも、何かが「リセットぐらいは、出来るかもしれない」
死を、「破産申告」をするようなもの、
あるいは、肉体と環境の「引越し」だと思いたいのかもしれません。
これも、全く根拠も証拠もないことを、「漠然と」期待しているだけです。
次があるのかないのかも、本当のところは分からないままに、
なんとなく、「そうあってほしい」と漠然と想っている世界に向かって
自殺をしてしまう人達も沢山います。
>■「死ねば自分は無だ。だから自殺する」
もしもこれが、
「確実に保障」されていたら、ここ無明庵は存在していませんでした。
つまりこの保障ほど、いいかげんで「証拠が何もないものはない」
というのが私の結論です。
これについては、世の中は、死んだ後にどうなるかについての
不毛な論議が、延々とあるのかもしれませんが、
死んで終わりに出来ることがそれほどに、
(不可知や、推測上ではなく)「確実」なのであれば、
自我復元も必要なく、悟りも必要なく、
人類のいかなる努力も、愛も、いたわりも、生活向上も、
身体能力も、まったく必要ありません。
そうした努力や発展や心の精進が必要なのだと、人間かくあるべきだなどと、
たいした根拠もなく、妄想することがその者の趣味ならば、
そういう人がすればいいだけ、ですが、
他者に強要などしてはなりません。
******************
■さて、自殺をしたいと「漠然と想うことがある」という程度にしても、
毎日のように、「自殺したい」と思い続けているのであれ、
毎日のように、「いつか自殺する決意が自分で出来るかもしれない」と、
漠然と想っているのであれ、
「死にたい」という場合には、「拒否の対象物」があります。
たとえば、お金がなくなり生活が出来なくなり、
そこで追い詰められた場合には、お金があれば死なない、
と言うことになりますので、
何があれば死にたいとは思わないのかを、まず自問する必要があり、
それを自分で実現して、回避できる可能性があるならば、
死にたい「原因となっているもの」に対処すればいいだけです。
■しかし、思うように体が動かなくなる老い行くことへの不安や、
または、いろいろな心理的な悩みの「重なり」、
社会情勢を見ての理不尽さへの怒りと不安、
あるいは、社会ではなく、
自分や自分の家族の記憶障害や、病気などで、自分が辛い、
しかも「回復の見込みもない」、となっている場合には、
この場合には、解決することが不可能な状況にありますので、
死にたいと思うのは、ごく正当な気持ちで、当然のこととなります。
■このように、一言に「自殺」といっても、
漠然と、自殺を思うことがある、というレベルから、
「いつかは自殺したくなるかもしれないが、まだ煮つまらない」
などと言い続けて、数十年も経ってしまっているような人や、
家庭環境や生活環境によって、あるいは本人の思考の癖によって、
自殺のことばかりを考える頻度が相当に高い人もおり、
また、自殺ということが、もたらす結果、効果、についても、
よく考え抜いている人も「ごくたまに」いるのですが、
私が見たほとんどの人は、
「自殺とは何か?」
「それは自分にとって損か得か?」すらも何も深くは考えていません。
●また、漠然と自殺が悪いように、
宗教やその他の教えとして言われたからというだけで
「いけない事である」と、「なんとなく思っているだけ」の人が大半です。
ならば、自殺は悪くないという「確固たる、誰も反証できない論理」を
その人自身が自分で構築すればいいだけですが、
この構築の部分を自分でやらずに、無明庵の書籍に依存した、
という人が多くいます。
(具体的な書名は、私が1997年に小部数で印刷して書店にも納品した、
「自殺の自由化」であり、
これは本サイトのコンテンツとして、現在もそのままあります。)
つまり、それこそ、
単に「他人」が書いた本に書かれている主張に、
一部「同意できた」というだけで、何も本人の身になっていません。
自分で考え抜いて、ではないのですから、
その人達の、自殺肯定感、自殺容認論は、すぐにブレてしまいます。
■自殺ということについては、
自殺を考えるようなヤツは弱い負け組みだ、
などという風潮は、さすがに現在の社会ではなくなりましたが、
これはそういう人たちを治療したり、精神的に癒したりする能力が
自分たち(家族や医師にもない)と、諦めたことも大きな原因であることは、
認めなければなりません。
つまり「自殺などせずに、生きなさい」と他人に偉そうに言えるほどに
確たる、生の理由と、生の方法論を持たないので、
他人様にも、生きろなどとは、言えなくなった、というのが事実であり、
この事実を強引に捻じ曲げてまで、他者に強要して
他者の自由な思考を押さえ込んで支配するのが「宗教の戒律」です。
自殺したら、救われないぞ、と「証拠」も示さずに、
どこかの「イタコ」まがいが言った言葉を勝手に盗用して、
他人を脅し続けるわけです。
●自殺を、その是非とは別に、
「なぜ人は自殺をしたくなるのか?」という理由について、
無明庵が提示したのは、1997年ごろであり、
当時は、私の周囲の者は、誰一人として、
自殺という課題を、ニュートラルには考えていませんでした。
■さて、ここで話は、ぐっと「神秘主義的」な話になります。
自殺ということを考えたり、実行する生物と、
それをしない、またはできない生物、
それは何によって分かれるか?という問題です。
単に、その生物の思考する内容や、妄想力が、
どれほどに複雑に発達したとしても、自殺という選択は考えません。
思考の中で、自殺という衝動、望み、方向が発生するに当たっては、
絶対的にそこに必要な「要素」があります。
●まず第一に、
その身体は「自分のものである」という観念、または「感覚」です。
日々感じているあなたのその身体を、
自分のものである、自分が管理しているものである、
という所有感もなしに、
「自殺」というものは成立しません。
「自分で自分が死ぬと決める」これが自殺であると「仮定」すれば、
ここまでは「自分である」という「枠」があり、
それは、「無理心中」を別にすれば、(原則としては)他者までは巻き込まず、
「自分の**」という感覚こそがそこでは機能しています。
たとえば、悩み事があったりしても、
それを、人は、「自分の悩みである」と思います。
頭がイカれてしまった人の場合には、
自分の悩みや不安までを、霊や他人のせいにするような者もいますが、
それらは論外です。
一時的に不安になる程度ならば、それは動物的な感覚として
災害の直前などに機能することはあり得ても、
日々の本人の癖としての自殺願望、自殺への憧れ、期待、といったものが、
他者の影響によることは、原則としては有り得ません。
「原則として」というのは、洗脳やサブリミナルによるものは
在り得る可能性は否めないからです。
「自殺したいように思って自殺しろ」と、他人が命令することは、
不可能ではないからです。
●しかし一般には、自殺をする、
または自殺する事を思う癖がついているという場合には、
大前提として、その自死によって、
死ぬと想定している「範囲」があります。
この範囲こそが、自殺の「対象範囲」となります。
それとともに、
その範囲の対象を、その人は「自分のものである」と考えていることになります。
●たとえば、一家のあるじが、自暴自棄になって自殺をして、
家族も子供も路頭に迷わせてやる、と策略して自殺をした場合には
自分の死が他者に影響できると妄想または想定しているわけですから、
その者は、他者を自分のものの一部として同化させすぎていることになります。
が、一般には、
「自分のものである、身体と心や感情」が、自分に不快な
不安と、恐れと、痛みしかもたらさないのであれば、
もうこれは、たとえ一時的な解放であったとしても、
一瞬でもいいから、まずはこの苦痛を終わりにしたい、
ギブアップだ、
これが自殺の本質的な部分です。
アルベールカミュは、
「自殺とは、自分が生に追い越されてしまったことの自白である」
ともいいましたが、
簡単に言えば、自分で自分が管理できなくなったということです。
または自分で自分を管理する意味、意義を失ったということです。
*********
余談が多くなりましたので、話を元に戻しますが、
ここで重要なのは、なぜ、自殺を思う原因となる感覚を作ったかです。
他のかなり多くの生物が、
自殺ということを思考しない、または出来ないのに対して
なぜ人間に類するある範囲の生物は、自殺を思うことが出来るかです。
それは、前述したように、身体や感情や思考を、
「自分の管理の範囲内にある物」であると認識することに起因していますので、
よって、それの作用を根本的に止める権利=死ぬ権利、決定も自分が出来る
という思考を持つことになっています。
ここが重要です。
「自殺するかどうかを、選ぶ権利を、行使できる状態にある」
それが、「自我」を持つ生物の最大の特徴だからです。
逆に言うと、
「どこでどう、生きるかを、選ぶ権利を、行使できる状態にある」
ということなのです。
自我という「枠」知覚して認識する機能を付加することによって、
この選ぶ権利を、行使できるように改造をされたのが、
現在のヒマノイド型の種族のうちの、いくつかの限定種族であり、
地球人類は、その試作品の一つです。
つまり、
自殺を考えこむタイプの生物にしか、
生を「選択する能力」もない、ということなのです。
自殺することを意志し、それを決行して実際に自殺をする人が
ごまんといるのですから、逆に言えば、
意志したような世界を選ぶことの出来る特権も、
自殺したいという考えを生み出す事の出来た、
その自我にこそあるということです。
これは人にとっては、希望でもなく、
善悪でもなく、
正否でもなく、
単なる事実です。
つまり、
「むろん、自殺する自由と権利はありますよ。
しかし選ぶ権利もあります。
どちらでもお好きにどうぞ」という、選択の自由を持っているわけです。
ただし、この何かを「選ぶ」ということの中には、
常に、自我が選択権を行使したとは言えないものがあります。
ここを読んでいる一部の皆さんが、
何年もかけて、さんざんに自己分析をしてきた、
幼少期に親から受けたトラウマ、などはその典型です。
そのような過酷な生存環境(出生場所)を選択してしまったという意味での
自己責任はありますが、
よく私が言うように、
希釈して「自我を弱らせた人間」につけこんで、
そこから何かを搾取するという「横暴」もまた、まかり通っている状況にある、
これも問題を複雑にしている、ということです。
*********
私は、最近、思います。
どうせ、生存、存在をしている感覚を知覚するのであれば、
宇宙のどんな小さな生物に至るまで、
その個体の自我が、「自殺をしたい」
つまり、「この生は容認できない」などと思わない世界であってほしい。
そこに痛みや空腹という「感覚」はあるかもしれないが、
死にたい、などと思うまでには、苦しまない世界というものは
現実に実存し得ることを、私個人は認識しています。
たとえ永劫に思える時間であっても、
静かに、穏やかに、幸せで在ることは、不可能ではないと私個人は認識しています。
しかし、もしも、生物に、
「もう自殺したい」などと思わせてしまったら、
その生物を、
どこの誰が創作したり、改造したり、実験したのであれ、
それは、紛れもなく「失敗」である。
可能であるならば、この宇宙で、たとえ、
自殺を思うことの原因ともなる「自我」を、動機と目的があって、
生物たちに、あとから付加し、装備させたのだとしても、
誰一人も、死にたくなるような事にはなって欲しくない、と
私個人は感じている。
しかし、それが、どうしても出来ないのであれば、
そのような、「できそこないの宇宙」には、
たった今、ただちに、消え去ってもらいたいと、私個人は思っている。
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