▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[439]
■
★分割自我復元★その439■死んだらどうなるかのヴィジョンが「漠然」とし過ぎ■
by:
鈴木崩残
2015/02/23(Mon)07:09:13
「朝の日記」
月曜日のゴミを出しに行った。
昨年の2月の今頃は、豪雪で町が孤立したが、今朝の気温は8度。
まるで春みたいだ。
********
さて、少し前に、
思考の連想の暴走が、人から日々の生命感を奪うことについて書いたが、
今朝は、自分はどうだろうか?と、
観察をしながらゴミを両手に持って歩いた。
結論から言うと、「脳裏をよぎった」思考、
つまり、
「あ、後ろから車が来た」といった実際に必要な思考と、
「あ、猫だ」といった特に必要のない思考などが、
家とゴミ場の往復の中で、約16個ほど。
これを単発的な
>「単一の思考・または知覚認識」と私は呼んでいます。
>その一個の「思考または知覚が発生したと同時に観察されるのみ」で、
>次への連想がなく終わるもの。
一方で、ゴミを捨てて帰るまでの往復の約3分間に、
「まとまったひとつの思考」は2つ。
ひとつは、今朝のこの様子を桜の間にどう書こうかというもので、
それに要した時間は3秒ほど。
もうひとつは、「人間というものは、実際にはいらない情報を
頭に入れれば入れるほど、どんどん悩みと考えることが増えるのだろう。
その中から本当に考えるに値するものは少ないと思うのだが」
というもので、思考していた時間は4秒ぐらいだっただろうか。
何も考えずに、朝のこの往復の徒歩を、ただ味わうつもりであったが、
単発思考16個、内容ありの思考2つ、これが3分の間に起きた。
ただ、全体としてみれば、半分以上は外気を感じており、
一歩一歩の歩みを味わっており、何よりもうれしかったのは、
玄関に到着する少し前に、雨上がりの杉の香りの風が吹いてきたことだった。
トータルで言えば、まったくの無心の3分の徒歩を100点とするならば、
65点といったところであった。
良くはないし、悪くもないが、自分的には、
「いちおう、ぎりぎりで正常=正気」で、
この日の朝を迎えることができたと思っている。
*********
さて、少し、昨晩、思っていたことを書きます。
●人間を除く、四足、魚類、昆虫、微生物にいたるまで、
さまざまな動物たちが死んだとき、彼らはどうなるのだろう。
もしもそのひとつひとつに、個別の魂なるものがあるのだとしたら、
私が蚊をたたいて殺してしまったらば、
その蚊から、何かが抜け出て、どこかに回収されるのだろうかと。
人間の死だけが、特別な扱いを受けるとは、到底私には思えない。
もしも人間以外の他の生物が死ぬときには、
その個体の中から、何かが揮発するように出てゆくのかもしれない。
それがたとえ、蟻よりももっと小さな虫だったとしても。
他の生物たちが、そのように、ザルで拾われるように、
または揮発するように自動的に何かに回収されるとしたらば、
人間だけが特別扱い受けるはずはなく、
人間もまた、死んだ暁には、ザルや網のようなももので、
ざっくりと拾われてゆくと考えるほうが、自然である。
●人間たちが自分たちの死後に起きると期待している話、
または、なんとなくそうではないかと妄想している話、
あるいは、きっとそうなると信じている話というのは、
実に、おかしな話ばかりである。
それらの話の出所は、いわゆる死にそうになって蘇生した人の
経験してきたことの証言を、あれこれを総合して、
どうやら、こういう共通性があるらしい、
ということになったのが、いわゆる「死後の世界の話」の部品である。
ここで、注目すべきは、その話に、
お迎えの光とか、お花畑の登場のような、
民族性に関係のない一定の共通項があるという点では、
これは、心理学的、または脳科学的に、その原因を解明するのは
面白いかもしれない。
しかし一方で、白人が死んでも黒人の神様の幻影出てこないとか、
なかなか、「身勝手な物語」にも、変形されてしまっている。
そうした臨死体験者が語った内容と、
もうひとつは、臨死体験の一部とは区別される、体外離脱体験によるものだが、
どちらかというと、臨死体験の方が被験者または経験者に
偏見が少ないという点では、研究対象にはしやすい。
後者は、たいていの場合に、
そこから、へんてこな説教や信念体系が生じているからである。
●それで、回りくどい、前置きになりましたが、
私が「実に、身勝手で奇怪だ」と思うのは、
多くの人たちが、(無論、ここを読んでいる人たちの多くも)
自分が死んだらば、まず死後しばらく、
どういうデザインの場所にいるだろうか、という想像がまず
明確にできていないことです。
すべてが「なんとなく思う程度」か、
または、まったくイメージを持たずでしょう。
●そして私が面白いと思ったひとつの人間の癖は、
たとえば、あなたが死んで、野原にいたとします。
すると、その野原にあなたが突っ立っていれば、
「きっと、たぶん、誰かが現れるだろう」
とか、勝手に期待しているということです。
または、人ではなくても、
野原に何かが出てくる、野原が何かに変わるはずと、
とにかく、そのまま野原のまま、死んでから1年も過ごすのだろう、
とは思わずに、
きっと数分後には、誰かや何かが現れるに違いないと、
疑うこともなく、あるいは、なんとなく、そう期待しているわけです。
●しかし、それって、おかしいと思いませんか?
あ、おかしいとは、皆さんは、思わないのですね。
わかりました。
では、私がなぜそれをおかしいと思うかを説明します。
死後の世界に、そんなルールはないはずですし、
もしもすべてが主観で決まるとしたらば、
何かを期待しなければ、何も来ないし、現れないままに、
その野原で何週間も、飢えることもなく過ごせるはずです。
そう望めばです。
しかし、こちら側で生きてきた「習慣的」な思考は、
常に、話を「自分にわかりやすく」してしまい、
自分が「心地悪くないように」捻じ曲げます。
●たとえば、死んだあとに、野原ではなく、
シケた旅館か、ホテルの、狭い一室のようなところに皆さんが行く、
というデザインにしてみましょう。
すると、入った部屋にはベッドと机と、質素な壁があり、
テーブルの上の紙に、こうメモが書かれています。
『ごゆっくりと、次を考えてください。
考えがまとまりましたら、
このメモ記載の番号へお電話をください』
●ところが、それだけです。
誰かが部屋にお茶をサービスで持ってきてくれるわけでもなく、
外線が通じるわけでもなく、ただのその部屋で、あなたは、
ついさっきまで生きていた自分の人生を振り返ったり、
あるいは、これからどうなるのだろうと、不安になったりします。
死後直後に、まずいったん収容される世界が、そういう
独房のようなホテルの一室ということは、最近では、十分にあり得ます。
死後の世界のデザインとても、地球の時計の時間で、何百年に一度ぐらいは、
あるいは地域によっては、定期的に、モデルチェンジもあるでしょうから。
●そして、その狭い一室に、一人にされたあなたは、またも、
「そのうち誰かが来るだろうから待ってみよう」となります。
しかし、いつまで経っても誰も来ないと、とうとうあなたは
電話をしてしまいます。
あなた
「あのー。次を考えるとは、どういうことですか?」
受付
「前のあなたの人生は終了しましたので、
次の希望をご自分で、考えてくださいということです。
当方で、それを承りまして、
空きのある、該当する着陸点を、
検討いたしまして、ご紹介をさせていただく仕組みとなっております」
と、相手のペース、その世界のペースに、
まんまと、はまってしまいます。
●考えてみたら、自分が死んでいきなり知らない世界いたり、
あるいは、変に、なじみのある、いかにもわざとらしく、
「この世界に似たせられている世界」にいることに気づいたらば、
普通は「まず、その世界について、知ろうとする」のが当然です。
何かを試してみて、できることとできないことは何かと。
しかし、皆さんがこの世界で、ここでの人生を過ごしたときと同じように、
常に、「場の雰囲気」に流されてしまうことが圧倒的に多いのです。
●しかし、現実には、私の知るかぎり、
このような最低限の丁寧な、人権を認めるような配慮すらあるのかは疑わしく、
単に強制的に収容または、脱穀機で収穫されるかのように
私たち人間が、刈り取られている、ということも十分に推測できます。
冒頭に書いたように、
動物たちは、ザルで運ばれて、人間だけが丁寧に扱われるなどと
とても私には信じられないですし、そのような特権を
人間が与えられているはずもないからです。
またそもそも、それをはたして特権と呼べるものかも疑わしいです。
(特権的な感覚を持っていると錯覚させる詐欺という路線が濃厚ですが)
********
●このように死後に、単に、その人が望むものが
そこに現れるのだろう、といった単細胞敵で、短絡的な考え方が
決して適応されないのは、
それが個人が見る夢であってさえも、
本人が、望んでいないものが、しばしば登場するからです。
ようは、自分が何を望んでいるのか、何を望んでいないのかも
よくわからない状態では、望みそのものがカオスですから、
それをそのまま反映したらば、
その世界はカオスになるだけということです。
●また、そもそも、自分の意志と能力だけで人間になったわけではなく、
自分だけの意志で、自分のかつて生きた身体も作り出したのではなく、
そして死んだ状態で、そこの残っている「残存体」も、
あなたの所有物ではなく、借り物または、誰かが作ったもの、
と考えるのが当然に自然なのですから、
したがって、それを「作り出した側のルール」の中にあなたはいます。
そのルールの中で、どこまで個人というものが成立し得るか、
またどこまで、個人の「選択」が通用するのかは、
多くの部分で未知な部分もあり、機知の部分もあります。
●ただ、「バナナを創った宇宙人」の書籍の中で、私が少しだけ触れたように、
心地よい光の誘いに乗らないかった、
「家畜または作物としての(人間)」に対しては、甘い誘いの次には、
次には、脅しをかけてきます。
良い香りで誘導できない場合には、痛い目、または恐れを活用します。
魚や動物を、追い立てて、追い込むようなものです。
そういう意味では、あの本の中に書いた、君江おばあちゃんと、
少しの間でも、私が、話をすることができたのは、
あの世界で、私たちを「隔離する部屋」を私が作ったからでした。
それをしなかったら、草原のようなところで、
君江さんは、誘われるか、脅されるかして、
あっというまに回収されてしまったと思います。
もっとも最終的には、君江さんは、私の目の前からは消えてしまったのですが。
*********
死んだら、残された者や、残る世界のことではなくて、
「そのあとは、死んだ自分は」どうなるのか?
「そんなものは生きている間に考えることではない」、
というのが普通の人たちの考え方です。
また、勝手に宗教や、精神世界の本から仕入れた言葉を
組み合わせて、ずいぶんと自分に都合のいい、
しかも曖昧でモンヤリした期待に混ぜ込んでいるだけで、
それを疑いもしない、といった状態にあります。
その原因は、おそらくは、ここで生きてみて、
周囲の他人も、生きて死んでゆき、なんとなく特に問題はなく
よって、「死後も、大丈夫であるように見えているせい」だと思います。
しかし、本当に、大丈夫なのでしょうか?
全く大丈夫ではないような死後が関係してしまっており、
その結果、今のような状況にあると、私は認識していますし、
そのことは、トラウマを掘った人であればあるほど、誰でも、
「大丈夫なわけがないから、自分もこうなった」
と、認識するに至るはずです。
●私の感覚では、
ここで、それこそ自殺して死にたくなるほどの、つらいことがあっても、
まだしも、ここの人生の、この毎日日々のほうが、
いろいろと、「放置」できて楽な面があります。
しかし、死ぬと、逆に、忙しくなったり、
生きていたときよりも、面倒なことになったり、
生きていたときよりも、ある面では、自由がなくなくなったりと、
そのように、
漠然と、ファンタジー脳によって、
全く身勝手な妄想で、自分の死後や未来を信じこもうとするだけでは、
どうにもならないシステムがあり、
自分の想像力と主観だけで作ったのではない「社会」というものが
死んだあとに、そこにも再び立ち現れてくるのが「当然」なのです。
「死んだら、あとは、なるように任せるさ」とか、
自分は楽観的人間であるかのように、自慢さえしてしまうような人たちや、
あるいは、全くの能天気な、無力な妄想の中で、
「きっと、死んだらば、
まー、今よりはよりよい選択が出来るかもしれない」と、
根拠がまったくない薄っぺらなことを信じたがっている人たちがいます。
そんな事を言っているようでは、
あとで、また次に死ぬ間際にも、泣くことになるような、
70年の生存時間を、また押し付けられても、文句を言えません。
*********
ただ、単純に、
今ここを生きることも、素晴らしいと私は思います。
しかし、
たまに、自分の生死、特に死後のことに、
妄想を、はせてみるのは悪くないと思います。
それが実用的か、現実に今、必要かどうかという尺度では、
たった今、今日のあなたの仕事をする上では、非実用的でしょうが、
どうせ役に立たないことを妄想するならば、
他のあれこれの雑念まみれの妄想をするよりも、
「あなた自身の人生観」の、その底の深さや浅さを自覚し、
検討し、考察し、
自分の中に沁みこんでしまっている常識や思い込みを根底から疑うには、
「自分は死んだら、どうなると自分は、思っているのか?」
「どうなりたいと、思っているのか?」
「それは、本当にそうなる可能性はあるのか?可能性もないのか?」
こうした問いは、「良い自問」だと、私個人は、思います。
ただし、それは、結論を出すためではないのですから、
漠然と信じてしまっていることに、自分の頭で疑念と推論を重ねるだけでも、
「自分自身のこと」について、よく見えてくものがあるはずです。
______________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(439 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -