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[442]
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★分割自我復元★その442■ 雑 記 5分でも生きているのか?■
by:
鈴木崩残
2015/03/05(Thu)08:20:28
一日に5分も生きていない人間
●私個人の話ですが、人生のある時期から、
他者の知覚、他者が現実をどう感じているかということと、
まったく共感かというか、理解というか、お付き合いが出来なくなった
という経緯があります。
毎日のように、同じ話をして、同じものを見て、
何かを学んで、知って、またピーチクと語って、ただそれだけ。
何年しても人格といいますか、認識の根本的な変化というものがなく、
あるのは、非常に「もんやり」とした、生存作業のみ。
生存作業とは、家事だったり、仕事だったり、趣味だったりである。
●では、世の中の仕組みとか、人間性がどうだとか
そういう事を言い出す前に、目の前にあるひとつの花、ひとつの草
あるいは自分の身体、空気の流れ、暗闇の中の小さな輪郭、
そうした、そもそも生きていて目前にあるもの、身近にあるものを
どれだけ知覚をして、その人たちが生きているのかという視点で見ると、
それは、ほとんど夢遊病と言える状態にあることを知ったのが
10代の後半だった。
●そもそも、
生きてもいない人たちによって作られた社会なのである。
生きるとはどういうことかというものは、
生存するために獲物をとるとか、農作業をするというのは、
あくまでも「動作」のことであって、
それだけであれば、昆虫たちのほうがずっと働き者である。
●動作ではなく、「認識としての生」という意味でいえば、
人間が生きていると定義できるのは、おそらくは幼少期のほんの一時のみです。
いじめや、親からの陰湿な教育にでも遭わないかぎりは、
相当量の「生命感」が幼少期に記憶されており、
おそらくは、人間が4歳以後に感じる、「感覚的なつまらなさ」
というのは、そのときの記憶と自己内部で比較することで起因している
ということは、容易に察しがつきます。
●「感覚的なつまらなさ」と、「思考すること」はまったくの別問題です。
「感覚的なつまらなさ」というものが4歳以後に感じたれた場合、
多くの子供、あるいは大人は、
感覚的な空虚感を必死にごまかすために、
「思考」や「行動」によって、つまらないと感じないような
「穴埋め」をはじめます。
その穴埋めの仕方が、毒親に育てられた場合には毒親そっくりとなり、
毒親でなかった場合には、何らかの遊びや、自分がその
「感覚的なつまらなさ」を見ないで済むための、
目的や、趣味や、時間つぶし、といったものを握り締めはじめます。
●さて、では、そういうことをしなかったらどうなるのか?
まっこうから、死ぬ気で、違和感のある感覚と対峙したらどうなるのか、
そのことを私が知ったのは人生も1/4を過ぎたときでした。
●その前に、今日もまた、ごみを出しに行ったので、
そのときの、私自身の思考の経緯をメモしてみます。
実は今日は、いつもと違うことをしようと思いました。
それは私に固有の生きている感覚ではなく、
一般的に普通の人は、ごみを出しにいって帰ってくるまで、
どういう精神状態で、往復するのかを、普通の標準的な基準に
セットしてみたわけです。
すると、驚いたことに、そこには、
「生命現象の認識といえるものは、ほぼゼロ」でした。
まず玄関を出る前から考えていた何かの「ひとかたまりの思考」を
引きずったままで、歩き始め、
きちんと外界を感じているかというと、ほとんどぼんやりしているだけで、
では、頭の中では、構造的に理論的に何かを考えているのかというと
それもなく、方向性のない無意味な思考が、
その思考内容の輪郭すらもあいまいなまま、だらだらと漏れている。
つまり、普通の人の、ただ歩くだけの行動でさえも、
全体としてみると、
考えてもおらず、感じてもおらず、「ぼんやり」しているのです。
人々が、やっと、考えようとしたら、感じたりしようと意志したり、
または、感じようと腰を上げるのは、
それをしないと、食べてゆけないからという物事(仕事や食事や排便)と、
それに注意していないと、怪我をするからという物事(車をよけるなど)と、
これだけならば、かなりシンプルで動物とも似てくるのですが、
ここに、人間の場合には、自らの存在意味や、価値観を必死に維持するために、
絶え間なく、頭の中でおしゃべりをし続けている、
必要があってもなくても、記憶を再生し続けている、という
病的な状態にあります。
●そこで、このまるで夢遊病のような標準的な人間の状態から
切り替えてみますと、また世界の様相は変わります。
自分という存在をひとつの「窓」あるいは「受像機」として
別の視点から、自分を通じて感じられるものを観察していると、
たとえば玄関を出て、
私の思考や認識は、次のように変化しました。
1/目前に見える山に霜が下りていない・・・と「認識」
2/それを見て、今年は暖かい・・・・・・・と「単発思考」
2/鳥が地面を歩いている・・・・・・・・・と「認識」
3/今のところ無心だなと・・・・・・・・・と「一塊の思考」
4/カラスの姿・・・・・・・・・・・・・・を「認識」
5/ゴミの網をきちんと閉じないと
さっきのカラスが入ってしまうな・・・・と「一塊の思考」
6/信号機が青になった・・・・・・・・・・と「認識」
こうして、ゴミを出しに行き、捨ててくる間に、
きちんと分類すると、3種類の知覚現象が起きています。
ひとつは、五感が何かを捉えた場合で、これを仮に「認識」と書きました。
「認識をしたのみ」で、
それに「ついて」、どうこうは、まったく考えていません。
ふたつめは、
以前にもかきました「単発思考」というもので、
「ひとつ思考内容があるが、その後が空白に戻る」というものです。
わかりやすくいうと、
あなたが、道路を歩いていて、前から、ジョギングをしている女性が
走ってきたとします。
女性の場合には、相手は、男性でもいいです。
●『走っている姿を見た段階』これは「認識」です。
仮に、そこで性別を認識したとしても、それもまだ「認識」の段階です。
●『あ、こっちを、ちらっと見た。挨拶しようかどうしようか』
と、仮に思考したとしても、その「単発思考」だけで終われば、
あなたは、挨拶をしたり、またはせずに、ただすれ違い、
またあなたは自分の見ている世界に集中します。
●ところが、相手の顔を見て
『あ、ちょっと素敵な人だな、えーっと誰かに似ているな』
とか考え始めた場合には、あなたは、そこから、数十メートルの間、
「確か高校時代のあの人に似ているな」
↓
「あの人って、どこのクラスだっけな」
↓
「担任はどんな顔だっけ」
↓
「そういや、給食まずかったな」
↓
「このあいだ食べた定食もまずかったな」
↓
「いや、そうじゃなくて、さっきの人、イカしていたからね
付き合っている人いるんだろうな」
↓
「幸せなのかな。どんなセックスしているんだろう」
とかなってしまい、
と前から来た自転車にベルを鳴らされるまで、
あなたは、ぼんやりと外界を見て、ぎりぎりで安全に歩けるだけの
平衡感覚と視覚だけは維持して、
その他は、前述したようなことを、もんもんと無意味に考えている。
こうした思考が具体的に何かの利益や、知識や、行動につながり
何かを切り開く、ということは、まずほとんどありえず、
あっても思考全体の1%以下である。
●このように、人間が、生きているのに、
生きているとはいいがたいような、頭の中の妄想で自分を埋め尽くすのに
要する時間は、わずかに数秒です。
そして、そのまま、仕事をしても、
他人と昼食を共にしていても、
一人でテレビを見ても、読書をしても、昼寝をしても、
結局は、一日中、意識的には目が覚めないままで過ごして
一日を終わります。
はたして、それを生きている状態といえるのか、はなはだ疑問です。
●しかし、それが生きている状態とはとてもいえない
ということを実は誰もがどこかで分かっている様子を観察できます。
それは、人間が持つ、異常なほどの落ち着きのなさです。
落ち着いているように見える人さえも、
見ていると動作のいろいろなところに落ち着きがなく、
また動作を落ち着いたように見せかけている人も、
眼球が落ち着きがなく、
またカルト信者とかの馬鹿がよくやるのは、
視線を凝視して、息まで止めている阿呆な状態で、
そういう者を見ていると、
こいつ、そのまま窒息して死ねばいいのにと、私は思いました。
●真に透明感のある澄んだ状態というのは、
ぼーっとしているのでもなく、
凝視しているのでもなく
動きをとめているのでもなく、
何かに集中しているのでもありません。
●しかし、子供のとき、
それも幼少期のほんの一時期にあった正常な知覚の状態、
何も先入観や、欲望や、期待も持たずに、
ひとつの枯葉が宙に舞って地面に落ちるのを、
神秘的な情景のように、全身で受け止めていた、その子供の目。
それが本当は正常だったことを本能的に、
あるいは無意識の中で知っているだけに、
その後、あなたが、家庭や学校で、
何か不快な目に遭ってしまい、そのことに頭がいっぱいになり、
それに対して、どうにかしようとして形成した、そうした努力や知識は、
すべからく、輝きのない生命体験となり、
ますます澄んだ知覚の出番をなくしていったわけです。
●その後は、人間は、自分に都合の良い者、
自分が単に、好んだ者、少なくとも危険ではないと認識した他者、
自分を楽しませてくれる他者、
これ以外に対しては、常に緊張し続けており、
緊張をしない場合には、馬鹿にし続けることを自己妄想を維持し、
結局は、真に他人を信じたりしたこともなく、
それも出来ず、心の中身はぐちゃぐちゃのままで、
「まー、人間なんて、みんなこんなもんさ」と、
自らの怠惰な感覚を否定しないでいてくれるものに囲まれようとします。
●しかし、この世界では、
眠ったまま歩き、生きて、死んでゆく人が大半です。
たとえば知ったかぶりをする馬鹿は、
「現象を、ただ感じ、見たり耳にして、
そのまま、何も思わないのが禅の境地だ」
とかすぐに口をとがらせて、みっともないことを言い始めます。
が、もしも、そうだと信じているならば、
今日から、会社を首になろうが、仕事がなくなろうが、
家族から、「あんた、変だよ」といわれようが、
社会からつまはじきになろうが、
一切、偉ぶらずに、知ったかぶらずに、
自分は何か特別な精神状態を維持しようとしているんだから、
周囲のやつとは違うとか、
そういう、まさに、
どこも、澄んでもおらず、
私が冒頭に書いた、「単発思考」ですら終われないような
一塊の妄想、思考、と、
それが雪だるまのように転げて、巨大妄想と被害妄想と
傲慢と、自己妄想、そして思想や宗教や、価値観になってゆく。
それを止められしない有様の、
その一体どこが、
「知覚に手をつけない心境」とやらなのか?
少しは、口からでまかせを言っている自分を反省したほうがいいです。
******************
●この数年間、真剣にトラウマを掘ってきた人たちというのは、
それが本気だった人たちに限れば、
その人たちは、生まれてはじめて、思考というものを
有効に使ったと思います。
実際、公式ブログの6人を見ると、たとえ現在は停滞していたとしても、
それまでの内容は、本当に「フルに、思考力を使っています」
しかも対象は、どこかの他人事ではなく、
自分自身を縛り付けてきた原因のことですから、
当然に、それによって、利するものがあります。
つまり、はじめて、思考が役に立ったということを
トラウマを掘ってきた人たちは実感したと思います。
これになしに、何を知ろうが、何をできようが、
意味がありません。
というより、精神の「豊かさ」というものは、
知ったり、集めたりすることによってではなく、
その主体たる中心がどう変わるかによるからです。
自我復元というのは、そこを調整するものです。
最初に変化するのが、自己観察力、
次に系統立てて、自分のことについて思考することです。
(死ぬときには、何の役にも立たない、他人や世の中のことではありません)
ということで、次の投稿では、かなり長くトラウマ掘りで
つまづいていた方からの報告とします。
私が見ていても、ようやく観察力と思考力がまともになりつつありました。
_____________________________
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